「もう行ったかな」
 華恋はピタリと足を止める。
 クラスが分かれ、ホームルームの終了をいつも待ち合っていた友達。今日も、いつもと同じく華恋が彼女を待っていた。
 しかしいつの間にか終わっていて、けれど彼女の荷物はまだある。
 トイレだろうか。そう思い、女子トイレへと向かった。
 華恋が入ろうとした横から、他の子がトイレへと駆け込んで行く。その際に開いた隙間から、聞こえて来た声。
 思えば、最近は待ってもいつの間にか先に帰られている事が多々あった。終了時刻が重なり廊下が込み合う中、華恋と眼が合って隠れる人影を見た事もあった。その時は眼鏡を掛けていなかったから誰なのかも分からず、偶然その様に見えただけだろうと思っていた。
 友達と思っているのは、自分だけ。
 そういう事があるのだと、華恋は初めて知った。親友どころか、鬱陶しく思われている事もあるのだと。
 華恋は教室に残していたランドセルを引っ掴むと、逃げる様にして教室を駆け出て行った。

 その日から、彼女は変わった。





No.1





 暗がりの中にあるのは、三人の人影。
 その内の一人、樋口華恋は暗い目を正面の人物に向ける。柱に縛り付けられたその者は、じっと華恋を見つめている。その目には別段、命を請うような光は無く。ただ、何かを訴えようとしているのは確かだった。言葉は発しない。否、発せられないのか。
 華恋の肩に、手が置かれる。その重みに、華恋は身を硬くする。……右腕が痛い。
 拒否する事は許されない。華恋は、ゆっくりと右手を挙げる。その手に握った杖を、柱に縛り付けられた彼に向ける。
「……カレン」
 その者が華恋の名を呼ぶ。
 華恋が返すのは、虚ろな視線だけ。
「――……」
 乾いた声で、華恋は呟く。
 彼の姿は、一瞬で炎の中に消えた。炎は赤や青に発光し、闇の中に幻想的な世界を作り出す。
 幻想的な色の中、ちらちらと黒ずんだ姿が見え隠れする。
「ひ……ッ」
 声を上げかけるが、右腕にある鈍い痛みがそれを制止する。
 込み上がる嫌悪感。華恋の左手は、無意識の内に右腕を掴んでいた。下唇を噛み顔を顰めはしても、決して眼は逸らさない。
 ただ痛みに堪えながら、目の前で燃え行く魔法使いを見つめていた。





 眼を開けた華恋は、差し込む朝日の眩しさに再び眼を瞑る。窓に背を向けると、ゆっくりと眼を開いた。振り返って見れば、寝る時には閉めた扉が開いている。恐らく、扉もカーテンも母が開けて行ったのだろう。
 身体を起こし、枕の上に開きっぱなしの本を閉じる。「ハリーポッター」の第六巻。先週発売され、もう二回程読んで終わった。それでもまだ熱は覚めやらず、昨夜も途中だけ少し読もうとしたら読みながら眠ってしまった。今朝の夢は、恐らくその影響だろう。
 ――夢……。
 改めて、先程まで見ていた夢の内容を思い返す。あまりに幻想的な炎。あまりにリアルな燃え行く姿。そして、右腕の痛み。
 思わず肌が露になっている右腕を見る。だがもちろん、そこには何も無い。
「……アホらし」
 微妙に腕が痛いのは、恐らく身体の下に敷いて眠ってしまったからだろう。ただの夢に、意味も何もあるまい。
 ましてや夢に現れたあの二人は、本の中の登場人物。架空の世界の住人だ。
 馬鹿馬鹿しい。

 着替えて居間に降りた時には、もう誰もいなかった。両親も姉も、とうに仕事や高校へ行ったのだろう。
 華恋は食パンをオーブントースターに放り込み、焼いている間に髪を解かし結ぶ。中途半端な長さの前髪は、眼鏡にかかってもう撥ねた跡が付いている。水で濡らしたところで、また元に戻るのが落ちなので、そのまま放置する。後ろの髪は撥ねる事など無いのだから、やはり長さの問題なのだろう。
 チンと言う軽い音がして、華恋は洗面所を離れた。
 皿を洗うのは面倒なので、流しの所でパンを食べる。家を出るのは、八時過ぎ。華恋に残されている戸締りは、玄関のみ。予鈴が鳴る間か鳴り終わってから、中学校に到着する。
 教室に入り、特に誰と挨拶を交わす事も無く教科書を机の中に移す。本を読んでいる内に時間が来て、前の席のクラスメイト、近藤と少し挨拶を交わす。本が読めるのはそれまで。
 いつもと何ら変わらない、平凡で単調な日常。





「待ってよ、華恋!」
 廊下に出た所で声を掛けられ、華恋は立ち止まった。
 教科書を抱えた近藤が、急いで華恋の所まで駆けて来る。
「酷いよ、置いていくなんてさ。今日って、家庭科の方だよね?」
「うん」
 必要最低限の返事。
 彼女とは、移動教室を共にしたり別々だったり。気づいたら彼女が他の友達と一緒に先に行っている事もあるし、今日のように先に行こうとする華恋を責める事もある。正直なところ、はっきりして欲しい。
 だが面と向かってそう言える筈も無く、華恋は近藤の話を聞き流しながら家庭科室へと向かう。
「華恋さ、もっと話せば良いのに」
「……別に、そんなに話す事なんて無いもの」
「でも、暗過ぎるよ。たまに、教室にいるのかいないのか、分からない事あるもん」
「ふーん……」
 「暗い」などという悪口を面と向かって言って、一体どのような反応を求めているのだろう。時々、彼女は不可解かつ不愉快な言動をする。
 当の近藤は、何事も無かったかのように話を続ける。若しかしたら、ただ何も考えていないだけなのかもしれない。
 彼女は更なる不可解な質問をする。
「ね、華恋は親友って誰なの?」
「え?」
 華恋は茶化すように笑う。
「何〜? そんなに聞き出したいのかー?」
「だって、何度聞いても答えないじゃん。ね、私は華恋の親友だよね?」
「あっ。何かアレ、もう準備始めてない?」
 窓の向こうに見える家庭科室を指差し、華恋は足を速める。調理実習の時は、早めに準備を始める事があるのだ。
 近藤は腑に落ちない様子だったが、それでも共に足を速め、その話はそれで一端終わりになった。
 ――白々しい。一体、どう言う答えを望んで聞いているのか。
 どうせ、彼女も華恋を親友だなんて思っていないだろう。都合良く、一緒にいる人を変えているのだから。
 絶対的友情なんて、ありはしない。そんな物、作り話の世界だ。
 過去の自分が友達に求めていた物は、あまりに重過ぎたのだ。だから、一緒に帰るのを避けられた程度で「裏切り」と思ってしまった。もう、あんな思いはしたくない。
 だからまず、そこまで親しくならなければ良い。本心は胸の内に秘めて。それを受け入れる人なんて、決していないだろうから。それが、現実と言う物だから。





 今日の帰宅は、一人だった。近藤はまた、何処かの教室へ遊びに行ってしまったからだ。若しかしたら明日、何故待っていなかったのかと言われるかもしれないが、今はそんな事は考えない事にする。
『おかえり。今回のは、ピンクの表紙で良かったかね?』
 玄関から入って直ぐ、右手にある和室。今ではもう、荷物も片付きがらんとしている。あるのは、部屋の角に置かれた仏壇だけ。
 華恋は一瞬その部屋に眼をやったが、直ぐに逸らし真っ直ぐ自室へと向かう。
『また買ってきたの? 重いんだから、無理しないで良いって言ったのに』
『年寄り扱いするな。まだまだ元気じゃよー。
それにしても、よくこんな小さい字が読めるねぇ』
『この大きさが見えないなんて、やっぱり年寄りじゃない』
 そう言って、互いに笑う。
 半年前に亡くなるまで、祖母は毎日和室にいて、華恋が帰って来ると声を掛けてくれていた。重いから買わなくて良いと言っているのに、毎回「ハリーポッター」を発売日に買ってきてくれていた。
 けれど、「謎のプリンス」は自分で買う事になってしまった。華恋の自業自得だ。
 華恋は鞄を自室の床に置くと、着替えもせずに「ハリーポッター」の既刊全巻を抱えてベッドに寝転がる。しかし、あまりの暑さにすっくと立ち上がると窓辺へと歩み寄る。大きく窓を開く。風はあまり無く、ただ外と室内の熱気を交換するばかり。それでも、閉め切っているよりは幾らかマシだ。
 「賢者の石」から「謎のプリンス」までを顔の横に積み上げ、ハードカバーの表紙を開く。四十周年の記念式典の準備とやらで体育館が使われ、今日は部活が無かった。明日、明後日は土日。そうでなくても体育館は式典に使用されているのだから、当然部活は休みだ。久しぶりに手に入れたこの三連休で、華恋は「ハリーポッター」を読み返そうと決めていた。
 突如大きな風が吹き、本のページをパラパラと素早く捲る。
 華恋は再び先程のページを探し、読み始める。外では、暗雲が立ち込めていた。





 またしても、読書中にいつの間にか眠ってしまったらしい。
 華恋は眼をこすりながら、身を起こす。眼鏡は眠っている内に外れ、冷たい床の上に投げ出されていた。
 ――え……床?
 眼鏡を掛ける事も忘れ、きょろきょろと辺りを見回す。何処かの廊下だ。
 学校ではない。確かに広さは華恋の通う学校と同じぐらいだが、華恋の学校なら窓が多いからこんなに薄暗くはない。
 制服を着たままなのと、傍らに本が山積みになっている事、そしてその内一冊が開いたままと言う事は、寝る前と何ら変わり無い。だが、それ以外は全く持って違っていた。華恋が座り込むのはベッドの上でなく、冷たい廊下。先程までの熱気は何処へやら、寧ろ夏服では少し肌寒いぐらいだ。机も洋服箪笥も無く、あるのは壁で揺らぐ蝋燭の光。
 華恋は立ち上がると、その蝋燭の一つにゆっくりと歩み寄る。近づいた燭台の横には、一つの扉があった。暗い色の木の扉。だが、何処へ繋がるとも知れぬ扉を開けてみる勇気は無い。

 華恋はまた元いた所へ戻ると、眼鏡を拾い掛ける。
 その時不意に、背後から声が掛かった。
「そこで何をしている?」
 華恋は声の主を振り返る。そして、唖然とした。
 そこに立つのは、奇妙な格好をした男だった。黒い服に、黒いマントのような物を羽織っている。顔は蒼白、髪はべた付いていて、不健康という言葉を体言するかのような男である。
「貴様、一体何者だ?」
 華恋は眼を瞬く。
 こうもりの様な姿。彼を一目見た華恋は、そう思った。そしてそれは、ある人物が形容されていた言葉では無かったか。
 改めて眺めてみても、やはり彼の特徴はよく知るある人物の特徴と重なる。だが、その様な事が現実に起こるものなのだろうか。
「我輩の教室の前で、何をしていると聞いているのだが」
 男は再度、問いかける。その口調までも、ある人物と酷似している。
 華恋は恐る恐る尋ねた。
「あの……若しかして、セブルス・スネイプ教授ですか?」
 初めて会った人物に突然こんな事を尋ねれば、普通ならば単なる変人だ。
 だが、突然変わった周囲の風景、現実世界にしては妙な彼の服装、それらが既に、この世界は「普通」では無いのだと言っていた。
「――何故、我輩の名前を知っている?」
 彼は警戒心を露にそう尋ね返した。
 では、やはり。
 その事実を認めざるを得なかった。華恋は、「ハリーポッター」の世界へと来てしまったのだ。
 だが別段、慌てる事も悲しむ事も無かった。――別に、元の世界に帰りたいとは思わない。ただ心残りと言えば、未完結の小説や漫画の続きが読めない事。
 不意に華恋は自分が寝た時のままの状態だと言う事に気づき、慌てて手櫛で髪を解かし髪を結び直す。お洒落などに興味は無くとも、人前でぼさぼさの髪は流石に恥ずかしい。
「その額の傷は……」
「え?」
 華恋はキョトンとする。
 まるで、ハリーを初めて見る人のような反応。確かに、華恋も額に傷はあった。だが稲妻型でも無ければ、原因も小さい頃本棚の角にぶつけた物だと聞いている。何より、成長するに連れて薄れていっていた。間違っても、ハリーのようないわくあり気な傷ではない。
「来い」
 そう言って、スネイプは華恋に背を向け、歩き出す。
 華恋は慌てて床に置かれたままの本九冊を抱えると、彼の後について行った。





 連れて来られた先は、校長室。本に描写されていた通りの螺旋階段に乗り、上へと上がる。
 ふと、隣に立つスネイプは華恋に眼をやった。
「……何冊か、持とうか?」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
 発せられた言葉に驚きつつ、華恋は丁寧に断る。積み上げた本の一番上は、裏返しにしてあった。背表紙は、自分の腹に当たる方へ向けている。この世界の者達に、この本のタイトルを見られては不味いだろう。裏表紙ならば、「静山社」という日本語の三文字しか書かれていない。
 扉の先にいたのは、長い白髪と顎鬚を持つ長身の老人――ダンブルドア。
 一目でそれと分かる容姿をした彼は、華恋達を見て人懐っこい笑みを浮かべる。
「どうした、セブルス。その子は誰じゃ? 隠し子かの?」
 スネイプは鬼のような形相でダンブルドアを睨んでいる。
「冗談じゃ。一体誰かの?」
「私の教室の前にいました。額に傷が――」
「なんと」
 ダンブルドアの青い瞳が、じっと華恋の額に注がれる。
 何とも言えない居心地の悪さ。ハリーの気持ちが、分かる気がした。
 華恋は、ぺこりとお辞儀をする。
「えっと……初めまして、ダンブルドア先生。樋口華恋です」
 そして、額の傷も母の話によれば本棚にぶつけで出来たらしいと話しておく。眼が覚めたらここへ来てしまっていたと言う事や、マグルしか存在しない異世界にいたという事も。
 ただし、本の事については話さないでおく。異世界と言うだけでも妙だと思われるかも知れないが、ここはファンタジーの世界だ。その程度ならば、前例の有無は別としてまだ許容範囲だろう。だが、「ここは本の世界です」なんて言い出せば、例え魔法界だろうと奇異な眼で見られるだろう事は想像に難くない。
「否、君のその傷は、本棚にぶつけたのではない筈じゃ」
 ダンブルドアは、あっさりと華恋の話を否定した。
「わしも、生きておったとは思わなんだ……カレン・ポッターよ」
 華恋はただ目をパチクリさせる。
 今、この老人は何と言った? 聞き覚えのある、ファミリー・ネーム。それは、馴染み深い架空の人物の名では無かったか。
 衝撃の事実にも関わらず、案外華恋は平然としていた。否、ただ突然の告知に声も出せなかったのかも知れない。


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2009/11/23