歪む世界。じわじわと迫り来る加奈の顔を模したモノたち。
 不意に、一陣の青い閃光が加奈を取り囲む輪を斬り払った。何が起こったのか認識する間もなく、加奈は腕を引かれ抱え上げられていた。投擲された剣が、裏庭に続く大きな窓を割る。加奈を抱えた人物は外に出ると高く飛び上がる。今にも落ちて来そうなほど大きな月が、陸橋の向こうに見えていた。
 薄暗い路地裏に、加奈はそっと降ろされた。まだ足に力は入らず、ぺたりと冷たい道の上に座り込む。
「ここまで来れば、さすがに平気っしょ。加奈、大丈夫?」
 加奈は、ぽかんと彼女を見上げる。青を基調とした服装に、白いマント。その手に携えられているのは、一本の細い剣。
「さやか……?」
「ごめんね。なぎさと交代で見張るようにはしていたんだけど、ちょっと今夜は色々あってさ。まさか、このタイミングで加奈も動いちゃうとは……」
 へたり込んだままの加奈に、さやかはハンカチを差し出す。加奈は初めて、自分が涙を流している事に気が付いた。
「わ……や、やだな、私、こんな事で……」
 慌ててうつむいた加奈の頬を、さやかのハンカチが拭った。
「仕方ないよ。加奈は一度、同じような怖い目に遭ってるんだもの。魔女になった自分に殺されそうになるなんて経験したら、誰だってビビるって」
 ぴたりと、加奈は動きを止める。
 ……魔女。
 加奈は、さやかの手をやんわりと掴んだ。
「さやか……どうして、あんたがここにいるの……?」
 魔女。人々に災いを振りまく、呪われた存在。そして、魔法少女達が戦いの果てに行き着く姿。
 しかしそれは、もういなくなったはずなのだ。まどかが、その理を覆した。
 泉から水が湧き出すように、どっと記憶の波が押し寄せて来る。社宅と、そこに残して来た家族。あの世界で触れていたアニメや漫画やゲーム。放送休止のお知らせ。日常の中に突如として現れ、加奈を非日常へと誘った少女。そこで出会った仲間たち。目の前で変貌するもう一人の自分。一人の少女の犠牲。魔獣との戦い。そして、杏子の涙……。
「そうだ……。あれは、私の家じゃない……。私のお母さんとお父さんじゃない。この世界に、私の家族なんているはずがない……そして、美樹さやか。あんたがここにいるはずがない。だって、あんたは円環の理に導かれたはず……!」
「そっか……。あんたも、覚えてるんだったね」
「どうして……あんたは一体……魔女が作り出した偽物? ううん、魔女はもういないはず……でも、魔獣はこんな事は……」
 混乱する加奈に、さやかは微笑んだ。
「あたしは、あたしだよ。……加奈。落ち着いて聞いて。ほむらは……」





+++叛逆の物語(後編)





 ほむらのソウルジェムは穢れを溜め込み、限界を迎えていた。
 ここまでは、魔法少女の終焉として一般的な事例と何ら変わりはない。後は魔女へと姿を変えるその前に、円環の理に導かれこの世から姿を消すだけ。
 しかしほむらは、円環の理――鹿目まどかが迎えに来る事が出来ない状態にあった。キュゥべえによる干渉遮断フィールドが、まどかの救済を阻害したのだ。
 ほむらは円環の理に導かれる事もなく、魔女になり切る事も出来ず、自らのソウルジェムの中に結界を生み出した。見滝原そっくりの街を作り出し、記憶を改竄した仲間達を犠牲者として招き入れて。
 崩れ行く街を駆けながら、加奈はさやかの話を胸の中で反芻する。全ては、キュゥべえの企みによるもの。しかし、そもそもほむらのソウルジェムがこんな事になってしまった原因は……。
 まどかとマミとも合流し、白と黒のタイルが互い違いに敷き詰められた通路を駆け抜けながら、加奈は下唇を噛む。
 ふと、加奈は駆けていた足を止めた。気が付けば、辺りは誰もいなくなっていた。一緒に走っていたはずのさやか達の姿も見えない。それどころか場所さえも、丘の上の公園へと変わっていた。ラベンダーの花が咲き誇り、その中に一人の少女が立ち尽くしている。
「――ほむほむ!」
 伸ばした指先が触れる前に、彼女は砂となり崩れ去った。辺りに咲き誇るのは、山茶花。
 エコーのかかったような声が、辺りに響いた。
「まどか……こんな所まで迎えに来てくれて、ありがとう……」
 鐘の音が鳴る。幾重にも重なったその音は、時の訪れを告げていた。

 一気に視界が開ける。山茶花は消え去り、幾重にも連なる橋の一つに加奈は立っていた。どうやら、通路を抜け出したらしい。
 遠くに見える橋の上の卵は、赤い液体を滴らせていた。その一部は欠け、上顎から上が切り落とされたかのような巨大な人型の魔女が出て来ていた。兵隊のような姿をした使い魔に先導され、橋を進んで行く。彼女が歩を進める度に、白い歯が零れ落ちる。背中のリボンは、まるで意志を持つかのように、辺りの建物を破壊する。その様子はさながら、道に縋り進むのを拒もうとしているかのようだった。
 彼女が進む先にあるのは、中世を舞台とするアニメやゲームで見たような、断頭台。
「あれが……魔女」
 震える声で、マミが囁く。いつの間にかはぐれた仲間達は、いつの間にか加奈の周りにいた。
「怖がらないでやって。ああ見えて、一番つらいのはあいつ自身なんだ」
 そう言ったのは、さやかだった。魔女の記憶を持つ彼女。
「笑えねーな」
 一人、少し離れて柵の上に座る杏子が呟く。ふらりと、加奈の身体が揺れた。
「加奈ちゃん!?」
 加奈は、膝から崩れ落ちるようにしてその場にへたり込んでいた。
「なんで……どうして……どうして何も言ってくれなかったの? ずっと一緒にいて、友達だと思ってたのは私だけなの? ほむほむ、私の事うっとうしく思ってたんだ。なのに私、ベタベタ絡んでばっかりで。ほむほむは、まどかとの想い出を誰にも邪魔されたくなかったのに。やっぱり……こうなっちゃったのは、私のせい……」
「違うよ」
 きっぱりと、さやかが言い放った。断頭台へと進むほむらを見つめながら、さやかは続ける。
「あいつは加奈に、普通の子でいて欲しかったんだと思う。家族も友達もいない別世界で生きていくんじゃなくて、元々いた世界で、家族や友達に囲まれて幸せに暮らしていて欲しかった。とは言っても加奈のいた世界って、私達じゃ認識する事も出来ない特殊な次元だから、この世界に加奈の居場所を捏造する形になっちゃったけどね」
 さやかは、困ったように加奈に笑いかける。差し出された手を、加奈は握った。加奈を立たせながら、さやかは更に続けた。
「加奈だけじゃない。杏子に、マミさん……あたしやベベが一緒に暮らしたのはあたし達の意志だけど、誰もその状況に違和感を抱かなかった。ほむらの記憶操作が働いたって事だよ。ほむらは、その状況を受け入れた。誰も、一人になってしまわないように。かつてはすれ違ったり敵対したりもした者達が皆、仲良しであるように。きっと、そうずっと願っていたんじゃないかな……」
 まどかは、厳しい表情で呟く。
「……ほむらちゃんだって、ひとりぼっちになって欲しくないのに」
「うん。だから、あたし達であの子を止めよう」
「待ってくれ! あれは暁美ほむらなんだ。君たちは、仲間と戦う気かい!?」
 加奈達の足元に現れたのは、白い小動物だった。
 インキュベーター。全ての元凶。
「キュゥべえ……」
「へえ、あんた普通にしゃべれたんだ」
 ずっとほむらの方を見つめていた杏子が、初めて振り返り冷めた口調で言った。キュゥべえは目を瞬く。
「残念だわ、キュゥべえ。これでもう、ベベの話を信じるしかないみたいね」
 加奈はふいとキュゥべえから目をそらす。こいつを責めてもどうにもならないし、こいつは悪いとさえ思っていない。散々、経験して来た事だ。
 一番友好的だったマミにさえも見限られたキュゥべえは、まどかへとその矛先を向けた。
「まどか。君ならほむらを救えるはずだ。君が持っている本当の力を使いさえすれば!」
「えっ……」
 さやかは、ポンとまどかの肩を叩く。
「そいつは放っときなまどか。大丈夫、さっきあたしが教えた通りにやればいい」
 もう誰も、キュゥべえの話を聞きはしなかった。

 ベベの目がスロットのようにくるくると変わり、マミの足元から街へと飛び降りる。
「パパパパパパパ……パルミジャーノ・レッジャーノ!!」
 叫び、ポンとベベの姿が掻き消える。現れた大きな型にミルクが注がれ、一人の女の子へと形を変えた。加奈達よりも幼い。魔法少女と思しき白いロングヘアの少女は、手にしたラッパを吹き鳴らす。ラッパより湧き出た泡が宙で弾け、異形のもの達が舞い降りる。どれもこれも、見覚えのある姿ばかりだった。かつて魔法少女の敵だった、魔女の使い魔達だ。
「え……あれ、ベベなの!?」
 加奈はマミを振り仰ぐ。魔女は、元々魔法少女だった存在。ならば、ベベにだって人としての姿があっても何ら不思議ではない。現に、元の世界では一部でアニメに登場した魔女達について魔法少女姿の考察が行われていた。それでも、実際にその姿を目にすると確認せずにはいられなかった。
 マミは、微笑みながらうなずいた。
「私も驚いたわ。あんな可愛い女の子だったなんて」
 建物の陰から、眼鏡をかけ三つ編みにしていた頃のほむらに似た兵隊が、大量に出て来る。影の魔女の結界のような空間に立つさやかが、剣を振りかざす。
「慌てなさんな。あんたを外に出そうってわけじゃあ、ない!」
 さやかは、手にした剣を己の胸に突き刺した。ギョッとする加奈達の前で、舞い散った血液から大きな影が揺らめくように登場する。
 人魚の魔女。オクタヴィア・フォン・ゼッケンドルフ。
 騎士の兜を被った巨大な人魚は、ほむらの行く手を遮り、板に拘束された彼女の両手を優しく掴む。
 さやかの方は、魔女の姿と人の姿で別々に動けるらしい。人型の方のさやかは剣を指揮棒のように振るい、薔薇園の魔女の使い魔達を統率していた。さやかに合わせてか、アントニー達の足はアニメや改変前の世界で見た時とは異なり、人魚の尾ひれのようになっていた。
 キュゥべえはしっぽをピンと立て、その光景を見つめていた。
「き、君たちは……いったい……」
「私達は、かつて希望をは運び、いつか呪いを振りまいた者たち」
 ピョートル達を操りながら、なぎさが答える。さやかが剣を振るいながら、後を続けた。
「そして今は、円環に導かれ、この世の因果をはずれた者たち」
 なぎさが出現させたラッパから、次々と使い魔が現れる。既にさやかが薔薇園の魔女の使い魔の指揮を執っているように、現れたのはお菓子の魔女や人魚の魔女の使い魔に限らなかった。委員長の魔女、影の魔女、暗闇の魔女……数々の使い魔達が入り乱れ、ほむらの使い魔達を相手取る。さやか自身もまた、剣で兵隊のような使い魔達を蹴散らしていた。
「こうすればあんたの目を盗んで立ち回れると思ったのさ、インキュベーター! まどかだけに狙いをしぼって、まんまと引っかかってくれたわね」
「そんな……じゃあ、君たちもまた、円環の理……!」
「まあ、要するにかばん持ちみたいなものですわ。まどかが置いて行った記憶と力を、誰かが運んでやらなきゃならなかったからね」
「いざとなったら、私かさやかかどっちか無事な方が、預かっていた記憶をまどかに返す手はずだったのです」
 なぎさは顔を両手で覆う。マスクでも被ったかのように、その顔が魔女のものとなる。白いまん丸の顔に、大きな瞳。加奈は隣に立つマミを盗み見たが、改変前の記憶を持たない彼女は特に何を感じた様子でもなかった。
 ふいに、キッとその表情が引き締まる。そしてマミは手からリボンを伸ばし始めた。高所へとその先を結び付けて行く。
 それを見て、加奈は我に返る。ぼんやりとさやかとなぎさの戦いを見ているばかりではいけない。加奈だって、魔法少女なのだ。
 指の間に挟むようにして両手に四本ずつナイフを握りしめると、戦いの場へと飛び降りて行った。

 足元へと投擲したナイフの形を、一本の道へと変える。宙に浮かぶ鉄の橋を駆ける加奈の横を、桃色と黄色の光が追い抜いて行く。
 桃色の矢が、閉じた天井にヒビを入れる。気付き、まどかの方へと向かおうとする兵隊達に、加奈はナイフを投げつける。使い魔達の足元に突き刺さったナイフはみるみると上へと伸び、鳥籠の中にそれらを閉じ込めた。上空より降って来た黄色い連撃が、籠の中を一掃する。
 加奈は兵隊達のいなくなった道へと飛び降り、後に続いて来る隊列へとナイフを投げつける。建物の向こうへと周り込めば、少し先でさやかと杏子が背中合わせに立ち手を繋いでいるのが見えた。
 しんみりとした様子の二人の横を、なぎさが板状の瓦礫に乗って通り過ぎる。
「なぎさは、もう一度チーズが食べたかっただけなのです」
「うっ……おいこら、空気読めってーの!」
「……バッカヤロー!」
 二人は互いに背を預け、剣と槍とを振るう。加奈はナイフを大剣とも呼べる大きさへと変化させると、その中へと飛び込んだ。
「杏子! さやかとちゃんとお話しできた? ずっと会いたかったんだもんね」
「う、うるせー!」
「まったく、なぎさと言い、加奈と言い、あんた達はもー……」
 ビル群の向こうに、巨大な兵隊が現れる。加奈は二人の横を駆け抜けて行くと、鞭を振るう使い魔達に向かってナイフを投げた。ナイフはそれらの身体に刺さるも、何のダメージも与えない。
 ナイフが光り、形を変える。光と光が繋がり、縄のようにそれらを捕縛する。
「ティロ・フィナーレ!」
 大きなパフェケーキの形をした戦車が、橋の上から使い魔達を砲撃する。パフェの上には、ラズベリー、リンゴ、チーズ、メロン、そして家の形をした砂糖菓子が盛り付けられている。拘束された使い魔達は、連鎖するように爆撃を受ける。
 人魚の魔女は、得物の形を剣から槍へと変え、天井へと突進していた。夜空のヒビが広がる。
 まどかは、加奈がナイフで作り出した空中の道を渡り、ほむらの立つ橋へと駆け上がって行く。
「ほむらちゃん!」
 まどかが弓を上に向けて射ると、ボロボロだった天井は遂にその一部が崩れ落ちた。加奈はビルの屋上で立ち止まり、それを眺めていた。崩れた穴から見下ろしている、赤い瞳。なぎさの叫ぶ声がする。
「見えた! インキュベーターの封印なのです!」
「あれを壊せば、あんたは自由になれるんだ、ほむら! インキュベーターの干渉を受けないまま、外の世界で、本当のまどかに会える!」

『これ以上、私とまどかの間に入って来ないで……』
 夜景を一望する丘の上で告げられた、拒絶の言葉。
 あの時加奈は、ほむらを一人にしてはいけなかった。ずっと一緒にいると、そう約束したのに。どんなに自分が傷付いたって、彼女をひとりぼっちにしてしまうくらいなら。
『一緒に来てくれた事……感謝してるわ』
 そう、彼女は言っていたのに。
 加奈に居場所を当てがって、自ら一人で消える事を選んで。こんな事、あって良いはずが無い。
 ほむらは呻いていた。自らのソウルジェムの中で結界を作り出したほむら。殻はまだ割れていない。完全な魔女にはなっていないはずだ。まだ、希望はあるはず。
 山茶花の咲く頭を包み込み、まどかは語り掛けていた。
「駄目だよ、ほむらちゃん。ひとりぼっちにならないでって行ったじゃない。何があっても、ほむらちゃんはほむらちゃんだよ。私は絶対に見捨てたりしない。だから、あきらめないで!」
 ふと、白い光がまどか達を包んだ。
 加奈は目を見張る。光が消えたそこには、魔法少女の姿をした暁美ほむらが立っていた。
「ごめんなさい。私が意気地なしだった。もう一度あなたと会いたいって、その気持ちを裏切るぐらいなら……」
 まどかは微笑み、矢を弓に番える。
「さあ、ほむらちゃん。一緒に」
「ええ」
 ほむらがまどかの弓に手を添えると、山茶花の代わりに桜の花が咲き誇った。
 矢が放たれる。薄桃色の光は外に見える透明のフィールドを破壊し、上空で百八十度旋回すると、辺りを取り囲んでいたキュゥべえ達へ降り注いだ。
「わけがわからないよ」
 幾多もの声が重ね合わさり、その場にいたキュゥべえは一匹残らず消滅した。





 加奈達三人は、荒野の中心に佇んでいた。加奈の目の前には、一つの寝台。弓を抱くようにして、そこに横たわるほむら。その頭には、まどかから貰った赤いリボンが結ばれている。
 結界の外へと、帰って来たのだ。
 隣に立つマミが、黒く濁り切ったソウルジェムを彼女の胸の上に置いた。
「ほむほむ……」
 じんわりと目頭が熱くなる。マミの手が優しく加奈の頭を撫で、加奈はすがりつくようにマミの肩に頭を預けた。
「……行っちまったのか? さやかも、あんたのベベも」
 声に、加奈は頭を上げる。杏子は背を向け、少し離れた瓦礫の上に座っていた。周りでは、使い魔達が上条恭介や仁美、まどかの家族、中沢、和子の乗ったソファや椅子をゆっくりと着地させている。
 マミは空を見上げる。釣られるようにして、加奈も上を見上げた。結界の中とは違う、どこまでも広がる星空。
「いいえ。今ようやく、彼女を連れて行くところよ」
「あ……!」
 加奈は思わず声を上げる。杏子も、大空を振り仰ぎ立ち上がった。
「あれが、鹿目まどか……?」
「ええ。いつか私達を導く、円環の理……」
 空に、亀裂が入っていた。亀裂は広がり、一つの大きな穴となる。暗い闇の穴ではなく、異次元へと繋がる光の入口。桜の花びらが道となり、ほむらまで続く。光の中から溢れるように出て来る、数々の使い魔達。使い魔達に囲まれて降りて来る、おとぎ話のような白いカボチャの馬車。しかしそれを引いているのは馬ではなく、象だった。御者の席には、さやかとなぎさの姿もあった。
 そして最後に出て来たのは、白いワンピースに身を包んだ、神々しい姿の少女。
「そうだった。私は、ほむらちゃんのために……。こんな大事なこと、忘れてたなんて」
「ま、よけいな邪魔がはいったからね。ちょっとした、回り道になっちゃったかな」
「やれやれなのです」
 なぎさはシャボン玉を吹きながら言う。
 まどかはゆっくりと、ほむらの元へと舞い降りて行く。白い手袋をはめた手が、ほむらへと伸ばされる。
 加奈は潤む瞳で、その光景を見つめていた。これで良かったのだ。ずっと、ずっとほむらは一人で頑張って来た。まどかを思い続けて。ようやく、二人は真の再会を果たした。これからは、まどかと一緒にいられるのだ。ほむらにとって、これ程の幸せはないだろう。
 寂しくないと言えば、嘘になる。でも、きっと、これが最後の別れではないから。加奈もまた、いつか出会う日はやって来るから。それまでは杏子とマミと、この世界に残る仲間と共にもう少しだけ戦い続けよう。杏子とゲームセンターに行ったり、マミとお茶会をしたり。学校へも通ってみたり。そんな、当たり前の幸せを大切にしよう。
「待たせちゃって、ごめんね。今日までずっと頑張って来たんだよね」
 ほむらは、薄っすらと目を開く。桜色の唇が、小さく動いた。
「まどか……」
「さあ、行こう。これからはずっと一緒だよ」
 ニィと、ほむらの口元が三日月型に歪んだ。
「ええ、そうね……この時を、待ってた……!」
 言うなり、ほむらはまどかの腕を強く掴んだ。
「……やっと、捕まえた」
 闇が風のように辺りを取り巻く。空気が凍り、世界が凍る。加奈はマミから離れ、ほむらへと駆け寄る。目の前に現れた氷の棘が、それを遮った。
「ほむほむ!?」
「お、おい!」
「何よこれ!? 暁美さん!?」
 杏子とマミも、辺りの様子の変化に不安の声を上げる。なぎさがハッとしたように叫んだ。
「ソウルジェムが……呪いよりもおぞましい色に!」
「何なのあれ……欲望? 執念? いや、違う! 暁美ほむら! あんた、いったい……!?」
「理解できないのも当然よ。ええ、誰にわかるはずもない。この思いは、私だけのもの。まどかのためだけのもの……!」
 世界は凍りつき、闇に侵食されて行く。花びらの道もまた氷が出現し、さやかとなぎさの乗っていた象が横倒しになる。
 まどかは悲痛な叫び声を上げていた。もはや、闇と氷に包まれ二人の姿は見えない。
「ほむらちゃん……駄目……っ。私が、避けちゃう!」
 パリンと硝子の割れるような音を最後に、加奈は闇に包まれた。

「言った筈よ、まどか。もう二度と、あなたを放さない……」
 暗闇の中、ほむらの声がしていた。





 闇の中に、加奈は佇んでいた。立っている、と言うのが果たして正しいのか、加奈には判断がつかなかった。何も無い空間に浮遊しているかのような、空虚な感覚。この世界を、この事象を、加奈は知っていた。忘れるはずもない。
 まどかが自らを犠牲にした、あの時。魔法少女を救った、あの力。
 世界を、引いては時空を渡り歩く素質を持つ加奈もまた、ほむらと共にその場にいたのだ。
 しかし今、加奈は一人だった。黒い羽根が、足元に舞い落ちる。上を仰ぎ見れば、遠くにほむららしき姿があった。高く、高く、手の届かない場所に。
「ほむほむ……」
 彼女は、何を思ってこんな事をしてしまったのだろう。まどかの迎えを拒み、その力を我が物にして。
 何を思って? 考えるまでもない。まどかのためだ。彼女の願いも、絶望も、全てはまどかのためのもの。それを理解した上で、加奈はほむらのために残る事を選んだ。魔法少女になる事を選んだ。
 ――でも。
「あんたのそばにいるのはまどかだけじゃないんだよ、ほむほむ……」
 ふと、下から光が差した。温かな光。懐かしい声。加奈は目を見開く。……あれは。
「私の世界……?」
 少し古い、白い壁の社宅。その横にある小さな公園。それは、加奈の実家に他ならなかった。元々いた、本来加奈がいるべき世界。
 辺りを渦巻く闇の中から、懐かしい声も聞こえる。世界の改変。どうやらその影響で、今このひと時だけあの世界も近いものとなっているようだ。
 加奈は、自ら世界を渡る術を持たない。加奈を連れて来たかつての加奈達が望んだその力を、加奈は望まなかった。
 でも今ならきっと、能力に関わらず世界を渡れる。望む世界へ。望む時間へ。
 加奈は、光へと手を伸ばした。





 青空の下を、少女は駆ける。いつもの制服を着て、教科書の多くを机に置いたままにしているがために薄い鞄を手に携えて。
 一本の木の下で、加奈は立ち止まった。
「そんな所で何やってるのー? 早くー! 行っちゃうよー!」
 木の上にいる友人に向かって、彼女は叫ぶ。
「……彼女も、元の世界での生活を取り戻せば良かったでしょうに」
 道の中央、パラソル付きの机を前に座ったほむらが、加奈を横目で見ながら呟いた。
「……呆れた。あんた、本当に解ってないの? どうしてあの子が、この世界に残る事を選んだのか」
 さやかは、キッとほむらの背中を睨む。ほむらは気だるげに、さやかへと視線を動かした。
「あなたと佐倉杏子を引き合わせた事であの子があなたとばかり一緒にいる事はなくなったけれど、その事で上月加奈と佐倉杏子の距離が開いてしまったのは、失敗だったかしら……?」
「あんたねぇ……っ!」
「まあ、今となってはもう関係無いわね。上月加奈は、あなたと違って何にも覚えていないのだから」
 ほむらはスッと立ち上がると、さやかへと顔を近付ける。
「あなたも、もっと素直に喜べばいいんじゃないかしら。再び人間としての人生を取り戻せた事を。いずれは、何が起こったのかも忘れて、違和感すら感じなくなるわ……」
「だとしても、これだけは忘れない……あんたが、悪魔だって事は!」
「せめて、普段は仲良くしましょうね。あまり喧嘩腰でいると、あの子にまで嫌われるわよ?」
 脅すような低い声で言うと、暁美ほむらは消え去った。机も、椅子も、パラソルも消え去り、後には舞い散る黒い羽だけが残されていた。

 自分は、もっと大きな存在の一員だったはず。けれども今はもう、その感覚を取り戻す事が出来ない。魔法少女とは違う力も使っていたはずなのに、それさえももうどんなものだったか分からない。
 隣では恭介が今度発表会で演奏する曲について熱く語っていて、仁美はうっとりした表情でその話に耳を傾けている。もう二度と、戻って来る事はないと思われていた日常。ほむらには啖呵を切ったものの、このまま偽りの平穏に身を委ねてしまいたくなる。事実、円環の理の一部を奪ったほむらの力は強大過ぎて、さやかには抗う術などない。
『さやか。ちょっと、顔貸してもらえる?』
 頭の中に直接聞こえて来た声に、さやかはふと立ち止まった。一拍遅れて、恭介と仁美が立ち止まり怪訝げに振り返る。
「さやかさん? どうしたんですの?」
 さやかは、きょろきょろと辺りを見回す。通学路沿いに立つ木立の陰に、じっとこちらを見つめる少女の姿があった。彼女は、さやかと目が合うとうなずいた。さやかにテレパシーを送ってきたのは、彼女のようだ。
「あ……、ごめん、仁美、恭介。先に行っててくれない? ちょっと、忘れ物して来ちゃって」
「今から取りに戻るのかい? 貸せるようなものなら……」
「ああ、うん。大丈夫。ちょっとそこのコンビニで買って行くからさ。人に借りる訳にもいかない物だから」
「行きましょう、上条君。さやかさん、それじゃあ、教室で」
「うん。ごめんね」
 恭介と仁美が去るのを見送り、さやかは木立を振り返る。少女は、まだそこに佇んでいた。黒いボブショートの、小柄な少女。
 さやかがそちらへ近付くと、彼女はいざなうように木立の中へと入った。さやかも後に続いて奥へと進む。
 少女は、あまり奥へは進まなかった。通学路から見えない程度の場所。立ち止まった後ろ姿に、さやかは声を掛ける。
「ねえ、あんたなんだよね? さっき、あたしに話しかけて来たのって。いったい……」
「突然ごめんね。でも、時間が経てば経つほど、暁美ほむらの記憶操作の影響は強くなるだろうから」
 さやかは目を見開く。
 彼女は、暁美ほむらの記憶操作と言った。つまり、彼女は覚えているのだ。元の世界を。ほむらが、改変を行った事を。
「あんた、いったい……」
「美樹さやか……って、もうこんな呼び方する必要無いんだっけ。うう……どうにも、慣れないなあ……」
 さやかは目を瞬く。この頼りない物腰、明るい調子の話し方、容姿こそ違えども心当たりがあった。
「まさか……加奈……?」
「……うん」
 ボブショートの少女はうなずく。その顔はさやかの知るどの加奈とも違っていたが、彼女がそう言う魔法を得意としていた事はまだ覚えている。
「……どの加奈なの? もしかして、あそこから……?」
 加奈は首を振る。
「あんた達が去って行ったって所の事なら、違う。私は、まどかが魔法少女になる前の時間軸から来た上月加奈。過去の自分を次の駒に用意しながら、一人で無限ループを続けていた滑稽なピエロの加奈だよ」
 さやかはますます訝るばかりだ。加奈が、特殊な世界から来た人物だと言う事は知っている。しかし、まどかが救済する前の時間軸と交わるなどと言う事があり得るのだろうか。まどかは、過去も未来も全ての魔法少女を救済したのだ。そんな事が可能なら、まどかの救済に穴があったと言う事になりはしないか。
「えーっとね。私も、自分のいた時間軸から連れて来させられたから、全部が全部は把握していないんだけど……こっちで、世界の改変? が、あったんだって?」
 さやかはうなずく。少なくとも、彼女が上月加奈である事には間違いなかった。ならば、警戒の必要もない。
「びっくりしたよ。ほむほむの時間遡行に乗じて過去の自分を連れて行こうとしたら、私が別の世界線に連れて行かれる事になるなんてさ。私を連れて来た私――ややこしいから、そっちをベータとするね。上月加奈ベータの話じゃ、改変があって、その時に元の世界の全時間軸との交わりが起こったんだって。で、ベータは私が元の世界を訪れる時間を狙って、元の世界へと戻ったの」
「何のために……?」
 さやかは恐る恐る尋ねる。以前の加奈は、自分が死んでしまった時のために過去の自分を予備として連れて来ていた。遠回しな、そして無自覚な、生へのあきらめ。まさか、また同じ手段を繰り返すつもりなのだろうか。
 しかし目の前の上月加奈が放った言葉は、あきらめなどではなかった。
「私には、世界との繋がりを断ち切る能力があるから」
 真っ直ぐにさやかを見据え、加奈は続ける。
「言い換えれば、意図的に別の世界へと移動する能力。もっとも、時空を歪ませる力はないから、ほむほむがその魔法を使ってくれるか、似たような事象が起こってくれなきゃ発動出来ない訳だけど……。
 でも、歪んだこの世界なら大丈夫。まだ違和感が残っていて、そして、本来ならばこの世の理から外れていると言うあんたとならば」
 さやかは、加奈が何を考えているのか理解した。
 加奈のいた世界。つまりは、ほむらの力が及ばない世界。
「例え移動の条件がそろっても、ずっとそちらにいるつもりはないよ。逃げ出すのが目的じゃないからね。ただ、そうする事で記憶の喪失を少しでも遅らせる事は出来るんじゃないかって。
 それに、この世界にいる間でも、私はその能力からほむほむの力の影響が少ない。だから、話す事で思い出させたりだとか、私自身も魔法少女として力を貸したりだとか、出来るんじゃないかって……そう、加奈ベータは思ったみたい」
 加奈は、学校の方向を見つめる。その横顔は確かに別人のはずなのに、その眼差しは加奈以外の何者でもなかった。
「本当は、ベータ本人と手を組めたら良かったんだけど。すっかり何が起こったのか忘れちゃったみたいで。我ながら、あきれちゃうよ。
 さっきのさやかとほむほむの話、聞いてたんだ。それで、さやかとなら話が早いかも知れないって思って……ただ、私が持ちかけているのはつまり、ほむらに反抗しようって話。彼女の力によって普通の中学生としての生活を取り戻したのに、またそれを失う事になるかも知れない。だから……」
 言いよどむ加奈の額を、さやかは軽く小突いた。
「なーに言ってんのさ。あたしは、正義の魔法少女だよ? あの悪魔に対抗する手段があるってんなら、大歓迎だっての!」
 それから、眉尻を下げて微笑んだ。
「加奈こそ、いいの? 大好きなほむらと敵対する事になっちゃって。……それだけじゃない。その話だと、あんたは自分の世界に帰る事も出来るんじゃないの?」
 加奈は虚を突かれたように言葉を失い、目を伏せる。
「……あたし、ほむらにはあんな啖呵切ったけどさ。いざ仁美や恭介と会ったら、泣きそうになっちゃって。もう、二度とあんな風に話す事は出来ないと思ってたから。家族とか友達とか、二度と会えなくなって初めて、どんなにかけがえのない大切な存在だったか思い知らされたんだよね……。
 それに、こう言っちゃあ悪いけど、今のほむらにはまどかしか見えていない。どんなにあんたがあいつの事を思ったって、想いが届くとは限らない。
 ねえ、加奈。あんたは、あいつのために家族とも友達とも別れて、本当にいいの? 後悔しない?」
 加奈は、うつむいていた顔をくいっと上げる。そして、強くうなずいた。
「後悔なんて、あるわけない」
 さやかは目をパチクリさせる。加奈はくしゃりと笑った。
「……なーんて、さやかみたいにきっぱり言い切れればかっこいいんだけど。多分、すると思う。帰れば良かったって思う事もあるだろうし、家族とか友達とか、元の世界が恋しくて泣く事もあるかも知れない。
 でも、ここで帰ったら、それはそれで確実に後悔しちゃうもん。どうして一人だけ逃げ出してしまったんだろう、どうしてほむほむのそばにいなかったんだろうって。
 私の願いはね、ほむほむと一緒にいる事なんだよ。あの子に幸せになって欲しいから。あの子の孤独な戦いを終わらせたいから。願い方こそ違ったけれど、私も、ベータも、そこは一緒。だから私、あの子のためなら頑張れるの」
「……そっか。余計な心配だったね」
「ううん。さやかには、もし私が泣きべそ掻いたりしたらちゃんと叱って欲しいし。頼りにしてますよ、先輩っ」
 おどけた調子で、加奈は言う。さやかは笑った。
「まったく、加奈もバカだよねぇ。報われないかもしれないのに」
 加奈はニヤリと笑って答えた。
「うん、よく言われる」
「得意げに言うなってーの! ……でもあたしは、あんたのそう言う所結構好きだよ」
 加奈は目をパチクリさせる。そして、くいっとさやかに背を向けた。その目尻には、幽かに涙が浮いているのが見えた。
「おっと……そろそろ、学校行かないとまずいかな? 引き止めちゃって、ごめんね」
「加奈は学校へは行かないの?」
「無理無理! 自分と一緒に学校なんて、絶対ボロ出るって! ほむほむに気付かれたら、動きにくくなっちゃうだろうし。そのための、この新しい顔なんだから。前の穂村明美バージョンだと、ほむほむと面識あるらしいからね」
 そう言って振り返った加奈の目元には、もう涙の雫はなかった。

 木立を出て通学路へと戻ると、まだ生徒達が行き交っている最中だった。あまりにも平々凡々とした風景に、先程までの木立での会話が夢か幻のように思えて来る。
 さやかは携帯電話を開き、そこに登録した電話番号を確認する。
 夢ではない。確かに彼女はいたのだ。悪魔となり、神の力をも奪ったほむらへの対抗手段について、言葉を交わした。
「さやかーっ! おっはよーう!」
 立ち尽くすさやかの背中に、タックルのごとく勢い良く飛びついた者があった。倒れかけた姿勢を持ち直し、振り返る。加奈と杏子がそこにいた。先程のボブショートの方ではなく、素顔の加奈だ。その身に着けているのは、見滝原の制服。またしても彼女は、偽者の家族をあてがわれたらしい。
「おはよう。相変わらず、元気だねぇ……」
「さやか今、妙な所から出て来なかったか? どこ行ってたんだ?」
 木立の方を覗き込みならがら、杏子が問う。
「ちょっと、近道を……」
「マジ!? こっちの方が早いの!?」
「あんたの家は、そっちの方じゃないだろ」
 加奈も杏子も、りんごを丸かじりしていた。さやかの視線に気付き、杏子が鞄を開ける。
「さやかも食うかい? りんご」
「もう、学校直ぐそこだから遠慮しとく。後でお昼にでも貰うよ……って、何それ! 杏子、あんた鞄の中、りんごしか入ってないじゃない! 教科書は!?」
「そんなの、教室に置きっぱに決まってるじゃん」
「はなっから、家で宿題する気ないじゃない」
 わいわいと騒ぎながら、白い門を抜け校舎へと向かう。
『彼女の力によって普通の中学生としての生活を取り戻したのに、またそれを失う事になるかも知れない』
 暁美ほむらが悪魔である限り、彼女が円環の力の一部を我が物にしている限り、彼女に敵対しない訳にはいかない。この偽りの世界を、許容する訳にはいかない。
 それでもまだ、このひと時だけは平穏を。日常を。そう願うのは、罪だろうか。
 もう、誰も傷つく事のないように。傷つけてしまう事のないように。
 さやかはふと立ち止まり、空を仰ぐ。舞い散る桜の花びらの向こうには、青い大空がどこまでも続いていた。


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2014/05/11