カーテンの隙間から、青白い月光が差し込んでいる。本棚の前には、一人の青年が立っていた。部屋の主は、ベッドの上でぐっすりと眠っている。
彼の手にあるのは、コバルトブルーのハードカバーの本。
普段、滅多に動揺する事の無い瞳が、驚愕に見開かれる。
――まさか。こんな事って……。
パタンとくぐもった音を立て、表紙を閉じる。横にある机の上に積み上げられた本と一緒にし、彼は十一冊の本を棚に戻した。
そして、そっと部屋を出て行く。
窓の外では、雪が降り始めていた。
No.5
康穂が起き出した頃には、もう両親は仕事へ出掛けていた。
いつものように、着替え、顔を洗い、朝食を食べる。彼が食卓へ来る様子は無い。まだ眠っているのだろうか。
結局、昨日は彼自身に問う事が出来なかった。
深い理由がある訳ではない。馬鹿にされるのではないかと言う心配も無い。それだけの確信を持っている。
ただ、彼に尋ねそして肯定されたら、康穂はどうすれば良いのだろうか。退屈ながらも、平和で穏やかな日々。それが、どう変わってしまうのだろう。
突然の非日常を受け入れる覚悟が、康穂には無かった。
食事を終え、居間へ向かう。しかし、そこに彼の姿は無かった。
静まり返った家。人の気配など、微塵も無い。
念の為、一つ一つ部屋を覗いて回る。どの部屋にも、彼の姿は見当たらない。サンダルを履いて庭の倉庫にも行ってみたが、そこにも彼はいなかった。
家に戻って確認すると、彼の靴もコートも無い。
何処かへ出かけたのだろうか。
康穂は、心の中でガッツポーズをする。暫く触れる事の出来なかったパソコン。彼がいないのならば、何の気兼ねも無く同人サイトを巡る事が出来る。クリスマス夢や、公式イベントの感想――この時期だ、色々な物が投下されている事だろう。
居間に置かれたパソコンを立ち上げる。明日からは両親が休みになってしまう。母は兎も角、父は一日の殆どを居間で過ごす。パソコンも使われるかも知れない。年内に存分に使えるのは、今日が最後だ。
日が傾いてきても、彼は帰って来なかった。
タロの散歩を終えても、彼は帰って来ない。
扉の開く音が聞こえたと思ったら、帰って来たのは母だった。
夕飯が出来ても、父が帰って来ても、彼は帰って来なかった。
泊りがけなのだろうか。
それとも、出て行ったか。
その考えに思い当たると、不意に言い知れない感情が押し寄せてきた。
思えば、彼はずっとここに住むと言った訳ではない。要点しか語ってくれない彼の話を総合すると、気がついたら山の中にいて当ても無く彷徨う内にこの家に辿り着いたという事だ。食料も無いと言っていた。疲れた、寒いとも。ほんのつかの間の、休憩のつもりだったのかも知れない。
――それにしたって、挨拶ぐらい言って行けばいいのに。
風呂に入る支度をしながら、康穂は不貞腐れる。
薄情な奴だ。四日間も一緒に暮らしていたのだ。それくらいの親しみぐらい、沸かないのだろうか。
……それとも、挨拶を告げる間も無かった?
何かあったのだろうか。ここにいられなくでもなったのか。何せ、彼は異世界の住人だ。康穂の想像を超えた理由など、幾らでも存在するだろう。
――若しかして、帰ったとか?
元の世界に帰った。それも、あり得るかも知れない。
そう考えたが、すぐさま疑問が浮上した。突然元の世界に帰る事になったなら、コートや靴まで持って行く事は出来ないだろう。それに、朝は薄っすらとだが雪が積もっていた。勝手口から出て庭の選択竿の前で往復している足跡は、母の物だろう。もう一つ、家の横を回り込んで表の坂へと向かう足跡があった。若しかしたら、彼が出て行った足跡かも知れない。
「足跡残ってるって事は、追っ手とかいる訳じゃないのかぁ……」
最終巻でのゴドリックの谷のシーンを思い出し、康穂は呟く。
彼は、なるべく痕跡を残さぬよう、彼の事が見えていない人々に気づかれぬようにしていた。意図的に隠れているのかとも思っていたが、そう言う訳では無いらしい。
ふと、ハリーポッターシリーズが視界に入る。
おや、と康穂は首を捻った。何か、違和感があるのだ。
違和感の正体は、本の並べ方だった。左から右へと一巻から順に並べていた筈が、右から左へに変わっている。他の漫画が並んでいる棚を見るが、間違いない。シリーズ物は皆、左から右へと並べるようにしている。
誰かが一度、全て取り出したのだ。
最も可能性が高いのは、彼――トム・マールヴォロ・リドル。
康穂は椅子の背に掛けていたコートを引っ掴むと、部屋を飛び出した。コートを着ながら、廊下を駆け抜ける。足音に顔を覗かせた母が、目を丸くする。
「何処行くの、こんな時間に――」
康穂は玄関で靴を履いている所だった。少し考え、振り返らずに言う。
「――落し物。散歩の時に落としちゃったみたいで……」
「明日じゃ駄目なのか? 外、雪降って来てるぞ」
最後に帰ってきた父の声が、居間から聞こえた。康穂は首を振る。
「駄目。大事な物だから」
彼らはまだ何か言おうとしていたが、靴箱の上にある懐中電灯を手にすると康穂は玄関を出て行った。散歩かと勘違いしたタロが、鎖をジャラジャラと鳴らして尻尾を振りながら出て来る。
懐中電灯をつけると、康穂は傘を差し真っ白な雪の上へと踏み出した。直ぐに指先が冷たくなり、手袋も持ってくれば良かったと後悔する。
――そう言えばあいつ、手袋してなかったな……。
図書館へ行った時は兎も角、散歩の時間には手袋が無いと寒いだろうに。
初めて会った時、布団の中で触れた彼の手は氷のように冷たかった。
『少し、疲れた。寒いし、食料も無いし――』
尊大な態度で軽く言っていたが、存外深刻な状況だったのかも知れない。夜はぐっすりと眠っていて、毛布を掛けても起きる素振りを見せない。昨日遅く起きてきた時も、疲れが溜まっていると言っていた。
青白いのは元々かと思っていた。体調が悪かったのかも知れない。
それなのに外出して、大丈夫なのだろうか。
何処へ行ったのだろうか。当ても無いと言っていたのに。
やはり、出て行ってしまったのだろうか。本の存在を知ったから。康穂に気づかれる前に、と考えたのだろうか。
若しもそうならば、尚の事見つけ出さなくてはならない。無理矢理にでも、引っ張って帰らなくてはならない。もう遅い。康穂は、彼の正体に気づいてしまった。大事に巻き込まれても構わない。当ても無く彷徨う彼を見捨てる事など出来ない。
公園、畜舎、本家、国道入口、ビニールハウス、池――懐中電灯の明かりを頼りに、タロとの散歩で一緒に出かけた場所を思い当たる限り捜して回る。雪が積もった地面は、滑り易かった。何度か田圃へ飛び込みそうになりながらも、康穂は田畑の間を駆け回った。
帰ってきたら、見つける事が出来たら、今度こそ名前を尋ねよう。その結果何が起ころうとも、どんな結末になろうとも、康穂は彼を見捨てたりしない。
――だから……っ。
だから、もう一度。
もう一度、会いたい。
何も告げず、名前さえも聞けずに、このままお別れなんて嫌だ。
足を滑らせ、康穂は短い悲鳴を上げる。幸い、道の真ん中だった為、尻餅をつくだけで済んだ。
「痛たた……」
懐中電灯は足元に転がり、視線の高さは真っ暗闇だった。ずっと先に、自宅の辺りの明かりが見える。しかしそれさえも、雪でぼんやりと霞んでいた。
……彼は、この辺りにはいない。
解っていた。彼には、姿くらましがある。康穂の元を離れるつもりなら、もうずっと遠くへ行ってしまっているだろう。
「なん、で……馬鹿……」
呟いた声は、闇の中へと消えて行った。
2009/12/29