翌朝、学校へと駆けて行った沙穂らは下駄箱を見て表情を輝かせた。
沙都子の靴がある。
「沙都子!!」
叫び、真っ先に圭一が教室へと飛び込む。後に続くレナ、魅音、沙穂。明るい笑顔が、それを迎えてくれた。
「朝から騒々しいですわよ、圭一さん。少しはお静かになさいませー!」
知恵に話し、児童相談所へ通報したはずだ。沙都子が学校に来ていると言う事は、北条鉄平は――
どうなったかと言う圭一の問いを、沙都子は笑い飛ばした。
「どうもこうもしませんわ! ほっほっほ! 風邪が治ったから来ただけの事でしてよ?」
沙都子の返答に、その場の空気が凍る。膨らんでいた期待は、みるみると萎んでいった。それでは、この子は、まさか。
悪い予感は当たった。沙都子を助けに来た保護司を、沙都子は誤解だと言って、それとも言わされて、追い返してしまっていた。
「――沙……」
食いかかろうとする圭一を、梨花が廊下へと引っ張って行った。
しんと室内は静まり返る。ややあって、魅音が口を開いた。
「沙都子。私達に出来る事があったら、何でも言ってくれていいんだからね。私達は、あんたの味方なんだから」
「あらあら、変な魅音さん。何を言ってますの?」
沙都子は無理に笑ってみせる。まるで、本当に何事も無いかのように。
辛いだろうに。苦しいだろうに。
「……あのさ!」
ぎゅ、と拳を握り、沙穂は声を張り上げた。
「――うちに、来ないか?」
沙都子も、レナも魅音も、目を瞬く。
戸惑うように言ったのは、魅音だった。
「え……でも……沙穂のおじいさんおばあさんって……」
「あの人達の手なんて借りない。私は、離れで暮らしているから。そこで、一緒に住むんだ。食事だって、私が一人前で済ませさえすれば、沙都子の分も確保できる。今、一部改築してみているんだ。沙都子にさえ、その気があれば……」
「改築ォ? 沙穂がやってんの?」
魅音は目をパチクリさせる。
「あ、ああ。昨日、お遣いのついでに木材を買って来て……」
「凄い! 沙穂ちゃん、大工さんみたいだね。私達も、何か手伝える事ある?」
「ありがとうございます、沙穂さん」
「じゃあ――」
「でも、私はあの家を離れる気はございませんわ。やらなきゃいけない事が、たくさんありますの。にーにーの部屋の掃除とか……私がいませんと……」
そう言って、沙都子は笑う。
沙穂は言葉を失い、ただ彼女を見つめるばかりだった。あの家には、悟史の部屋がある。沙都子はそれを、叔父に明け渡す事は出来ないのだろう。あの家に居座り、守り通す気でいる。どんなにぼろぼろになっても、たった一人で。
沙穂に出来る事は、本当に何も無いのだろうか……。
No.12
「さあて! お昼でございますわねえ!」
「みー!」
「あははは! 六人揃ってのお昼は久しぶりだね!」
授業終了のベルが鳴り響き、沙穂達は机を寄せ合わせる。
六人そろっての昼食。沙都子がいなかったのはたった五日間なのに、とてつもなく久しぶりのように感じる。
「ホラホラ、圭ちゃんも! 机さっさと寄せて〜!」
「ぐずぐずしていると、弁当全部食べてしまうぞ」
「あ、ああ……」
「沙穂が言うと、冗談に聞こえないのですよ」
圭一はどうしても割り切れないのか、浮かない表情だ。
沙穂達とて、沙都子が心配でないわけではない。けれども、沙都子自身が叔父の虐待には触れまいとしているのだ。ならばせめて、学校では存分に楽しませてやりたい。叔父の事など、忘れるくらいに。せっかく、学校へ出て来られたのだから。
せめて、部活が救いになれば。
沙穂にとって、そこが唯一の居場所であるのと同じように。
沙穂は、一段目の日の丸弁当を一気に掻き込む。一同の間に、戦慄が走る。
「はうっ!? 今日の沙穂ちゃん、速過ぎだよー」
「おおっ。やる気だねぇ」
「早く食べないと、ボク達の分が無くなってしまうのですよ」
「私だって、負けませんわよー! 圭一さんのからあげ、いただきですわっ!」
沙都子が、圭一の弁当箱に箸を伸ばす。
「隙だらけでしてよ!」
口に放り込んだから揚げを飲み込み、沙都子は高笑いする。
良かった。無理をしているのではと危ぶんでいたが、思っていたよりも元気そうだ。沙都子の様子に、圭一も普段の調子を取り戻してきたようだった。
時間はかかるかも知れない。それでも、根気良く通報を続けていれば、例え本人達が否定しようとも児童相談所も不審に思うはずだ。きちんと調査が入って、沙都子が叔父の手中から救われれば。もしくは、叔父が正しい指導を受け虐待を控えるようになれば。
それまではこうして、いつもと同じように皆で笑い合って――
バシンッ。
強い音が響き、しんと沙穂達は静まり返る。沙都子を撫でようとした圭一の手は払われ、そのあまりの強さに紅くなっていた。
「……沙都子……ちゃん……?」
「ど……どうしたの……?」
――嫌だ。
いつもと同じように――同じように過ごせると、そう思ったのに。
沙都子は必死に、頭を掻き毟る。
「……沙都子……? どうした……? お、お前……頭撫でられるの、嫌いだったっけ……?」
そっと、圭一は沙都子の頭に手を伸ばした。
悲鳴が迸る。圭一は強く突き飛ばされ、椅子から転げ落ちた。教室の至る箇所から、悲鳴が上がる。
「う……」
沙都子はよろめき、膝を突いたかと思うと、嘔吐し出した。
沙穂達も席を立つ。圭一が一番に近付いたが、再び悲鳴と共に突き飛ばされた。そのまま沙都子は手近にある弁当箱やら布巾やらを掴み、投げつけ出す。
「ちょ……やめなよ、沙都子……どうしたの……!」
魅音が声をかけるも沙都子は何も答えず、ただ拒絶し沙穂達へと物を投げつける。沙穂は梨花を庇いながらも、沙都子を見つめる。
悲鳴を上げ、周りを全て敵として拒絶する姿。北条家は祟られているだなどと言われて。両親は死に、本来なら世話をしてくれるはずの叔父叔母には厳しく当たられて。唯一、いつでも守ってくれた兄も、「転校」してしまった。
オヤシロさまなんて、馬鹿馬鹿しい。どうして、放っておいてくれないのだろう。
――どうして、私達がこんな目に。
沙都子は我に返ったように静まり、震える声で呟いた。
「あ……ご……ごめ……なさい……」
「い、いや……そっちこそ、大丈夫か……?」
「ご、ご……ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」
頭を抱え、沙都子は今度は怯えたように涙し謝り出す。圭一が声をかけても、分かっていないのか沙都子はカーテンにしがみ付き怯えていた。
どんなに圭一が叫ぼうとも、彼の声は届かない。
「にーにー……! にーにー……! 助けて!! 助けてよおおお。やだやだやだ……もうやだ……うあああああ……うぅ……に……にーにー……」
「ごめん圭一君、ちょっと下がってて」
圭一を乱暴に押しのけ、レナが沙都子へと歩み寄る。レナが優しく声をかけるも、沙都子は怯えるばかり。
「どう……なってんだよ……」
圭一が、震える声で怒鳴る。
「昨日で全部終わったんじゃなかったのかよ……! 今日から……元の生活に……戻っていくんじゃ……なかったのかよ……? なあ……魅音……!!」
その問いに、魅音が答えられよう筈もない。彼女は声を押し殺し、泣いていた。沙穂の腕の中にいる梨花も、俯き震えている。
沙穂はただ呆然と、沙都子を見つめる。見開いた瞳から、ぽろりと一滴、雫がこぼれ落ちた。頬を伝い、床へと滴り落ちる。
大きな音を響かせ、ロッカーの上にあった遊具の入った箱が落ちる。レナが落としたのだ。
「レナ……どうした……」
「ゴメン圭一君……ちょっと黙ってて……」
「……今のは何だよ……どうしたんだよ! 沙都子から何か聞いたのか!? 何を聞いたんだよ!?」
「うっさいなあ!! 黙ってろって言ってんでしょ!?」
レナの迫力に気圧されて、圭一は口を噤む。
レナは震える沙都子を抱きしめ、彼女もまた涙を流していた。
「許して……何も出来なかった私達を、許して……」
せめて学校でだけでも、楽しく過ごせたら。
そんなもの、幻想でしかなかった。笑って迎え入れるなんて、その場しのぎ。何の解決にもなっていない。
唯一の居場所。温かな仲間達。「家」での闇から顔を背けても、それは徐々に沙穂達を蝕み、大切な居場所までもを侵食し崩壊させてしまう。
何も出来なかった。どんなに足掻こうとも沙穂達は所詮無力な子供で、仲間一人さえ救う事も出来ない。
扉が勢い良く開かれ、知恵が教室に駆けつける。沙都子はカーテンで涙を拭き、そして、パッと笑顔で顔を上げた。
「ちょっと……レナさんと喧嘩になってしまっただけですのよ! お弁当を巡ってちょっぴり大暴れなんですの……ねえ?」
同意を求める沙都子の言葉に誰も答えられず、教室はしんと静まり返っていた。
「をっほっほ……ちょっと悪ふざけしただけ……なんですのよ! 皆さん、度肝を抜かれ過ぎですわね。をほほほ……」
崩れた机の並びと、散らばった弁当箱。床には弁当のおかずと共に、吐瀉物。喧嘩でない事など、知恵も重々承知だろう。沙都子が今、どんな目にあっているのか、それを彼女は知っている。圭一と魅音が訴えたのだから、知っているはず。
「……北条さん、竜宮さん、職員室へ来てください……園崎さん、教室の片付けを任せていいですか?」
「はい……」
「をほほ……大目玉ですわね……」
沙都子はやはり笑って、教室を出て行く。沙穂達はただ、その後姿を見守るしか出来なかった。
「あ……じゃあ、皆、片付けを……」
若干放心状態でありながらも、魅音は年下のクラスメイト達に指示を出して行く。クラス総出で、教室の片付けが始まった。沙穂も、トイレからロール紙を大量に持って来て吐瀉物を片付ける。
弁当を拾い集め、つゆを雑巾でふき取って。机を直し、荒れた教室は元の様相を取り戻して行く。レナも途中で戻って来て、片付けに加わった。
「沙都子ちゃん……どうして、あんな……」
そう呟いたのは、誰だったか。大掃除の中、クラスの一人がぽつりと言った。
ゴミ袋を広げていた魅音の手が、ぴたりと止まる。
「こうなる前に、助けてやらなきゃいけなかったんだ……」
そう言った魅音の声は、震えていた。
「レナの言うとおりだよ。それなのに、私達は何も出来なかった……私達が……無力だから……!!」
ふらりと、圭一の身体が傾いた。そのまま、彼はその場に横転する。
「圭一……!?」
沙穂達は慌てて、圭一の傍らへと駆け寄る。
魅音が容態を確認し、仰向けにさせる。意識はあるらしい。圭一は、青い顔でうなされていた。
「誰か! 先生に連絡! 圭ちゃん……!」
「圭一君! しっかりして……」
魅音とレナが圭一の名を呼ぶ。突然、どうしたと言うのか。沙都子に続き、圭一まで。
――圭一……。
ぼんやりと、圭一は目を覚ました。教室を出て行きかけていた子が、戸惑うように足を止める。
「け……圭ちゃん、大丈夫!? うなされてた……みたいだけど……」
「頭とか、打ってない?」
心配する魅音とレナに返された言葉は、辛らつなものだった。
「うるさい。黄色い声で騒ぐな」
低く紡がれた言葉。びくりと、沙穂は肩を震わす。どくんと鼓動が鳴った。まるで、知らない人のよう。レナと魅音さえも、いつもと違う圭一の様子に怯えていた。
「……圭一君……? 前原圭一君……だよね……?」
そう問うたレナも、沙穂と同じ不安を抱いたのかも知れない。
圭一は冷たい瞳で沙穂達を一瞥し、ふいと顔を背けた。
終業のベルが鳴り響く。
久しぶりの六人勢揃い。沙都子を部活に誘ってみたが、案の定彼女は「家事があるから」と帰ってしまった。
「ごめん、魅音……私達も、明日の綿流しの準備が……」
「ああ、そうか。じゃあ今日は、皆で手伝いに行くかね」
魅音は、無理に明るく言う。そして、荷物をまとめ帰ろうとしている圭一に声をかけた。
「……圭ちゃん! 私ら帰りに綿流しの準備を手伝いに行くんだけど、一緒に行かない?」
「――いや……先に帰らせてもらう」
素っ気無く言って、彼は振り返りもせずに教室を出て行った。
「……圭一……突然、どうしたんだろうな……」
沙穂の呟きに答える者は、誰もいなかった。
祭りが明日ともなれば、準備はほとんど整っている。境内の奥にはやぐらが組まれ、頭上にはぼんぼりが連なっている。屋台がちらほらと、明日に向けて準備をしていた。
「おお、今日は皆でお手伝いかい? 感心だねぇ」
「梨花ちゃま、公由さんが読んどったよ。明日の演舞の最終調整をするそうじゃ」
「ハイなのです」
梨花はにこにこと返事をして、本殿の方へと向かう。
沙穂達は、机の出し入れや旗の設置を手伝う。忙しなく働きながらも、心の内では沙都子が気がかりでならなかった。こうしている間も、沙都子は北条鉄平に虐められている。家事を強いられ、殴られ、罵倒され。誰も味方のいない家で、
一人、悟史の帰りを待ちながら。
「おっ。梨花ちゃん、奉納演舞の練習は終わり?」
魅音の視線の先を追って、沙穂も振り返る。そして、身を堅くした。
こちらへ駆けて来る梨花。その向こうから、同じくこちらへ歩いて来ている姿があった。
「梨花ちゃま、ちょっと」
「あれっ。沙穂のおばあさんじゃん」
「こんにちは」
「はい、こんにちは。梨花ちゃまのお口に合うか分からないけど、良かったらこれ」
祖母は、ビニル袋を梨花に差し出す。中に入っていたのは、パック詰めにされたおはぎだった。
「最近、北条さんの所が帰って来て、梨花ちゃん一人なんじゃないかって話を聞いたから。お魎さん直伝だからね、味には自信があるよ」
「ありがとうなのです」
梨花はビニル袋を受け取り、にこにこと答える。
沙穂は少し恨めしげに、それを眺めていた。家では、めったに作らないのに。
一人暮らしとなった梨花を心配してなのだと言う事は、解るのだけれども。
『あの子の母親とは、まだ連絡がつかんのかい?』
『さっさと沙穂を迎えに来てくれないかねぇ』
先日、耳に挟んでしまった会話が、思い返される。
「一人で寂しくないかい? 何だったら、今夜またうちに来るかい?」
「ありがとうなのです。でも、大丈夫なのですよ。今日のお夕飯も、もう準備ができているのです」
「そうかい。それは残念だねぇ……」
「また今度、よろしくお願いしますなのですよ」
そう話す梨花は、少し寂しげだった。梨花だけでなく、魅音もレナも思った事だろう。沙都子の事を知っても、村の老人が気にするのは梨花ばかり。
梨花を手助けしようとするならば、沙都子を救ってやってくれ。
けれども北条家の娘である沙都子を、彼女達が受け入れはしないだろう。北条家は、過去のダム抗争における裏切り者であるから。オヤシロさまに祟られた家であるから。
「沙穂のおばあさんのおはぎ、皆で食べましょうなのです」
パックに詰められたおはぎは、二列三行、合計六つ。沙穂達が順々に取り、最後に二つが残る。
いつもならば、この場に沙都子と圭一もいたのに。
陽が暮れてきて、沙穂達は解散した。祖父母は祖父母で、公由初め村の老人達と話をしていた。レナ、そして魅音と別れ、沙穂は一人、自宅へと帰る。
沙都子も心配だが、圭一も気がかりだ。明日の綿流しの祭りに、彼は来るだろうか。冷たく沙穂らを突き放した圭一。
『……放っといてくれないか』
どうか、今度は「転校」しないでくれ。
本宅へは寄らず、直接離れへ。ランドセルを机に置き、沙穂は部屋の奥に目を留めた。
本来の壁より手前に、目くらましとして新しく設けようとしていた壁。明日は、祖父母が出払っている内に壁に穴を開け扉をつけようと考えていた。
――こんな物造ったところで、沙都子は助けられやしない。
「……うあああああああ!!」
床に置いたままの電動鋸を手に取ると、沙穂は力いっぱい板へと殴りつけた。叫び声を上げ、何度も何度も、板を叩く。小遣いで買った薄い板は割れ、崩れ落ちる。
何も出来ない。沙都子を助ける事など出来ない。
怒りと悲しみがこみ上げて来る。崩れ散乱した壁の前で、沙穂はぺたりと座り込んだ。溢れた涙は、止め処なく流れ続けていた。
Back
Next
「
Why they cry…
」
目次へ
2012/06/19