火事場の馬鹿力と言うものがある。人は危険に対面した時、本能的に常識では考えられない力を発揮する。
「――と言う訳で、恐怖は? 私が追いついたら、叩き潰す」
「ヒィッ!」
弥生達は、市民プールに来ていた。リボーンから雲雀経由で呼び出されたのだ。他のメンバーは、綱吉、獄寺、山本、ハルと言ったお馴染みの面々。泳げない綱吉のために、水泳授業の前に練習しようと言う事だった。
とんでもない発案をする弥生に、獄寺が食い掛かる。
「おい、暴力女! てめぇ、十代目になんて事を……!」
「そう。君は、そんなに沢田が追いつかれるに決まってると思うんだ」
「んなっ。そんな訳あるか!
十代目! 十代目なら出来ます! 頑張って逃げ切ってください!」
「えぇーっ!? 無理だよ、そんなの!!」
「行くよ」
逃げ腰の綱吉に構わず、弥生は上着を脱ぎ鉄パイプを手にプールに飛び込む。
そのまま潜り込み……姿を表さない。
「……あれ?」
その場の誰もが、きょとんとする。
ばしゃっと激しい水音を立て、漸く弥生が姿を現した。場所は飛び込んだそのままの位置、ごほごほと咳き込んでいる。
「あれ……若しかして、弥生ちゃんも……?」
「泳げないのな」
ハルの言葉の後を、山本が継いだ。
「何だよ、テメーも泳げないんじゃねぇか」
「五月蝿い。叩くよ」
言うが早いか、弥生は獄寺に殴りかかっていた。しかし獄寺はひょいと交わし、服を着ているにも構わず水中へと逃げる。
「へっ。来られるもんなら来てみやがれ」
ムカムカと頭に血が上るのが分かった。追い駆けるものの、水中歩行は抵抗が強く到底追いつけそうにない。
「こ、こんな所でまでやめなよ二人共……!」
「そうですよ! 弥生ちゃんも、泳げないなら一緒に練習しましょう」
「スキーとか水泳とか、普段の生活と環境の変わるスポーツだと苦手なのなー」
弥生はム、と口を真一文字に結ぶ。
一定の距離を保って、すいすいと泳いで行く獄寺。弥生はじっと彼を睨めつける。
――背筋を伸ばして……水を、蹴ってる……のかな……。
大きく息を吸い、顔を水面につける。強く、床を蹴った。けのびの要領で、何とか綱吉と同じ程度には進む。
一度「泳ぎ」の形になると、後は早かった。直ぐにからかわれているだけの鬼ごっこは終わり、水飛沫を上げながらの戦闘にシフトチェンジする。
「え……弥生ちゃん、上達早い……。あんなに早く泳げるようになんてならないよ……」
「情けない事言ってんじゃねーぞ。お前に足りない物を教えてやるぞ」
再び弱音を吐いた綱吉に、声が掛かる。
「じしんだ」
リボーンの台詞と共に、電流が走る。綱吉の悲鳴が上がる。
弥生と獄寺の喧嘩も、二人とも水面に浮かぶ事で終了していた。
No.13
――ったく、何で俺がこんな奴のために。
獄寺は、雲雀と表札のかかったアパートの一室の前に立っていた。せっかく泳げるようになったものの、弥生はプール開きに登校して来なかった。風邪らしい。
兄の恭弥は教師であってもそう簡単に物を頼めない。そうなると弥生の家を知るのは獄寺、綱吉、山本の三人のみ。綱吉と山本は、補習で居残りだ。弥生を尋ねるなんて嫌で仕方が無いが、十代目の頼みとあっては断れない。
玄関のチャイムを押す。……無反応。
もう一度押してみる。……やはり、無反応。
獄寺の手には、綱吉や山本から預かってきた土産の入ったビニル袋。担任から預かったプリントは兎も角、こちらは郵便受けには入れられない。獄寺はチャイムを連打した。
「おい! 雲雀の妹!! 出てきやがれ!!」
さっさと渡して、さっさとこの場を離れたい。
しばらくして、ガチャリと鍵を開ける音がして扉が開いた。不機嫌そうな表情の弥生が、パジャマ姿で玄関に立っていた。
「迷惑なんだけど。叩かれたいの」
無愛想かつ物騒な台詞。しかし風邪のためか、その視線にも声色にもいつもの覇気は無い。
獄寺は手に持ったプリントとビニル袋を突き出した。
「こっちは十代目と野球バカ、こっちは先公からだ。さっさと受け取れ」
「……郵便受けに入れるって考えは思いつかなかったの?」
「バーカ。プリントは入れられても、こっちはどう考えたって入らねーだろうが」
「取っ手にでも掛けておけば」
どうしてこうも、彼女は腹の立つ言い方ばかりするのか。
「俺だって好きで来てんじゃねーんだよ! お前がどうしてるかって、十代目が心配なさってたんだ! 右腕として、様子を見ないで帰る訳にはいかねーだろ!」
「そう。病状なら、ゆっくり休養を取っていたところだが君を見たせいで急激に悪化したよ」
「それが見舞いに来た人への態度か!?」
「頼んでいない」
獄寺の中で何かが切れる音がした。
ばしっと、ビニル袋とプリントの束を弥生に投げつける。
「ああ、そうかよ! 十分元気そうじゃねーか。十代目によけいな心配かけさせやがって! もう知るか!」
バタンと音を立て、玄関扉を閉める。去ろうと向きを変えたところで、扉の向こうからどさっ、ガン、と大きな音がした。
「……」
倒れるような音。続けて聞こえた鈍い音は、頭でもぶつけたのだろうか。
「……知るか」
扉に背を向け、階段へ向かう。
「……」
何段か階段を下りた所で、獄寺は立ち止まった。
『弥生ちゃん、一人で心細いと思うんだ。それに、まともに食べてないんじゃないかな……。一人暮らしだから、看てくれる人もいないだろうし……』
綱吉の言葉が脳裏を過ぎる。
「……俺には関係ねぇ」
しかし、歩は進まない。
扉の向こうから聞こえた倒れるような音が、やけに耳に残る。
「……」
獄寺はしばらく下りる体勢のまま固まっていたが、不意にまた階段を駆け上がった。
「……あンの馬鹿女!」
奥まで駆けて行き、扉を開く。
案の定、弥生は玄関先で倒れていた。手は、床に散乱したリンゴへと伸びている。共に散乱した、プリントの束。獄寺の投げつけた物を拾おうとして、倒れたらしい。
寝ていたところを起こされ、怒鳴られ、物を投げつけられた。全て、行ったのは獄寺。
「……くそっ」
舌打ちし、玄関へと入り扉を閉める。そして、弥生の横に屈みこんだ。
「おい、起きろ暴力女」
弥生は反応を見せない。顔色は青白く、意識を失っているようだ。
どうせ意識を失っているのならば、同じ事だ。獄寺は渋々、弥生の身体を背中に負う。廊下は短く、玄関から入って直ぐ右手は手洗いだった。奥に、小さな居間。更にその奥に、右に曲がるようにして寝室があった。部屋の端に置かれたベッドに、弥生を下ろす。弥生は僅かに身じろぎしたが、起きる気配は無かった。
完全に帰るタイミングを失ってしまった。
玄関に戻ると、プリントと綱吉らの土産を片付ける。それぞれを居間にある低いテーブルの上に置き、獄寺はリンゴを片手に台所へ立った。
四苦八苦して何とか切れた歪な形のリンゴを片手に、獄寺は寝室へと入る。ベッドの傍らにある棚に皿を置いたところで、弥生は薄っすらと目を覚ました。
弥生は焦点の合わない瞳で辺りを見回し、そして獄寺に目を留めた。構えたが、暴言も鉄パイプも飛んで来なかった。
飛んで来たのは、弥生自身。覚束ない足元でふらりと立ち上がったかと思うと、獄寺の胸の中へと飛びこんで来た。
「え、な……!?」
「お兄ちゃん……」
獄寺は慌てて後ずさるが、弥生は抱きついたままだ。
「な、おまっ、寝ぼけてんのか!? 違ぇーよ、俺は雲雀じゃ――」
「お兄ちゃん、帰って来たの?」
「は……?」
「ごめんなさい。私、弱くて、お兄ちゃんの邪魔になってばっかで……愛想つかしちゃってお兄ちゃん出て行ったのに、追って来たりして……。でも私、お兄ちゃんとまた一緒に暮らしたいんだよ……」
「……」
「お兄ちゃん、大好き」
――ブラコン女。
弱いから、捨てられた。こいつは、そう思っているのか。
「でも、皆も、好き」
獄寺にしがみ付いたまま、潤んだ瞳が見上げる。
「沢田はね、優しいんだよ。それに面白いんだぁ。山本は頼りになるし、いつも和ませてくれる。――獄寺は、ムカつくけど」
思わずカチンとする。
そんなの、互いに思っている事だ。弥生とは、喧嘩ばかり。綱吉には暴言、協調性も無い、何かと鉄パイプを振りかざしてくる、ムカつく女。
「――ムカつくけど、いないのは嫌」
獄寺は目を見開いて、弥生を見つめる。
「本気でぶつかってくれるんだよ。ムカつくけど、ちょっと楽しい。
……お兄ちゃん。私、皆がいないと寂しいよ……」
獄寺はぎょっと息を呑んだ。弥生の姿が、小さくなったように見えたのだ。年の頃は、七、八歳と言った所か――
ガクッと弥生の膝から力が抜けた。倒れかけた身体を、獄寺は咄嗟に支える。もう、幼い姿では無くなっていた。今のは一体、何だったのだろう。気のせいなどではない。確かに、小さかった。獄寺と同じ程度の身長の筈の弥生が、獄寺の腰の辺りから見上げていたのだから。
弥生は再び、すやすやと寝入っていた。
『弥生は僕とは違うよ。群れるのはどちらかと言うと好きだろうし、戦闘好きでもない』
「……確かに、そうみたいだな」
あの時は理解出来なかった、雲雀恭弥の言葉。群れるのは避けているではないか。兄に倣って好戦的ではないか。そう、思っていた。
「ったく……」
再度ベッドに寝かしつけ、弥生の頭をそっと撫でる。
弥生はうなされた。
「めんどくせー女」
言いながらも、獄寺は笑みを零していた。普段の言動が彼女の精一杯の強がりなのだと思うと、少し微笑ましかった。
日も傾く頃になって、綱吉と山本は弥生の家に姿を現した。
「獄寺君、喧嘩してないよね?」
綱吉は不安そうに言う。
「大丈夫ッス! 十代目の言いつけどおり、ちゃんと看病してました!」
「今、寝てるのか?」
「具合はどう?」
言いながら、二人は中を覗き込む。山本が家に上がり、綱吉も戸惑いながらも中へと入った。
二人の声で起きたのか、弥生はベッドの上で上体を起こしていた。その手にあるのは、リンゴの皿。半分ほどなくなっている。
「……これ、誰? ヘタクソ」
「何だと、てめぇ!」
「ご、獄寺君! 弥生ちゃんは病人なんだから……!」
「ツナが渡したリンゴ、ちゃんと切ってやったのな」
「けっ」
獄寺はそっぽを向く。
弥生はなおも、容赦無い。
「それに、変色して汚い色」
「それはてめーがアホ面かいて寝てたからだろ!?」
「随分失礼な言い方するんだね」
「先に言い出したのはどっちか、思い返してみろ」
いつもの戦闘が始まりそうになったところで、玄関のチャイムの鳴る音がした。弥生が咄嗟にベッドを飛び出そうとし、綱吉に止められた。
「駄目だよ、寝てないと! 俺、見てくるから……」
「多分、お兄ちゃんだ」
「えぇっ!? 雲雀さん!?」
玄関へと行きかけ、綱吉はぎょっとして足を止める。
「他に、私の家を知ってる人はいない」
「どどどどうしよう! 噛み殺される!!」
「はははっ。いくら雲雀でも、妹の見舞いに来た奴らを噛み殺したりはしないだろ」
暢気な発言は山本だ。
山本は、玄関へと出て行った。獄寺は食べ終わった皿を弥生から引ったくり、台所に向かう。
綱吉は、恐々と山本の後について行った。台所からガシャンと音が聞こえた。続いて、台所へ向かう足音と怒鳴り声。結局、弥生をベッドから立たせる事になってしまったようだ。
玄関扉の前にいたのは、雲雀恭弥ではなかった。
「あっ。ビアンキ!?」
「リボーンから、貴方達がここにいるって聞いたのよ。無遠慮にも程があるわよ。一人暮らしの女の子の家に、男三人で上がりこむなんて」
軽く説教をし、そしてどのように持ってきたのか皿を取り出す。
「どうせ、貴方たちじゃ何もご飯作れないでしょう。病気の子が一人暮らしじゃ、まともな物食べられていないんじゃないかと思って」
「へーっ。助かったな、ツナ!」
「いいいいいらないよ!! 弥生ちゃん死んじゃうって!」
どたばたと音がして、奥から獄寺が飛び出して来た。
ビアンキを見るなり、獄寺は泡を吹く。
「ぐはっ」
「逃がさないよ。人の家の皿割って――……っ!!」
後ろっ跳びになって倒れた獄寺は、後から追って出てきた弥生にもろに寄りかかった。弥生は声にならない悲鳴を上げて、ドミノ倒しの如く後ろに倒れた。
倒れた二人を、今度は綱吉、山本、ビアンキの三人が介抱する事となるのだった。
2011/09/17