弥生は、暗闇の中にいた。
狭い路地。壊れかけた電灯が点滅している。道路の脇にある放置された工事現場には、激しい乱闘の痕が残っていた。そして電灯の下に転がる、鉄パイプ。
ふと、笑い声がした。
「面白い精神を持った子ですね」
「……何、君」
弥生は不機嫌な声で呟いた。
電灯の下に、一人の少年が現れた。特徴的な髪型をした彼は、学ランを肩にかけ風紀委員長の腕章を付けていた。弥生はピクッと眉を動かす。
「その恰好、やめてくれる」
「おやおや。おかしいですね。これは、君にとって最も好ましい恰好である筈でしょうに」
「それはお兄ちゃん限定だよ」
「クフフ、解りました。ブラコンって奴ですね。知っています」
「君、ムカつく。――叩くよ」
弥生の鋭い眼光も物ともせず、彼は飄々とした態度で佇んでいた。
「本当に面白い子ですね。精神世界がこんな暗い場所だと言う事も興味深い。何より、僕の声が聞こえる子がいるとは思いませんでした」
精神世界? 彼は、何の事を言っているのだろう。
そもそも今、この状況は何なのだろう。この場所は知っている。忘れる筈が無い。雲雀が、弥生を大切な妹だと言ってくれた場所。そして、雲雀が弥生の弱さを疎み、去って行く事になった場所。
まるで弥生の心を読んだかのように、彼は言った。
「ここは、君の精神世界です。――夢だとでも思ってくれていい。心の拠り所でもありますから、大体の人は穏やかな風景ですが――君は、少々違うみたいですね」
「君には関係無いよ」
「そうですか?」
彼はまた、あの独特な笑い声を上げる。
弥生は電灯の下まで歩いて行き、そこに落ちている鉄パイプを拾い上げた。
「やっぱり、君は叩く」
弥生は鉄パイプを振った。手ごたえは無い。
――避けられた。
少年は先程と変わらぬ距離で、笑みを浮かべている。遠ざかる気配は無い。何度でも避けられるとでも言うように、射程距離に入ったまま。
近くに寄り、彼の瞳が赤と青のオッドアイである事に気付く。吸い込まれるような、その瞳。
「不要な争いはやめましょう。
――僕と契約しませんか、雲雀弥生」
弥生は眉を顰める。言葉を発する前に、彼が言葉を続けた。
「もしその気があるようでしたら、黒曜ランドまで来てください。いつでも、待っていますから。まあ、早いに越した事はありませんけどね」
すうっと彼の姿が掻き消える。後には、「クフフフフ……」と独特な笑い声だけが響いていた。
目を覚まし、弥生はぼんやりと携帯電話のサブ画面を見つめる。時刻は七時三十分。
ごろんとまた横になり、それから慌てて再度携帯電話を見る。日付は九月二日、月曜日。今日から新学期だ。
弥生は起き上がり、慌しく制服に腕を通し部屋を飛び出して行った。
再び、騒々しい毎日が始まる。一週間もしない内に、弥生は夢の内容などさっぱり忘れてしまっていた。
No.16
週末明けの月曜日。学校は、物々しい空気に包まれていた。校門では普段より多い数の風紀委員が生徒達を迎え、だがしかしそこに並ぶのは下っ端ばかりで彼らを取り纏める者達の姿が見えない。
教室に入って他の生徒達がちらほらと登校してきて、その理由は明らかとなった。
「聞いたか? 今朝もまた襲われたらしいぜ」
「またかよ。怖ぇー……。誰?」
「分かんない。三年だって聞いたけど」
「でもどうせ、風紀委員だろ」
「いや、その人風紀委員じゃないらしいぜ」
「何の話」
突然輪の中に入って来た弥生に、男子生徒達はぎょっとして身を引く。
誰か話さないかと無言で彼らを見回していると、一人がおずおずと口を開いた。
「あの……この週末で、並中生が次々襲われてるそうで……。風紀委員が何人も重症を負わされたって……でも、風紀委員だけじゃないとか……」
言って、彼は別の生徒に視線を向ける。
「あ、ああ。今朝も、風紀委員とは関係ない先輩が襲われたらしくて……」
その時、ガラリと教室の扉が開いた。そこに立っているのは、A組の生徒では無かった。弥生の傍にいた生徒が、そちらに気付いて駆け寄る。
「あれっ。お前、どうしたんだよ」
「……持田先輩が、襲われたって」
「なあっ!?」
「これから皆で、病院に様子見に行くんだ。お前も行くだろ?」
「う、うん」
そのまま彼は友達と共に教室を出て行った。
教室はしんと静まり返っていた。気付けばもう八時を過ぎているのに、教室には半数も生徒がいない。皆、襲われたり襲われた人物の見舞いに行ったりしているのだろう。
「風紀委員からも……」
雲雀が率いている風紀委員。当然、それなりに腕っ節の立つ者ばかりだ。それが、何人も重症を負わされている。
弥生は踵を返し、自分の席へと戻る。椅子には座らず、机にしまった教科書やらノートやらを鞄に戻す。平常授業が始まり重くなって来た鞄を抱えて教室を出ながら、携帯電話のプッシュホンを押す。
コール音がなる事も無く、電話は切れてしまった。再度掛けるが、また同様。
「草壁……」
胸騒ぎがする。
弥生は電話を切ると、廊下を駆け抜けて行った。
校門の所にいた風紀委員の一人に道案内をさせ、弥生は学校から一番近い病院へと向かった。案の定、そこは見舞いの並中生達で溢れ返っていた。
中学生達の中に一際背丈の高いリーゼント頭を見付け、弥生はそちらへと駆け寄る。
「草壁!」
「弥生さん」
周囲の生徒達が、草壁に気付き頭を下げる。
見た所、草壁は至って健康。怪我をしている様子は無い。
「良かった。あなたは無事だったんだね。電話、繋がらなかったから……」
「すみません。今朝は立て続けに風紀委員内での連絡があったもので」
「襲撃事件に関する事?」
草壁は一瞬、言葉を詰まらせる。
「……お聞きになったのですね」
「これだけ異常な事態になってたら気付くよ。風紀委員も襲われたんだって?」
「はい。昨日までに八人。
委員長については、只今、所在を確認させているところです」
ちょうどそこへ、風紀委員の一人が駆けて来た。彼は弥生の姿に気付き、軽く頭を下げる。それから草壁に向き直った。
「応接室や屋上、学校中を探させましたが何処にも委員長はいらっしゃらないそうです。ご自宅も留守のようで。最後に目撃されたのは校門前の通り。七時五十分頃だそうです」
「では、それ以降委員長の姿が見えないのだな」
「ええ。いつものように、恐らく敵の尻尾を掴んだかと……。これで犯人側の壊滅は時間の問題です」
「そう。それじゃ、私は学校へ戻るよ」
弥生はくるりと向きを変える。
「弥生さん。委員長なら、お気になさらず。それより、犯人が壊滅するまでくれぐれもお気をつけてください。自棄を起こした犯人が、委員長の妹であるあなたを人質にしようとする可能性もありますから」
「心配なんてしてないよ。お兄ちゃんは、無敵なんだから」
得意気に言って、それから僅かに目を伏せた。
「人質にだって、もう二度とならない。絶対に。――じゃあね。お兄ちゃんが帰って来たら教えてよ」
ふいと背を向け、弥生は病院を後にした。
弥生は呆然と立ち尽くしていた。
目の前には並盛商店街と書かれたアーケード。まだ午前中で人気が少ないが、立ち並ぶ店々は朝夕と何ら変わらない見慣れた通り。
弥生は初めて、迷う事無く病院から帰って来られたのだ。
実を言えば学校へ向かったつもりだったが、それはこの際置いておく。見知った所まで帰れた。それだけで十分だ。
雲雀が帰ってきたら、報告しよう。褒めて貰えるまでは期待しないが、「良かったね」とでも言ってくれればそれだけでも嬉しい。
「何へらへらしてんだ、気持ちわりぃ」
掛けられた声に、高揚していた弥生の気持ちは一気に沈んだ。
じとっとした目で振り返る。そこには、同じく不機嫌顔の少年が立っていた。握っていたのは小銭だろうか、ポケットに入れた拍子にチャリと物寂しげな音が鳴る。
「君、こんな所で何やってんの。学校は」
「その言葉、そっくりそのまま返してやらぁ。てめーこそ、学校来ないでこんな所で油売ってんじゃねーか。それともまた迷子か?」
「馬鹿にしないでくれる。病院に用があっただけ。これから学校に――」
「並盛中学二のA、出席番号十三番、雲雀弥生。同じく出席番号八番、獄寺隼人」
弥生と獄寺は振り返る。
そこには、猫背気味に佇む眼鏡の少年がいた。彼の制服は、隣町の黒曜中学校のもの。
「早く済まそう。汗……かきたくないんだ」
気だるげに、彼は言った。
「何の用」
「んだ、てめーは?」
声が重なり、獄寺と弥生はキッと互いを睨む。二人の様子には構わず、眼鏡の少年は淡々と述べた。
「黒曜中二年、柿本千種。お前達を壊しに来た」
獄寺は深く溜息を吐く。弥生は鉄パイプを構えた。しかし、千種と名乗った少年が動く様子は無い。獄寺が手招きした。
「わーった。来やがれ。売られた喧嘩は買う主義だ」
弥生はキッと獄寺を睨めつける。
「ちょっと。君は引っ込んでなよ。私一人で十分だから」
「てめーこそすっこんでろ。これは男同士の喧嘩だ」
「男とか女とか関係ないでしょ。私の名前が先に呼ばれた。だから、私の方が優先的に戦う権利がある」
「それこそ関係ねーよ!」
ふと、千種が動きを見せた。
物見遊山に近寄って来ていた男二人が、額から幾筋もの血を噴いて倒れる。
弥生も獄寺も息を呑む。彼らの額には、何本もの針があった。
「て……てめー、何しやがった!!」
「急ぐよ……めんどいから二人いっぺんにやる」
フッと彼から発せられる殺気が強くなる。
弥生は強く地を蹴る。空を切るような音がして、何かが弥生のいた位置を襲う。間一髪避けた獄寺の頬から、一筋の血が流れる。
じり、と弥生は後ずさる。
不味い。少なくとも彼が何を仕掛けてきているのか、手の内が判らない事には分が悪い。今まで喧嘩して来たどの相手とも訳が違う。弥生はそれを本能的に感じ取っていた。
タッと弥生は駆け出す。直ぐ後に、獄寺も駆けて来た。更に後に続く千種。
店と店の間の細道に曲がり込む。同じく獄寺も曲がって来た。
「ちょっと、真似しないでよ馬鹿!」
「仕方ねーだろ!」
言って、獄寺は脇に積み上げられた酒瓶用ケースの裏に飛び込む。
曲がり込んで来る千種。その冷たい視線が、弥生を捉えた。獄寺のダイナマイトが彼を襲う。
全てのダイナマイトが、爆破する前に切り裂かれた。ヒュンと風を切るのは、千種の手から繰り出されるヨーヨー。
それを視認するや否や、ヨーヨーの側面から針が噴出された。回転しながら飛び出すそれは、正面の弥生そして物陰に隠れた獄寺をも襲う。
飛び上がる弥生。壁際で起こる小爆発。
両脇の壁面を蹴りながら、弥生は姿勢を立て直し獄寺の背後に着地する。
爆発を逃れ、ヨーヨーをキャッチする千種。獄寺は彼を睨み据えていた。
「黒曜中だ……? すっとぼけてんじゃねーぞ。てめー、何処のファミリーのもんだ」
弥生はきょとんとする。
一方、千種には何の事か通じたらしい。
「やっと……当たりが出た」
「ああ?」
「お前にはファミリーの構成、ボスの正体、洗いざらい吐いてもらう」
「何!?」
ヨーヨーが襲い掛かる。彼の目にはもう獄寺しか映っていなかった。
「狙いは十代目か!」
飛び退き、獄寺はダイナマイトを放る。
「ちょっ……!」
「てめーはすっこんでろ! こいつはプロの殺し屋だ!」
映画か何かのような単語に、弥生はますます訝るばかりだ。
弥生でさえも一つ一つを叩き潰す事の出来るダイナマイト。それらは爆発する前に、あっさりと先端を切り落とされてしまう。そして、伸びたヨーヨーは空高く上がり獄寺を挟むようにして針を吐き出す。
弥生は鉄パイプを握り締め、千種へと間合いを詰める。
戻って来たヨーヨーが、弥生へと針を吐き出した。弥生は鉄パイプを千種の頭に叩き付け、それを支点に宙で一回転し無数の針を逃れる。
「無視しないでくれる」
起き上がる千種の正面に佇み、弥生は静かに言った。
獄寺が叫ぶ。
「てめっ……相手は殺し屋だっつったろ! 馬鹿みたいに正面から突っ込むしか出来ない奴はすっこんでろ!!」
「動きの遅い奴こそ、すっこんでなよ」
「んだと、テメェ!!」
千種は眼鏡を押し上げ、溜息を吐く。
「めんどい……邪魔するなら、君から壊す」
弥生は挑発的な笑みを浮かべた。
「やれるもんならやってみなよ」
「あの馬鹿……ッ! 俺と喧嘩するのとは訳が違ぇーんだぞ!?」
ヨーヨーが弥生を襲う。弥生はそれを避け、間合いを詰める。しかし針が襲い、退避を余儀なくされる。スピードでは釣り合えども、リーチの違いが厳しい。
「二倍ボム!」
声がして、弥生は慌てて飛び退く。
獄寺のダイナマイトが千種へと降り注ぐ。しかしやはり、それらはヨーヨーで払われる……かに思われた。
落としきれなかったダイナマイトが、千種の首元で爆破する。咄嗟に急所は外したようだが、それは確かな一撃を与えた。
「へへへっ。ザマぁねーな! てめーは簡単な遠近法のトリックに引っ掛かったのさ。俺が二倍ボムの掛け声と共に通常のダイナマイトを放った時、既に放っておいたチビボムが通常のダイナマイトと同じ大きさに見えるほどお前に接近してたのさ」
弥生はじとっと獄寺を横目で見る。
「……それ、私も巻き込まれてた可能性あるよね」
「てめーが勝手に手ぇ出すからだろ」
ふらりと体勢を整えなおす千種。彼の頭上には、既にダイナマイトの次の投下。
「ボンゴレなめんじゃねー。果てな」
千種の身体は、大爆発の中に包まれた。
焼け焦げ、横たわった千種。獄寺はその場に座り込み、煙草をふかし始める。
弥生は眉根を寄せ、顔の前でひらひらと手を払い背を向ける。
「煙たい。ソレと散らばったダイナマイト、ちゃんと片付けてってよ」
「テメェに指図される筋合いはねーよ。この勝利は俺のお陰だしな」
ぴたりと弥生は足を止める。冷たい目で獄寺を見下ろし、言った。
「チビボムを悟られずに投げられたのは、ソレが私に気を取られてたからじゃないの」
「う゛……。だとしても、直接的な勝因は俺の攻撃だろ」
「……」
弥生はふいと再度背を向ける。
千種を倒したのは、獄寺だ。弥生は囮にこそなったかも知れないが、作戦の上でもなく結果的な話。殆どは無駄な動きで邪魔をしていただけ。それは確かであり言い返す言葉も無かった。
立ち去る弥生の背後で、声が聞こえて来た。どうやら、綱吉が来たらしい。
ふと、弥生は歩を止める。
『狙いは十代目か!』
十代目。獄寺がそう呼ぶのは、沢田綱吉ただ一人しかいない。
そして、綱吉を狙って来た刺客は弥生達を殺すつもりだった。だが、弥生も獄寺もその刺客を殺してはいない。
――不味い!!
弥生が振り返ったのと、綱吉の悲鳴が上がったのとが同時だった。
千種は立ち上がっていた。獄寺のダイナマイトをまともに受け、全身から血を滴らせながらも、針の仕込まれたヨーヨーを構える。
弥生は駆けていた。綱吉は腰を抜かしてしまったらしく、動かない。この距離では間に合わない。どうして離れてしまったのだろう。もう少し、もう少し待っていれば。
無数の針が綱吉を襲う。弥生が手を伸ばした所で、届く距離ではない。
弥生は目を見開く。
獄寺が、その身に針を受けていた。血を噴出し、その場に崩れ落ちる。
――馬鹿……あの馬鹿……っ!!
千種は再度綱吉に向かう。間に合わない。遠過ぎる。これ以上は速く走れない――
不意に、綱吉達の横の角から影が飛び出して来た。影に引っ張られて倒れた綱吉の上を、ヨーヨーは通り抜けて行く。
寸での所で綱吉を救ったのは、山本だった。
弥生も綱吉らの所まで辿り着く。
「結局、学校半日で終わってさ。通りかかったら並中生が喧嘩してるっつーだろ? 獄寺と弥生かと思ってよ」
「そーだ! 獄寺君が!!」
「ああ、分かってる!」
いつになく真剣な山本の口調。
弥生は、横たわる獄寺へと視線を下ろす。彼の下には、血溜りが出来ていた。微動だにしない彼。
「穏やかじゃねーな」
流石の山本も、怒りを露にしていた。じっと千種を睨み据える。
ヨーヨーが飛んで来る。山本はバットを手にしたかと思うと、それを叩き切った。バットかと思われたそれは、刀の姿を呈している。
「そうか……。お前は、並盛中学二のA、出席番号十五番、山本武……」
「だったら何だ」
弥生も鉄パイプを取り出し、握り締める。
一触即発のその場に、遠くから喧騒が近付いてきた。警察を呼ぶ声と、複数の足音。
千種は、ふらりと背を向ける。そしてそのまま、立ち去って行った。
綱吉と山本は獄寺の傍らに屈み込む。
「獄寺君大丈夫!?」
「しっかりしろ! 獄寺!?」
血溜まりの上で動かない獄寺を、弥生は見つめる事しか出来なかった。
2012/01/07