幼い頃の記憶は、あまり無い。
 弟の忠行が産まれる前に、お父さんはいなくなった。何処へ行ってしまったのかも分からない。そんなに幼い頃でも無いのに、私に彼の記憶は残っていない。ただ、時々、お父さんとお母さんは英語で話している事があったって事だけ。
 そして。
 お母さんは私が高校生になって直ぐ、行方不明になってしまった。未だ、見つかっていない。
 家には、私と忠行、二人。





No.1





「夕紀ー。忠行君の運動会っていつ?」
「今月の第三土曜日だけど……何、千尋も来るの?」
「当然! 一緒に行こうね〜」
 千尋とは部活も違えば、帰る電車もまるで違う。同じクラスとは言え、席も対角線上。背の順や名前の順でさえ、近くなる事は無い。
 最初に彼女と出会ったのはサイト上だった。それから高校に入って、お互いの事を知って。
 そして、今に至る。
 私と千尋の共通点はハリポタ。それは、私達にとって、あくまでも本の世界の出来事だった。
 まさか、自分がその世界と関わりを持つなんて、思ってもいなかった……。





「今日、うちのクラスに転校生が来たんだよ!」
 家に帰ると、玄関で待ち構えていた忠行が目を輝かせて言った。
 忠行は小学四年生。私とは六つも離れているから、お母さんがいた頃も、私はまるで忠行の保護者のようだった。
「へぇ。男の子? 女の子?」
「男の子! 外国人なんだぜ。 イギリスから来たんだって! トム・サトウって言うんだ」
「え? うちと同じ苗字? って言うか、日本名……?」
「うん。父親が日本人なんだって言ってた」
「ふぅん……」
 この時私は、それ以上深くは考えていなかった。





「トム君、速〜い!」
「優希君! 後ろ、来てるー!」
「おぉっ。抜かしそう!」
「トム君、あとちょっとーっ!!」
「勘田、頑張れー!」
 ほぼ同時に、次の走者へとバトンが渡された。
 走り終えたトムは、俺の後ろに並んだ。
「トム、速ぇな! 勘田って、うちの学年で一番速いんだぜ。速い奴ら、皆D組に集まっちゃったけど……トムがいれば、うちのクラスも優勝できるかも!」
「皆、座りなさい!」
 先生が叱り付けて、俺もトムも座り込んだ。でも、まだ立って応援を続ける子はいる。

「今日走ってる順番は緊急のものだから、ちゃんと決めたらトム、アンカーになるかもね」
「僕はアンカーなんてならなくてもいいよ」
「駄目だよ! アンカーは速い奴、って決まってるんだから」
「佐藤君は如何なんだい? 君もなかなか速かったじゃないか」
「駄目、駄目。D組は多分、勘田がアンカーになるだろうからね。俺じゃ勝てないよ。それから、『佐藤君』じゃお互い、同じ苗字で分かりにくいからさ。『忠行』でいいよ」
 トムはにこにこと笑うだけで、了解しない。
 ややこしいのになぁ。
 二学期明け、転入してきたトム・サトウ。運動会が近付く今、俺は気づいた事がある。

 トムは、皆と距離を取っているんだ。

 誰も、トムの家族や家を知らない。誰も、トムがどんな学校へ行っていたのか知らない。
 聞いても、結局は誤魔化されてしまう。
 誰とも深くは関わろうとしないんだ。
「トムさぁ、一体、何を隠してるの?」
「隠している? 何かを隠してるなんて、如何してそう思うんだい?」
「何となく……」
「『何となく』って」
 本当の事を言ったのに、トムは呆れたように言う。
「僕は別に、何も隠しちゃいないさ。何も、ね」
「……」





 そして運動会の日。
 歯車は動き始める。





「次、四年生の80m走だよ!」
 私のプログラムをさり気に奪い取っている千尋が、扇子で扇ぎながら言う。
 まだ九月。今日は日差しが強く、所謂真夏日だ。この炎天下、小学生達はかなり元気。凄いなぁ……。

 四年生が入場してきた。
 私が忠行を捜していると、隣で同じように捜していた千尋が肩を強く叩いてきた。
「ん? 見つかった?」
「うん、忠行君いた! でも、そうじゃないの! 忠行君の前にいる子、誰!? 外国っぽいよね!? すっごい可愛いんだけど!」
 外国……トム君の事かな?
「忠行が、クラスにイギリスの子が来たって言ってた。多分、その子じゃないかと思うんだけど……何処? 忠行さえ見つかってないんだけど」
「ほら、あそこ! 手前から三番目の、後ろの方!」
 あぁ、いた、いた。列が方向転換して顔が見えないけど、多分あれが忠行ね。
 忠行の前にいるのは、さらさらな黒髪の男の子。黒髪なんて日本じゃ当たり前だし、ここからじゃ顔が見えないから、彼=トム君かは分からないけど。
「あの子かな。転入生。忠行ったら最近、あの子の話ばかりなんだ。如何やら仲良くなったみたいで」
 言った所で、校庭をぐるりと回り、顔が見えた。

――え……?

「ほら! 可愛いーっ。お姉さん、忠行君に紹介して貰おうかなぁ」
「うわっ。危なっ。相手、小四だよ!!?」
 千尋と馬鹿な事を言いつつ、私は再び例の子を見た。
 何だろう。
 顔は確かに良い。ただ、それだけ。その筈なのに。
 何だろう、この違和感は。この子は違う、そんな感じ。
 ふと、千尋が言った。
「ねぇ。リドルの幼い頃ってさ、あんな感じなんじゃないかな」
「そこにハリポタ出すとは、千尋も末期ね……」
「えー。だって、思わない? リドルって、学生時代は目、赤くなかったんでしょ?」
「うん、まぁ確かにねぇ……」
 確かに、容姿は本の描写にピッタリ。その上、イギリス人で。名前はトム。
 でも、まさか、ねぇ……。そんなの、現実にはありえないって。こんな事考えるなんて、私も末期だな……。





「今、何点?」
「204点! このまま行けば、優勝できるかもよ!」
「マジで!? D組は何点?」
「210点! リレーで勝てば、優勝だよ!」
「本当!?」
 それとなくグループになりながら、会話の内容は殆どが、現在の得点。
 だって、D組とは体育が合同で。うちのクラスは、体力は学年上位。でも、D組には毎回負けてたんだ。それを挽回出来るかも知れないとなれば、燃えない筈が無い!
 一学期までだったら、残るはリレー、なんて言ったら意気消沈してたけど、こっちには何たって、トムが入ったもんな!
「トム! アンカー頑張れよ!!」
「佐藤君も、第一走者頑張ってね」
「あぁ、まぁ……」
 俺は別に、トムの次に速いって訳じゃない。なのに、作戦とか何とかで俺が第一走者になってしまった。
 俺が、バトンを渡すのは出来ても、貰う時に失敗ばかりするってのも原因だろうから文句は言えないけど。

 俺達は、思い思いの場所に座り込み、弁当を広げる。
 俺達男子のグループに、女子が三人、やってきた。
「ねぇ、うちらも一緒でいいよね?」
「おう。いいよ! おい、こいつらも一緒に食うって!」
 俺が皆に言ってる間に、女子は輪に入ってきた。
 ……え!? 三人だけじゃないの!?
 女子の賑やかなグループがまるまる一つ、やってきた。トムはその中心に捕まってしまう。あぁ、そういう事……。
 トムは別に迷惑そうにする訳でもなく、笑顔で対応している。
 なんかなー……。
 トムって大人っぽいんだよな。俺達と同い年とは思えない。だからモテんのかな。





「凄ーいっ!! 忠行君、第一走者じゃない!」
「うわっ、ほんとだ。あの子、そんな事一言も言ってなかったよ」
「驚かせたかったんでしょ。可愛いじゃない」
 でも、大丈夫なのかなー……。確かに、忠行は私とは違って運動神経はいい。でも、別に特別優れてるって訳じゃないと思うんだけど……。
 号砲が鳴り、一斉に走り出す。
 案の定、C組がバトンを渡したのは最後だった。でも、他のクラスといい勝負だったから結構頑張ったのね。
「あっ! 三人目に走る子、あの子じゃない。あのリドル似の子!」
「え? そう?」
 私は千尋と違い、視力二,〇もないからここからじゃ分からない。

 第二走者が走り、向こう側で第三走者にバトンが渡された。
 その、速い事。
 あっと言う間に前の子をごぼう抜きし、トップの子に近付いている。運動会でお馴染みの曲と共に、子供の声のアナウンスが入る
「C組速いです。一位、D組。二位、C組。三位、E組。四位、A組。B組、頑張って下さい」
 ほぅ、あのトップはDか。
 第三走者の子は長く走り、私達の側でバトンが渡された。D組とほぼ同時。二人とも、走っていた勢いを殺しながらコースを出る。
 ふと、例の転入生と目が合った。彼は、ピタリと立ち止まる。
 ……何?

 その子は口の端でにっと笑うと、反対側の列へと行ってしまった。
 隣で千尋が首を傾げる。
「なんかあの子、こっち見てたよね。何だったんだろ」
 気のせい?
 目が合って立ち止まった時、あの子の唇が僅かに動いた。

「見、つ、け、た」……と。


Next
「 時空を超えて 」 目次へ

2006/12/10