「ニュート! 隠れたって無駄だぞ。 ニュート!
 ――あ、ああ、ごめんなさい……弟が逃げ込んでしまって……はい、もう叫びません。すぐ捕まえて出るので……」
 司書から逃げるように、テセウスは足速に本棚の角を曲がる。
 パタパタと奥から聞こえた。また角を曲がる頃には、足音はもう途絶えていた。左右の本棚の間に目を配りつつ、細い通路を進む。
 左右へと走らせた視界に人影を認め、テセウスは二、三歩後退する。本棚の間の奥、壁と本棚との角に擬態しようとするかのようにピッタリと身を寄せて立つ少年の姿があった。
「……ニュート」
 ふっと小さく溜息をつく。
「早く帰る支度をするんだ。汽車に間に合わなくなるぞ」
「……僕、帰らない」
 ニュートは足元を見つめながら、小さな声でつぶやく。
 彼がこんな態度を取るのはどう言う時か、兄である彼にはよくわかっていた。
「また生き物の世話か? 休暇の間だって、学校は無人って訳じゃないんだ。心配なら、先生方に頼めばいい。お前が帰らないと、父さんも母さんも寂しがるぞ」
 ニュートは答えない。
「先生に話せないような生き物なら、元の場所に返して来るんだ」
「できないよ! 怪我をしてるんだ」
 叫ぶと、ニュートはこちらへと突進して来た。奥は壁で行き止まり。まさかこちら側から逃げようとするとは思わず、反応が遅れた。ニュートはテセウスの横をすり抜けて行く。
 ニュートの逃亡計画は、失敗に終わった。女子生徒が通路をこちらへと向かって来ていたのだ。ニュートはぶつかりかけ、たたらを踏む。さすがに知らない上級生の女の子を押し退けるような乱暴性は持ち合わせていなかった。
「わっ、びっくりした……ごめんね、大丈夫?」
 マリアの問いには答えず、ニュートは知らない上級生から逃げるようにテセウスの背後に隠れる。
「テセウス、一緒に来ていた職場の人が探していたわよ。先に行ってるって。あなた達も、生徒と同じ汽車でロンドンまで戻るのね?」
「ああ、うん。汽車でも仕事があって……」
「お疲れ様。もうすっかり、魔法省の役人ね。――可愛いわね、弟さん?」
「ああ」
 こっそり反対側へと遠ざかろうとしていたニュートを、テセウスは後ろ手に捕まえ引き寄せる。
「ニュートって言うんだ。母さんの影響か、変な生き物が好きで……」
「変な生き物なんて言うのは」
「心の狭い奴だ、か? お前それ、この前先生に言って罰則食らったそうじゃないか。
 別に悪意があって言った訳じゃない。パフスケインとかクラップとかと比べれば、馴染みがなくて変わってる方だろう」
「あの先生は悪意があった」
 ニュートの語調が少し強くなる。
 マリアはクスクスと笑っていた。
「動物が好きなのね」
「そうだ!」
 テセウスはポンと手を打った。
「マリアに頼めばいい。マリア、君は今年も残るんだろう?」
「ええ。帰っても誰もいないしね」
「テセウス」
 ニュートが慌てたように口を挟む。
「マリアなら大丈夫だ。先生に告げ口したりもしない」
「何か厄介ごと?」
 そう尋ねるマリアは少し面白がるような口調だった。
「怪我をした動物がいるらしいんだ。その世話をするために学校に残るって、ニュートが言い張って聞かなくて……」
「あらまあ、大変。どこにいるの?」
 テセウスは促すようにニュートを振り返る。
 ニュートはしばらく口をつぐんでいたが、年上二人の視線に耐えかね、渋々と口を開いた。
「……天文塔の近くの物置の奥」
「その子の世話を、休暇の間、代わりにしてほしいって事ね。いいわよ。一度、ニュートと一緒にいる状態で会った方がいいかしら? 時間は大丈夫?」
「ゆっくりはしてられないな。こいつ、全然荷物を纏めてないんだ」
「あら。それじゃ、急いだ方がいいわね。ちなみに、どんな子なの?」
 出口へと歩き出しながら、マリアが問う。
 ニュートが口にした生物の名前に、テセウスは頭を抱えた。マリアまでも、ぽかんと口を開けていた。





No.9





 ホグワーツの敷地の片隅に、小さく盛られた土が連なる一画があった。禁じられた森の淵、湖も越えた場所で、ほとんど生徒も通りかからない。
 土の山が、また一つ新しく盛られる。トントン、と軽く手のひらで固めると、麻理亜は目を閉じ手を組んだ。
 人通りの無い場所であるとは言え、全く来られないような場所と言う訳でもない。麻理亜も別段隠しているつもりもなく、どこに行くのかと不思議に思った生徒がついてくる事はたまにあった。そして、麻理亜が何をしているのか広まる事も。
「うわっ……本当にこんな物作ってるのか。勘弁してくれよ」
「学校の敷地の私的な占有は良くないな」
 麻理亜は膝をついたまま振り返る。一年生の男子生徒が二人、背後に立っていた。
 一人が、麻理亜の前に並ぶ小さな土の山を蹴散らす。
「やめて!」
「『やめてー』だってさ。やめなきゃどうする? 呪いでもかけるか?」
「そんな野蛮な事はしないわ」
 二人は笑う。
「できないよなあ。虫や蛙も切れない奴には」
「授業もまともに受けられないのに、なんでホグワーツに入ったんだ? 『野蛮』な作業はお友達に任せればいいとでも? いいご身分だな」
「……あなた達には迷惑をかけないようにするわ」
「そういう問題じゃないだろ!」
 一人が叫び、足元の土を乱暴に蹴る。
「そこで何をしているんだ?」
 聞こえた声に、二人がびくりと肩を揺らした。
 大股でこちらに歩いてくる人物を認め、麻理亜は目を見開く。ハッフルパフのローブに身を包んだ、くしゃっとした髪の、長身の男子生徒。
「――ニュート……」
彼は決して怒鳴る訳でも、威圧する訳でもなかったが、背の高い上級生の登場と言うだけで二人の一年生には効果覿面だった。彼らはおろおろと曖昧に答え、そそくさと去っていった。
「アー……えーと……大丈夫?」
 大して言葉を交わす事もなく二人が立ち去り、ニュートは困惑しながら麻理亜に問う。
「これは……?」
 足元に広がる小さな山の数々をニュートは困惑した面持ちで見渡す。麻理亜は短く答えた。
「お墓よ」
「お墓?」
 麻理亜はうなずく。
「魔法薬の材料になった子達のお墓。蛙や芋虫、黄金虫、イモリ、ヒル、ドラゴン、コウモリ、ナメクジ、ヘビ……色々。たいていは使用されるパーツだけで売られているから、死骸自体は埋められていないのだけど」
「……そっか」
 ニュートは、麻理亜の隣に膝をつく。そして麻理亜の目の前にある、新しく盛られた山を見下ろした。
「この子は?」
「角ナメクジよ。今日の授業で茹でたの」
「そっか……」
 ニュートは、盛られた土の山をそっと撫でる。まるで、そこに魔法生物がいるかのような視線と手つきだった。
「こんな所があるなんて知らなかったよ。全部君が作ったの?」
「……まさか。入学したての一年生が、もうこんなに魔法薬を調合したと思う?」
 麻理亜は悪戯っぽく笑ってみせる。ニュートは困惑するように視線を左右に動かしていた。
「えーと……それじゃ、上級生から聞いて?」
「そうね……そんなところかしら。もう卒業したけれど」
「お兄さんかお姉さん? あっ……そう言えば、君の名前は?」
 麻理亜はニュートを見上げる。
 彼の知るマリア・シノは、去年、卒業した。兄を通じて知り合ってからと言うもの、ニュート、そして彼とも親しかったリタとは、学年は異なるながらもよく会うようになっていた。
 麻理亜が最終学年を終えて卒業する日、彼らは言った。「絶対に忘れない」と。
 ――それは、不可能な話だ。
 麻理亜は、年を取らない。麻理亜の不老不死が知られ混乱を招く事態をもう二度と起こさないように、もう何百年も前に城にかけた魔法。七年ごとに、麻理亜はホグワーツに属する者達の記憶から消える。
 いつものことだ。どんなに親しい友達ができても、卒業を迎えれば忘却されてしまう。
 分かっていても沸き起こる寂しさを抑え、麻理亜は微笑んだ。
「マリア・シノよ――初めまして」

「聞いた? 墓作りの一年生の話」
「材料のために墓を作るって、変人だよな」
「魔法薬の授業では、クラスメイトに切る作業をやらせてるんでしょ? 同じ学年の子達、可哀想」
(うーん……今回は、結構周りの目が厳しいわね……)
 中庭の噴水の淵に座り、麻理亜は溜息をつく。辺りは闇に沈み、人気はない。夕飯と重なるこの時間、中庭に来るような生徒はいない。
 材料となった生き物達の墓作りが他の生徒に知られたのは、何も今回が初めてではない。
 魔法薬の授業では確かに他の子の手を借りているが、代わりに麻理亜ができる作業は相手の分も引き受けていた。噂されているような傲慢な態度はとった覚えがないが、どこで誤解を招いてしまったのだろう。
「――マリア?」
 振り返ったそこに立つ生徒を見て、麻理亜は目を見開いた。
 スリザリンのローブ、長く黒い髪――リタ・レストレンジ。
「一年生の、マリア・シノよね。よく皆が話しているわ」
「え……あ……ええ、初めまして」
 ――何を期待しているんだろう。
 アルバスは、忘却の呪いを破った。それは彼一人にしか効果をもたらさないものだったし、その場には麻理亜がいる必要があった。彼女はその手段をとっていない。覚えているはずなど、無いのに。
「えっと……お隣、いいかしら?」
「ええ、どうぞ」
 麻理亜は座る位置をすこしズラす。リタは少し緊張した面持ちで、麻理亜の隣に腰掛けた。
「初めまして。私は、リタ。……リタ・レストレンジ」
 やや躊躇いつつ、彼女は名乗った。慣れない行動で、緊張がありありと伝わってくるようだった。
 沈黙が流れる。彼女は気まずげに俯いていた。
「……ありがとう」
 ぽつりとつぶやいた麻理亜の言葉に、彼女は顔を上げ麻理亜を見る。麻理亜は微笑む。
「一人でいる一年生を心配して、声をかけてくれたのでしょう?」
「えっと……まあ……」
 リタは気まずげに視線をそらす。声をかけてはみたものの、何を話して良いか分からない。そんな様子だった。
「……ニュートから、あなたの話を聞いたの。一緒にお墓を作って、祈りを捧げてるって」
「ええ。同級生にからかわれていたのを、助けてくれて。それからは、よく一緒に拝んでるわ」
「優しいのね。魔法薬の調合でも、苦労しているのでしょう?」
「……ええ。でも、優しいとは、ちょっと違うかも」
 麻理亜は手のひらを見つめる。
 この手は、決して綺麗な訳ではない。
「駄目なの。動物の殺生が……嫌悪とか気持ちの問題だけじゃなくて、体調に影響するの。必要な事だと頭では理解しているし、完全にできないと言う訳ではないわ。でも凄くしんどいし、とても日常的に行うなんてできない。
 お墓なんて作ったところで、材料となった事実は変わらない。私がそれを使ったという事実も。それでも何もせずに当たり前の事にはできなくて……完全に、ただの自己満足ね」
 麻理亜は苦笑し、リタを見上げた。
「はみ出し者の一年生を気にかけてくれるあなたの方が、ずっと優しいわよ」
 リタは目を瞬く。
 そしてふいとそらした。長いまつ毛が揺れる。
「……私も前に、助けてもらった事があったの」
 星空を見上げながら、彼女は言った。
「一人でいる私に、声をかけてくれた先輩がいて。彼女の存在に、私は救われたわ。凄く大切な人だったのに……今は、顔も名前も思い出せない……薄情よね」
 そう言ってリタは、寂しく微笑う。
 麻理亜は、胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
 麻理亜の存在は、七年置きに人々の記憶から消える。忘れられるのが当たり前だった。
 彼女は覚えている。マリア・シノという人物は思い出せなくても、彼女の記憶には麻理亜がいる。それだけ、彼女には大きな存在となっていた。
「――そんな事、ないわ」
 やっとの思いで、麻理亜は答えた。気を抜くと、泣き出してしまいそうだった。
「きっとその先輩は、あなたの変化を凄く喜んでいると思う。あなたにとって大切な存在となれたことを、凄く光栄に……そして救いに思っているわ」

 ニュートとリタは、よく麻理亜を気にかけてくれた。それは彼らの持ち前の優しさからかもしれないし、もしかしたら麻理亜の事を思い出せずともかつて友人だった記憶が影響を与えているのかもしれなかった。
「やっぱりまずは、ハニーデュークスかしら。色々なお菓子があるのよ」
「ピーナッツみたいに見えるお菓子には注意した方がいい。あれ、ゴキブリ味だ。あと、定番なのはバタービールかな。三本の箒は人が多いし、ホッグズ・ヘッドにでも行く?」
「最初は三本の箒の方がいいんじゃない? 奥の方の席なら、絡んでくる面倒な人たちに見つかる事もないでしょう。もっとも、マリアはそんな心配はないだろうけど」
 月日が流れると共に、いつものように、麻理亜は少しずつ交友関係を広げていった。「墓作り」については「変わった子」と言われるが、それでも今はもう表立ってからかう者もおらず、友好的な生徒の方が多かった。
「私達と同じ、はみ出し者だと思っていたわ」
「他の人たちと仲間はずれなところがあるって意味なら、今だって同じよ。でも、誰だって何かしら違いはあるものでしょう。その違いがたまたま目立ったかどうかってだけで」
「あなたが一年生の頃から思っていたけど、マリアってたまに子供とは思えない発言をするわよね」
「そりゃもう十三歳だもの。子供じゃないわ」
「そう言うところは子供ね」
 背伸びする子供のような得意げな言い方をする麻理亜に、リタは笑う。
「マリアの初めてのホグズミードだ。マリアの行きたい所へ行こう」
「私はどちらでもいいわよ。二人と楽しめる所なら」
 寮と学年は違えども、放課後や休日は三人で過ごす事が多かった。
 やがて、ニュートとリタの気持ちに気づき、麻理亜は身を引こうとしたが、二人がそれを許さなかった。複雑な年頃になると、むしろ二人きりになるのを避けるがために麻理亜を逃さまいとしている節があった。どちらも情熱的な態度を示すようなタイプでもなく、麻理亜は付かず離れず二人を見守っていた。





「――私の場合は、妹だった」
 アルバスは、空き教室にいた。リタも一緒だ。
 麻理亜は戸口で立ち止まり、二人を見つめる。一時の沈黙の後、リタの唇が開いた。
「……愛していましたか?」
「十分とは言えなかった」
 言って、あるバスは目を伏せる。それから、視線を上げリタを真っ直ぐに見据えた。
「私は今も後悔している。君には同じ後悔を抱いてほしくない」
 再び沈黙が二人の間に流れる。やがて、リタが言った。
「……可愛い生徒さんが、先生に用事があるみたい」
 話題をそらすように、リタはこちらを振り返った。
 今はもう、スリザリンのローブではない。葡萄色のローブを纏った、大人の女性。
 リタは、それ以上の会話を拒否するように教室を立ち去る。麻理亜には一瞥もくれなかった。
 麻理亜は、リタの傍らの机へと歩み寄った。彼女がよく座っていた席。――もっとも、彼女は授業自体、出席が多かったとは言えないようだが。
 この机の裏に掘られた文字を、麻理亜は知っている。古い机で、他にも色々と傷や落書きがあった。麻理亜も、彼女と一緒に端の方に落書きをした事がある。でももう、麻理亜が描いた痕は残っていない。
「……マリア」
「大丈夫。もう何度も繰り返した事だもの」
 かけられたアルバスの声に、麻理亜は答える。
 そっと机の表面に触れ、優しく撫でた。この蓋を開く事はしない。それはもう、麻理亜の記憶にしか無い過去の事。その道を選んだのは、麻理亜自身だ。
 麻理亜は顔を上げ、アルバスを振り返る。
「アルバス。玄関ホールで、魔法省の人達と会ったわ」
 毅然と話す麻理亜の瞳は、今を見つめていた。


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2022/04/10