まるで童話の世界に迷い込んだかのような、メルヘンチックな空間だった。白い壁には、黄色い鎖のような輪飾り。赤いチェック模様に縁取られた窓からは、底抜けに青い空が垣間見える。床には赤い絨毯が敷かれ、壁際にはお誕生日プレゼントのような箱の山。目の前には紫色のテーブルクロスのかかった長いテーブルがあり、白い陶器のティーカップやポットが並んでいる。そのテーブルの中央に、ホバリングするようにして佇む小さな姿。さやかや杏子に比べればずっと人型に近く、けれどもそのシルエットは決して人間ではない。
「マミ……ちゃん……?」
 囁いたかりんの声は、掠れていた。
 ポットと変わらぬほど小さな魔女はリボンを放ち、かりんを傍の椅子に縛り付ける。かりんは抵抗する事も無く、成すがままだった。
 鋭く尖ったリボンの切れ端が、矢のようにかりんを襲う。あえて痛覚を遮断せずとも、かりんはもう、何も感じなかった。空っぽの身体に与えられる物理的な痛みなど、じくじくと蝕まれるような胸の痛みに比べれば無いも同然だった。
 家族に見捨てられ、絶望しあきらめていたかりんを、救ってくれた女の子。家族を失い、打ちひしがれたかりんの視界が再び色づいたのは、マミのおかげだった。
 優しい笑顔の裏に孤独に涙する姿があると知って、彼女のそばにいようと決めた。ソウルジェムの秘密を知って、マミをその絶望から守ろうと決めた。
 この結末は、最も避けたいものだったのに。
 かりんの身体と共に拘束していたリボンも切り裂かれ、かりんは椅子から崩れ落ちる。魔女の攻撃がリボンを基本とするならば、かりんの鎌でいとも容易く斬れるだろう。だが、かりんに戦う気力は沸かなかった。マミとなんて、戦えるはずが無い。
 小さなリボンの切れ端が、けれども確かな威力を持って、じわりじわりとかりんの身体を刻んでいく。
 かりんが死ぬまで、あとどれくらい掛かるのだろう。
 マミは魔女になってしまった。もう、かりんが生きる意味なんて無い。
 この結界で、死ぬまでマミと二人でいられるならば、それもまた良いかもしれない。
 そっと瞳を開ける。お茶会の支度がされたテーブル。潤んだ視界が、マミの姿を捉える。魔女はもう、元の姿に戻る事などない。それは、かりんが一番よく知っている事。
「ごめんね、マミちゃん……ごめん……」
 かりんは彼女を置いて行きはしない。彼女がこの結界に住まうならば、かりんもここで朽ち果てよう。
 再びリボンが伸び、かりんを締め付けた。かりんの身体は宙に浮き、きつく締め上げられる。首に掛かったリボンは、呼吸を困難にした。
「ぐ……うぅ……」
 妙な話だ。この身体は空っぽの媒体でしかないはずなのに、止まっている心臓が酸素を求めるだなんて。
 不意に目の前で爆発が起き、かりんはリボンから解放された。どさりと地面に落ちたかりんに背を向けて佇むのは、長い黒髪の魔法少女。
「暁美さん……」
「何を手間取っているの。あれは、魔女よ」
 かりんは言葉を詰まらせる。
 制止する間もなく、ほむらは魔女へと駆けて行く。かりんはただ、呆然とそれを見ているしかできなかった。
 放たれる銃弾を、ふわりふわりと魔女はかわす。使い魔の弓矢がほむらの接近を拒んだ。テーブルの陰からも使い魔が現れ、槍を振り回す。切り裂かれたのは空気のみで、ほむらは既に数メートル先へと移動していた。
 不意に魔女が青白く光り、姿をかき消した。ほむらは歯噛みし、傍で剣を振りかざしていた使い魔へと銃を放つ。
 使い魔もまた、人型に近かった。弓矢を構える桃色の使い魔は、魔女の傍に寄り添う。槍を構える赤色の使い魔は、赤いリボンで拘束されている。剣を構える青色の使い魔は、単身特攻が多く魔女にも上手く操れていないようだった。
 それぞれが何を象徴しているのか、思い当たるのは容易な事だった。
 逃げないように縛られている赤色は杏子、剣を扱うのはさやか、契約させられず終いだが弓を扱うのはまどかだろう。彼女がノートに描いていた自身の魔法少女姿に、似ていなくもない。
 ――私は……?
 広間のような結界内をぐるりと見渡す。あるのは可愛らしい装飾と、赤、青、桃色の使い魔ばかり。紺色も、鎌を持つ姿も、どこにもなかった。
 まどかやさやかや杏子、マミと親しかった者達――マミが友達だと思っていた者達が使い魔のモチーフとなる中、かりんだけ。
「私は、何だったの……?」
 全てを否定されたかのようだった。かりんはもう、親友ではないと。友達でさえないと。
 キュゥべえがそうであったように、マミはもうかりんを友達だとは思っていない。騙されたとしか思っていない。
 マミのため。ただそれだけのために、他の魔法少女を絶望に誘って。目的は果たせず、マミの信頼さえも失ってしまった。
 桃色の使い魔が、大きなガスバーナーをほむらに向ける。しかし、ほむらが火炎に包まれる事はなく、次の瞬間使い魔は爆発していた。
 消え行く使い魔から指輪が飛び出し、魔女へと姿を変えた。使い魔のアクセサリーとして隠れていたらしい。
 ふらりとよろめくマミに、銃口が突きつけられる。響き渡る、短い銃声。
 至近距離で撃たれた銃弾は、確実にマミを貫いた。
 メルヘンチックな空間は崩れ去り、部屋の扉が並ぶ廊下にかりんは座り込んでいた。ほむらは拾い上げたグリーフシードをじっと見つめる。
 手すりの向こうに広がるのは、見渡す限りの夜の町並み。暗く静まり返った現実が、一気に押し寄せる。
「嘘……嘘だよね……? こんなの、悪い夢なんだよね……?」
 きっともう直ぐ目が覚めて、マミと一緒に学校へ行くのだ。見滝原中学校へ。道中、夢の話をしたら、きっとマミは笑うだろう。ただの夢だと。かりんを恨むなんて、そんな事あるはずがないと。
「巴マミは魔女となり、死に絶えた。全部、現実の事よ」
 ほむらが静かに、残酷な事実を告げる。
 静寂。この世界にもう、マミはいない。彼女は死んでしまった。最後までかりんを、恨みながら。
「どうして……? どうして、私を助けたりしたの……? いっそあの場で死んでしまえば、マミちゃんと最後まで一緒にいられたのに……。もう、私が生きる意味なんて無いのに……」
 ほむらは、憐れむような目でかりんを見下ろしていた。
「生きる意味なら、あるわ」
 かりんは、生気の無い瞳でほむらを見上げる。
「ワルプルギスの夜が、この町に来る。本当は佐倉杏子と二人で倒す予定だったけれど……この町にはもう、私とあなたしか魔法少女がいない」
「ああ……なるほどね……。それであなた達、一緒にいたわけだ……」
 沈みきった声で、かりんは呟く。ほむらは構わず、続けた。
「あれがこの町で具現化すれば、大勢の犠牲が出る。他にもう生きる意味が無いと言うならば、その命をこの町を守る事に使ってみない?」
「……手を組むって? 私はあなたに、あんな酷い事をしたのに? たった一人の親友にも見放されたこの私を、信用できるって言うの? そうまでして、その魔女を倒したいわけ?」
「ええ。……もちろん、あなたが良ければだけど」
 そう付け足した彼女は、どこか諦めたような瞳をしていた。
 くいっと片足でターンし、その長い髪を払う。
「考えてみて」
 そう言い残して、ほむらは去って行った。





『かりんさんだって、同じ魔法少女なのに……。皆が絶望するのを見て、何とも思わなかったの? 私、マミさんやかりんさんに憧れていたんです。かりんさんの事、素敵な先輩だって思ってたのに……! さやかちゃんや杏子ちゃんを裏切った事、私、絶対に許しません』
 喜び勇んで杏子を狩ったかりん。それをまどかに見られて、全ては崩壊した。
 殺風景な自宅。古びた床板がぎしぎしと鳴る。前の住人による煙草の焼け跡がのこる畳に、かりんは膝を抱え座っていた。
「マミちゃん……」
 ぽつりと呟く。今夜一度に起こった出来事が脳裏を蘇り、かりんは組んだ腕に顔をうずめた。嗚咽が漏れる。
 何度これを、繰り返しただろう。巴マミの最期を思い出しては涙をこぼし、泣き果ててはぼんやりと暗闇を見つめて。何をする気力もなく、いくばくかしてはまた悲しみがこみ上げる。
「だから言ったじゃないか、遅かれ早かれ結末は同じだって」
 顔を上げると、正面の卓袱台の上にちょこんと小動物が座っていた。その白い身体は、暗闇の中でよく映える。
 かりんは何も答えず、ぼんやりと彼を見つめていた。
「やれやれ……君にだって、こうなる事は十分に予測し得たはずなんだけどね。巴マミが君のやり方に納得しないだろう事は、君も了承済みだったはずだ。真実を知ったとき巴マミがどんな反応を示すか、まさか考えもしなかったわけじゃないだろう?」
 マミは、かりんの所業を良しとしないだろう。もちろん、それは解っていた。幻滅するかも知れない。それも、想定していた。
 けれども全ては想像の範疇で、実際にその状況に直面する覚悟はできていなかったのかもしれない。ましてや、それを理由にマミが魔女となってしまうなんて。
 マミを魔女にしたのは、かりんだと言っても過言ではない。
「う……」
 かりんはまた、腕に顔をうずめる。
 胸中を占めるのは、後悔と自責の念。かりんは間違っていたのだろうか? だが、かりんの行動がなければ、魔女になる前の使い魔を狩る事でいずれこの町の魔女は枯渇し、最良の状態を保てなくなったマミは死んでしまったかもしれない。あるいは、ソウルジェムが穢れを溜め込み過ぎ魔女になるか。それを避けるために、かりんは魔法少女を魔女にしていたのだから。
 しかし、結果としてそれは叶わなかった。マミは魔女となり、死んでしまった。かりんを恨み絶望しながら。
『こんなに犠牲を出すくらいなら、あの事故で死ぬべきだったんだわ……』
 そうなのかもしれない。
 いっそ、あの事故で死んでいれば。そうすれば、家族の死を知る事もなかった。マミをこんな目に遭わせる事もなかった。
 けれどもマミに会う事もなかっただろう。
 マミとの日々があったがために苦しいのに、それらがなかったかもしれないと思うと酷く口惜しかった。そして楽しかった日々を思うと、もうそれを手にする事はできないのだと、マミは死んでしまったのだと再認識し、涙がこぼれた。
 零れ落ちる雫が枯れ果てる事はなく、制服の袖を濡らし続けた。

 夕暮れの土手に、人気は無い。座り込むかりんの影に、背後から伸びる長い影が重なった。
「……まどかに聞かれたわ。あなたの行方を、知らないかって」
「言っちゃった?」
 かりんは振り返らぬまま、問いを返す。
「いいえ。あの連絡で、あなたの回答は想像できたから」
「そう。良かった。あの子を巻き込む必要なんてないもんね」
 かりんは少し微笑う。しかし、その瞳に生気は無い。
 立ち上がり、振り返る。一人佇む暁美ほむらに、かりんは鞄から取り出したものを投げ渡した。
 それは、手の平大の巾着袋だった。中には、何個ものグリーフシード。
「あげるよ。ワルプルギスの夜と戦うなら、蓄えが要るでしょう? ……私にはもう、必要ないから」
 かりんのソウルジェムは、一気に穢れが侵攻していた。取り返しのつかない状態かどうかなどどうでも良いし、グリーフシードをあてがって試す気もなかった。
「私ね……マミちゃんを裏切ってるつもりなんて無かったの。全部、マミちゃんのためだったから。マミちゃんさえ無事なら、それで良かった。全部を救うなんてできないって解っていたから、何よりもマミちゃんを優先していた。ただ、それだけ」
「……知ってるわ」
 ほむらは僅かに俯く。その表情が少し翳ったように見えた。
「あなたはまどかを魔女にしようとしていたから決して認めるわけにはいかなかったけれど、私はあなたを責める気なんてない。責める資格なんてない……私も、同じだから」
「そう。あなたも大切な人がいるのね。
 ……マミちゃんはね、本当に大切だったの。全てを失った私の、唯一の希望だった」
「……」
「だからね……マミちゃんを失ったこの世界を、この町を守る理由なんて、私にはないの」
「……それが、あなたの答えなのね」
 悲しげな声だった。彼女が感情を示すのをかりんが見たのは、これで二度目だ。一度は、かりんを撃ち、それをまどかに責められた時。
 かりんはふいと背を向け、川の方へと少し歩を進める。
「本当にごめんね、色々と。謝って済むとは思っていないけれど……。まどかちゃんにも謝らなきゃ。私、あの子を殺そうと思って騙してたんだもんね。さやかちゃんも、杏子ちゃんも……今まで魔女にしちゃった魔法少女、彼女達を大切にしていた人達、みーんな」
 全てはマミのためだった。
 けれどももう、彼女はいない。
「絶望させたくないって、魔法少女になったはずなのに……結局私が、マミちゃんを絶望させちゃった。バカだよね私……ほんと大バカ……」
 夕暮れに染まる空を振り仰ぐも、涙は止まらない。
 流れ落ちる涙を拭く事もせず、かりんはほむらを振り返る。
「ねえ。言った通り、武器持って来た? 一発でドカンと終われる奴」
 ほむらは、無言で頷く。
 くしゃりと、かりんは微笑った。差し出した両手の平に乗ったソウルジェムは、黒い。
「私のグリーフシード……有効に使ってね」
 濁りきったソウルジェムが、砕け散った。


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2012/11/24