目覚めて真っ先に飛び込んできた真っ白な景色に、ここがあの世なのかなって。そう思ってから、自分がベッドに寝かされている事に気が付いた。白い天井、白い壁。ベッドの足元には部屋の角に合わせるようにして机があって、その奥の壁に絵画が二枚。部屋の中央には、白い机と赤と緑のソファ。フローリングの床はきれいに磨かれていて、覗き込んだ私の顔をぼんやりと映し出す。
……私、死んでない。
足元に置かれていた靴を履いて、部屋を出る。色濃いフローリングの床。白い壁に飾られた絵画。ちょっと裕福な家庭って感じ。
突き当たりにある扉から、声が漏れてきていた。私は、ゆっくりとそちらへ歩み寄る。開かれた隙間の向こうに見えるのは、白い部屋。聞こえる声は、二つ。
「……なら、どうしてあの子を止めなかったの?」
「もちろん、無駄な犠牲だったら止めただろうさ。でも今回、彼女の脱落には大きな意味があったからね」
ほむほむとQBの声。……私が、アニメで聞いたこの時間軸で最後の会話。
QBは悪びれる様子も無く、むしろ明るいぐらいの声で言い放つ。
「これでもう、ワルプルギスの夜に立ち向かえる魔法少女は君だけしかいなくなった。もちろん、一人では勝ち目なんて無い。この町を守るためには、まどかが魔法少女になるしかないわけだ。――それか、彼女」
QBがこちらに目を向けた。それの視線の先を辿って、ほむほむは素早く振り返る。私は部屋に踏み込んだ。ほむほむは、安堵の表情を浮かべる。
「目が覚めたのね……加奈。具合はどう?」
「全然大丈夫。ほむほむが助けてくれたんだよね」
ありがとう。私は、にっこりとほむほむに笑いかける。
ほむほむに、私は救われた。二度も。
「私は死ぬ必要なんて無かった……。私の存在は、ほむほむをループさせてなんかいない。ただ、私自身が一人で同じ時間軸を繰り返しているだけだった。その証拠に、ほむほむは私の存在を知らなかった」
もし、ほむほむと一緒にループしているのならば、ほむほむは前の時間軸での私を知っているはず。
「インキュベーター、あんた、知っててわざと誤った解釈を『明海』に話したんじゃない?」
「人聞きが悪いなあ。僕はただ、君が魔法少女になる前の時間軸も、全く同じ流れじゃなかったか、確認しただけだよ。それを勝手に誤解したのは彼女だ」
「あなた……!」
声を荒げたのは、私ではなくほむほむ。
QBはけろりとした表情で、彼女を仰ぎ見る。
「まどかを魔法少女にしたくないなら、加奈の力を借りるかい? 彼女が、君のさまよう迷路から更に入れ子になった迷路に迷い込む事を由とすれば、だけど」
「私――」
「時間遡行者、暁美ほむら。過去の可能性を切り替える事で、幾多の平行世界を横断し、君が望む結末を求めてこの一ヶ月間を繰り返してきたんだね。
上月加奈は君と共に戦おうとして、共に繰り返す決意をした。未来の自分の終焉を見ているから、過去の自分を予備として連れて来てまでね。そんな事をしたって、何の意味も無いのに」
私は唇を噛む。QBの言う通り。
私はほむほむを閉じ込めてはいなかった。でも同時に、彼女を救う事にもなっていなかった。ただ、一人で運命に踊らされていただけ。なんて、滑稽。
QBは猶も、ほむほむに話しかける。
「君の存在が、一つの疑問の答えを出してくれた。何故鹿目まどかが、魔法少女としてあれほど破格の素質を備えていたのか」
私もほむほむも、眉を顰める。……彼は、何を言おうとしている?
ううん。きっと、分かってた。アニメを見た私も、繰り返してきた当人であるほむほむも、きっと薄々感じていたんだ。ただ、その事実に目を向けまいとしていただけで。
繰り返すごとに酷くなるまどかの終焉。繰り返すごとに強くなるまどかの力。
ほむほむの繰り返す理由はただ一つ。まどかのため。全ての時間軸の因果はまどかに集まり、そして。
「お手柄だよ、ほむら!」
それは、残酷な真実だった。
「君がまどかを最強の魔女に育ててくれたんだ」
No.23
「十二日より行方が分からなくなっていた私立見滝原中学校二年生の美樹さやかさんが、本日未明、市内のホテルで遺体となって発見されました。発見現場にも、争った痕跡が無い事から、警察では事件と事故の両面で捜査を進めて――」
今日一日、何度同じニュースが繰り返されただろう。現場にカメラが移り、映し出されるのは杏子と過ごしたあのホテル。
外は雨。やや強い風が、木々をざわっと揺らす。
ほむほむはまた、真っ白なあの部屋に一人こもってワルプルギスの資料とにらめっこしていた。食事もまともに取らないで、何度も、何度も、ホログラムを見つめ、地図をにらみ、シミュレーションを繰り返す彼女。
「……ほむほむ」
部屋を訪れた私を、ほむほむはちらりと振り返る。
「何かしら」
「……ワルプルギスの夜って、強いんだよね」
ほむほむは、答えない。
「一人で戦うには、荷が重過ぎるって。杏子は死んじゃった……魔法少女は、もうほむほむしかいなくなっちゃった」
「あなたの助けなら、必要ないわ」
ほむほむは淡々と言い放つ。
「一人で十分よ。佐倉杏子に声をかけたのは、ただ彼女の顔を立てただけ」
「嘘だよ!」
嘘だ。絶対嘘だ。
私、知ってるもん。いつも最後は一人になって。ワルプルギスの夜にはどうしても勝てなくて。そして、見かねたまどかがQBの口車に乗せられ契約してしまう。私は、その一連の流れを知っているから。
「ほむほむ一人じゃ駄目だって、私、知ってるもん……!」
「じゃあ、あなたが加われば勝ち目があるって言うの?」
……え。
「自惚れないで。確かにあなたには、魔法少女になる素質があるかも知れない。だけど、それとワルプルギスに対する戦力になるかでは、話が違う。
解ってる? この時間軸で、あなたは必ず死んでいるのよ」
言葉が出なかった。私はただ、目を見開いてほむほむを見つめるだけ。
ほむほむは真剣な眼差しで、私を見据えていた。
「無駄に犠牲を出す事はしたくない」
ほむほむはうつむく。何か小さく呟いたけど、その声は私まで届かなかった。
私は愕然とする。ほむほむの言う通りだ。この時間軸での魔法少女の私は魔女化という終結だったけれども。でも、その前の私は。
もっと前から魔法少女をやっていた私でさえ、その様だ。今、私が魔法少女になって、戦い慣れていない新人に何が出来ると言うのか。ただ、ほむほむの足を引っ張るだけ。そして結末も……。
「あなたは、キュゥべえがまどかにちょっかいをかけないように見張っていて。まどかが、戦いの場に来ないように。ワルプルギスの夜は、私一人で何とかする」
……何とかって。
無理だよ。それだって、何度も何度も繰り返して来たじゃない。一人じゃ無理だって、分かっているのに。
「逃げるんじゃ、駄目なの?」
ほむほむは椅子に座ったまま、私を見上げる。少し驚いたような表情。
「まどかを連れてさ。何処か、遠い遠い所へ。ワルプルギスの夜なんて来ない所へ。ほむほむが危険な戦いをする事も無い。まどかが契約する事も無い。それじゃ、駄目なの?」
「結果論としては目的を達成できるけれど、非現実的な考案ね」
ほむほむは溜息を吐き、立ち上がった。身体ごと私に向き直って、髪を払う。
「鹿目まどかがそれを受け入れるとは思えないわ。彼女は、この町を守ろうとする。彼女が守ろうとするならば、私もここを捨てるつもりは無い」
「でも……だって、一人じゃ無理だよ……!」
ほむほむは答えない。
彼女だって、分かってるんだ。何を言ったって、安心させるには嘘を吐くしかない事に。そしてその嘘は、私には通用しない。
一人じゃ無理。そして今回、判明したまどかの因果。きっとほむほむはもう、時間を巻き戻さない。このままだと、彼女を待つのは――死。
「ほむほむ言ってたじゃん……『あなたが死んだら悲しむ人がいる』って、まどかに言ってたじゃん……」
ほむほむはちらりと私を横目で見たけど、直ぐにそらした。
私は、アニメでその場面を知っている。
「同じだよ」
ああ、ダメだ。涙でほむほむの顔が見えないや。
「ほむほむだって、同じなんだよ。あんただって、死んだら悲しむ人がいるんだよ……!」
嫌だよ。
嫌だよ、私。ほむほむが死んじゃうなんて。ほむほむがいなくなっちゃうなんて。
「ほむほむの事を大切に思う人だっているの。それを忘れないで欲しいんだ……!」
「……」
無言の間。私のすすり泣く声だけが、部屋に響く。
沈黙を破ったのは、「キンコーン」というインターホンの押された音だった。
「……失礼」
ほむほむは、玄関へと訪問者を迎えに行った。
私は袖で涙を拭う。ほむほむの決意は固い。私にはどうする事もできないんだ。
「加奈ちゃん!?」
声に、私は振り返る。
ほむほむと一緒に入って来たのは、まどかだった。ほむほむは、素っ気無く言う。
「今は、ここに住んでいるの。元々は佐倉杏子の所で暮らしていたから」
「あ……」
まどかは目を伏せる。
私は慌てて笑顔を取り繕った。
「私は大丈夫だよ。それより、どしたの? まどか、ほむほむに何か用あるんでしょ?」
「あ……うん」
まどかはうなずき、顔を上げる。彼女の視線が捕らえるのは、空中に浮かぶワルプルギスの夜のホログラムの数々。
「――これが、ワルプルギスの夜? 杏子ちゃんが言ってた。一人で倒せない魔女をやっつけるために、ほむらちゃんと戦うんだって。ずっとここで、準備してたのね」
ああ……そうか。私は解ってしまった。まどかが、何を話しに――何のために、ここへ来たのか。何を言おうとしているのか。
彼女も、私と一緒なんだ。
ほむほむは無言。無表情で、まどかを見据える。まどかはその視線に怯みながらも、足を踏み出した。
「町中が危ないの?」
……ああ、本当だ。まどかは絶対に、見滝原の町を見捨てたりしない。彼女にとって、ここは大切な町だから。大切な人がたくさんいる場所だから。
無言の間。やがて、観念したようにほむほむは言葉を紡いだ。
「今までの魔女と違って、こいつは結界に隠れて身を守る必要なんて無い。ただ一度具現しただけでも、何千人と言う人が犠牲になるわ」
「なら、絶対にやっつけなきゃ駄目だよね」
「まどか……」
私は呟く。
駄目だよ、まどか。それは駄目。ほむほむだって、絶対に聞き入れない。
「杏子ちゃんも、死んじゃって……。戦える魔法少女は、もうほむらちゃんしか残ってない。だったら――」
「一人で十分よ」
ほむほむはきっぱりと切り捨てた。
私に言ったのと同じ言い訳を、まどかにも繰り返す。
ただ、ひたすら拒絶して。断固として、まどかに戦わせない。誰も巻き込もうとしない。一人で閉じこもってしまう。その姿が、とても痛々しくて。
私は、そっと部屋を後にした。聞こえて来たまどかの声は、涙声だった。
「なんでだろう……。私、ほむらちゃんのこと、信じたいのに……嘘つきだなんて思いたくないのに……。全然大丈夫だって気持ちになれない……! ほむらちゃんの言ってる事が本当だって思えない……!」
「……本当の気持ちなんて、伝えられるわけないのよ」
震えるような、ほむほむの声。
私は、部屋の外で壁に寄りかかる。袖で、目をこすりながら。どうして。どうして私は、何もできないの?
「ほむらちゃん?」
「だって、私ね……私はまどかと、違う時間を生きてるんだもの!」
振り返ったほむほむの顔は、涙に濡れていた。唖然とするまどかに駆け寄り、抱きしめる。
ずっと溜め込んでいた、彼女の感情。それが今、堰を切ったように溢れ出していた。
「私ね、未来から来たんだよ? 何度も何度もまどかと出会って、それと同じ回数だけ、あなたが死ぬところを見てきたの。どうすればあなたが助かるのか……どうすれば運命が変えられるのか……その答えだけを探して、何度も始めからやり直して」
まどかが出すのは、驚き狼狽する声。
「ごめんね。わけわかんないよね。気持ち悪いよね。まどかにとっての私は、出会ってからまだ一ヶ月も経ってない転校生でしかないものね。だけど、私は……私にとってのあなたは……!
繰り返せば繰り返すほど、あなたと私が過ごした時間はずれていく。気持ちもずれて、言葉も通じなくなっていく。多分私は、もうとっくに迷子になっちゃってたんだと思う」
「ほむら……ちゃん……」
「あなたを救う。それが最初の私の気持ち。今となっては、たった一つ最後に残った、道しるべ。
わからなくてもいい。何も伝わらなくてもいい。それでもどうか、お願いだから、あなたを私に守らせて」
私は呆然と、白い壁を見つめていた。
彼女には、まどかが一番で。まどかを守る事だけが、彼女の祈りで。願いで。
まどかがいる限り、ほむほむは決して逃げたりしない。諦めたりしない。いつまでも、いつまでも戦い続けるんだ。
玄関に出て来たまどかは、そこにいる私を見て目を瞬いた。まどか、一人。ほむほむは今も、ホログラムの部屋だ。
何か言い出そうとしたまどかの口元に人差し指をやって、私はちらりと奥の部屋に視線をやる。口を噤んだまどかに、私は笑いかけた。
「そこまで、送ってくよ」
まどかはほむほむのいる部屋をちらりと見て、うなずいた。
雨はその強さをいや増していた。
「雨、強くなったねーっ」
「うん……」
戸惑いながら、まどかはうなずく。
暗い夜道。強い雨もあって、通りを歩くのは私とまどか二人だけ。
「さやかの事さ……残念だったね」
「……加奈ちゃんも。杏子ちゃんと、仲良かったのに……」
ざあーっと雨の音が辺りを支配する。
「……ほむらちゃんの事、加奈ちゃんは、知ってたの?」
「うん。まあね」
ほむほむの事――ほむほむが、まどかのために何度も時間を巻き戻している事。
「私もさ……繰り返してたらしいんだ」
「……え?」
「ほら、いたじゃない? 小豆色の魔法少女。公園で、ほむほむと一緒に私達を助けてくれた奴」
「あ……うん。マミさんも言ってた……麗羅ちゃん、だっけ」
「マミさんにはそう名乗ってたんだ。私には最初、穂村明海って名乗ったんだよね」
「え? それって……」
「そ。暁美ほむらから取った偽名。本名は捨てたって言ってた。――あれね、私」
「ええ!?」
まどかは目を瞬く。
だよねえ。驚くよね。顔も違ってたしさ。
「あいつ、繰り返した後の私だったんだ。時間を巻き戻る時に、過去の自分――今の私自身を、この世界に連れて来て。ワルプルギスの夜に戦うために、ほむほむを一人にしないように、魔法少女になったんだって」
「そう言えば……あの子は……」
「死んだよ。もう、いない」
まどかは息を呑む。
そんな顔しないで。私、もう大丈夫だから。私は、くしゃりと笑う。
「魔女になっちゃった。自分の存在がほむほむを同じ時間軸に留めてるって、誤解しちゃって。一緒に繰り返してるなら、ほむほむが自分の事知らないはず無いのにね」
「加奈ちゃん……」
今にも泣きそうなまどかの顔を、私はぱちんと両手で挟んだ。「う」とまどかは声を漏らす。
「そんな顔しない! 確かに同一人物ではあるけども、今の私の話じゃないんだから」
そう。未来の私がどんな結末を迎えていようとも、それはイコール今の私って訳じゃない。
ほむほむだって、未来を変えようとしている。そのために戦っている。――ほむほむが未来を変えられるなら、私だって違う結末を迎えられる可能性はある。
「まどかは、魔法少女にならないで。私、それが言いたくて」
「でも……ワルプルギスの夜は、ほむらちゃんだけじゃ……!」
「大丈夫。ほむほむを、一人で戦わせたりはしないから」
「加奈……ちゃん……?」
私は振り返り、まどかに笑いかけた。
「彼女の願い、汲んでやって欲しいんだ。真っ暗な迷路の中で、あんたは一筋の希望の光だから」
「……」
まどかは困ったようにうつむいてしまう。
もう、まどかの家の前まで来ていた。私はまどかの頭にポンと軽く手をやる。
「じゃあね、まどか」
「送ってくれて……ありがとう」
「うん」
まどかは、家の中へと入っていった。それを見送って、私は踵を返す。
降り頻る雨の中、その白い生き物は路上に座ってこちらを見つめていた。
2011/07/25