彼女の作業を見ていることが好きだった。自分のものではない細い手が、そんな細かな作業をしているということが感動で、同時に幸福だった。あの子は、まるで自分とは違う生き物のようだ。
彼女は名前を小原緋子といって、日本という東の島国の子だった。彼より1つ下の学年のレイブンクロー寮にいて、成績はいい。
そして、緋子は驚くべきことに、イースターを知らなかった。クリスマスは名前を知っているだけというし、ハロウィンのことすらよく知らない。日本にはその文化は定着していません、と穏やかに話す彼女のことは容易に思い出された。
緋子は彼とはまったく違う文化圏に生きていた少女で、マグルからの生まれである。彼女が「鴉の濡れ羽色」と言った緑の黒髪と黒の瞳と、同じ学年の女生徒と比べても殊に小さな体躯とが組み合わさって、彼女の存在はよく目立った。
「椿油、というものがあるんです」緋子は以前、彼女の黒髪を褒めた彼にそう言った。
「カメリア・オイル?」
「そう、椿油。こちらにはないのかな、日本にはそういうものがあるんです。髪に使うの」
「きみも、それを?」
「いいえ、わたしは使っていません。だけど、母は使っていたみたい。いつも髪を艶々にしていたって。だから、わたしの髪もこんななんです、きっと」
彼女はそう言って、笑う。彼には一生できないような笑い方だった。信頼と親愛と信用と親近をすべて混ぜたような、相手のためだけにあるような笑い方だった。この笑い方をして自分が何か得をしようとは思っていない。
そう、緋子は彼とはまったく違う質をしていた。例えポリジュース薬を使っても、彼は緋子になれないし、緋子は彼になれない。根本から違いすぎて、重なり合うこともできない。
だから、彼は考えた。
あの子は、自分とは違う生き物なのだ。
だから、たとえマグルの間に生まれた「汚れた血」だとしても、自分はあの子をいとしく思っていい。
魔法を使えない猫の間から魔法を使える猫が産まれたからといって、それを「汚れた血」と蔑む輩はいないのと同じだ。
あのこは、自分と同じ生き物じゃない、だからあいしてもいい。
彼、トム・マールヴォロ・リドルは、そう考えた。それはあくまでも彼自身の考えであって、そこに正解不正解は存在しない。愛に正解不正解はないのと同じに。いや、まったくそのままに。
彼女は希望である。渇望であり、欲望であり、願望であり、信望であって、同時に絶望。
彼女は作業をしながら、リドルの方をちらりと見た。彼と目があった途端に緋子はぱっと視線を元に戻す。それが可笑しいやら可愛いやらで肩を揺らして笑った。
「見てて楽しいですか、視線が気になって作業どころじゃありません」
「いや、どうぞ僕に構わず」
「構いますよう」
彼女はうんざりとそう言って、手に持っていたものをテーブルに投げ出した。
緋子は繕い物をしていた。彼の裾が破れたローブを、彼女はその小さな手で繕っているのだった。宵闇に紛れてしまうような黒のローブに、まるで緋子自身の髪の毛のように細くて黒い糸を使って、ほつれた部分をかがっている。彼から見れば、小枝の寄せ集めみたいな手がそんな細かな作業をしているのが、なんともなしに好きだった。たとえるなら、りす やら ももんが やらがあの小さなゴマ粒みたいな手で木の実をくるくる回しているのを見ている気分である。
「魔法使えば早いと思うけど、緋子は魔法を使わないね」
そう言うと、緋子は呆れた目をこちらに向けた。こんな顔で彼を見られる人間は、きっと緋子しかいない。それを彼は許しているし認めているし気に入っている。それが好きだった。
『我が背子が 着せる衣の針目落ちず 入りにけらしな 我が心さへ』
「…ん?それ、日本語?」
緋子が朗々と語った言葉は、聞いたことのある滑らかな響きをしている。決まった音節で文節を区切ってあって、彼女の教えてくれたところの「和歌」であるらしいと彼は理解した。
緋子はうなずいて、話す。
「この感覚がわからないというなら、魔法で繕います」
「僕は生憎、日本語は解さなくて」
「……我が背子が 着せる衣の針目落ちず 入りにけらしな 我が心さへ」
緋子がゆっくりと、考えながらその和歌を英訳する。彼はそれを聞きながら、彼女の口元を見つめる。日本語と英語は違うな、と思った。彼女が日本語を母語にしているというのもあるだろうが、日本語の方が唇の動きがやわらかだ。そっと、ささやくみたいに話す。彼は日本語を話せなかったし聞き取れなかったが、緋子の話す日本語が好きだった。
彼は目を細めて、それを聞いた。うん、とうなずく。
「魔法を使えば早いとか、そういうことを言って悪かったね。どうぞ、作業を続けて」
「あなたはずっと、そこで見てらっしゃるの?」
「席を外した方がいい?」
「そうしてください」
緋子が微笑んで、そう言った。そう言われちゃ、しようがないな。彼はからかうような口調でそう言って、イスから立った。イスが床とこすれ合う、ギイ、という音がした。
自室に戻る前に緋子を振り返る。彼女は既に裁縫に戻っていて、糸の先を舐めているところだった。ルージュも付けていないのに、彼女の唇は紅色をしている。その唇から糸が離れたとき、立ったまま自分を見つめているリドルの視線に気が付いて、緋子が顔を上げた。
「緋子、」彼女が何か文句を言う前に、彼の方から話した。緋子ははい、と返事をして小さく首をかしげる。インコに似ていた。
「今夜、僕は出るから」
「遅くなりますか」
「わからないな、どうだろう」
「夜までにはこれ、できあがりますから、これを着て行ってください」緋子はそう言って、手元のローブを掲げてみせる。「急がなくてもいいよ、ゆっくりでいいんだ」
「これを、着て行ってほしいの」
そう言われては断る必要がない。わかった、とリドルは彼女に言う。緋子は笑う。
彼はその部屋から出た。扉の隙間から見ると、彼女はもう針を通していた。
夜のにおいがする。と思って、いや違ったな、とリドルは思い直した。違う。これは夜のにおいではない。これは血と死のにおいだ。パブロフの犬のように、彼は関係のないにおいを夜と結びつけてしまっている。
血と死のにおい。幾人もの人間にふみしめられた芝のにじむにおい。いろいろなにおいが混じって、本当に探りたいものが分からなくなる。彼はローブのフードを被って、ローブの中に顔をうずめた。
緋子のにおいがふと、感じられる。
彼女が繕いを終えたローブである。あれからずっと繕っていた彼女は、彼が家を出る頃になってこのローブを渡してきた。「これ、着て行ってくださるって言ったのに」と不満そうな顔をするので、彼は言った。「きみが来なかったら取りに行くつもりだったさ」「そんなこと、しないくせに。あなたはわたしのために嘘ばかりつく」
笑いながらそう言った緋子が、あのとき、少し恐ろしかった。
緋子は、彼のことを知らない。
時折、こうして夜になってから出て行くリドルが、外で何をしているのか彼女は知らない。知らないはずだ。
彼女は彼にとって希望なのだ。あの小さな子は、リドルのしていることを知ったら傷つく。そう思うから、彼女は自分でも意図せずにリドルのストッパーになっている。彼女は希望なのだ。
そして同時に絶望である。彼女はこう言った。『あなたはわたしのために嘘ばかりつく』。彼は恐ろしく思う。彼女は知っているというのだろうか。今まで彼女に伝えたことがすべて彼の出任せで、真実なんてそこにはかけらとしてなかったことを彼女は知っているのだろうか。緋子が知っていたとしたら、どうする。それは、まぎれもない絶望だ。
は、と意識を現在に戻す。いま、そんなことは考えていられない。どうにかしてこの包囲陣を切り抜けて、ついてこようとする魔法を全て振り払って帰らなくてはならない。
緋子がこのことを知っていようといまいと、彼は緋子のもとに帰らなくてはならないのだ。彼女は待っている。
眼球が閃光を捕らえた。影に紛れて飛び出してきたような閃光で、それは変化球のように稲妻のように折れ曲がって、彼のもとに届く。防ごうとしても、間に合わない。珍しく、しまった、と思った。
しまった、考えごとなんかをしているからだ。
しかし、そのとき、彼に考えもしないことが起きた。
閃光は、何も害をもたらさなかった。
パン、という音がした。
パン、という何かをはじいたような音だった。彼は呆然と、自分を見下ろした。
自分の胸元のあたりで、閃光がはじかれたような気がする。
もう一度、閃光がはしってくる。
彼はそれを、わざと受け入れた。たいした魔法ではないらしいことは分かっていたし、害といっても大袈裟なものではないだろう。
しかし、その閃光もまたはじかれた。ローブに触れないうちに、何かの力でもって跳ね返される。
まさか、と思った。
まさか、そんな。
彼は尾いてくる魔法を払うより、とりあえず距離の離れたところに姿現しをする。一気に血と死のにおいが消えた。やはりあれは、あくまでも血と死のにおいであって、夜のにおいではない。
彼はもう攻撃してきそうなものが何もないことを確認して、ローブに触れた。ちょうど、閃光を跳ね返したあたりに触れてみる。手触りに問題はなかった。ルーモスを唱え、少し明るくして、底を見てみる。
そこをかがった糸が切れていた。
それを確認した瞬間、リドルは自分にかけられた魔法を全て解除して振り払い、姿現しする。
意味がわかった。よくわかった。
我が背子が 着せる衣の針目落ちず 入りにけらしな 我が心さへ
彼女の心が、あの糸にはつまっている。彼女のこころ。彼女の魔法。
彼のしていることを知っているのかいないのか、そんなことはどうだって良かった。小原緋子。その名前がどれだけ彼に影響を与えているものか、彼女は知らないだろう。
「緋子、」
彼女の部屋の前に来て、彼女の名前を呼びながら扉を開く。ベッドサイドの小さな明かりをつけたまま、ローテーブルが何かを書き付けていたらしい緋子は顔を上げて彼を見た。
「どうしたんです、今夜は随分はやい、」
小さな彼女の体躯。抱き人形と言ってしまっても、何も問題はない。緋子は彼の来ているローブに顔を押しつけられる。
「リドル、これ、血のにおいが、」
「黙って」
緋子はすぐ、口を閉じた。
頼む、頼むよ。僕は神なんて信じていないけれど、これだけは頼む。
この子を絶対に僕と同じ生き物にしないでほしい。いや、こんな子が自分と同じ生き物であるわけがない。こんなにきれいで、純粋で純朴で天衣無縫な、ただ相手の幸せを心の底から願ってしまえるような子が、自分と同じ生き物であるはずがない。
そうだ、だから、
自分はこの子をあいしていい。この子をだいじにしていていい。この子をいとしく思っていたいから、頼むから、この子を自分と同じ生き物にしないで。
この子が魔法を使わずに、ただひたすら針と糸を使って縫い目をつくっていった意味。彼女のいたわり。彼女の手。
この子は、自分とは違う生き物なのだ。
(我が背子が 着せる衣の針目落ちず 入りにけらしな 我が心さへ)
(わが背子が召しておいでになる着物の針目ごとに、縫糸のみか私の心までも入って行ったようです)
(万葉集巻第四 阿倍女郎 和歌の大意は日本古典文學体系によりました)
二人の間に流れる空気が素敵ですーv 実を言うと、ここに勝手に私の感想を載せて良い物かと迷いました。せっかくの余韻をぶち壊してしまう気がして。リドルには幸せになって欲しい……! 四季よ、ありがとーう!
2010/03