「凪」
青空の下に広がる草原。彼と出会えるのは、精神世界だけだった。
凪。それは、クロームの本当の名前。
沢田綱吉という少年の霧の守護者として戦う。そのためにも彼は、クロームを必要としてくれた。
いつもは二人しかいないその世界に、その日はもう一人、少女の姿があった。長い黒髪の、背の高い女の子。
「骸様、あの子は……?」
「雲雀弥生。僕のおもちゃです」
彼女はこちらをじっと見据えていたが、特に何か話そうとする様子は無い。
「あの……?」
「彼女にこちらの声は聞こえていません。少し見えてはいるかもしれませんが。
守護者でもマフィアでもありませんが、なかなか面白い子ですよ。彼女も僕の声が聞こえるようです」
その言葉に、胸がざわつく。それでは、彼女でも良かったのでは――
「彼女の身体を借りる事はできません。どうやら、僕は彼女に酷く嫌われてしまっているようで。契約すれば、可能になるかも知れませんがね」
そう話す骸に落ち込んだり苦々しげにするような素振りはなく、むしろ楽しげだった。
「年頃も近い。彼女も君となら、仲良くなれるかも知れません」
「えっと……仲間に、引き込む……?」
自信の無い問いに、骸は小さく微笑った。
「いいえ。これは命令ではありません。君と彼女を引き合わせてみたかった。――ただの、気まぐれですよ」
No.30
埋もれた温室、割れた窓、崩れかかった壁。大空の守護者の戦いを終えた翌日、弥生は黒曜ヘルシーランドを訪れていた。
さすがに血痕は消されていたが、元々使われなくなり放置されていた廃墟。その様は、あの戦いによるものなのか風化によるものなのか見分けがつかない有様だった。
「げっ……! なんでお前がここにいるんら!」
奥の廃墟から出て来た少年が、弥生を見て苦々しげに叫ぶ。確か、犬と呼ばれていたか。
「……君に用は無い。クロームの迎えに来ただけ」
「迎えって何ら! 骸様の命令で守護者の戦いを手伝ってやっていただけで、お前たちの仲間になんかならないびょん! 勘違いすんら!!」
「勘違いしてるのは君の方じゃないの」
「はあっ!?」
犬は、とにかくがなり立てる。
敵意剥き出しで会話が進まないこの感じ、まるで獄寺と会話しているみたいだ。――なんて事を言ったら、彼も犬も一緒にするなと怒りそうだが。
「……弥生!」
犬が出て来た廃墟から、今度はクロームが出て来る。この建物が彼らの主な溜まり場なのだろうか。見上げれば、窓際に気怠げに座る千種の姿も見えた。偵察するように出て来た犬と比べ、彼は下でのやりとりに関心が無いようだ。それとも、あの位置だと声だけは聞いているのだろうか。
「今日……弥生と遊ぶ約束をしていて……」
クロームはおずおずと説明する。犬はショックを受けている様子だった。
「そう言う事だから」
弥生はクロームの手を引く。
「今日は彼女の事、借りるよ。ちゃんとお返しするので、ご心配なく」
ギャーギャー喚く犬を無視して、門を乗り越える。
クロームも乗り越えるのを待ち、踏み出した弥生に、クロームは問うた。
「今日……駅前の通りじゃ……」
「うん。そのつもり」
「駅……こっち……」
弥生が向かおうとしたのと逆方向を、クロームは指差す。
まだ外にいたらしく、門の向こうから犬の馬鹿にするような笑い声が聞こえた。
弥生はキッと犬をひと睨みすると、クロームの指し示す方へと歩き出した。
「――じゃあ、やっぱり六道から聞いてたんだ。私のこと」
何度もクロームに道を訂正されつつ、何とか並盛商店街まで辿り着いた頃には、もうお昼を回っていた。
ひとまずファーストフード店に入り、そこで弥生はクロームが骸から弥生の話を聞いていた事を確認した。
「ごめんなさい……」
弥生は目を瞬く。
「別に君は何も謝るような事はしてないでしょ。おもちゃ呼ばわりしたって言う六道は叩き潰してやりたいけど」
誰がおもちゃなものか。紹介する割りに随分と雑かつ真実と異なる説明だ。
「でも、本当にありがとう。沢田達に協力してくれて……それに、大空戦で私が観覧席から脱出した時も。君が気付いて幻術で隠してくれなかったら、あの幻覚のようにマーモンに捕まっていただろうから」
「幻術を使う気配がして……たぶんそれで、あちらの術師も気付いたんだと思う……」
「幻術?」
弥生は目を瞬く。
大空の守護者の戦いで、弥生は地面に穴を掘って観覧席から脱走した。敵の目を欺くために幻術が使われたのは、脱走してから。あるいは、地中を進む間から気付いて用意していてくれたか。そう認識していたのだが。
「弥生が穴を掘るの……幻術で、隠されてた」
「え……それは、君がやったんじゃないの?」
クロームは首を左右に振る。
「私が気付いたのは、観覧席の方で幻術を使う気配があったから……」
いったい、どういう事だろう。
あの場にいた術師は、クロームとマーモンの二人だけ。しかしそのどちらも、先に幻術を使う気配があったから弥生の脱走に気付いたと言う。
「あの場にもう一人、術師がいた……?」
まさかとは思うが。
「六道骸……?」
『――僕は違いますよ。あの時はランチアを誘導していましたし、その娘の身体を借りる必要があります。そもそも僕なら、クロームやアルコバレーノに気取らせたりしません』
聞こえて来た声に、弥生は思わず立ち上がり辺りを見回す。
『確かにそうですね……』
「……っ!?」
クロームの声も頭の中に直接聞こえて来た気がして、弥生は驚いて目の前に座るクロームを見下ろす。
『骸様は、誰の幻術か分かってるの……?』
クロームは特に動揺も見せず、慣れた様子だった。
『中継してあげました。クローム、弥生には言葉に出して話さなければ聞こえませんよ』
「あ……」
クロームはハッと気がついたように、弥生を見上げる。
弥生は席に座り直しながら、尋ねた。
「……クロームは、いつもこんな風に六道と会話してるの?」
こくんとクロームはうなずく。
よく耐えられるものだ。いつでもどこでも彼に話しかけられるなんて、弥生は勘弁願いたい。
『弥生も、君の方から話しかけてきてもいいんですよ』
「嫌だ」
弥生は断固拒否する。そもそもどうすれば良いのかが分からないが、それを口にしたくはなかった。弥生から呼びかける用など無いのだから、聞く必要も無い。
「骸様……それで、もう一人の術師は……?」
『そうですね。僕は現場にいた訳ではありませんし、憶測の域を出ません。まあ、僕の予想が当たっているなら、遠からず判明する事でしょう』
「そういう勿体ぶった御託はいいよ。誰なの」
『おやおや。弥生も僕の意見が聞きたいですか』
白々しいほど嬉しそうに言う骸の声に、弥生の手中でドリンクのカップがべコリと凹んだ。
「君の遠回しな話し方をやめろと言いたかっただけ。話したくないなら話さないでいいよ。そのまま黙って」
「私は……聞きたい……」
おずおずとクロームが言う。
弥生の不機嫌な視線を受けて、彼女は身を縮ませた。
「ごめん……。でも、近くにまだ他に術師がいるなら、知っておきたくて……」
『警戒するような相手ではありませんよ。君も発動に気付き、あっさりと見破れた程度の力なのですから』
結局、言う気は無いようだ。
弥生は呆れたように溜息を吐き、ポテトの残りを口に流し込む。骸は、クフフと小さく笑っていた。
『焦らずとも、いずれ分かりますよ。その者の能力に、成長する見込みがあるようでしたらね。
そろそろ僕は身を引くとしましょう。これ以上君たちのデートを邪魔をしたら、弥生にもっと嫌われてしまいそうですから』
宣言通り、その後は骸は話しかけて来なかった。弥生が嫌がるためと言うより、回答を避けるための都合の良い口実のような気がするが。
「クロームは、普段どんな服着るの?」
アパレルショップを転々と見てまわりながら、弥生は尋ねた。
クロームは、休日にも関わらず今日も制服だった。犬や千種にしても、黒曜中学の制服姿しか見た事がない。
「まさか、その服しか持ってないって事は……」
「着替えもある……他の学校の制服もあるけど、骸様が気に入ったのがこの学校だったって……」
「……着替えも、同じ制服って事?」
クロームは首を縦に振る。
「じゃあ、君の服も見ようよ。一式ぐらい制服以外の服もあった方がいいでしょ」
「一式……」
クロームはぽつりとつぶやく。
「ある……けど……」
何か思い出したように、クロームの瞳が揺れる。
そして彼女は、そっと胸に手を置いた。
「骸様たちと同じ、これがいい……」
「……そう」
クロームはハッと弥生を見上げる。
「あの……ごめん……!」
「君、よく謝るね。別に怒ってないよ。まあ、元々の顔つきが怒ってるように見えるみたいだけど……」
綱吉もよく怖がったり謝ったりしてくるな、とふと思い出す。返事が短いと誤解されやすいのだろうか。
弥生はクロームに微笑みかける。
「私にとっては六道骸も仲間のあの二人もムカつく奴だけど、君にとっては大切な仲間なんでしょ。それは理解しているし、君が彼らと親しくするのを邪魔して困らせたくもない」
(――あ)
弥生は目を見開く。
少し前に、似たような言葉を聞いた事があった。何だかおかしくて、クスクスと笑ってしまう。
「弥生……?」
「……ん、ごめん。ちょっと思い出した事があって。私達、兄妹なんだなって」
クロームはきょとんとした表情だった。
『僕は、群れは嫌いだ。きっと、その中に君がいたらイライラするだろうね。――でも、それが君にとっては幸せなんだって事は、理解できる』
(……お兄ちゃんも、こういう気持ちだったのかな)
「あ……」
クロームの声に、彼女の視線の先を追う。
そこは、キーホルダーコーナーだった。黒い猫の形をした、小さなマスコットキーホルダー。
「あれ……可愛い……」
「本当だ。私も買おうかな」
弥生とクロームが近付く前に、女の子がキーホルダーを取って行った。残りは一個。
「あっ……」
「私はいいよ。君が先に見つけたんだし……」
「でも……」
「そちら、水曜日に在庫追加予定ですよ」
弥生とクロームの様子を見ていた店員が、ニコニコと声を掛けてくる。
「――だって。私はいつでも来れるから……」
「えっと……」
クロームは言い淀んでいた。弥生は、きょとんと言葉を待つ。
「その……一緒に、買いたくて……だめ?」
弥生は目を瞬く。そして、フッと微笑んだ。
「じゃあ、来週の日曜日、また来ようか。それで一緒に買おう。――おそろい」
クロームの表情が綻ぶ。
ふと、携帯電話が鳴った。恭弥からのメールだ。
「赤ん坊からの伝言――山本の家で、祝勝会やってるんだって」
――参加者:いっぱい。
添えられているこの一文を見るに、恭弥は不参加だろう。弥生は、クロームの表情を伺い見る。
「えっと……行く? 君が嫌じゃなければ……」
「ちょっと待って……聞いてみる」
クロームは不安そうな顔で、意識を集中させる。骸にお伺いを立てているのだろうか。
それから、ぽっとクロームの表情が和らいだ。そして彼女は、弥生を見上げる。
「……弥生も、一緒なら」
「おーっ、来た来た。いらっしゃい!」
「げっ……」
「クロームと一緒だったんだ」
山本の家は、寿司屋だった。店一帯が貸切になっていて、ボンゴレ周りの事情を知る面々の他、京子や花、ハルも来ていた。
「沢田、もう大丈夫なの」
「あ、うん……この通り。ありがとう」
黒曜での戦いの後は、酷い筋肉痛で入院していたようだった。これも修行の成果か。
「良かった、場所分かったのな」
「地図も添付されてたから……クロームが見て案内してくれた」
「自分では見てねーのかよ!」
獄寺が叫ぶ。それから、ポイズンクッキングを手に自分を探している姉の姿を見つけて、弥生と山本の後ろに隠れた。
「……ボス……私、来ても大丈夫だった……?」
「うん、もちろんだよ! ありがとう」
クロームはホッと息を吐く。自分に直接連絡が来た訳じゃないので、心配していたようだ。
「初めまして! ツナ君のお友達?」
京子がやって来て、クロームに声をかける。
ハルは綱吉とクロームの間に入るように、そっと綱吉の腕にしがみついていた。
「あ……えっと……」
戸惑いながら、クロームは答える。
体育館で見た時の名乗りとは打って変わった姿だった。あの時は、霧の守護者として気を張っていたのだろう。
「……おい、弥生」
ビアンキが近くにいないか視線を走らせながら、獄寺がヒソヒソと呼ぶ。
「今日、あいつと一緒だったのか?」
「クローム? うん。商店街で遊んでたら、お兄ちゃん経由でメールが来て……」
「そっか。――良かったな」
弥生は獄寺をまじまじと見つめる。
「なっ、何だよ!」
「いや……君がそういう事言うとは思わなくて……」
「あのなあ!」
「……うん。ありがと」
弥生は答える。
クロームとの再会に戸惑っていた時、獄寺は弥生の様子に気付いていた。気にしていてくれたのかもしれない。少し、照れ臭かった。
「……おう」
獄寺は視線をそらしながら、小さく答える。
「弥生……」
心細そうな声に、弥生と獄寺は振り返る。クロームが、困り顔で弥生を振り返っていた。
「行ってやれよ」
「うん」
弥生はクロームの隣へと進み出る。
「あっ。そこにいたのね、隼人!」
「ぐげ……っ」
弥生が動いた事で見つかり、ポイズンクッキングを持ったビアンキが獄寺へと突進してくる。背後で起こっている惨劇に少し笑いながら、弥生はクロームを京子とハルに紹介した。
「彼女はクローム髑髏。相撲大会で沢田達のチームに協力してくれていた仲間で――私の、友達」
2021/10/14