「君、一人なのかい?」
声を掛けて来たのは、黒髪の少年。
レイは思わず身構えた。彼のネクタイは緑、スリザリン生だったからだ。
「僕も一人なんだ。良かったら、一緒に組んで貰ってもいいかな」
魔法薬の授業。レイにしてみれば、入学して間も無いのに自由に二人組みを組めと言われ、即座に誰かと組める周囲が不思議だった。
とは言っても、誰かと組まねばならない。レイは恐る恐る頷く。
少年は笑った。
「そんなに怯えないでよ。僕はスリザリンだけど、他の寮の子とだって仲良くしたいんだ。
君、名前は?」
「レイ……レイ・マーロン」
少年は手を差し出す。
「僕はトム・リドル。よろしくね、レイ」
レイは、差し出された彼の手を握った。
暗闇の中、レイはフッと目を覚ました。
初めてリドルと会話を交わした時。ありきたりな、何気ない自己紹介。彼の手を取ったあの日から、レイの居場所は彼の隣になった。
この七年間を改めて振り返ってみても、レイの横にはいつもリドルがいた。移動教室、放課後、休日。食事はいつも、速く済ませた。朝はいつも、早く起きた。夜はいつも、門限まで寮の外にいた。そしていつも、リドルはレイより先に食事を済ませて待っていた。朝は、いつもレイより早かった。門限まで、レイはずっとリドルといた。
決して、互いに全てを知り尽くした仲とは言い難かった。けれども、リドルの隣は居心地が良かった。やがて抱いた恋心。だが、想いを告げる気にはなれなかった。リドルとの関係を壊したくなかった。
リドルの何処が好きなのかと問われれば、容易に答える事は出来ない。内面、容姿、成績、人望、彼の長所を挙げれば幾らでもあるが、どれも後付でしかない。挙げるとすれば、共に過ごした時間――それが、最も理由として当てはまるのかもしれない。
――けれどリドルは、重要な事をレイに隠していた。
それは、レイも同じ事。
――リドルは人を殺した。
……何故、殺したのだろう。
――リドルは周囲を騙し、他人に無実の罪を着せた。
彼が保身の為に仮面を被っているという事など、今に知った事では無い。
「……リドル」
呟き、レイは立ち上がる。そして、駆け出した。
ずっと暗闇の中にいて、大分目も慣れてきた。廊下を駆け抜ける。階段を乗り継ぐ。何処へ向かっているのか、レイ自身にも分からない。
やがて出たのは、月明かりの差し込む玄関ホール。
きょろきょろと四方を見渡す。人影は無く、ひっそりと静まり返っている。
レイは肩を落とした。
やはり、そう都合良くいる筈が無い。今頃、スリザリン寮で眠っている事だろう。レイには、スリザリン寮の場所が分からない。
突如、こつんと足音がした。階段の下から、誰かが上ってくる。
まさか。
レイは、足音が聞こえる方の階段へと歩み寄っていく。地下牢教室へ行く時に使用する階段だ。まさか――
不意に左手にある部屋の扉が開いた。気づくと同時に、部屋の中へと引っ張り込まれる。背後から口を塞がれ、驚きに声を上げる事も出来ない。
レイが引きずり込まれた扉の隙間から、玄関ホールに現れた人物を確認する事が出来た。でっぷりと肥えた体系。茅葺屋根の様な髪型は、魔法薬学教師スラグホーンの特徴だった。
「どうしました、スラグホーン先生」
聞こえて来た声。続いて見えた姿は、ハッフルパフのゴースト太った修道士の物。
「いやぁ……何やら、物音が聞こえた気がしたので、見に来てみたんですよ。もしや、夕方の嵐で扉が開くなりしてしまったのでは無いか、と思ってね」
レイは青ざめる。物音とは恐らく、レイの足音の事だろう。ここへ来るのに必死で、足音を消す配慮など、全くしていなかった。
では、今猶レイの口を塞いでいる者は、レイが教師に見つかるのを防いでくれたと言う事か。
「それなら問題ありません。強い風でしたからね、私も心配になって調べたんです。
大方、ピーブズがまた何かしでかしたのでしょう」
それから二言、三言話すと、二人はそれぞれ来た方へと戻って行った。
完全に足音がしなくなり、ようやくレイは解放された。振り返った闇に佇むのは、トム・リドルだった。
リドルは口元に薄く笑みを湛える。
「……遅かったね。来ないかと思ったよ」
「待ってたの……?」
リドルは微笑うばかりで、答えない。
レイはムッとした様に口を尖らせる。
「……ずるいよ。リドルはいっつも、私をからかうばかりして……」
「別に、からかったつもりはないよ。あの話は、真実だしね。
君は分かりやすいからね。君が僕に抱いている気持ちには、随分と前から気が付いていた。ただ、あの話を聞いても猶僕に会ってくれるか、それは不安が無かったと言えば嘘になるけどね」
何処か裏のある、リドルの微笑み。
いつも見慣れた物だった。
「その様子だと、私が何を言いに来たのかも分かってそうだね」
「でも、君の口から聞きたいな」
「……分かってるなら、いいじゃない」
暗闇で分からないが、恐らくレイの頬は紅く染まっている事だろう。
「……言え」
明るい口調なのが、また怖い。
観念して、レイはすっと息を吸う。そして、一息に言い放った。
「私は、君について行く……ずっと、永遠に」
「それが何を意味するかも、理解した上での判断かい?」
「当然。スリザリンの継承者がリドルだった、って知ってそりゃあショックは受けたけど。けれど、酷い話だけど私に実害は無かった訳だし。人殺しはいけない。それは分かってるよ。けれど、私の大切な人って本当に少ないから、本音を言ってしまえば誰が死のうと私には関係無い。それがやむを得ない事ならば、仕方が無いと受け入れる事だって出来る」
言ってみれば、「殺生はいけません」と言いながら蚊や害虫を容赦無く叩き潰す――そんな感覚。
「何も持たない『栗井レイ』でいるより、例え日陰者になろうとも君と一緒にいたい。
リドルが闇を抱えると言うならば、私も一緒に闇を抱える。リドルがマグルを殺すと言うなら、私も共犯になる。
万が一足手まといになりそうになったら、切り捨ててくれて構わない。私は自力でまた君の隣に帰るから」
言い終え、レイはくすりと笑う。
「やっぱり、想像通りの答え?」
「……いや。予想以上さ。立派な共犯になりそうだよ」
「それは良かった」
「それじゃあ、まず一つ目の指示を出してもいいかい?」
「どうぞ」
「――明日は、大人しく日本に帰ってくれ」
――え……?
レイは言葉を失う。リドルの顔からは、微笑が消えていた。
「準備が必要なんだ。突然行方をくらます事は出来ない。僕は……何も持っていないから」
資金なら自分が準備する。
そう言い掛けて、レイは留まった。リドルの事だ。今の言葉を言うのにも、どれだけプライドが傷ついた事だろうか。ましてや事の準備をレイに頼るなど、決して許さないだろう。
「……分かった」
仕方ない。頭では分かっているのに、声の震えは隠し切れなかった。
リドルの腕が、レイの身体を抱き寄せる。
「必ず迎えに行くから。絶対だ」
「うん、待ってる」
「最短年数で、準備を整えて見せる」
「当たり前だよ」
「浮気したら殺すよ」
レイはパッとリドルから離れ、彼を正面から見据える。
「日本に帰るって事は、許婚と結婚させられるって事なんだけど」
「……じゃあ、その許婚を始末しよう」
「いやいやいやいや! 無理だって! 田舎に住むマグルを殺すのとは、訳が違うんだよ」
「……」
リドルは再び、レイを抱きしめる。己の無力さに自己嫌悪しているのが、指先から伝わってくるようだった。
レイはリドルの背にそっと腕を回す。
「……でも心は絶対、他の人に奪われたりしないから。……ね。出発まで、一緒にいてくれる?」
「もちろんさ……」
「そしたら、荷物取ってこなきゃ」
そう言い、レイはリドルから離れた。
「今のタイミングでその話かい?」
「……」
一拍の間。
「で、でもね。荷物、男子寮にあるんだ。さっき取りに行こうとしたんだけど、入り辛くて……。談話室を通らずに部屋に入る方法って、無いかな?」
「無い事も無いよ」
「本当!?」
スーッと静かに窓が開く。冷たい空気が部屋の中に流れ込むが、布団の中でぐっすり眠っているルームメイト達は気が付かない。
赤を基調とした部屋の中に、二人の男女が降り立った。
「呆れた。窓には、何の仕掛けも無いんだね」
「外からの部屋の特定は難しいからね。内側を強固にしておけば、生徒による侵入は防げると思ってるんだろう」
「……の割には、随分あっさりと私の部屋見つけたよね」
「七年もいればね」
「待って!? それ、どういう意味!?」
「大丈夫だよ。何もしてないから」
「そういう問題じゃないでしょ!?」
「でも、万が一の為に防犯呪文を施してやったんだ。それは感謝されても良いと思うけどね」
「この部屋で頻発する事故は、その所為だったんだね……」
その言葉を聞き、リドルは杖を出すと順々にカーテンの閉まったベッドに照準を向ける。
「へぇ……どいつだい? その、頻繁に呪いを受けた奴は」
「全員。って、ちょっと待って! 待って! 違うから!! 何も無かったから!!
リドルも、私のルームメイトのテンションは知ってるでしょ! こいつら、よくベッドでトランポリンとかやって遊ぶの! それで、私のに飛び移ろうとしただけだって!! ベッドが大破したり、床が抜けたりして、結局一度も他の子が触れた事は無いけど……」
「フン……餓鬼な奴らだね」
「君もね」という言葉は、心の内にしまって置く。
「いや、しまって置いても分かるよ?」
「ごめんなさい、すみませんでした」
引き出しの中や棚の上の荷物を全て、トランクの中に詰め込む。入りきらなかった小物は、魔法薬学の大鍋の中に放り込む。丁寧に使っていたのに、七年も使用すれば焼け焦げや錆、こびり付いて落ちない薬などで汚れていた。
「こうして準備していると……何だか、しんみりしちゃうね。本当に、もうここを離れるんだって……」
「何れは戻ってくるよ。僕もここには愛着があるし、この城は色々と興味深いからね」
カチャリと小さな音を立て、トランクの鍵が閉まる。
「それじゃ、行こうか」
レイはこくりと頷いた。
朝の大広間。噂が広まるその中に、既にレイの姿は無かった。
ホグズミード駅に立ったレイは、名残惜しそうに背後の城を振り返る。幸せだった七年間。二年か、三年か。はたまたそれ以上か。時が訪れるまで、レイが再びこの地に戻ってくる事は無い。
「ご両親が先に帰ってくれて、良かったよ」
「許婚がいる身で男に見送られてたら、何かと五月蝿そうだもんね」
二人揃って、クスクスと笑う。
これから二人は、闇へと堕ちて行く。それは自分達の決めた事。
そしてその為にも、暫く会う事は出来ない。それも、自分達の決めた事。
汽車の出発のベルが鳴り、二人の間で扉が閉まる。ホグワーツ特急はゆっくりと動き出す。リドルは、立ち尽くしたままだった。
レイは近くの窓を開け、上半身を外に突き出して手を振る。
「またねーっ!」
――また、いつか。
君が私をさらう日まで。
2008/12/31