目の前には、十数人の女子生徒。背後は冷たい石の壁。半円形に囲まれたレイに、逃げ道は無い。水の滴るローブは重く、レイの身体から急激に体温を奪って行く。
 敵意を含んだ視線がレイに突き刺さる。
「……最低よね。男のふりして、リドルに近付いていたなんて」
「貴女がリドルに恋心を抱いてるんじゃないか、って噂があったけど……女だったって事は、やっぱり噂は本当だったのね」
「男装してる事利用して、友達面してリドルに近付いて……貴女、グリフィンドールには向いてないわ。まるでスリザリン生よ」
「スリザリンだって、そんな姑息な手段をとったりはしないでしょうよ」
「そうよ。貴女、リドルのいるスリザリンを侮辱するの?」
「貴女達、よしなさいよ。今問題なのは、この卑怯なオトコ女の事でしょう」
 目の前で代わる代わる捲くし立てられる非難の言葉を、レイはまともに聞いてもいなかった。





「……ほらね。こんな話を聞けば、君は僕から離れていくだろう?」
 リドルはフッと自嘲するように鼻で笑う。
 レイは空笑いを漏らす。
「う……嘘でしょ、そんなの? だって、そんなの……襲撃事件の犯人がリドルだったって言うの? だって、リドルにはアリバイが……」
 レイの言葉は途切れる。
 最初の生徒が襲われたのは、夜中の内だった。次の生徒が襲われた時、レイはいつもの図書館の席にいないリドルを探していた。その次も……その次も……そして、遂にマグル出身の女子生徒が殺害された時も……。
「無いだろう?」
 俯き黙り込んだレイの顔を覗きこみ、リドルは話す。
「死んでもいなければ、何らかの魔法を掛けられたわけでも無い。被害者達が石にされた正確な時間を知る事は、不可能だった。推定時刻は、彼らが人前に姿を見せなくなってから。そんな長い時間、アリバイの無い奴なんてごまんといる。誰も、僕を疑おうとなんてしなかった。ダンブルドア以外はね」
「ダンブルドアは……気づいてた……?」
「恐らくね。だけど、証拠が無かった。そして、結局彼はハグリッドを森番として学校に置いてやるぐらいしか出来なかった。
レイ。僕はいずれ、ロンドンを――否、イギリス中、世界中を闇に陥れる。当然、ダンブルドアは僕の前に立ちはだかり、僕らは対立する事になるだろう」
「……どうして」
 レイはふと顔を上げ、リドルを見つめ返す。
 何故。どうして、リドルはそんな事を。
「言っただろう? 僕は、スリザリンの継承者だ」
 低く地に響くような音と共に、空が明滅する。
「マグル及びマグル出身者を排除する事こそが、偉大なるサラザール・スリザリンのご意向なのさ」
 レイは混乱していた。あまりにも突飛な話だった。
 確かにリドルは、孤児院の者達を快く思っていないようだった。そのイメージからか、マグル自体好んでいないような様子を見せる事も度々あった。
 けれどまさか、既に人を殺しているなんて。
 リドルの指先がレイの頬に触れる。しかし、レイがいつもの様に後ずさる事は無かった。俯き強張った表情のまま、身動き一つしない。
 レイの心臓は波打っていた。だがそれは、いつものとは違ったものだ。
「……」
 ゆっくりと、リドルの手がレイから離れる。俯くレイに、リドルの表情は見えていなかった。
 リドルは何も言わずに踵を返す。立ち去る足元を見て取って、レイはくっと顔を上げた。手を伸ばし声を上げかけたが、思い留まる。
 ――呼び止めて、何を言ったら良いのだろう。
 自分はリドルに、何を言いたいと言うのか。リドルは人を殺めた。そして、これからも尚、闇へと沈んで行くだろう。その闇を共に抱える事が、レイに出来るのか。……それ以前に、真実を知った今、レイは猶もリドルを愛する事が出来るのか。
 宙に留まった行き場の無い手を、レイはゆっくりと下ろす。
 ……自分は一体、何の為にここにいたのだろう?
 突如としてレイを襲う虚無感。レイにはもう、何も無くなってしまった。
 ちょうど良いのかもしれない。どうせこれからは、またあの家で人形のように暮らすのだ。姿形ばかり整えられ、ただ政略の道具として。





「何をやってるんだい!」
 朗々とした声が、石の壁に響き渡る。レイを取り囲んだ女子生徒達が、びくりと肩を揺らして声の主を振り返った。
 戸口に現れた女子生徒が、何やら話している。他の女子生徒達は、不満気ではあったが大人しく部屋を出て行った。
 レイは床に横たわったまま、顔だけ動かして声の主を仰ぎ見る。
 駆け寄って来たティロットに助け起こされる間も、レイの顔に表情は無かった。ただ虚ろな目で、ぼんやりと足元を見つめている。
「怪我は無いかい?」
「……大丈夫。ありがとう」
 小さな声で言い、ふらりと立ち上がる。
 そのまま部屋を出て行こうとするレイを、ティロットの声が呼び止めた。
「あの男女! 彼ら……あんたの両親なんだって? 噂になってる。その……彼らが口走った事」
 レイの返答は、無い。
「噂ってもんは、広まる内に尾鰭が付いて誇張されて行く……。あんたは、リドルに近づく為に男装して入学したんだ、って言われている」
「……そっか」
「否定しないのか?」
 レイは一向に振り返らない。
 クスクスと、レイの口から笑いが零れた。その声の高さ。どうして今まで、性別を疑わなかったのだろう。
「……良かったね、ティロット。恋敵が減ったよ」
「それじゃあ……」
 ティロットの表情が険しくなる。
「入学した理由は、違う。それは否定するよ。
けれど、最終的な目的は……そうだね。何を言ったって、言い訳にしかならない」
「……最低だね」
「本当だよね。最低」
「私は、リドルを好いている」
「……知ってる」
 今更、何を言うのだろう。それに、誰がリドルに恋心を抱こうと、もうレイには関係の無い話だ。
 レイ・マーロンという人物はもう、存在を許されない。
「……本気だよ」
「そう。頑張ってね」
「あんたは違ったのかい!? 性別を偽る事で傍に寄り添って、それであんたは良かったのかい? そんな卑怯な真似をして、けれどそれで得られた物なんてなにも無いだろう!
本気で好きなら、本当の自分を隣に置いて貰いたいと思うんじゃないのかい!?」
「……何が言いたいの?」
 初めて、レイが振り返った。しかしやはり、表情は無い。
 いつものレイならば、ティロットが話しかけるだけで怯えていた。怒鳴られれば直ぐにメソメソし出す。しかし、そんなヘタレた面影は何処にも無かった。
「……見過ごしたよ。あんたは、一番の恋敵だと思っていた」
「それじゃ、もう君に恋敵はいない訳だ。おめでとう」
「マーロンの思いは、その程度だったのかい」
「ミス・ティロット」
 やはり、敬称を付ける呼び方。
 しかしレイの表情は、やはりティロットが今までに見た事の無い類の物だった。簡潔に表すなら、苦笑。だが、何処か寂しさを感じさせるものであった。
「私の名は、栗井レイ。――レイ・マーロンなんて人物、いないんだよ」
 一言、それだけ言ってレイは部屋を後にした。

 ――そう、元々レイ・マーロンなどという人物はいなかったのだ。
 それは一時のまやかし。偽りの姿。
 何も、変化など無い。ただ、本来あるべき場所へと戻っていく……それだけの事である。ほんの短い間とは言え、レイ・マーロンとして自由を与えられた、それだけでも奇跡的な事なのだ。
 ひんやりとした大理石の階段。動く階段を乗り継ぐ事も、誤って別の階に行ってしまう事も、もう無くなる事だろう。動く肖像画。絵に描かれた人物達さえもが、レイが通る度にひそひそと話しているのが伺えた。
 八階の突き当たり。太った婦人が書かれた肖像画。その前に立ち、レイは合言葉を唱える。絵の裏にある扉が開き、聞こえる喧騒。穴へとよじ登る。
 レイの顔が談話室に現れた途端、ぴたりと喧騒が止んだ。
「……」
 突き刺さるような視線を浴びながら、レイは真っ直ぐに談話室を横切って行く。
 しかし、そこで立ち止まった。
 レイは男装していた。当然、部屋は男子寮にある。だが自分が女子だと知れ渡った今、堂々と男子寮に上がっていく勇気は持ち合わせなかった――
 レイは談話室を振り返る。何人かが、慌てたようにふいと目を逸らした。
 ――かと言って、談話室にはいられない。
 再び、目の前の階段へと視線を戻す。男子寮へと続く階段。本来、女子は立ち入り禁止だ。
 だが、レイの荷物は全て部屋にある。
 ――荷物だけでも、取って来よう。夜は、談話室で過ごせば良い。
 二の足を踏みつつも階段を上ろうとした、その時だった。背後から声がかかった。
「……そっち、男子寮だよ」
 誰の声かなど分からなかった。男か女かさえも。
 レイはグリフィンドール寮を飛び出していた。ただひたすらに走り、階段を下る。廊下を渡る。やがて、一つの空き教室に出た。窓の外は、闇に包まれている。先程までの嵐は何処へ去ったのか、物音一つしない。
 嗚咽が漏れる。
 ここを出る準備をする時間など、与えてくれなくて良かった。荷物など、後で使用人に取りに来させれば良かったのだ。
 若しかしたら、これが目的だったのかもしれない。ホグワーツでの思い出を惜しむ時間などと言う、甘い物では無く。
 レイは改めて自覚せざるを得なかった。
 ……もう、何処にもレイ・マーロンの居場所は無いのだと。


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2008/12/30