暗闇の中に、足音だけが響いている。
 門の中から犬が吠える。しかし直ぐに鳴き止み、怯んだように奥へと逃げて行った。
 足音は街頭の下まで来たが、照らされるのはぼこぼこと歪にコンクリートで固められた道路だけ。石が転がり、脇の水路に落ちる。
 足音は坂を上る。少し上った所に、家があった。門の無い敷地。ずっと奥に行った所に平たい家がある。明かりは、無い。
 近付くと、また犬の鳴く声がした。唸り、じっと庭の一点を見つめる。犬の視線は、徐々に家へと近付く。
 がらり、と家の扉が開いた。





No.1





 冷たい風を正面から受け、康穂はマフラーを口元まで引っ張り上げた。髪は後方へと靡き、露になった耳が冷える。
 片手でハンドルを切り、道に沿って大きくカーブする。直ぐ横を、大きなトラックが通り抜けて行った。
 車が通り過ぎてしまうと、辺りは一気に暗くなる。街灯に照らされているとは言え、道の外は木々が生い茂り鬱蒼としている。闇に包まれた森は、そこに谷があるのかとさえ錯覚させられそうになる。
 学級閉鎖が相次いだ為に例年より遅い終業式を向かえ、その帰りだった。冬休みに入ってしまえば、友達と会う事も無くなってしまう。今年最後かも知れない街に出る日、久しぶりに友達と遊んで帰ったらこの有様だ。
 狸や狐が飛び出して来ないよう、祈りながら自転車を走らせる。轢きたくないと言うのももちろんあるが、こんな暗く人気の無い所で狐には出会いたくない。
 国道をそれ、坂を下る。通い慣れた道も、暗闇の中だとまるで違う場所のようだった。いつもならブレーキも掛けずに勢いに乗ったまま下る所だが、こう暗いとそう言う訳にもいかない。一週間前に、本家の伯父が懐中電灯も持たずに夜道を歩き、田圃に落ちて骨折したばかりだった。彼の二の舞は演じたくない。
 田圃と水路の間を、我が家へと向かう。いつも門の内側から康穂の帰りを迎えてくれる本家の犬も、今日は時間が違う為か庭の奥の方に入ってしまっている。
 ――タロ、怒ってそうだなあ……。
 父母共働きの後藤家では、愛犬の夕方の散歩は康穂が任されていた。こんな時間だ。若しかしたら、今日は母の方が先に帰っているかも知れない。
 本家を過ぎると、街灯と街灯の間隔が一気に開く。伯父が田圃に突っ込んだのも、この道だった。自転車のライトと闇に慣れた目を頼りに進む。
 暗がりの中では、水路の小さな波紋など到底気づけなかった。

 少しして、上り坂が現れる。坂の途中にある家に、明かりは灯っていなかった。どうやら、まだ母は帰って来ていないようだ。
 坂の途中で曲り、そのまま庭の奥まで自転車で乗り入れる。康穂の帰宅に気づいたタロが、鎖をじゃらじゃら言わせて立ち上がった。
 軒下に自転車を停める。鍵なんて掛けなくても、盗って行く者などありはしない。鞄もそのままに、康穂はタロの所へと駆け寄った。
「ごめんね、直ぐ散歩行こうね」
 言いながら、玄関の脇に掛けたリードを手に取る。首輪に引っ掛け鎖を外すと、タロははしゃいで歩き出した。ぐいぐいと引っ張るリードを引き返し、タロの前足が上がる。
 散歩と言っても、こんな時間にそう遠くまで行く訳には行かない。坂を下ろうとするタロを引き止め、家を出て直ぐの所で用を足させる。やはりタロは坂を下ろうとしたが、引っ張って家へと戻った。
「だーめ。懐中電灯も持ってきて無いんだから。伯父さんと一緒になっちゃうよ。明日、たくさん遊んであげるから」
 言いながら、小屋へとタロを戻す。
 鎖に繋ぎ換えていると、背後でがしゃんと言う物音がした。振り返り、溜息を吐く。あまりの重さにバランスを失った自転車が横倒しになり、タイヤがくるくると回転していた。
 リードを玄関脇に掛け、疲弊したように自転車の方へと歩いて行く。計画性も無くロッカーや机に置きっ放しにしていた教科書や資料集で、鞄はぱんぱんだった。よっこいしょと声に出しながら鞄を抱え上げ、肩に掛ける。それから自転車を立て直し、玄関へと戻る。
 玄関に手を掛けたが、開かない。
 力の加減を変えてみても、ガタガタと扉が音を立てるだけだ。家は古くても、扉の立て付けはまだ問題無かった筈。
「やだ、お母さん鍵掛けて行ったの?」
 口を尖らせ、家の裏手に回る。裏の勝手口は、難なく開いた。
 普段は鍵など掛けないと言うのに。それに、玄関だけ閉めても他が開いていては何の意味も無い。一体、どう言う風の吹き回しだろう。
 居間へ向かうが、誰もいなかった。どの部屋も真っ暗。やはり、母はまだ帰っていないようだ。
 ふと思い立ち、居間の雨戸へと歩み寄る。雨戸の鍵は、いつか開けたそのままになっていた。雨戸の前には、先程停めた康穂の自転車。こちらが開いているのならば、ここから入れば早かった。少し損した気分になりながらも、何故鍵を掛ける気になったのか疑問に思う。
 ずり落ちて来た鞄を担ぎ直し、居間を出て不意に思い出した。昨晩、本家の辺りで食料の紛失騒ぎがあったと聞いた。紛失と言っても、ほんのリンゴ一個だけだ。ただ、末の子が帰って来てから食べようと大切に取って置いていたらしい。兄弟じゃないかと言う話になったが誰も認めず、派手な兄弟喧嘩となった。結局、兄弟では無かったのだろうか。外の者が入って来ているのだとしたら、確かにそれは怖い話だ。
 電気をつけるのも億劫で、暗闇のまま廊下を歩く。友達と遊び食べ歩いていたから、大して腹は空いていない。それよりも、眠気の方が大きかった。
 自室に入ると机の横に鞄を放り、そのままベッドに倒れ込む。
「う〜、寒〜……」
 制服さえ着替えぬまま、布団の中に潜り込んだ。
 ひんやりとした何かに手が触れる。
「……」
 すーっと冷気が押し寄せて来る気がした。咄嗟に手を引っ込め、ベッドを飛び降りる。
 暗闇の中、やけに盛り上がった布団。
 心臓が波打つ。さーっと血の気が引いて行く。寒さに拍車を掛けるかのようだった。
 気のせいかも知れない。はっきり見えている訳では無い。現に、布団の影は動かない。康穂が入っていた跡がついているだけかも知れない。
 そうだ、気のせいだ。馬鹿馬鹿しい。こんな時間に帰って、薄気味の悪い道を通って来たから、そんな気がしてしまっただけに決まっている。
 じっと布団の影を見つめる。やはり、動く様子は無い。
 布団からは目を離さずに、そろそろと手を挙げる。紐に触れたのを確認すると、素早く明かりを点けた。
 突然の明るさに、一瞬怯む。
 再びベッドを見ると、男の顔と目が合った。
 沈黙が訪れる。声も出ず、ただまじまじと男を見つめる。青白い顔をした、西洋系の男性だった。男は微動だにせず、無表情で康穂を見つめ返す。

 突如、玄関の方からガタガタと言う激しい音がした。続いて、聞き慣れた声がする。
「ちょっと!? なんで閉めてんの?」
 母だ。
 康穂は我に返り、自室を飛び出した。一目散に玄関まで駆け、鍵を開ける。勢い良く開いた扉に、母は驚き身を竦ませていた。
「何やってんの、鍵閉めたりなんかして――」
「変質者!」
 母の文句を遮り、康穂は叫ぶ。敷居を跨ぎ、母の後ろに回り込んで家の中を指差す。家の奥に背を向けるのが嫌だった。
「知らない人がいたの! 私の部屋――外国人の男――」
「何それ!?」
 母は目を丸くし、家の中に目をやる。そして意を決したように、敷居を跨いだ。
「お母さん!?」
「しっ。黙って――」
 玄関に置いてある竹箒を手に取り、靴を脱いで中に上がる。康穂は迷ったが、ついて行く事にした。ここにいて、勝手口から出た男と鉢合わせしても嫌だ。
 母子は、じりじりと廊下を奥へと進む。物音は一切聞こえなかった。点けっ放しの電気が、廊下に漏れている。
 康穂の部屋の傍まで来て、母は一度立ち止まる。息を殺し、部屋の中の様子を伺う。何の物音もしない。
 突然、母は動いた。竹箒を構え、部屋に踏み込む。康穂は戸口に立ったまま中を覗く。母は見回し、そろそろと竹箒を下ろす。
 康穂はホッと息を吐き、部屋の中へと入った。そして布団の方を見――硬直した。
「いたっ!」
 跳ね上がり、母の腕を掴む。
 母はパッとそちらを振り返ったが、直ぐにまた竹箒を下ろした。
「何、いないじゃない。鼠でも見たの? 紛らわしい……」
「なっ、何言ってんの!? いるじゃない! そこに!!」
 康穂は母の腕を掴んだまま、もう一方の手でベッドの上を指差す。男は布団から出て、悠々とベッドに腰掛けていた。
 しかし、母は首を捻るばかりだ。次第に、康穂がからかっているとでも思っているのか、その顔に笑顔さえ浮かべて言った。
「なーに、どうしたの? 幽霊でもいるってー?」
「違っ、えっ、幽霊――?」
「まったく、何事かと思ったら。こんな辺鄙な所に現れる物好きな変質者なんて、いないでしょうよ。制服、着替えときなさい」
 そう言うと、母は部屋を出て行こうとする。
 呼び止めようとしたが、背後からの声に制止された。
「無駄だよ。彼女に僕は見えない」
 康穂は弾かれたように振り替える。
 男は、口元に笑みを浮かべていた。
「君は僕の事が見えるんだね」
 康穂の目が開かれて行く。では――この男は――
「みっ、見えてないよ。違うからね! 憑いたって何にもならないから! 私、霊感なんて無いし、何も――」
「失礼な奴だな。僕は幽霊じゃないよ」
「へっ?」
「その証拠に――」
 男は立ち上がった。
 男の指が、康穂の顎下に触れる。康穂は成す術も無く、ただ硬直していた。
「――ほら、こうやって触れられるだろう?」
 そう言って微笑うと、手を離した。
 落ち着いて見ると、端正な顔立ちの男性だった。年は二十代――否、もっと若いかも知れない。女の子としては羨ましい程にサラサラとした黒髪の、闇のように深い瞳を持つ男性だ。
「あ、貴方、一体――」
「人に聞く前に、自分から名乗るべきじゃないのかい?」
「私は、後藤康穂。
――って、ここ私の部屋なんだけど!?」
「そう。それは済まない事をしたね」
 全く「済まない」とは思っていないような口調だった。
 そして再び、布団を被る。
「僕は眠いんだ。もう一眠りしたいから、その間に何か食事を持って来てくれるかな」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
 康穂は容赦無く布団をひっぺはがす。
「ここ、私の部屋だって言ったでしょ!? 勝手に私の布団で寝ないでよ! それに何で、私があんたの為に食事を準備しなきゃいけないの!?」
 彼は不機嫌そうな表情で起き上がる。
 しかしやはり、ベッドの上からは退こうとしない。足を床に投げ出し、座っていた。そして、康穂はその傍に靴が揃えて置かれている事に気がつく。
「え……これ、あんたの靴?」
「そう。それがどうかしたかい?」
「どうかしたじゃないでしょ!? 土足で上がってきたって事!?」
「何を怒ってるんだよ。――あれ、そう言えば君、靴は?」
「ここは日本! 靴は玄関で脱ぐの! あーっ、もう……」
 康穂は靴へと手を伸ばしたが、届く前に彼が先に拾い上げた。
「何処に置けばいい?」
「置かないで、そのまま履いて帰って!」
「酷いなあ。こんな凍えそうな寒空の下に、追い出そうって言うのかい?」
 彼の言い分に、康穂は言葉を詰まらせる。
 しかし直ぐに我に返った。
「――追い出すも何も、歓迎する理由が無いじゃない! 勝手に上がり込んでて、勝手に人の布団で寝てて……そんな態度で誰が歓迎するって言うの!?」
「じゃあ、ちゃんと頼むよ。――少し、ここに置いて貰えないかな?」
「……は?」
 康穂はぽかんと口を開ける。
「そんなの困る。突然、何を――」
「頼むよ。他に当ても無いんだ。ずっと歩き回っていてね。少し、疲れた。寒いし、食料も無いし――」
「……家は? お金は?」
 尋ねてから、思い出す。
 彼は、母には見えていない。何にせよ、深い事情がある事は確かだった。帰れる家があるのかどうか。例え金を持っていたとしても、店員に見えなければ買い物も出来ない。当然、ホテルや旅館も同様だろう。
「お金はいくらか稼いだのがあるよ。でも、こっちじゃ違うだろう? ――換金も、無理だ。多分、君達は見た事も無いと思うよ」
 そう言って、彼はベッドの隅に置いてあるコートに手を伸ばした。そのポケットから、数枚の硬化を取り出す。おもちゃのメダルのような、金銀銅の硬化だった。何の印字もされていない。
「何処の国のお金? 貴方、何処から来たの?」
「僕が来たのは、イギリスからだよ。尤も、そう言っていいのか疑問な部分もあるけど……」
「え?」
「まあ、そう言う訳でね。困ってたんだ。そしたらちょうど、ここの家の鍵が開いているだろう? 見えないのを良い事に眠らせて貰っていたら、君が現れた。そして君は、僕の事が見える。今まで、一人もいなかったよ。運命の出会いなのかもね」
 そう言って彼はにっこりと笑う。
 言動は滅茶苦茶だが、容姿は良い。整った顔立ちで微笑んでそんな事を言われると、悔しいがドキッとしてしまう。
 康穂は、改めて彼を見つめる。
 やや尊大な態度が鼻につくが、害は無いようだ。何やら訳ありの様子でもある。話が本当なら、彼が頼れる存在は、康穂だけ。事実、母には見えていないようだった。
 康穂は、深い溜息を吐く。
「仕方ない、か……」
「じゃあ――」
「ただし、私はあんたの召使でも何でも無いんだから、命令するようなら知らないからね。それに、私の布団で勝手に寝ないで。寝泊りはお客さん用の和室で――」
「誰もいない所で物が動いたりしていたら、怪しまれると思うよ」
「……」
「誰もいないのに一人で話したり、色々準備してたりしたら、変に思われるだろうしね」
「あのねぇ、誰の所為で――」
「怒らないでよ。親切で教えてやったんじゃないか。本当なら、ひそひそ言われて初めて慌て出す君を見て、楽しみたい所だけどね」
「サイッテー!」
 康穂は膨れっ面になる。彼は相変わらず、涼しい顔で笑っていた。
「でも……そうなると……」
「いいよ、布団とかは無くても。家の中にいるだけでも、大分暖かいからね。それに、僕は風邪とかをひく事も無いしね」
「だったら勝手に人の布団に入る事無いじゃない!」
「そうかもね」
 彼はただ笑顔でいるだけだった。どうにも掴みどころが無い男だ。
 康穂は本日何回目かの溜息を吐く。
「取り合えず、出て行って」
「え? 置いてくれるって、さっき――」
「着・替・え! 玄関に靴でも置いて来なさい!」
 康穂は彼の冷たい手を掴んで引っ張り立たせると、部屋から押し出した。そして、バタンと扉を閉じる。
 溜息を吐くのは、これで何度目か。
 波乱万丈の冬休みになりそうだ。


Next
「 つかの間の…… 」 目次へ

2009/12/24