暗闇の中、弥生は目を覚ました。
手を伸ばしたところで、握り返してくれる手はない。今の彼に、それは望んではならない。
弥生はゆっくりと起き上がると、慣れた手つきで身支度を整え、部屋を出る。食堂へ向かう途中、階段の前で立ち止まり見上げる。
……地下五階へ行けば、連絡通路がある。
「弥生? どうしたの?」
弥生は食堂の方を振り返る。ビアンキが片手を軽くあげながらこちらへと歩いてきていた。
「早いね。今日は朝から特訓?」
「その準備。トレーニングルームの設定を調整しておきたかったから」
「隼人の様子、どう?」
ビアンキは軽くため息を吐く。それだけで、だいたいの察しはついた。
「どうにか一匹倒せるようにはなったけど……実践なら、その間に攻撃を喰らって終わりね。
――だからって、あなたがリングを使うのは私も反対よ」
付け足された言葉に、弥生は苦い思いを飲み込みながらビアンキを見やる。
「……聞いたんだ?」
「ええ。あの子達には言ったの? 隼人なんて、随分な誤解をしていたようだけど。何なら、話した方が――」
「話したところで、悩みの種を増やす事になるだけだよ。ただでさえ重責を担わせてしまって、それを手伝う事もできずにいるのに。ただ弁解だけのために、戸惑わせたくない。誤解は解けた、それでいい」
「戸惑う、ねえ……」
「そうでしょ? 嫌いな相手から、そんな――」
「あら」
ビアンキはクスリと笑って言った。
「あなたが思っているよりも、あの子は昔から愛情深いわよ?」
No.40
「クロームがいなくなったって、どう言う事?」
日曜日。情報共有に向かった黒曜の廃墟にクローム髑髏の姿はなく、告げられたのはクローム失踪の報だった。
千種が気だるげにため息を吐き、答える。
「今、犬が言った通りだよ。昨日から帰って来てない」
「帰ってないって……電話は?」
「お前が持たせた電話の番号なんて知らねーびょん! 柿ピーには見せたのに、俺には触らせてくれねーし!」
「そう」
犬がおもちゃにしないように、と言ったのをしっかりと守ってくれていたようだ。
弥生は携帯電話を開くと、連絡帳からクローム髑髏の番号を選択する。呼び出し音はなく、流れたのはクロームとはかけ離れた無機質な女性の声だった。
『お掛けになった電話は、電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため、かかりません。こちらは――』
携帯キャリア名が再び告げられ、弥生は電源ボタンを押す。
充電が切れただけという可能性も、ゼロではない。しかし――
「そうら! 骸さんに聞いてみれば早いびょん! お前も骸さんと話せるんだろ!」
「えっ」
びしっと指を差され、弥生は困惑の声を上げる。千種も、じっと弥生を見つめていた。
彼らの視線から逃れるように、弥生はふいっと目をそらす。
「……できない」
彼らにそう答えるのは、苦々しい悔しさがあった。
「はあ? らってこの前……」
「六道は勝手に話しかけて来るけど、私から話しかけた事はない。話しかけ方も分からない。こっちが返事したら聞こえてるみたいで会話になるけど、私は別に何か不思議な力とか銃弾とか使ってる訳でもないし、どういう仕組みなんだか……」
「はああ!? つっかえねーびょん!!」
犬の言い草に、弥生はムッと眉を釣り上げる。言い返そうと口を開いたものの、千種の方が早かった。
「無意識に何か力を使っている……あるいは、元々意識する必要なく、話した言葉が骸様に聞こえている可能性は?」
「後者、凄く嫌なんだけど」
その理屈だと、弥生は四六時中、六道骸に監視されているようなものだ。
「とりあえず、やってみるびょん!」
「やってみるって、何を」
「骸さんに話しかけるんら! お前は会話できるんらから、聞こえるかもしれないびょん!」
「え、だからやり方わからないって……」
「骸様ーって呼ぶだけだびょん」
「絶対、様呼びなんてしないから」
呼んだところで届くかは分からない。とは言え、電話も通じない今、他に手は無いのも確かだ。
弥生は虚空を見つめ、渋々と声を発した。
「えっと……六道骸、聞こえる?」
応答は無い。
駄目そうだと伝えようと、犬を見る。弥生が口を開く前に、彼は叫んだ。
「声が小さいびょん!」
「えぇ……」
「そんなんじゃ骸さんには聞こえないびょん! もっと腹から! さん! はい!」
「ろ、六道ー」
「もっとだびょん!」
「六道!!」
こうなったらもうヤケクソだ。側から見れば間抜けな絵面だとは思いつつも、声を張り上げる。
応答は、無い。
期待の目を向けて来る犬に、弥生は首を左右に振った。
「まあ、クロームも骸様に話しかける時、基本的に無言だからね……」
「それ先に言ってくれる!?」
ぼそりと呟かれた千種の言葉に、思わず抗議の声を上げる。
(六道、聞こえる? 聞こえたら返事をして。緊急事態)
脳内で呼びかけるような言葉を思い浮かべてみるが、やはり応答は無い。そもそも、弥生は彼と無言で話した事はない。どうにも、呼びかけているような実感は沸かず、虚しさだけが残った。
「……駄目みたい」
「今後、頻繁に呼びかけてみて」
「でも、やり方わかってないのに同じ事繰り返しても……」
「一言呼びかけて返事がなかったら、また間空けてでいい」
「何か考えがあるの?」
弥生の問いかけに、千種はあからさまに気だるげな態度を示す。
「説明を面倒くさがらないでよ。君たちも心配してるんでしょ? 協力するなら――」
「はあ!? 俺は別にあんなブス女心配してねーびょん!!」
「何なの君……」
明らかに心配しているだろうに突如叫ぶ犬に、弥生は困惑の声を上げる。
「骸様と話せるのが君の能力によるものではないとするなら、骸様の方に声を届けられる条件があるのかもしれない」
観念したようにため息を吐き、千種は口を開いた。
「いずれにせよ、骸様の方から雲雀弥生へのアクセスがあった時に呼びかけていれば、応答してくれるかも……」
それは、裏を返せば六道骸からの連絡を待つのとほとんど変わらない。千種自身、それは分かっていながらも、それでも他に当てもなく、藁をも掴むような思いなのだろう。
「そうだ……制服」
弥生はふと思い出し、携えていた大きなトートバッグを開け、借りていた制服を取り出す。クリーニングから返ってきたそれは、雨に濡れてしまったなど分からないぐらいにパリッと整っていた。
「あの部屋に掛ければいい? 掛けるやつたくさんあり過ぎて、どれだったか自信無いけど……」
「適当でいい。……どうせ使わない」
「六道の物なんだっけ……」
「そう言う意味で言った訳じゃない」
何気なく返した言葉に、千種はキッと弥生を睨む。
「どの学校に潜入するか選ぶために集めた物だから。それだけ」
話し過ぎたと思ったのか、千種はまた口を噤み、それ以上の会話を拒絶するようにそっぽを向く。
ごめん、と謝るのは違う気がした。六道骸の投獄――その前提となる敗北を与えたのは、綱吉だ。弥生は綱吉側として戦っていた訳だし、その選択を間違ったものだとは思っていない。彼らが六道骸の帰還を望んでいるのだとしても、それは、弥生には肯定できない。
潜入だって、並中生襲撃の際の話だろう。
「並盛を狙っていた割に、並盛自体に潜入する選択肢は無かったんだね」
ただ思ったことを口にしただけで、具体的な返答は期待していなかった。
犬が首を傾げる。
「何言ってんら?」
「並中の制服は無かったから」
「え?」
もう用は済んだとばかりに我関せずの態度を取っていた千種が、振り返る。
「そんなはずは無い。手前の方にあったはず」
「無かったよ。普通の制服も、風紀委員のも」
ピリッと空気が変わるのを感じた。弥生と獄寺を襲撃してきた時に感じた、殺気。そこらの不良とは異なる――今なら分かる、裏社会の者の気配。
千種は袖口からヨーヨーを覗かせながら、大股で弥生の横を通り過ぎて行く。
「犬」
犬は無言でうなずき、ポケットから出した何かを口に入れる。犬の背が曲がり、口元が獣のように前へと伸びていく。
「な、何……」
弥生は制服とトートバッグを抱えたまま、部屋を出る二人の後を追う。
二人が向かったのは、数々の学校の制服が並ぶあの小部屋だった。狼のような姿となった犬は地面や制服を嗅ぎ回っていた。
そのまま弥生の方へも匂いを嗅ぎに来て、思わず鉄パイプで殴り飛ばした。犬は歯に嵌めていた物を外し、叫んだ。同時に、姿も元に戻って行く。
「――何すんら!!」
「それはこっちの台詞!」
千種は、ハンガーラックを一つ一つ検めていた。
「確かに、無くなってる……」
「……盗まれた、って事?」
問いながら、弥生は辺りを見回す。窓は割れ、何なら壁すらも崩れている所があるような廃墟。潜む場所なら、いくらでもある。今にも何者かが飛び出して来るのではないかという気さえして来る。
「微かに知らないニオイが残ってるびょん。その女とも違う……」
「後を追える?」
「薄れ過ぎて……」
千種の問いに、犬は苦々しげに答える。
弥生が制服を借りたのは、先週の日曜日。その時点で、並盛中の制服は無かった。盗まれたのは少なくとも先週より前という事になる。致し方ないだろう。
「盗まれたのは、並中の制服? 風紀委員? 両方?」
「風紀委員のなんて元々無い。通常の並盛中学の制服だ。ブレザーの、冬服一式」
ふと、弥生の脳裏を応接室の景色が過ぎる。雲雀がふんぞり返る立派な机と椅子、その背後ではためくカーテン。
「がああああああああああっ!!」
思い出しかけた何かは、犬の叫びに吹き飛ばされた。
「ムカつくびょん!! 骸さんの服を盗みやがって!!」
「ここを出払うような事は?」
「あるけど、君たちのように規則的な生活をしている訳じゃない。隙を伺って張り込んでるような奴に気付かないほど、間抜けじゃない」
「それじゃ、たまたま無人の時に入って来た誰かが、たまたま並中の制服を持って行ったって事になるけど。あるいは、気付かせないほどの手練れ……」
「……あいつには、骸さんもついてるはずだびょん」
ぽつりと犬がつぶやく。弥生も千種も、押し黙ったまま答えなかった。答えられなかった。
襲撃に遭い、クローム髑髏がピンチとなれば、当然、六道骸が出て来るだろう。それでも結果として、クロームは行方不明になっている。
骸にクロームの安否を確認するにしても、果たして、骸から連絡を取って来る事などあるのだろうか。――できる状態に、あるのだろうか。
季節外れの強い風が、建て付けの悪い窓をガタガタと鳴らしていた。
2025/01/11