小さな物音に、彼は目を覚ました。
 暗闇の中に、居間に置かれたテレビや机、そして人影が浮かび上がる。ソファの上で寒さに縮こまっていた彼の身体には、毛布が掛けられていた。
「……っ」
 呼び止めようとしたが、声が出なかった。暗がりの為判りにくいが、視界が揺れている。身体は重く、気だるかった。
 ――また、か……。
 じっとしたまま、そっと目を瞑る。居間の扉が閉じられる音が、小さく聞こえた。
 やはり、遠出はまだ厳しかったか。結局、康穂の言う「街」の図書館へ行っても、大した情報は得られなかった。
 何時になったら、自分は帰れるのだろう。
 どうしたら、自分は帰れるのだろう。

 ――僕は、帰る事が出来るのか……?





No.4





 目を覚まし時計を見ると、珍しく早い時間だった。服を着替え、髪を梳かし、眠い目を擦りながら洗面所へ向かう。洗濯籠を抱えた母が出て来た所だった。
 顔を洗いに来た康穂に、母は目を丸くする。
「珍しいね。友達と約束でもしてるの?」
「いや、別に。目覚めちゃったから……」
「暇なら、部屋の片付けしときなさいよ。ごみ袋、レンジの下の引き出しにあるから」
 呻くような返事を返し、蛇口を捻る。母は、庭へと出て行った。
 顔を洗い終え居間へ行くと、部屋の隅では壁にもたれかかった彼が眠っていた。昨晩毛布を掛けに来た時にはソファにいたから、一度は起きたのだろう。父は朝食をとった後、いつもテレビを見ている。それを避けて、ソファの上から退いたのだろう。
 康穂が物置から引っ張り出した毛布は、部屋の隅に畳んで置かれていた。それを広げ、再び彼に掛ける。
 朝食をとっている間に、母も仕事へと出て行った。





 彼が起きて来たのは、康穂が自室のクローゼットや引き出しの中身を引っくり返し、捨てる物を分別している時だった。部屋の惨状を見て、彼は唖然としていた。
 突然扉が開き、康穂は慌てて手近の箱にカードやらストラップやらを放り込む。当然、その動作を彼が見逃す筈は無かった。
 康穂の焦り顔に気がついてか、彼は口元に笑みを浮かべて尋ねる。
「何を隠したんだい?」
「別に、何も。――珍しいね、いつも私が起きる頃にはもう起きてるのに」
「少し疲れが溜まってたみたいでね」
 そう言って、彼は肩を竦める。
 康穂は立ち上がり、広げた本やら小物やらの間を縫って、部屋の戸口まで行く。
「あんた、青白い顔してるもんねぇ。朝御飯は? 食べた?」
「まだ」
 康穂達は、連れ立って台所へと向かう。
 味噌汁を温め直しながら、康穂は彼に尋ねた。
「そう言えば、あんたって何か作れるの?」
「何かって?」
「料理」
「一応、飢えない程度にはね。そう豪勢な物を作る機械も無かったし、その必要も無かったから――そうだね、康穂と大して変わらないよ」
「そっか。作れるなら、昼も残り物じゃなくて、何か作って貰えるかなと思ったんだけど」
「出来るなら、とうにそうしているさ」
「だろーね」
 康穂が食事の準備を手伝い、一緒に食事を取る。タロの散歩には、二人で出掛ける。いつの間にか、それが通常となっていた。彼と出会ってまだ五日目だと言うのに、もっと長い間一緒にいたかのようだった。
 食事を終え、彼の使った食器は直ぐに洗う。これも、いつもの事だった。洗った食器は、直ぐに彼が拭く。他の食器と同じように乾かしていては、誰が使用したのかと怪しまれてしまうからだ。
 最後の茶碗を洗い終え彼に渡す時、ふと手が滑った。捕らえようとした手は、虚空を掴む。茶碗は床へと落下し、ガチャンと嫌な音を立てた。
 二つに割れてしまった青い茶碗を見て、康穂はうろたえる。
「ど、どうしよう……お父さんのなのに……」
 欠片を拾い上げ乗せてみるが、当然くっつく事など無い。
 接着剤で何とかなるだろうか。否、直ぐに気づかれるだろう。では、どうしたら良い? どう言い訳したら良いのだろう。父の茶碗は食器棚に仕舞われていた。康穂の茶碗は出ていたのだ。何故、そこを開けたのかと聞かれるだろうか。そしたら、どう答えれば良いのだろう。
 オロオロする康穂に、彼が言った。
「康穂。――貸して」
「え?」
 康穂とは対称的に、彼の声は落ち着き払っていた。
 康穂から渡された茶碗の欠片を、彼は作業台部分の上に置く。そして、細い棒切れを取り出した。
 康穂は目を見開き、息を呑む。
 まさか。否、あり得ない。しかし――
 彼は短い言葉を呟く。
 「レパロ」と言ったのかも知れないし、康穂が気にするあまり聞き慣れない言葉がそう聞こえただけかも知れない。
 しかしどちらにせよ、棒で突かれた茶碗は元通り直っていた。無言で返された茶碗を確かめるが、間違い無い。ヒビ一つ無い。
「嘘……」
「僕が取り損ねたせいもあるからね。それで、問題無いだろう?」
「えっ。あ、うん。大丈夫。ありがとう」
 彼は布巾を置くと、台所を出て行く。
 康穂はまじまじと茶碗を見つめていたが、やがて食器棚の中にしまい、台所を出て行った。

 自室まで戻り、康穂は硬直した。
 彼の視線は、床の一点を見つめていた。そこにあるのは、デパートのガチャガチャで手に入れた二頭身フィギュア。
 声にならない悲鳴が上がる。箱に仕舞いそびれたのだ。
 振り返った彼は、小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
「こう言うのって、子供のおもちゃなんじゃないのかい?」
 出て来た言葉に、康穂は拍子抜けする。彼の言い方は嫌味としてと言うよりも、幼稚だと馬鹿にしているだけだった。
 思えば、彼は日本人ではない。イギリスでオタクと言う物がどれ程認知されているかは分からないが――どちらにせよ、予想が合っているのならば彼にその知識は無いだろう。こちらに来てからずっと山の中を彷徨っていたそうだから、当然触れる機会も無かった。
 康穂は開き直って話す。
「街に行った時に、買ったの。懐かしいなって。ただそれだけ。それに私、こんな田舎に住んでるでしょ? 小さい頃も、あまり人形とかって買って貰えなかったんだよね。だから、余計に――」
「嘘を吐くときは、あまり話しすぎない方が尤もらしいよ」
 ぎくりと康穂は言葉を詰まらせる。
 彼は、相変わらずの涼しい笑顔だ。
「……読んだの?」
「読まなくても分かるよ。随分と幼い趣味を持ってるみたいだね」
「うるさーいっ!!」
 康穂は膨れっ面になり、大掃除を再開する。
 その間、幾つもの漫画やグッズを目撃されたが、もう隠す気も起きなかった。

 漫画や本を並べなおしていると、不意に彼が肩を叩いた。振り返ると予想外に傍に彼が立っていて、思わず一歩下がる。
 彼は気にする様子も無く、本棚の下の方に立っている本を指差した。
「君にしては随分と厚い本もあるんだね」
「どう言う意味?」
 「君にしては」と言う部分にカチンとしながらも、康穂は彼の指差す先を見る。そこに並んでいるのは、十一冊の色とりどりの背表紙だった。
 僅かな緊張が康穂を襲う。
「……ハリポタシリーズ。……知らない?」
 恐々と尋ねる。
 シリーズは、当然イギリス発祥だ。世界的に有名な小説。昨日図書館に行った時に、彼が活字に慣れていると言う事は知った。例え知らなかったとしても、名前ぐらいは聞いた事がある筈だ。ましてや、そのシリーズの小物を身に付けているのだから。
 ――彼が、この世界の者ならば。
 果たして、彼は言った。
「聞いた事が無いな。こっちの流行だろう」
 康穂は息を呑む。
 では、やはり。
 やはり、疑惑は事実だったのだ。黒い髪、自信に満ちた態度、容姿端麗な顔、出身地、マールヴォロ・ゴーントの指輪、開心術に長けている点、そして杖と「レパロ」と言う呪文。
 彼の名は、トム・リドル。


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2009/12/28