教室で一人うつむく男子生徒。沈んだ表情のその少年の傍に、沙穂は駆け寄った。
「悟史!」
 少年は、僅かに顔を上げる。彼の暗い瞳が、沙穂を見上げた。
 沙穂は、微笑った。彼は、沙穂の一番の親友。
「もう直ぐ、綿流しだろう? 魅音が一緒に行こうって、誘ってくれたんだ。もちろん、悟史も行くだろう」
 悟史は僅かに顔を動かし、魅音らのいる方を見た。魅音とレナは、心配気にこちらを見つめていた。沙穂を誘ったのはきっと、悟史のため。沙穂がいれば悟史も来るであろうから。
 しかし、悟史は冷たく吐き捨てるように言った。
「……放っといてくれないか」
「……っ」
 悟史が沙穂に向けるのは、冷たく、敵意さえ含んだ視線。クラスに馴染めずにいた沙穂に初めて声を掛けてくれた、あの時の優しい眼差しとは違う。
 悟史は席を立ち、教室を出て行ってしまう。
「……悟史!」
 沙穂は廊下へ飛び出した。悟史は振り返りもしない。
 闇の中へと遠ざかって行く背中。沙穂は手を伸ばす事も、呼び止める事も出来なかった。ただ見つめるばかりで。
 ――悟史……! 嫌だ、戻って来てくれ、悟史……!!

 ふっと沙穂は目を覚ました。全身に汗をびっしょりと掻いている。布団が手足に巻き付いて、頭から潜り込むような形になってしまっていた。絡まった布団を横へ退けて、沙穂は布団の上で大の字に寝転がる。
 転校して来た沙穂に、一番に声を掛けてくれた悟史。彼は、『転校』してしまった。
「ごめんなさい……」
 ごろんと横向きに寝転がり、丸めた布団に沙穂は顔を埋める。
 何も出来なかった。彼が追い詰められているのは分かっていたのに、相談に乗る事も出来なかった。ただ、嘆いていただけ。
「ごめんなさい……悟史、ごめんなさい……!」





No.2





 不安を振り払うようにして、いつものように笑顔で魅音らと一緒に登校して。
 そして、その日の朝、沙都子も梨花もまだ学校に来ていなかった。
 登校時刻が過ぎ、校長による始業ベルが鳴っても二人は姿を現さない。出席を取る段になって、足音が駆けて来て教室の扉がガラッと開いた。
 入って来たのは、梨花一人。
「遅刻ですよ、古手さん。北条さんはどうしましたか?」
「……沙都子は……ちょっと、遅れるかもなのです……」
 浮かない顔。俯いたまま、梨花は席に座る。彼女の隣は、空席。
 ぞわりと悪寒が沙穂を襲った。言い知れない不安。昨日の今日だから? 今朝見た夢のせい? どうして、沙都子がこの場にいない。どうして、梨花は「遅れるかも」なんて曖昧な返答をする。どうして――
 昼休みになっても、沙都子は現れなかった。向かい合わせにした机の上には、弁当箱が六つ。
「沙都子……お昼までには来るはずだったの……?」
 魅音が問うが、梨花は答えない。
 沙都子に、何かあったのだろうか。いつも笑顔の梨花が、今日はにこりともしないなんて。
 重苦しい沈黙。沙穂達の表情も翳る。
 不意に、箸が弁当の一つへと伸びた。
「皆が取らないから、レナがもらうねっ。うふふ、おいし!」
 ぱくりとジャガイモを口にして、レナは言う。
 沙穂はハッと我に返る。魅音も腕まくりしていた。
「っと! おじさんとした事が!! レナに先制を許すとはね!」
「私だって負けないぞ!」
「……みー! ボクのおかずが無くなってしまうのです」
 魅音、沙穂に続き、梨花も普段の調子を取り戻す。
 圭一も、何かを思い出したようにうなずいた。
「――冗談じゃねえ! 最後の弁当が梅干とご飯だけになってたまるか!!」
 沙穂はぺろりとハンデ分の海苔弁を平らげ、おかずに手を伸ばす。何事も、全力で。お昼のおかずは奪い合い。いつでも真剣勝負。それが部活の――仲間達のルールだ。
 沙都子。何があったかは分からないが、沙穂達はいつでも待っている。いつもと同じ、笑顔で。
 ――だから、早く帰って来い。
「やべっ、スマン。ちょっとトイレ!」
「え゛ーっ」
 圭一は慌しく席を立つ。教室を出る間際、沙穂達を振り返った。
「沙穂! 全部食べちまうなよ!」
「それは約束出来ないな」
「横取りオッケー、ぼやぼやしてたら自分のお昼が無くなるって言うのがルールだもんねぇ」
 魅音もニヤニヤと口添えする。
「てめぇら……!」
「ほーら、さっさと行っといで!」
 圭一は教室を飛び出して行った。
 レナがくすくすと笑って、魅音を見る。
「魅ぃちゃん、あんな事言って本当は全部食べちゃうつもりなんて無いでしょ?」
「う……」
 魅音は決まり悪げに視線を外す。かあいいモードを発動するレナを放置して、梨花は沙穂に笑いかけた。
「沙穂も、『待て』なのですよ」
「……仕方ないな」
 沙穂はお預けを食らった犬のように、しょんぼりと箸を下ろす。
 会話は、他愛も無い話。昨日また入江が沙都子にアプローチを掛けていたらしいだとか、魅音のバイト先のおもちゃ屋の話だとか、今年も沙穂と梨花は綿流しの準備に参加するだとか。圭一が戻るのがやけに遅い気もしたが、誰もその事には触れなかった。戻って来たらまた、何事も無かったように弁当の取り合いを再開する。
 いつも通り、笑顔で。それはただ、不安から目を背けていただけなのかも知れない。

 沙都子が学校に姿を現したのは、三日後の昼休みの事だった。
 校門を入って来るその姿を見付けるなり、圭一は外へと飛び出して行った。ずっと欠席をしていた沙都子が、再び学校に戻って来た。沙穂達のみならずクラス中に安堵の色が浮かぶ。三日ぶりに登校してきた沙都子は、教室に入るなり皆に取り囲まれた。
「皆さん、心配掛けてごめんあそばせ。人気者は辛いですわ」
 いつもと変わらぬ、小生意気な言い回し。いつもと変わらぬ、笑顔。
 けれど、何処か力無く感じるのは気のせいだろうか。
 沙都子が姿を見せた事へ安堵したものの、再び不安が首をもたげる。沙都子はこうして姿を現した。何も、心配するような事なんてもう無いはずなのに。
 三日間無断欠席を続けていた沙都子は、梨花に付き添われて千恵と話をするために職員室へと去って行った。
 黙り込む沙穂、圭一、レナ、魅音。食事を終えた生徒達は、校庭へ出たり教室で話したり思い思いに過ごしている。
 圭一は、近くの机に腰掛けた。ギシ、と古い机が軋む音がする。
「……なぁ。沙都子……やっぱり、いつもと違うよな……?」
「うん……。私もそう思う……」
「圭一とレナも、思っていたのか……」
 魅音は無言で、視線をそらす。圭一が、問うた。
「……魅音。若しかして……何か、隠してるんじゃないか……?」
 魅音はぐっと言葉に詰まる。
 そして、恐々と切り出した。
「隠してた……訳じゃなくて……あの……その……沙都子の叔父が、この間の日曜に……ふらっと帰って来たって……知ってたよ……」
「な……」
 圭一は立ち上がる。
 沙穂は呆然としていた。帰ってきた――あの、叔父が。
 圭一は魅音に食って掛かる。どうして黙っていたのか、と。
「ご……ごめん……!
 それで……沙都子が家に閉じ込められて……いじめられながら……家事をやらされてるって……噂なんだよ……」
「嘘……」
「魅ぃちゃん、それ本当なの?」
「私がこの目で確かめた訳じゃないから……分からないけど……」
 沙穂も、レナも、受け入れたくない話だった。唯一、去年はいなかった圭一が恐る恐る言った。
「で、でもさ、その叔父って家事出来ないんだろ? なら……沙都子は重宝される訳だから……虐めてるって訳じゃないのかも知れないだろ……?」
「圭一君、いい加減な事言わないで」
 ぴしゃりとレナが言う。
 レナだって、今沙都子が叔父とどんな暮らしをしているかなんて知らない。叔父が戻って来た事だって、初耳だった。ただ、分かる事。今回は、一年前とはまるで状況が違う。
「――悟史君がいない」
 ずっと、沙都子を守り続けていた悟史。自分だって辛いだろうに、苦しいだろうに、いつも自らが盾となって。
 最後にはぼろぼろだった。誰の声も届かず、誰の手も取ろうとせず。一人で、何処かへ消えてしまった。
 消えてしまった悟史はもう、沙都子を守る事は出来ない。





 沙都子の前で、沙穂達は暗い表情を見せようとはしなかった。放課後になり、いつもの通り魅音が真っ先に立ち上がる。
「ようし!! 今日は久々に全メンバーが揃ったからねえ! 久しぶりにぱあーっと盛り上がろうじゃないの!」
「お! そう来なくちゃな」
「えへへ! 望むところだよ。ね、沙都子ちゃん! やろやろ!」
 しかし沙都子は、浮かない顔で教科書やノートをランドセルに片付けていた。
「ありがたいのですけど……お気持ちだけで結構ですわ。……色々……しなければならない事がありますので……」
 帰ろうとする沙都子に、魅音が食い下がる。
「本気なわけえ!? 敵前逃亡は罰ゲームってのは、会則第何条だったっけ?」
「……やめなよ、魅ぃちゃん……。無理につき合わせちゃ駄目だよ」
「……本当にお気持ちだけで嬉しいんですのよ。ご安心なさいませ。次に戦う時は、皆さんまとめてでーっかい罠にはめてご覧に入れますわ!」
 無理に笑って、沙都子はパタパタと廊下を駆けて行った。
 沙都子がいなくなり、しんと教室は静まり返る。放課後の学校は、生徒達の声なんて無い。チャイムも手動であるこの学校では当然無く、ただ蝉の鳴く声だけが外から聞こえてくる。
 沙穂は、席の隣に佇む梨花を見上げた。
「梨花は……沙都子の叔父の事、知っていたんだよな?」
 答えない梨花。レナが、尋ねた。
「梨花ちゃん……もうそろそろ、話してくれてもいいんじゃないかな……?」
 ただ、暗い顔で俯くばかり。
「……だいぶ、酷いのか?」
「……」
 ゆっくりと、梨花は頭を下げた。
 圭一は魅音に問う。
「去年……叔父夫婦の下にいた時も、こんな状況だったんだろ?」
「……うん。あの夫婦のとばっちりみたいなものがほとんどだったからさ……。こうして部活で時間を潰して、家にいる時間を減らすのも手だったんだけど……。今は家事を強制されてるから、それさえも出来ないんだね……」
 圭一は、パンと自分の手の平を拳で打つ。
「くそっ!! 何様のつもりなんだ! 常識的に考えて、おかしいんじゃねえか!? こういうのって虐待だろ!? 警察とかに通報出来ないのかよ!」
「……そうだよね。体罰の証拠とかあれば、通報出来るよね? それとか、地域の民生委員さんとかに相談出来ないの?」
「そうか……通報すれば――」
 圭一とレナの言葉に沙穂は魅音を振り返ったが、彼女の暗い顔は変わらなかった。
「皆簡単に言ってくれるけどさ……それを立証するリスクって考えた事ある?」
「リスク……?」
「何だよ……それ」
 一昨年の冬、児童相談所に通報した。そう、魅音は話した。
 沙穂はぎゅっと拳を握り締める。……一昨年の冬。沙穂も、いた頃ではないか。その頃から虐待があったなんて、沙穂は気付いていなかった。
 あれは春頃だったろうか。一度、悟史がぼやいた事があった。帰りたくないと言う沙穂に、自分もだと。でも、沙都子がいるから。自分と同じように不仲なのだと、そう解釈していた。既に深刻な状態だったなんて、知らなかった。気付かなかった。一番傍にいたはずなのに。傍にいてくれたはずなのに。
 気付いたときにはもう、沙都子はぼろぼろだった。悟史には声が届かなくなっていた。
「電話して直ぐにお役所の人が来てくれたよ。……んで、沙都子とか悟史に事情聴取してた。ついでに、叔父夫婦の所にもね」
 双方の意見から総合的に判断するため。そう、役所の人は話したらしい。
 結果は、様子見。暴行や育児放棄が認められない限り、虐待とは判断されない。最低限の世話だけはしていた夫婦は育児放棄とは言えず、証拠となる傷跡も無かった。しばらくは民生委員が訪問していたが、その間に目立つ虐めをするほど叔父夫婦も馬鹿ではない。虐めは、より陰湿化して行った。
 明らかな証拠が無い限り、役所は動けない。一年間の育児放棄も、心を入れ替えたと言われればそれでおしまい。
 明らかな証拠――つまり、沙都子が大怪我でもしない限り何も出来ないと言うのか。
 ふと、圭一が言った。
「そういえば、梨花ちゃん……梨花ちゃんは、どうやって暮らしてるんだ……? 両親が死んだ後は、神社の離れで沙都子と暮らしてるって……」
「梨花ちゃんは村長の……公由のおじいちゃんが保護者になってるんだよ……ちゃんと県知事の許可を得た正式な。籍を入れる養子ではなく……。だから法律の上では、梨花ちゃんは村長さんの家に住んでる事になってる」
 圭一が何を言わんとしているのか、沙穂は気付いた。案の定、それは魅音に却下される。
 彼が沙都子の保護者になる事は出来ない。叔父が既に、保護者として存在しているのだから。
「一年間ほったらかしにしてたとは言え、最初の一年は生活の面倒を見た実績がある……! 実際に寝床や食事を握ってる叔父と名義だけ貸そうとしている村長じゃ、どうにもならない! 認められる訳がない!」
「じゃあ……村長が実際に生活の面倒を見ればいいじゃないか!! そうすれば、名実共に村長が保護者になれるんだろ!?」
「そんな簡単にはいかないよ!! 沙都子は育ち盛りの女の子なんだよ!? 猫の子預けるのとは訳が違う!!」
 圭一につられて、魅音も声を荒げる。圭一は更に言った。
「じゃあ監督!! 監督はどうだよ!? よく知らないけど……裕福なんだろ!?」
「だから!! 沙都子をペットみたいに考えないでって!!
 さっきから誰かに押し付ける話ばっかり! 人間一人の生活の面倒を見る責任ってものを、もっと慎重に考えて!
 それに監督だって……駄目なんだよ。保護者は独身じゃなれない!」
「なんなんだよ畜生畜生! 俺は必死に沙都子を救おうと考えてるのに、駄目だ駄目だってそればっかり!! お前ら本当は沙都子の事なんてどうでもいいんだろ!! 本気で心配してないんだろ!」
「そんな……! そんなつもり……無いよ!! でもそう簡単にいかないっていうか……」
「そんな難しい話じゃねえだろ!! 裕福な奴が沙都子をしばらく面倒見てくれればいいって話だぞ!」
 そして、圭一は言った。
「そうだ……お前ん家、御三家とか言う立派な家柄なんだろ!? もの凄いでかい家に住んでんだろ!?」
 圭一の言い出した事に、魅音は拍子を抜かす。
「う……家!? 無理無理! そんなの……婆っちゃが許してくれるはず……ない!!」
 では興宮の両親の所はどうかと、圭一はなおも食って掛かる。怒りの形相の圭一に、沙穂は言葉を挟む事など出来ない。
 魅音は、拒否した。
「おいおいおい! 普段は大物ぶりを自慢しといて、ここで一番及び腰かよ! 沙都子を見殺しにするのかよ!!」
「そんな事ないよ……! でも、それとこれとじゃ話が……」
「話が違うってのかよ! 冷てえ奴! 仲間の危機だろ!? 救えよ!! 部長だろ!? 部活の! お前の人間性が問われてるんだよ! 聞いてんのかよ! 魅音!
 どうなんだよ、言ってみろ!! 園崎魅音!!」
 沙穂は立ち上がり、圭一と魅音の間に割って入った。手を広げ、無言で圭一を睨み上げる。
「……魅ぃ?」
 梨花が呟く。背後から、すすり泣く声がした。
「……圭一君、魅ぃちゃんが駄目なら、他の裕福な家を探したら?」
 レナが静かに切り出す。異様なほどに、静かな声。
「私、雛見沢に立派な豪邸建てて住んでる人、知ってるよ」
「だ……誰だよ」
「白々しいよ。あれだけ立派な家に住んでて、自分の家だけは蚊帳の外?」
「お……俺ん家かよ……。俺の家は……」
 言いよどむ圭一に、レナは畳み掛ける。
「仲間なんでしょ。救ってよ、圭一君が。魅ぃちゃんは駄目だってさ。冷たいから。じゃあ仲間想いの圭一君がお手本示さなきゃね。大きな家だから、お部屋余ってるよね。沙都子ちゃんに分けてあげればいいじゃない。それでめでたく悩み解決! あら何? もう終わり!? あっけない話だったね!? じゃあ今日はもういいかな? 久しぶりに宝探しでも行こうかな!! 黙ってんじゃないわよ聞いてんの前原圭一!!」
 叫び、レナは再び黙り込む。レナが椅子に座りなおす音が、静かな教室にやけに大きく響いた。
 何も出来ない。沙穂達は。
 叔父が戻って来た。沙都子が虐待されている。気付いていても、いなくても、出来る事なんて何も無かった。

 帰宅した沙穂は、本宅へと歩を進めた。本宅で過ごすのは、食事と風呂ぐらい。いつもは、帰ってから直ぐに本宅へ向かう事なんて決して無い。
 本宅からは、祖父母の話す声がする。声の殆どは、祖母のもの。今日あった事、近所の噂好きな老人達と話した事、祖母は矢継ぎ早に祖父に話しかける。
 土間の所で、沙穂は二の足を踏んでいた。居間との間にある障子戸。この向こうに、祖父母はいる。
 ――沙都子を、うちで預かれない?
 たった一言。ただ一言、そう尋ねればいい。魅音も、圭一も、沙都子を預かれないと言うならば。この家に住んでいるのは、沙穂と祖父母だけ。部屋数は少なくても、沙穂の離れは十分二人でも過ごせる広さだ。ただし、一緒に住むとなれば祖父母の了承が必要不可欠。
 何を躊躇っている。こうしている間にも、沙都子は叔父に苛められているかも知れない。殴られているかも知れない。彼女の現状に比べれば、沙穂と祖父母の不仲なんて些細な事。
 キッと沙穂は障子戸を見据える。ローファーを脱ぎ障子戸前の縁側のような部分に膝をついて上がる。そして、引き戸に手を掛けた。
「――あの子の母親とは、まだ連絡がつかんのかい?」
 聞こえて来た会話に、沙穂は手を止めた。障子戸に手をかけたまま、それを開く事が出来ない。
「いっつも、電話をしても留守でねぇ……一体何処をほっつき歩いているのやら。さっさと沙穂を迎えに来てくれないかねぇ」
 沙穂は土間に飛び降りると、ローファーを足に突っかけ、踵を踏んだ状態で走り出していた。本宅を飛び出し、真っ直ぐに離れへと向かう。
 離れへと駆け込み、ばたんと強く扉を閉める。そしてそのまま、その場に崩れ落ちた。
 少し考えれば、分かる事だった。
 この家で、沙穂は厄介者。余所者の沙穂を、不幸ばかり呼び込む沙穂を、祖父母は疎んでいる。その祖父母が、沙穂の願いなんて聞き入れてくれるはずも無い。ましてや沙穂は、北条家の娘。あの祖父母が迎え入れるとは到底思えなかった。
 頬を伝った涙は、ぽたりと床に落ちた。
 何も出来ない。沙都子が苦しんでいるのに、沙穂は助けてやる事が出来ない。
 沙穂はなんて、無力なんだろう。


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2011/07/27