「……あ」
その日の朝も、弥生は十分に余裕を持って学校へと向かっていた。風紀委員長の妹たるもの、遅刻ぎりぎりになる訳にはいかない。それに、恭弥の登校は相当早い。早く行けば、もしかしたら彼とかち合えるのではないかと言う期待もあった。
通学路の前方に見えたのは、恭弥ではなかった。弥生は靴を片方だけ脱ぐと、大きな段ボール箱を抱えて道を横切る彼へと投げつけた。
間一髪、彼は視界に入ったローファーに気付いて立ち止まった。眼前すれすれを、靴は通り過ぎて行く。
キッと彼はいつものごとくガンを飛ばして来た。
「何しやがんだ!」
「休んだりして、鈍ってるんじゃないかと思ってね」
投げた靴を片足跳びで拾いに行きながら、全く悪びれもせずに弥生は言う。これくらいは、いつもの挨拶だ。久しぶりに一戦交えるか。そう思ったのだが。
獄寺は段ボール箱を抱えたまま、ふいと背を向けた。
「鈍ってなんかいられるかよ。じゃーな」
「えっ……」
当然、ダイナマイトを取り出して来るだろう。そう思っていた弥生は、拾った靴を片足に引っ掛け鉄パイプを握り締めたまま立ちすくんだ。学校とは反対方向へと去ろうとする背中に、慌てて言葉を投げかける。
「逃げるんだ?」
「何とでも言いやがれ。てめーなんかに構ってる暇ねーんだよ!」
弥生の挑発にも乗らず、彼は駆け去ってしまった。ぽつねんと佇む弥生を残して。
銀髪の後姿が見えなくなり、弥生は手持ち無沙汰になった鉄パイプを道端に放置された空き缶へと叩き付けた。缶は、きれいな円形に潰れた。
No.22
案の定獄寺は学校へは来ず、綱吉と山本も休んでいた。ぽっかりと空いた三つの席が、物寂しい。出欠をとる際、担任は彼らの名前を呼ばなかった。恐らく、今日は事前の欠席連絡があったのだろう。
昼休みになり、購買へ行こうと席を立つ弥生に声が掛かった。
「弥生ちゃん! 今日も一緒にお昼食べよう。――いいよね?」
京子は、教科書やノートを片付けている花を振り返る。彼女は頷いた。
「沢田達、また休みだものね」
「先生に聞いてみたけど、ツナ君と山本君は風邪だって親御さんから連絡があったみたい。連絡は無かったそうだけど、獄寺君もかな……」
「獄寺は違うと思うよ。随分と元気そうだったから」
学校とは反対の方向へ駆け去って行った獄寺。弥生の売った喧嘩は買わなかったが、体調不良が原因だとは到底思えなかった。
弥生に構っている暇などない。彼はそう言っていた。
自分でもよく分からない怒りが、ふつふつと胸の内に沸き起こる。
「へぇ。学校に来なくても、会ってるんだ?」
意味ありげに言う花を、キッと弥生は睨む。バンと机に手を突き、立ち上がった。
「学校へ来る時にたまたま会っただけ。
笹川さん、ごめん。今日は一人で食べる」
フイッと背を向け、弥生は教室を後にした。
怯えたように道を開ける生徒達の間を、弥生はずんずんと歩く。購買のおばちゃんさえも、弥生の殺気に怯えていた。買ったアンパンを片手に、弥生は屋上へと上がる。屋上に出る扉の横の梯子を上り、座り込む。誰もいない、校内で一番高い、特等席。隣の後者に人影は無い。お昼時でもある事だし、応接室だろうか。
『てめーなんかに構ってる暇ねーんだよ!』
今朝の彼の言葉が再度脳裏を過ぎる。言葉通り弥生の事など微塵も気にせず、振り返りもせずに駆け去って行った。
フンと鼻を鳴らし、弥生はアンパンに噛り付いた。
部活にも委員会にも所属していないと、授業後真っ直ぐ帰れば相当早く家に着く。時間を持て余した弥生は、隣町まで夕飯の買出しに行ってみる事にした。火曜日は、こくようスーパーが安いと近所の主婦達が話しているのを聞いた事があったのだ。
何度も道に迷いつつようやくスーパーマーケットに着いた時には、既に陽は西に傾きかけていた。最近になって、陽が落ちるのが一気に早くなったように感じられる。もう夏の余韻など欠片もなく、季節は秋となっていた。もう、並盛に来てから一年が経ったのだ。色々な変化のあった一年だった。たくさんの友達と共にいる自分の姿なんて、去年の弥生には想像も付かなかっただろう。度々引き込まれはしていたが、最も大きなきっかけとなったのは一ヶ月前の黒曜での戦い。
――黒曜……。
ふと、弥生はつい昨日の事を思い出す。六道骸とよく似た髪型の、黒曜中学の制服を着た女の子。黒曜の生徒ならば、この町に住んでいる可能性が高い。
もっとも、学区内とは言えそれなりに広い町。ほんの少し商店街に立ち寄った程度で出会う確率など、ゼロに等しいと言えよう。
……そう、思ったのだが。
買物を終えて店を出て、弥生ははたと立ち止まった。
シャターの閉まった店の前。二人の男に囲まれ、無表情で買物袋を抱えた女の子。
――本当に合った……。
唖然とする弥生の前で、黒曜の制服を着た彼女は首を振り彼らの横をすり抜けて行こうとした。男の一人が、彼女の腕を掴む。表情の少ない彼女の顔に、僅かに困惑の色が浮かんだ。
男の手が彼女の肩に伸びる。パシ、と鉄パイプがその腕を遮った。
「何してるの」
「あ……」
女の子が驚いたように目を瞬く。弥生は再度、男達に問うた。
「何してるの。嫌がってるみたいだけど」
「何だ、お前。どこかで見た事があるような……」
「雲雀恭弥だ! ほら、転校生がうちの学校牛耳ってた時、一人で乗り込んで来た……あいつに妹がいるって聞いた事がある。こんなにそっくりなんだ、間違いねーよ」
懐かしいやり取りだった。
並盛ではもう、今やこの手の連中で「雲雀恭弥の妹」を知らない者はいない。流石に黒曜では、然程広まってはいないようだ。雲雀恭弥に妹がいる事、そしてその強さも。
男は下劣な笑みを浮かべた。弥生は、かばうように少女の肩を抱き寄せる。
「そうか。どうりで……。お前の兄貴には随分と大きな借りがあるんだよなあ」
「代わりに妹を可愛がってやるとするか」
伸ばされた腕を、鉄パイプが払った。そのまま宙を往復するようにして振り下ろされ、男の横っ面に叩きつけられる。鉄パイプがクリーンヒットした男は、横様に倒れた。男は、呻きながらも起き上がる。
「こいつ……ッ!」
「これ以上痛い目見たくなければ、失せなよ。叩き潰されたいって言うなら、止めはしないけど」
「舐めた口利いてんじゃねぇぞ……兄貴の方ならともかく、誰がお前なんかにビビって逃げるかよ。聞いた話じゃ、弱っちいから要らないって風紀委員に入るのを拒否られたそうじゃねぇか」
「何だそれ! 委員長の妹なのにか? 相当嫌われてんな、お前!」
殴り飛ばされた男が、仕返しとばかりにギャハハと大声で笑う。弥生は無表情で、一言冷たく言い放った。
「……バカだね、君達」
「何だと!?」
掴み掛かって来た男に、弥生は再び鉄パイプを打ち込む。今度はもう、彼は起き上がらなかった。兄によく似た双眸が、もう一人の男を捉える。男はじりじりと後ずさると、背を向け一目散に駆け去って行った。
弥生はフッと溜息を吐く。
「自分だけ逃げ出すなんて、随分と仲間思いな奴」
綱吉達なら――彼らだけではない、あの六道骸一味さえも、仲間を置いて自分だけ逃げ出したりなどしないだろう。
その時だった。短く二回、高らかに吹かれた笛の音に弥生と少女は振り返る。
「君達、そこで何をしている!?」
買物帰りと思われる女性に案内され駆けて来るのは、警察官。応対しようと片手を上げ掛け、弥生は動きを止めた。
「……そう言えばここ、並盛じゃないんだっけ」
弥生の行動は素早かった。男達に絡まれていた少女の腕をパシッと取る。
「走るよ」
言うや否や、弥生は彼女の手を引き走り出した。
紅く染まる水面に、ピチャッと軽い音と共に波紋が広がる。ぴちゃっ、ぴちゃっ、波紋は一直線上にもう二回広がり、また静まり返った。
「大丈夫?」
川沿いの土手の下。頬を紅く紅潮させ座り込む少女に、弥生は問うた。少女は膝を抱え込み、こくんとうなずく。そして小さな声で呟いた。
「ごめんなさい……」
「別に、君に謝られるような事なんて何もないけど。むしろ、私こそごめん」
振り返った先に座る少女は、きょとんとした表情で弥生を見上げていた。
「昨日。言い訳して、怒らせちゃったみたいだから」
「別に……怒ってない……」
「そう、良かった」
弥生は再び、川へと石を投げる。今度は二度だけ波紋を作って、水中に沈む。
ム、と僅かに眉を動かし三つ目の石を手に取る弥生に、声が掛かった。
「お兄さんが、いるって……」
少女は顔を上げていた。大きな丸い瞳が、弥生を見つめている。
弥生はこくんとうなずき、少し得意げに言った。
「うん。雲雀恭弥って言うの。強いよ」
「でも……一人暮らしって……」
背後から掛かった声に、弥生は石を投げようとした手を止める。
「あ……嫌なら、別に……」
「別に。大丈夫だよ」
ぽーんと適当に投げられた石が、ぽちゃんと水に落ちる。
「私、今は並盛で暮らしているけど、去年までは他の町にいたんだ。弱い奴は要らない。そう言われて」
「え……」
「辛かった。辛くて、凄く悔しくて。だから、強くなろうって、必要とされるようになろうって、毎日喧嘩して群れるのも避けて、そうして並盛に戻って来た。
……でも、違ったんだ」
弥生は振り返る。黒曜中の制服を着た少女はうつむき加減になっていた顔を上げ、ぱちぱちと瞬きをしていた。
弥生は少し微笑む。
「役に立つとか立たないとか、そんな損得勘定だけじゃなくて、ただ大切に思う。そう言う関係もあるんだって、教えてくれた人がいたんだ。家族でも、言葉にしなきゃ分からない事もあるって。そしてそう言う大切な存在は、何も家族だけに限らないんだって……」
行き先に何があるのか、自分が何処にいるのかも分からず、ずっと暗闇の中を走り続けていた弥生。彼らと出会って、世界は変わった。闇雲に探し回っていた温もりは、ずっと直ぐそばにあったのだ。闇は晴れ、大空が広がった。
今日は朝からずっと苛立っていたはずなのに、彼女といる内にその気持ちは穏やかなものに変わっていた。再びうつむいてしまった少女の隣に、弥生は腰掛ける。
「ねえ。君、今日もあの銭湯に来る?」
彼女はこくんと、小さくうなずく。
「じゃあ、また会えるね」
弥生は満足げにうなずき、川の方へと顔を戻す。太陽は町並みの向こうにその姿を隠し、西の方の空だけが余韻のように紅く染まっていた。
「私、君とは仲良くなれそうな気がするんだ」
「……」
夕陽に照らされた彼女の横顔が一瞬寂しげに見えた気がしたが、それが何故なのか弥生には解らなかった。
2013/03/04