深夜のプリベット通りには、今にも吸い込まれそうな静けさが漂っている。
 闇と沈黙の中に立ち並ぶ家々。通りを照らす電灯の橙色。
「やめろ……セドリックを殺さないで……駄目……」
 衝立の向こうから聞こえる声に、華恋は俯いた。
 耳を塞ぐ事は許されない。華恋には、泣く資格なんて無い。
 ……華恋はまた、人を殺してしまったのだから。





No.23





「何をやっとるんだ!?」
「見ての通り、ニュースを見てるんだよ」
「ニュースを見てる? ニュースを見てる、だと!?」
 居間では、いつもの如くハリーとダーズリー氏が言い争っていた。
 まったく、朝っぱらから喧しい。
「おはようございます」
 華恋は、台所で朝食の準備をしているダーズリー夫人に挨拶する。
 ダーズリー夫人は、困惑したようにちらりと華恋を見るが、何も言わずに朝食の準備に戻る。
 手伝いは申し出ない。やりたくないと言うのもあるが、こんな人達の事だ。何か盛られるのではないかと変に勘ぐるに決まっている。
 部屋を見回しても、朝刊は見当たらない。
 ダーズリー氏が降りて来てみればハリーがいて、それからずっと口論しているのだろう。若しくは、ダーズリー夫人が先か。それで、ダーズリー氏に報告に行ったのかもしれない。その可能性の方が高い。
 華恋は言い争うハリーとダーズリー氏を横目で見ながら、郵便受けへ向かった。ここの所、毎日これが華恋の仕事になっている。

 朝刊と郵便を手に居間へ戻ってくると、ダドリーも起き出していた。
 ハリーは未だ頑固にテレビの前に座りこんでいて、ダーズリー氏は歯噛みで追い出そうとする事にしたらしい。
「朝食が出来ましたよ」
 ダーズリー夫人の言葉で、ダーズリー氏はテレビを消した。ハリーに気を取られていてばかりで、見ていたのかどうか怪しいものだ。
 ハリーは抗議するようにダーズリー氏を振り返ったが、その形相を見るとそそくさと席に着いた。





 夜中になると、衝立の向こうからの呻き声で目が覚める。
 今日も。今日も、ハリーは悪夢に魘されている。
「セドリックを殺さないで……やめろ……!」
 逃げるなんて事は、許されない。
 許されないけど、我慢できなかった。華恋は、そっと部屋を抜け出した。

 扉に背もたれ、じっと廊下の先の暗闇を見つめる。
 華恋が何もしなかったから、ハリーは毎晩うなされる。
 部屋を出ても、ハリーの呻き声は確かに聞こえてくる。
 ――ごめんなさい。
 謝って許されるような問題ではない。謝っても、それでは自己満足で終わってしまうだけだ。これを、自分の中でだけで終わらせてはいけない。そんな生易しい問題ではない。だから、誰に対しても謝る事も出来ない。
 華恋は扉にもたれたまま、ずるずるとその場に座り込んだ。
『セドリック・ディゴリーを忘れるでないぞ』
 忘れるものか。
 華恋こそ、決して忘れてはいけない。
 誰も華恋を責めない。それはそうだろう。一部を除けば、誰も、華恋が助けられたかもしれないという事を知らないのだから。
 だから、責めない。
 それならば、華恋は自分で責めねばならない。
 華恋は人殺しだ。それを忘れてはいけない。もう二度と、繰り返してはいけない。

 ふと、ドスドスという足音が聞こえてきた。
 ダーズリー氏か、ダドリーか。
「こんな所に座り込んで、何をやってるんだ?」
 ダドリーだった。彼は、怪訝そうに華恋を見下ろす。
「ちょっと部屋の中は悪臭が酷いんでね」
「ああ……あの狂った鳥のか」
 そう言って、ダドリーは華恋がもたれている扉に目を向けた。
 ハリーの呻き声は続いている。ダドリーは、嫌悪感を露にする。
「騒音も酷いみたいだな」
「……」
「普段は偉そうにしておいて、夜には度胸が無いらしい」
 そう言って、嘲笑を浮かべる。弱みを握って、勝ち誇ったかのような表情だった。
「――私の所為なんだ」
「え?」
「私が、殺してしまったから……」
 明らかに、「こいつおかしいんじゃないか」と言いたげな顔をしたのが分かった。
 華恋はすっくと立ち上がる。
「じゃ、おやすみ。私はまた寝るとするよ。ダドリーも、こんな時間にハリーと同じく魔法使いである私と話すなんて、パパやママがお気に召さないんじゃない?」
「僕のパンチの威力を試したいとでも思ってるのか?」
 ダドリーは唸るように言う。
「別に、ちょっとした冗談のつもりだったんだけど。――でも、ま。それもいいかもね」
 ――私は卑怯だ。
 自分を許さないとは言いつつも、自分に罰を与える事は出来ない。だから、人に罰を与えられるなら、それでいいと思う。
 人を利用しようとしている。
「ハリーもお前も、お前達は変な奴ばかりみたいだな」
 そう言い捨て、ダドリーは一階へと降りていった。大方、小腹が空いて目が覚めたりでもしたのだろう。
 ダドリーは、華恋を殴りはしなかった。あれでも、所謂イギリス紳士の心得があるのだろうか。女の子は殴らないとでも言うのか。そう考えるとギャップがありすぎて、笑えた。
 ありえない。どうせ、報復が怖いとか、そんな所だろう。
 耳を澄ましても、聞こえるのは階下でダドリーが台所を漁る音ばかり。ハリーの呻き声は止んでいる。
 華恋は、ベッドへと戻っていった。





 翌朝、朝食を済ますと直ぐ、二階の部屋へと引っ込んだ。ハリーは今日も、ニュースを見ようと躍起になっている。
 部屋は衝立で二つに分けられていて、左側が華恋のテリトリーだ。どの窓も全開にしているが、それでも悪臭が篭っている。
 華恋は顔を顰めながらも、本の表紙を開く。
 ベッドへ腰掛けようと歩く途中、衝立の下からこちらに溢れてきているハリーの教科書を足で押し返す。椅子代わりのベッドに腰掛けた所に、ハリーが入ってきた。
「ハリー。いい加減、ヘドウィグの籠を掃除してよ。教科書もまた、こっちに入ってきてたし――」
「一体如何して、連中はヴォルデモートの復活に気がつかないんだ? マグルのニュースでも、何もありゃしない。
奴らは今、何をしてるんだ? 如何して殺人事件とか、消失事件とか起きないんだ?」
「知るかよ」
 毎日毎日、同じ事ばかり繰り返し。
 返事をするのも鬱陶しくなってくる。
「真面目に答えてくれよ。カレンは知ってるんだろう? 如何して、何のニュースにもならないんだ? ロン達は、何処で何をしてる?」
 華恋はページを捲る手を止め、ハリーを振り返った。
「あんたさ、ヴォルデモートが復活早々、準備さえままならない内からこちら側に攻撃や防御の準備をさせると思ってんの? ヴォルデモートでなくったって、大概の犯罪者ってのは出来る限りその罪の発覚を遅らせようとするでしょ」
「気づかれないように、活動してるって事?」
「そりゃあ、そうでしょ。正々堂々正面勝負、なんて一体何処の馬鹿の話よ。
後、ロン達の事はそろそろ分かるよ。私はここでは言わない。危険らしいしねぇ……。
ヴォルデモートの話だって、そう。いくら家の中だからって、不用意に口にしない方がいいと思うよ」
 今朝三時、隣の家のスプリンクラーが何故か故障したらしく、水が噴射していた。だから、今日だ。――吸魂鬼が来る。
 今夜は絶対、家の中にいなくてはいけない。尤も、普段から朝から晩まで部屋に篭りっきりなのだから何も変わらないが。
「まぁ、急がなくったって夏休み中に現状の説明はしてもらえるからさ、そんな苛立ってないでまずは自分の所の掃除でもしてよ」
 そう言って、再び本に向かう。
 然し、背後から手が伸びてきて、バタンとそのページが閉じられた。抗議をしようと振り返ったが、ハリーの方が早かった。
「カレンは分かってないんだ! カレンにとっては今まで、ここでの事は全て本の世界の事だったから!
でも、僕達にとっては違う。僕達は本の登場人物なんかじゃない。人間なんだ。ここに存在しているんだ。ヴォルデモートが復活したって事は、その人間がこれから死んでいくって事なんだよ? それなのに、如何してそんなに暢気に構えられるのか、僕には理解出来ない!!」
 暢気に、と言う言葉に華恋はムッとする。
 そうだ。華恋がこの世界に来た今、彼らは「登場人物」なんかではない。そこに存在している。命がある。分かっている。――否、分かってしまった。
 分かってしまったから、こんなにも苦しい。こんなにも悔しい。
 華恋は未来を知っている。助ける事が出来た筈の命を、みすみすと見殺しにしたのだから。
 なのに。
 なのに、如何してハリーはその事を持ち出さない? 華恋は人殺しなのに。如何して華恋を責めない? 華恋は自分のした事を許さない。した事ではなく、しなかった事か。だから、許されたいとも思わない。
 許されてはいけない。
 華恋は今までに、二人も人を殺した。
 若しかしたら、助けられたかもしれない命。あの時、ああしていれば。あの時、こうしていれば。そんな事を考えても、もう今更、後の祭り。
「そうやって冷淡な態度ばかり示してさ。僕は未だに、カレンが何を考えてるのか分からない」
「当たり前じゃん。人の考えてる事なんて、そんな簡単に分かるもんじゃないだろ」
 言いながら、閉じた本を開こうと、ハリーに背を向ける。
「――ダンブルドアは、開心術をもってしてもカレンの心を開けないって言った。だからって、カレンを怪しんではいない。でも、何故? 如何して、そういう冷酷な態度を取るんだ? ディゴリーが死んで、あの宴の時も君は無表情で……」
 華恋はハリーに背を向けたまま、表情を強張らせた。
 ハリーは猶も、言葉を続ける。
「気づいてるだろうから言うけど、カレンはスリザリンってだけで、グリフィンドール生を始めとする生徒達に嫌われている。ただでさえそうなのにそんな態度を取ってたら、尚更誤解されるだけだ。少しは誤解を解きたいとか思わないのか?」
「……」
「カレンがそうやって多少キツイ言い方をするのは僕にだけみたいだけど、何も言わないのはそれよりも性質が悪い」
「……」
「確かに人は第一印象だけじゃない。でも、第一印象だって結構大切だよ。何も言わなかったら、その人がどんな人だか分からない。だから、その人の所属だとか、そういう物で判断するしかない。カレンの場合は『スリザリン生』だ。だから、カレンは冷酷なんだって思われる」
「……」
「何か言ったら如何だよ。ずっと黙ってないでさ。カレンが、僕の言いたい事を理解してない筈が無い」
 ――出て行って。
 でも今は、喋れない。
 絶対に気づかれまいと、閉じた本の上に肘をつき、その手で顔を出来る限り覆う。
「僕みたいな同年齢に言われるのは嫌かもしれない。でも、実際、そうなんだ。カレンだって、別に嫌われようと思ってる訳じゃないだろ?」
「……」
「――黙ってたら何も分からない、って言ってるじゃないか!! せめて、こっちを向いたら如何なんだ!!?」
 ハリーが振り向かせようと、華恋の肩を掴んだ。
 咄嗟に、それを手で払う。確実に、ハリーに背を向けながら。
 バチンと、予想外に大きな音が部屋に響いた。
「……」
 ハリーは何も言わずに、部屋を出て行った。

 華恋は顔を上げ、ハンカチを取り出した。涙に濡れてしまった顔や手を拭く。
『ディゴリーが死んで、あの宴の時も君は無表情で……』
 無表情だからって、何も感じていない訳ではない。冷酷な態度を取るからって、感情が無い訳ではない。
 ディゴリーの死の責任は、華恋にある。華恋なら、止められた筈なのに。華恋は見殺しにしたのだ。何もしようとしなかったのだ。命を軽く見ていたのだ。
 祖母の死であんなに後悔したと言うのに。なのに、また同じ事を繰り返したのだ。
 如何して責めない。
 華恋が殺した。華恋は人殺しだ。
 泣く権利なんて無いのに、涙は止まる事を知らずに溢れてくる。


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2010/03/20