NEWT試験の終了を告げるベルが鳴る。廊下側の一番後ろの席で、一人の少年が大きく伸びをした。
ワッと生徒が一斉に騒ぎ出す中、試験管が杖を振り、テスト用紙を回収した。
全ての用紙を回収し、席を立つ許可を与えられる。同時に、数人の生徒が教室を飛び出して行った。誰もが、ガタガタと席を立つ。友人の元へ駆け寄る者、試験の出来に嘆く者、終わった事への開放感に満たされている者。
様々な動作をする生徒の中、レイの視線はちょうど対角線上の席にいる男子生徒に向けられていた。彼は他の生徒達のように騒ぐ事もなく、落ち着いた物腰で席を立つ。彼の周りだけ時が止まっているかのようで、それはまるで絵画のようだった。
レイは素早く荷物を纏めると、真っ直ぐに大教室を横切って行く。
「マーロン!」
数歩と進んでいなかった。
レイブンクローの生徒だった。背の高い、スラリとした女子生徒が、教室の扉の所で手招きしている。
「早く、こっちへ来な」
「……」
「聞こえなかったかい? 早く来いって言ってんだよ」
背筋を冷たいものが流れる。レイはぎこちない動きで方向転換すると、渋々と彼女の方へと歩いていく。
扉へ辿り着くまでの間、生徒達の囁き声が教室に満ちていた。
「マーロンの奴、何かやらかしたのか?」
「あいつ、一人で行かせて大丈夫なのかよ。絶対、ティロットの方がマーロンよりでかいだろ」
「案外、愛の告白だったりして!」
「それは無いだろ。ティロットみたいな美人が、マーロンなんて相手にするかぁ? 顔はいい方の部類かもしれないけど、あんな女々しい奴をさ……」
「あら。分からないわよ。そんな所を可愛いって思うかも知れないじゃない?」
「えっ。若しかして、お前、ああいうのがタイプ?」
「まさか。私はリドル一筋ですぅーっ」
「何言ってるのよ! 私は断固として、リドルとマーロンの説を推すわよ!」
「え……それ、男同士……」
「まあ、何にせよ、ティロットのあの様子じゃ、マーロンに恋心なんて淡い気持ちは抱いてないだろうな」
「同意ー」
「マーロン、死ぬなよ〜」
皆、他人事だからと勝手なものだ。
レイは重い足を引きずりながら進み、とうとう扉まであと五、六歩という所まで来た。
途端に、待ちくたびれたティロットに首根っこを掴まれる。そしてそのまま、レイは引きずられるようにして何処かへ連れて行かれるのだった。
窓際の前から二番目に座る少年はじっとその様子を眺めていたが、彼女達が教室を出て行った途端、荷物を抱え席を離れて行った。
「あ、あの〜……僕……何かしましたか?」
レイがようやく解放されたのは、大教室からは大分離れた所にある空き教室の前だった。廊下の人通りも少ない。
ティロットは無言のまま、背を向けている。レイはそっと彼女との距離を取りながら、再び声をかけてみる。
「何か、話でしょうか……。こんな所で、一体何の?」
「同い年なのに、何も敬語を使う事はないだろう。そんなんだから、女々しいって言われるんだよ。噂を立てられるのもその所為じゃないかい。
ちょっと、あんたに話があってね。NEWT試験も終わって、あとは卒業だけだろう? だから」
大教室で囁かれた言葉が、レイの脳裏を過ぎった。
『案外、愛の告白だったりして!』
まさか、本当に?
レイは、彼女とリドルの仲を疑った事も幾度と無くあった。彼女の目的は、リドルではなく自分だったのだろうか。思わず、安堵の笑みが零れる。
「えっと……それじゃ、ティロットは僕を……?」
「馬鹿言うんじゃないよ。話があるのは、あたしじゃない」
そう言って振り返り、己の背後にある教室の扉を親指で指し示す。
「入りな。ナターシャが待ってる」
ティロットに言われ、教室の扉を開ける。途端に、窓から入った風がレイの顔を撫ぜた。
柔らかそうな栗色の髪を二つに結んだ少女が、窓枠に腰掛けていた。透き通るような白い肌に、蒼い瞳。小柄で人形のような彼女は、ティロットと並んで男子に人気のあるレイブンクロー生だった。
ナターシャ・アルウェッグは、レイが教室に入ってくると、窓枠から降りて柔らかい微笑みを浮かべた。男なら、この笑みを向けられればイチコロだろう。
……男ならば。
「こんにちは、レイ。時間取らせちゃって、ごめんなさい」
「いや……別に……」
実の所、早くこの場を離れたくて仕方が無い。試験後は、直ぐに図書館へ向かう予定だった。
だが、そんな事言える筈も無い。
アルウェッグは、一歩一歩とレイの方へ近付いてくる。レイは思わずじりじりと後退していた。当然、気づかれぬ筈が無い。
「……どうして逃げるの? 私、レイの事が好きなの……ただ、傍にいたいだけなのに……!!」
アルウェッグは大きな目に涙を浮かべていた。
レイはギョッとする。皆の姫君、ナターシャ・アルウェッグを泣かせたなどと知られれば、後々面倒な事になりかねない。ただでさえ、親しい者は少ないと言うのに。
レイは慌てて、自らアルウェッグの方へとスタスタと近付いていった。そして、会話するのに丁度良い距離まで来た所で立ち止まる。
「ごめん。えっと、僕、誰かと近距離で話すのって苦手で……。それで、思わず……」
強ち間違いでは無い。あまり近くにいると、隠している事がばれてしまうのではないかと気が気では無いのだ。
例えば、何人か目ざとい子には、喉仏が無い事に気づかれている。尤も、これは実際の男子でも個人差があるという事で切り抜けられたが。
そう、レイ・マーロンは女の子だった。事情があって、この七年間男装をし、男で通してきた。
レイは元々男勝りだったという訳でもない。寧ろ、女の子はおしとやかに振舞うようにと躾けられてきた。胡坐や立てひざは絶対禁止、普段着はスカートを推奨するような家庭だ。
そのように育てられたものだから、レイにとって、男装生活というのはかなり厳しいものがあった。女々しいも何も、女なのだから仕方が無い。
当然、どんなに人気のある子に告白されても、女の子とつき合う趣味は無かった。
アルウェッグはそんな事知る由もなく、レイを上目遣いで見つめる。
「ねぇ、レイは私の事、嫌い……?」
「いや……別に、嫌いじゃあないけど……」
レイがそう答えた途端、彼女の腕が首の後ろに回ってきた。そのまま、アルウェッグはそっと目を瞑る。
「好きよ、レイ……」
アルウェッグの望んでいる事は明らかだった。
レイは慌ててアルウェッグを振りほどく。レイが拒否した途端、彼女は傷ついたような表情を見せた。レイは咄嗟に頭を下げる。
「ごめんっ!!」
アルウェッグはショックで固まっていた。教室の外からは、物音一つ聞こえない。
レイは頭を下げたまま、言葉を続ける。
「本当にごめん。君の気持ちは、本当に嬉しいよ。こんな僕でも、好きだと言ってくれる人がいるとは思わなかったし。
だけど、駄目なんだ。僕、別に好きな人がいるんだ。だから、アルウェッグとはつき合えない。
本当にごめん!」
暫く無言の空白が空き、アルウェッグが震える声で言った。
「……そう……なんだ……。
……でも私、諦めないわ。ねぇ、私にも、少しくらいチャンスがあるわよね?」
「いやぁ……それは……」
レイは言いよどむ。
「あるでしょう? 私、これからもっと自分を磨くわ。絶対に、レイの今の好きな人を追い抜くぐらいに!」
「うーん……これから磨いても……チャンスがあるとは……」
「無いの?」
レイは答えられず、困り果てた顔をするばかり。
アルウェッグはハッと気がついたように口元を押さえた。
「これからじゃチャンスが無いって事は……まさか、レイ……貴方、ロリコンね……!?」
「はい!?」
「そうだったのね! だって、貴方、同学年とは距離を置くけれど、年下には妙に優しいじゃない。それでだったのね……!」
それはただ単に、小さい子の世話が好きなだけだ。それに、十一歳や十二歳程度なら、性別がばれてしまう心配も少ない。女子を構う事が多いのは、レイが女子だから、そちらの方が世話をしやすいというだけの事。
しかし、アルウェッグの暴走は止まらない。
「それじゃあ、私なんて眼中に無い筈だわ……。年齢より下に見られる事が多いとは言え、新入生には敵わないもの……」
「いやいや、人の話を聞いてくれよ」
「そんな……それなら好きになって直ぐに告白すれば良かったわ……二年前ならまだ、私も百四十センチ前後だったのに……」
「だから話聞いてー」
アルウェッグはブツブツと一人で呟くのをやめ、顔を上げた。
そして、寂しそうに微笑った。
「さようなら、レイ……っ」
レイが止める暇も無く、アルウェッグは教室を駆け去って行った。
レイは呆然と彼女を見送っていた。しかし、教室の外で待っていた人物を思い出し、サッと青ざめる。
レイがどうにかして扉を使わずにこの教室から出られないものかとあたふたしている内に、教室の扉がガラリと大きく音を立てて開き、ナターシャ・アルウェッグとは違ったタイプの美少女が入ってきた。
「話は終わったみたいだね、マーロン」
皆の女王、イヴ・ティロットだ。
「えぇぇっと……僕、好きな人がいて……それは、彼女――つまり、アルウェッグじゃなくて……だから……」
「ふったんだね、ナターシャを」
淡々と言うその口調に、レイは縮み上がる。
しかし、次いで彼女の口から出てきた言葉は、全くの予想外の物だった。
「……ありがとう。ちゃんとあの子をふってくれて」
「――え?」
「正直、あんたには無理だろうと思ってた。好きでもないのに、断りきれないからってあの子とつき合い出すんじゃないか、ってね。
見直したよ。あんたは立派な漢だ」
レイは何が何やら分からず、ただ唖然とする。
「えーっと……まさか、ティロットはアルウェッグの事を?」
「あんたと一緒にするんじゃないよ。あたしはただ、親友としてナターシャを気にかけているだけだ」
今、何か妙に聞き捨てならない事を言った気がする。
「――あんた、あたしに『好きな相手は自分だったのか』と聞いたね?」
「は、はい」
「それは違う。あたしがあんた達に関わる事が多いのは、あんた目当てじゃない。
あんたには悪いけど、リドル目当てだよ」
やはり、ティロットはリドルを想っていたのだ。
だが、今はそれよりも早急な問題があった。
「えーっと……ミス・ティロット? その、『あんたと一緒にするな』とか『あんたには悪いけど』ってのは、一体?」
「何を言うんだい。今更しらばっくれるつもりかい?
あんた、リドルの事好きなんだろう?」
レイは絶句する。
「隠し通せるとでも、思ってたのかい。リドル目当てで近付いても、直ぐに分かったよ。尤も、他にも気づいている女がいるかどうかは分からないけどね」
「それじゃ……知ってたって事……? ずっと、隠し通していた事を……」
「ああ、知っていたよ。それじゃあ、ナターシャにもチャンスは絶対に訪れないだろう。だから、はっきりとふってくれてホッとした」
やはり、隠し通すのは無理だったのか。
レイは、アルウェッグのように可愛らしくもなければ、ティロットのようにスタイル良くもない。女らしさというものは無かった。
かと言って、雄々しさも持ち合わせていなかった。やはり、それで男装は難しかったか。
ティロットは教室の扉に手をかけ、出る前にレイを振り返った。
「――女にチャンスは無いよな。あんたは、ホモなんだから」
「は!?」
レイは訂正しようと慌てて後を追い廊下へ飛び出したが、既にティロットの姿は無かった。
2007/12/25