チュンチュンと小鳥が囀る中、沙穂はゆっくりと目を開けた。
 辺りは薄らと明るくなっていた。いつの間にか眠ってしまったらしい。ゴツゴツとした石に体が痛むのを感じながらも、身を起こす。
(学校……行かなきゃ)
 いったい今、何時なのだろう。長い階段を降り、まだヒンヤリとした空気の中を自宅へと向かう。途中、田んぼの向こうに犬の散歩をしている人影を見かけたぐらいで、他にまだ人通りはなかった。
 無断外泊してしまった。顔を合わせたら、怒られるかもしれない。
 本宅へ寄る気にはなれず、制服に着替えてランドセルを掴むと、沙穂はいつもより早い朝の道を学校へと向かって行った。





No.3





「沙穂が弁当を持って来るのを忘れるなんて、珍しい事もあるもんだなあ」
「朝も、ずいぶん早くに来てましたわよね」
「そういや、先に行ってたね。随分待ったんだよ」
「……すまない」
 ぽつりと沙穂は答える。うつむく沙穂の前に、プラスチックのフォークが差し出された。
「はい、どうぞ。レナ、箸と両方持ってるから」
「……ありがとう」
 沙穂は顔を上げ、少し微笑む。
「みぃ……沙穂、本宅へは行かなかったのですか?」
 沙穂は梨花を振り返る。心配そうな瞳が紗穂を見つめていた。
 梨花は、昨日の綿流しの準備の場にいた。昨日の祖父との事が関連していると、薄々気付いているだろう。
「……昨日、家に帰ってないんだ」
「えっ……」
「それって……」
 予想だにしなかったのだろう。魅音たちはどよめき、言葉を失う。
 沙穂は弁解するように続けた。
「家出とか、そんな大層な事をしようと思った訳じゃないんだ。でも……ただ、帰りたくなくて……外にいたら、そのまま眠ってしまって……気付いたら朝で……」
 言葉にすると、本当に大変な事をしてしまったとひしひしと実感が湧いてきた。声が震え、目頭が熱くなって来る。
「帰ったらきっと怒られる……もうやだ……帰りたくないよ……!」
 あの家で、沙穂は厄介者だ。オヤシロさまに嫌われていて、周囲に不幸をもたらす。少なくとも祖父も祖母も、そう信じている。
 失敗は許されなかった。ただでさえ存在が迷惑なのだから、これ以上迷惑をかけてはならなかった。なのに、やってしまった。帰った時に待ち受けるものを思うと、恐ろしくてならなかった。
 ずっと、学校が終わらなければ良いのに。
 放課後なんて来なければ良いのに。
 ぎゅっと、身体が抱き寄せられる。レナの柔らかな腕に包まれながら、紗穂は泣き続けた。

 一頻り泣いて、沙穂はレナの腕から離れた。
「……ありがとう、レナ」
「ううん。ごめんね、何も気付けなくて」
 沙穂は首を左右に振る。
 これは、家の事。沙穂と、祖父母との問題だ。レナ達には気付きようもないし、それで責められるような謂れもない。
「沙穂、お顔を洗いに行きましょうなのですよ」
「……うん」
 うなずき、梨花に促されるままに席を立つ。教室を出る間際、梨花と魅音が目配せをしたような気がした。
「昨日は、ボクもごめんなさいなのです。沙穂は関係ないってすぐに言えていれば……」
「梨花は言おうとしてくれていた。それでも聞かなかったのは、うちのおじいちゃんだ。……あの人は、何でもすぐ私のせいだと考えるから」
 言って、鼻を啜る。言葉にすると、また泣き出してしまいそうになる。
 誤魔化すように、沙穂は水道へと駆け寄った。蛇口を捻り、勢いよく出てきた水をすくって顔に浴びせる。
「……私も、梨花に謝らないといけない」
 ぽたぽたと顔から水を滴らせながら、紗穂はぽつりとつぶやいた。
 薄く溜まった水面に、歪んだ沙穂の顔が映り込む。
「昨日の夜は、梨花の家にいたんだ。神社の、実家の方に……もちろん、家の中へは入れないし入っていないけれど、勝手にいたから、一応」
「みぃ……それくらい、大丈夫なのですよ。むしろ、家の中に入れた方が良かったのです。お外で寝たら、風邪をひいてしまうのですよ」
「……ありがとう」
 差し出されたタオルをありがたく借りて、顔を埋める。タオルに視界を覆われた中、少し寂しげな声が聞こえた。
「……ボクも、両親とはあまり上手くいってなかったのですよ」
 驚いて顔を上げる。
 梨花は困ったように微笑っていた。
「特に母親は――あの人は、沙穂に料理を教えている時の方が楽しそうだった」
「そんな事……」
 首を左右に振り、梨花は沙穂が口にしかけた否定を拒絶する。
「事実、彼女は私を薄気味悪がっていた。まあ、彼女達を諦め、関係を改善する気も無くなっていた私自身も、原因の一端かもしれないけどね……」
 あの人、彼女、と母親をまるで他人のように話す梨花。もしかしたらそれは、一種の防衛本能なのかもしれない。
「ごめん……私、何も知らなかった」
 優しい人たちだった。紗穂を我が子のように温かく迎え入れてくれた。
 だけれどそれは、知らぬ間に梨花の居場所を奪っていたのかもしれない。沙穂の祖父母が、沙穂よりも梨花を大切にするように。いや、沙穂自身が気付いてなかった分、より酷い。知らぬ間に、梨花を傷付けるような言動を取っていたかもしれない。
「沙穂が謝るような事ではないのです」
 一度低くなった彼女の声色は、いつもの高さと口調に戻っていた。
「ただ、沙穂はおじいさんとおばあさんに対して、『良い子』でいなきゃいけないというハードルがすごく高くなっていそうなのです。彼らはボクを褒めるかもしれませんが、ボクだって家族とは怒られたり上手くいかなかったりもしたのですよ。
 怒られたっていいのです。どうして帰りたくなかったか、言ってやればいいのです。それでもまた話を聞かないなら、ボクら部活の皆が力ずくでも聞かせてやるのですよ」
「ハハ……それは心強いな」
 笑いながら、タオルを返す。家族との不仲なんて、そう外で話そうとは思えない事だ。特に梨花は弱みをあまり見せないタイプの子だ。それが、自分の家庭の事を話してでも紗穂を励まそうとしてくれている。その優しさが、とても温かかった。
 教室では、魅音達が沙穂の帰りを待っていた。
「紗穂。今日の放課後、皆で綿流しの準備を手伝おうと思うんだけど、どうかな」
「え……」
「何なら学校から直行でも良いしさ。まあ、その……迷惑じゃなければだけど、あたしの方から沙穂のおじいさんの様子、探ってみようかと思って」
「全然迷惑なんかじゃ……! 迷惑なんかじゃない、けど……良いのか……?」
「うん。あたしもずっとそばにいたのに、何もできなかったからさ、これぐらいさせてよ」
「魅音……ありがとう……」
「よーし、そうと決まれば、今日の部活はお祭りの準備だな!」
「はうー! いつもと違う部活も楽しみだね!」
 梨花との目配せは、この事だったのだろう。沙穂が梨花と離れている間に、皆と相談していたのだろう。

 ……そう、思っていた。


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2022/06/19