インターホンの音が、外にも幽かに漏れ聞こえる。ややあって、家主の声がした。
「かりん……?」
「おはよう、マミちゃん。学校……行ける?」
努めて明るい声で、かりんは問う。しばしの沈黙の後、マミは沈んだ声で答えた。
「ごめんなさい……今日は休むわ。先生に、伝えといてくれる?」
そして、インターホンの通話は途切れた。
無理に引っ張り出すような真似はしたくない。かと言って、かりんまで真似して休む訳にもいかない。とぼとぼと、かりんはマミの住まうマンションを後にする。
キュゥべえと契約した時点で自分の身体は既に死んだも同然で、小さな石ころが本体だったなどと知ったマミ。家族のいない家、クラスメイト達との生活のずれ、孤独で危険な戦い、同じ魔法少女との諍い。つらく大変な事もたくさんあったが、それでも人々のため、魔法少女の役割だと、かりんが魔法少女になるまでマミはずっとひとりで頑張って来た。幼い頃にテレビで見た、アニメのヒーローやヒロインのようになろうと努めて来た。マミ自信、現実の厳しさを痛感しながらも憧れ誇りにさえ思っていたはずだ。
マミはずっと希望を抱いて、笑顔でいて欲しかったのに。キュゥべえも、どうにか誤魔化す事は出来なかったのか。
どうにもならなかったのは百も承知だが、怒りの矛先はキュゥべえへと向かう。そもそも、キュゥべえが騙すような形でマミと契約していなければ、こんな事にはならなかったのだ。マミの本体がソウルジェムになってしまう事も、いずれ魔女になってしまう運命を背負う事も――
『でもその場合、マミも君もあの事故で死んでいるよね』
「……分かってるよ、そんな事」
脳裏に浮かぶのは、いつの日かキュゥべえを問い詰めた時の返答。魔法少女の契約について、奴は何も悪い事をしたとは思っていない。そして、あの場でマミに選択肢が無かった事も事実。
結局のところかりんは、マミの眼前から真実を覆い隠し、ただひたすらにグリーフシードを集めるしか無いのだ。
昼休み。かりんは、二年生の教室を訪れていた。
目敏く気付いた仁美が、教室の戸口へと歩み寄る。
「あら、由井さん。さやかさん、今日お休みなんです。風邪を引いてしまわれたみたいで……まどかさん……も、今、教室を出ているみたいですわ……」
ぐるりと教室を見渡し、仁美は言った。
「やっぱり、さやかちゃんも休みか……」
「え?」
「あ、えっと。ちょっと、昨日、さやかちゃん具合悪かったみたいだから……」
かりんは慌てて言い繕う。
まどかは教室にいない。また屋上でキュゥべえとでも話しているのだろうか? しかし昨日の今日でキュゥべえがまどかの前に姿を現しても、反感しか向けられない気がするが。
今の内に会って、再度発破でも掛けておこうか。そんな風に考えていると、仁美が口を開いた。
「あの……由井さんは、お昼はもう召し上がりましたか?」
「え? ううん。まだだよ」
「でしたら、ご一緒していただけませんでしょうか。少し、相談したい事がありますの……」
かりんは目を瞬く。キュゥべえとの契約で関わりのあるさやかやまどかはともかく、仁美とはさして親しい訳でもない。まどかとさやかの友達、と言った認識程度だ。仁美の方も、かりんに親しみを感じるような事もなかったろうに。まどかやさやかではなく、かりんに相談なんて……とそこまで考えたところで、思い当たった。まどかやさやかには出来ない相談。あるではないか。
こくりとかりんはうなずく。
「いいよ。一緒に食べましょう」
「ありがとうございます。今、お弁当持って来ますね」
もしかしたら、屋上にはまどかがいるのではないか。そう考えたかりんは、仁美を売店前の休憩スペースへと誘った。購買でパンとヨーグルトを買い、仁美の前に腰掛ける。
「このパン、美味しいんだよ。私のオススメ」
他愛も無い言葉を掛けて、話し続けるでもなく、急かすでもなく、かりんはパンを食べ始める。仁美はきれいに彩られた弁当に手をつけもせず、じっと机の上に視線を落としていた。
かりんがパンを食べ終わる頃、ようやく仁美は口を開いた。
「……由井さんは、恋をなさった事はございますか?」
やはり。
昨日、病院で「見舞いに来た」と言っていた仁美。しかし仁美は、結局の所一度も彼の病室まで行っていないと言う。何に遠慮しているのかは、一目瞭然だ。
かりんはそっと、うなずいた。
「あるよ。志筑さんは……もしかして、上条くんの事が好きなのかな?」
仁美は、ハッとかりんを見つめ返す。ぱっちりとした大きな瞳が迷うように揺れ動き――そして、彼女はうなずいた。
「横恋慕なんてはしたないって分かっていますの……さやかさんの方がずっと、彼を見続けて来たんです。さやかさんは大切なお友達ですわ。でも、この気持ちもとても大切で……何も無かった事には、しておきたくなかったんです」
そう言って仁美は微笑んだが、悲しそうな笑顔だった。
「ありがとうございます、由井さん。お話を聞いてくださって。昨晩会った事で、由井さんには知られてしまいましたから……。この事は、二人だけの秘密でお願いしますね」
「……本当にいいの? それで」
「……」
「自分の気持ちを心に秘めて、黙って引き下がって……それで、志筑さん、あなたは二人を祝福することが出来るの?」
仁美は再び、視線を落とす。ややあって口が開かれ、出掛った言葉を遮るようにかりんは言い放った。
「私は出来ない。
どちらも大切なんでしょう? 恋か友情か、どうしてどちらか一つしか選べないって決め付けてしまうの?」
いつか、マミも恋をして男の人と共にかりんの傍を離れて行ってしまうのだろうか。魔法少女である限りその可能性は限りなく低いが、それでもゼロとは言い切れない。
マミを手放したくない。遠くへ行ってしまうのなんて嫌だ。
けれども、かりんはマミにとって「親友」でしかなくて。それ以上を望む事など出来なくて。
「……あなたは、伝える事が出来るじゃない。その想いを、伝えていいんだよ」
「でも……それでは、さやかさんが……」
「あなた達の仲は、そんな事で壊れてしまうの? 同じ人を好きになって、それでもなお仲良しでいられるのが、本当の友情ってものじゃないの?」
「本当の友情……」
かりんは力強くうなずく。
「志筑さんの知るさやかちゃんは、親友が恋のライバルになったからって恨み憎むような子?」
「いいえ。違いますわ。そう……そうですわよね。さやかさんなら、きっと分かってくれますわ。良き友であり、良きライバルになれるはずですわ。
ありがとうございます、由井さん……ご相談に乗っていただけて、本当に助かりましたわ」
「私で良かったら、いつでも相談に乗るよ」
「はい」
仁美は晴れやかな笑顔でうなずく。そこにはもう、何の迷いも見られなかった。
――さて、さやかちゃんはどう出るかな?
彼女はもう、仁美の知るさやかではない。魔法少女となったのだ。希望を祈り、その対価として絶望を背負う存在に。ソウルジェムの真実を知った彼女が、仁美と対等な立場で恋のバトルを行う事ができるのか。
さやかは、「上条くん」のために魔法少女になった。その「上条くん」に、親友も想いを寄せていると知ったら。そして、親友の方が彼と恋仲になりでもしたら。
「ふふっ」
思わず漏れた含み笑いに、仁美が首を傾げる。
「どうしましたの? 由井さん」
「志筑さんと話せた事、私も嬉しくて」
「まあ……私も、由井さんとご一緒出来て嬉しいですわ」
仁美はかりんの言葉を鵜呑みにし、照れくさそうに微笑う。もっとも、話せて嬉しいと言う事はあながち嘘でもないが。
……次のグリーフシードは、案外早く手に入りそうだ。
授業のノートとプリントを届けに行った時にも、マミは家から出て来なかった。留守なのかもしれない。応答さえも無く、かりんは見舞いの品をポストに投函してマンションを後にした。
「マミは相当気が滅入っているみたいだね」
何の感慨も無い声では、キュゥべえのものだ。見れば、直ぐ横の塀の上に白い姿があった。
かりんは、ジトッとした視線を彼に向ける。
「誰のせいよ……」
「佐倉杏子が美樹さやかに接触しているよ」
かりんはハッと目を見開く。
「まさか、彼女また――?」
「いや。戦うつもりはないらしい。むしろ、その逆だ。どうも杏子は、落ち込んでいるさやかを気に掛けて引っ張り出したみたいだね。でもそれは、君にとってはかえって不都合なんじゃないかと思ってね」
かりんは険しい顔つきになる。
かつてかりんは、杏子を魔女にしようと、絶望に追いやろうとした。魔法少女の事を彼女の父親に吹き込み、家庭を崩壊させたのだ。
しかし彼女は絶望こそすれど魔女化へは至らず、更にはかりんが杏子の父と話すところを目撃されていた。会話内容こそ聞かれていないものの、杏子はどんな内容を話していたのか思い当たったらしい。
今までは杏子が悪ぶっていたからかりんの方に信頼はあったが、もしさやかが杏子の話に耳を貸したりでもしたら。
「二人はどこ?」
「教会――佐倉杏子の実家に向かったよ」
ふっと紺青の光が瞬き、かりんの服が見滝原の制服から上下の繋がった長いスカートへと変わる。マミやさやかとは対照的な、暗い色合い。魔法使い――あるいは死神のようなその様相は、かりんの所業を表しているのかも知れない。
トン、と軽く地を蹴る。降り立ったその場はもう、マミの家の前ではなかった。
魔法少女でないかりんは、マミと一緒にいられない場面も多々あった。結界の奥、マミ一人が命がけの戦いに赴いていく。他の魔法少女とのいさかいにおいても、結局のところは魔法少女同士の問題だ。かりんはそこに入って行けない。
どこまでも行けるように。その祈りが生み出したのが、この魔法だった。
広い土地の奥にそびえる、古びた教会。手入れのされていない庭は雑草が延び放題。無人故に不良の溜まり場にでもなったのか、やけを起こした杏子自身が当たったのか、教会自体も窓がひび割れ見るも無残な状態だ。
足を踏み出す間もなく、その教会から一人の女の子が出て来た。佇むかりんに気がつき、彼女はハタと足を止める。
「かりんさん……」
目を瞬くさやかに、かりんは微笑みかけた。
「杏子ちゃんに呼び出されたって聞いたから。大丈夫?」
「はい。でも、どうしてここが――」
「何しに来やがった、てめぇ」
さやかの後ろの扉が開き、唯一遺されたこの家の者――佐倉杏子が、姿を表した。じろりとかりんを睨みつける。
「さっさと帰りな。あんたにこの場所の土は踏ませねぇ」
「ちょっと! あんた達の間に何があったか知らないけど、そんな言い方――」
「ううん、いいよ、さやかちゃん。……言われても仕方がない事だもの」
「え……?」
「やっと認める気になったか」
杏子はフンと鼻を鳴らす。
かりんは困ったような笑みを浮かべる。杏子がさやかとの敵対をやめるのであれば――むしろ気に掛けるのであれば、今度はそれを利用させてもらおう。
「本当は、杏子ちゃん、あなたの耳には入れたくなかった……私だけが悪役になるなら、それで杏子ちゃんが少しでも救われるなら、それでいいかなって……」
「……どう言う意味さ?」
「杏子ちゃん、誤解なの。あなたのお父さんは、あなたが遅い時間に出歩く事を不審に思っていた……。杏子ちゃん、繁華街に行くの禁止されてたんだよね? 教会の信者の人が見かけて、あなたのお父さんに知らせたみたいで……私とマミちゃんは制服だったから、そこから私の事見つけたみたい」
「え……」
魔法少女と契約の事が父親にばれたのは、かりんが仄めかしたから。杏子は、そう確信していたに違いない。
ダメ押しとばかりに、かりんは涙ぐむ。
「隣町の上級生が娘を連れ回して何をしているんだって問い詰められて……ごめんなさい……私があそこで、口をつぐんでいれば……でも、杏子ちゃんは間違った事はしてないってお父さまに解って欲しくて。私なんかが判断していい事じゃなかったのに……! 私のせいで、杏子ちゃんの家族、あんな事に……!」
両手で顔を覆い、肩を震わせる。さやかの手がそっと、躊躇いがちにかりんの背中を撫でた。
「かりんさん……かりんさんが気に病む事じゃないですよ……かりんさんは、何も悪くないです……」
パキ、と地面に落ちた小枝の折れる音がした。
杏子がゆっくりと、かりんに歩み寄る。
「杏子……」
さやかは掛ける言葉もなく、ただ名前を呟く。
目の前で、深く溜息を吐く音がした。
「ったく……そういう事なら、早くそう言えっての」
かりんは瞳を潤ませ、上目遣いで杏子を見つめる。杏子は罰が悪そうな表情で頭を掻いていた。
「いや……言われても、あの時のあたしじゃあ信じようとしなかったかもな……。すがりつきたかったんだ。少しでも希望があるなら、それを信じたかった。親父がああなったのは他の人に変な事を吹き込まれたせいで、本当ならあたしがやってる事だって認めてくれたはずなんだ、って……ハハ、これじゃマミの言うとおり八つ当たりだ」
「私だって、そう取られても仕方ない振る舞いをしていたんだもの。杏子ちゃんは悪くないよ」
「そう! かりんのそれも、悪い!」
突然踏ん反り返る杏子に、かりんとさやかは目を瞬く。
「下手に悪ぶろうとすんなよ……そのせいで、あたしはあんたを恨まなきゃならなくなったんだからな。魔法少女は他に、味方なんていないってのに……結局マミはあんたにつくんだしさ」
「そうね。ごめんなさい」
「下手に悪ぶってるのは、あんたもじゃないの?」
ずっと二人のやり取りを黙って聞いていたさやかが、口を挟んだ。
「この力を自分のためだけじゃない、誰かのためにも使いたいって、最初はあんたも思ってたんでしょ? 自分のためだけに魔法を使うあんたや転校生とは組めない。直ぐにとは言わない。でももし、また誰かのためにも戦おうって思えたらさ……また、声掛けてよ」
「さやか……」
杏子はじっと、さやかを見つめる。僅かに手が動いた気がしたが、その手は伸ばされず、足もまたその場に根付いたように固まっていた。
まだ、直ぐに元に戻る事は出来ないのだろう。
「さ、帰りましょう。かりんさん」
「うん。――私も、マミちゃんも、待ってるからね」
一言、杏子に言い置いて、かりんもさやかと共に背を向ける。
さやかを従えて教会を去りながら、ふっとかりんはほくそ笑んだ。
2012/10/20