出版社、原作者、設定の纏められたもの――色々と調べたが、結局何も見つからなかった。
 ふらふらとした足取りで、彼は山道を登る。東の空には日が昇り始め、紫や桃色が帯状になっていた。
 ……あと、どれくらいだろうか。
 タイムリミットは、刻々と近付くだろう。本の存在を知り、彼は納得した。だからだったのだ。彼は、この世界の住人では無いから。本来、この世界にいてはならない存在だから。
 どうでも良い事だった。
 こんな所で放浪しているなんて、彼自身願い下げだった。
 ――別に、迷ってなんかいないさ。
 迷ってなどいない。
 自分は、あの世界に帰るのだ。必ず、帰る。その世界でするべき事がある。その為に、七年間を費やして来たのだから。
 七年間……。
 自分の本当の居場所を知って、七年間彼はそこで過ごした。同時に下準備を整え、卒業後は道を突き進んだ。
 左手の木々が途切れ、集落が現れる。山に囲まれ広がる田畑。直ぐ傍に数軒の家。ずっと先に、また数軒の家。地面に積もった白い雪が、朝日に紅く染まっている。
 マグルの世界にも、こんな景色があったのか。彼は、思わず感嘆する。
 暫くその場で足を止めてしまっていた。不意に我に返り、彼は再び歩き出す。
 歩みを止める訳にはいかない。ここにずっといる訳にはいかない。彼自身も、歩みを止めるつもりも、ここにずっといるつもりも無かった。
 無かった、のに。





No.6





 しんと静まり返った家。康穂は少しの間、ぼんやりと座り込んだままだった。
 のそのそと起き上がり、服を着替える。髪を梳かしていると、幽かに足音が聞こえた。ハッと顔を上げ、台所の方を見る。ガラガラと玄関の開く音がした。入って来た重い足音は、そのまま居間の辺りへ向かう。ややあって、テレビの音が聞こえて来た。
 ――なんだ……お父さんとお母さんか……。
 康穂は軽く溜息を吐き、カレンダーに目をやる。今日から、二人共休日だ。
 昨晩、彼は帰って来なかった。
 康穂は部屋を出て、洗面所へと向かう。
 やはり、彼は出て行ってしまったのだろう。今日、図書館へ行ってみようか。けれども、行くのが怖い。そこに彼がいなければ、もう康穂には捜す当てが無い。そして、恐らくそこにはいないだろうと言う気がしていた。
 顔を洗い、のろのろと台所へ向かう。
 味噌汁を温めなおしていると、ふと聞き慣れた声がした。
「相変わらず遅い朝だね。待ちくたびれたよ」
 目を見開き、振り返る。
 台所の戸口に寄り掛かるようにして、彼が立っていた。青白く端正な顔立ちに、黒い髪。組まれた腕の指先には、黒い石の指輪がある。
 言葉を失う康穂には構わず、彼はいつも通り父の食器を出そうとする。
 康穂は我に返り、慌ててそれを止めた。
「今日からはお父さんいるから駄目。出てる所見つかったら、不審がられちゃうよ」
「それもそうだね」
 一人分の食事を準備し、まずは康穂が食べる。
 それからおかわりを装って再びよそい、康穂は携帯を取り出した。康穂の前、少し横にずらして置いた朝食を、横から彼が食べる。何度か母が食卓を行き来したが、全くこちらを気にしている様子は無かった。
「……で、昨日は一体何処に行ってたわけ?」
 母が庭へと出て行き、康穂はじとっとした視線を彼に向ける。
「ちょっと、千代田までね」
「はあ? 何をしにそんな所まで」
「調べ物だよ」
 彼は多くを話そうとはしなかった。
 康穂は溜息を吐く。
「まったく……一言ぐらい言って行けばいいのに。突然いなくなってるんだもん。夜になっても帰って来ないし……」
 彼は薄い笑みを浮かべる。
「そんなに心配してくれたのかい?」
「したよ。彼方此方探し回ったんだから」
 あっさりと康穂は答える。下手に言い訳をしても、またからかわれるだけだ。
 彼を見ると、やはり予想外の答えだったようだ。
 だが彼の表情は、驚きや言葉に詰まると言ったものとは違っていた。彼は目を伏せ、言った。
「……困るよ。僕は君と馴れ合う気は無い」
「その内、会えなくなるから?」
 康穂は彼を見据える。
「やっぱり……帰っちゃうの? 本に書かれてるような道を進む為に……」
「……気付いていたんだね」
 こくりと康穂は頷く。
 勝手口が空き、母が入って来た。通りすがりに、康穂に言った。
「何か喋ってた?」
「友達と電話」
 手に持った携帯を軽く掲げ、康穂は答える。
 母は良い顔はしなかった。
「また、食べながら携帯いじって……」
「食べながらじゃないよ。食べ終わってるもん」
 食べ終わった食器は、そのまま母が持って行ってくれた。康穂は彼に目で合図し、二人で自室へと戻る。

「……絶対に帰らなきゃいけないの?」
 部屋の扉が閉じられるなり、康穂は呟くように言った。
 彼は無言のまま、答えない。
「本……読んだんでしょ。だったら、帰ったところで何が待っているか分かる筈だよ」
「同時に相手の手の内も分かった。それさえ知っていれば、どうにでも防げるさ」
「未来の事だけじゃない。……過去の事だって」
「……」
「貴方のお父さんは、魔女だと知ったから捨てた訳じゃない。元々他に愛していた人がいて、だけどメローピー・ゴーントが――」
「分かってる!」
 荒げた声に、康穂は言葉を途切れさせる。
 彼はふいと視線を外した。
「分かってるさ……そんな事……。
僕は何も、情け無いマグルの父親の事にしょうも無い復讐心を抱いている訳じゃない。――マグルが表立って世界を牛耳って、魔法使いは隠れなくてはいけない。そんなの、おかしいだろう? 魔法使いの方が力があるんだ。力のある者が上に立つのは、当然の話さ。マグル生まれなんて、奴らと同じようなものだ。それに、マグル生まれの駆除は、偉大なるサラザール・スリザリンのご意向だ。僕はその血を引いている。
――そんな目で僕を見るな。君には分かる筈もないさ。マグルの君なんかにね」
「……嘘だよ」
「嘘じゃない」
「嘘を吐く時はあまり多く語り過ぎない方がいいって言ったの、あんただよ?」
「……」
「だって、スリザリンのご意向とか何とか言っても、あんたそんな昔の人の夢叶えてやるようなタイプじゃないでしょ?」
「君に僕の何が解るって言うんだ」
「解るよ。少なくとも、それくらいは。
上に立つのだって、あんたならマグルやマグル生まれ殺さなくったって出来る筈でしょ? ねえ、あんたは一体何がしたいの? 名を残したって、こんなの……空しいだけじゃない」
 母のかける掃除機の音が聞こえて来ていた。テレビを見ている父に、退け、手伝う気はないのかとまくし立てている。
 不思議な感覚だった。部屋の外は、いつもと何ら変わりない日常なのだ。
「私は……あんたが死ぬの、嫌だな」
 康穂は呟く。彼が言い返そうとする前に、続けた。
「未来を知ったあんたが戦死を回避したって、他の人達がたくさん死ぬのも嫌だ」
「つまり君は、僕が向こうの世界にいなければいいって言いたいんだろ」
「何でそう捻くれた捉え方するかなあ……。――私、あんたと離れたくないんだよ」
 彼は俯いていた。視線を外し、身体の横に下ろした腕は拳を握っている。
「単なる私の我侭だよ。でも、あんただってその方がいいんじゃないかと思う。
最初は随分と偉そうな態度だしさ、そりゃあ腹立ったよ? でも、特に何をしたって訳じゃないけど、数日間過ごして楽しくなってきたし……。今は、あんたと離れるのは寂しい。マグルの私は、向こうに行くなんて出来ないだろうしね」
 彼は踵を返す。そしてそのまま、部屋を出て行ってしまった。
 バタンと大きな音を立てて扉を閉じられ、康穂はびくっと肩を震わせる。
「ドア壊れるでしょ!」
 当然康穂が閉めたものと思われ、母の怒鳴る声がする。
 康穂は、彼の行動に目を瞬いていた。
 ――怒った? 何で?
 彼の怒りには、何の脈絡も無いように感じられた。解ってるような口振りで話されるのが嫌だったのだろうか。
 それだけで、彼があからさまに怒りを示すものだろうか?
 康穂は溜息を吐き、机に向かう。今は、そっとして置いた方が良いだろう。





 その日、彼が康穂の所へ来る事は無かった。タロの散歩へも、ついて来ようとはしなかった。康穂も、ほとぼりが冷めるまで声はかけようとしなかった。
 夕飯の時間になり、康穂は居間へと向かった。父と彼を呼ぶつもりだったが、居間でテレビを見ているのは父だけだった。
「ん? ご飯出来たか」
「ああ、うん……」
 部屋を見回しながら、康穂は頷く。
 嫌な予感がして、玄関へ向かった。続いて、勝手口も確認する。そして、溜息を吐いた。
 ――またか……。
 彼の靴が無かった。また、彼は出て行ったのだ。
 とは言え、朝の事があった後だ。放って置くのはどうにも心配である。天気予報も、今夜か明日から豪雪になると言う。
 康穂は自室に戻り、コートを着込む。マフラーを巻きながら部屋を出ると、ちょうど居間から出て来た父と遭遇した。
「何だ、出かけるのか? 夕飯は?」
「取っといてって、伝えといて。昼間街に行った時、携帯落としちゃったみたいで。雪降ったら壊れちゃうから、捜してくる」
 ラジオ機能が付いているような大きな懐中電灯を手に、玄関を出る。背後では、母のうんざりしたような怒るような声が聞こえていた。
 一人になりたくて、出かけたのだろう。けれど、彼は何故か怒って部屋を出て行った。理由によっては、今度こそ本当に出て行ったのかも知れない。
 だが、出て行ってどうなる? 彼は遠くまで出掛けながら、今朝には康穂の所へ帰って来た。本当に当てが無いのだろう。康穂の所ならば、決して良い待遇とは言えなくても雨風寒さを凌げる寝床と食事が約束されている。それを利用しない理由が無い。
 それに、彼は体調が悪そうだった。思い返してみると、帰って来た彼は初めて会った時と同じくらい青い顔をしていた気がする。
 ――何故、体調が悪い?
 ふと疑問が胸中に浮かぶ。
 ただの風邪にしては、長引きすぎてはいないか。それに彼の場合、風邪と言うよりも疲労や衰弱と言ったイメージに近い。嫌な予感に胸がざわつく。
 強い風に煽られ、解けそうになったマフラーを抑える。
 彼は、一体何時家を出て行ったのだろう。ただでさえ体調が悪いのに、こんな寒い中……。

 今回は、あっさりと彼を見つける事が出来た。公園のベンチに座る彼の背中を見つけ、康穂はホッと息をつく。
 階段を上り、公園に入る。彼は片腕をベンチの背に回し、腕に顔を乗せるようにして俯いていた。康穂が近付いても、微動だにしない。
 異変に気付き、康穂は駆け寄った。
「ちょっと! 大丈夫!?」
 彼の顔色はいつもに増して真っ青だった。肩を揺らすと、薄っすらと目を明けた。ホッと康穂は息を吐く。最悪の事態には陥っていなかった。とは言え、ここにいて良い事は無いだろう。
 康穂は屈み、彼の顔を覗き込む。
「歩ける? 肩貸すから――」
 不意に、彼の腕が康穂を抱き寄せた。
 突然の事に、康穂はカーッと顔が熱くなる。
「ちょ、ちょっと!? 何ふざけてんの? 熱でもあるわけ!?」
「寒い……」
「そりゃ、こんな時間まで外にいれば寒いに決まってるじゃない! だから帰ろうって――」
 彼が話す気配は無い。
 康穂は諦め、開き直って彼を抱き返した。どうせ、他の人には見えていない。
「……僕も、ここにいても良いかも知れないと思い始めてたんだ」
「……うん」
「だけど、無理なんだ。僕は、ここでは生きられない」
 思いもよらない話だった。
 けれども、直ぐに納得が行った。体調が悪くなる一方の彼。彼はやはり、この世界にいてはならない存在なのだろう。
「日に日に気だるさが増すばかりだ。君の所にいて、幾らか楽にはなったけど……緩やかになっただけの話だ。魔法も、使う度に疲労が大きい。
僕には、選択肢なんて無いんだ」
 レパロや開心術。彼は強がっていたのだ。本当は、それが自分を更に窮地に陥らせていたというのに。
 目尻が熱くなったが、彼の背に回した腕に力を込める事で、涙を堪える。
「だから……迷わせないでくれ。決心していたのに……」
 だから、彼は怒ったのだ。
 一度固めた決意を揺らがせるような事を、康穂が言ったから。そして、彼の事だ。康穂なんてマグルの言葉で揺らいでしまう自分が、腹立たしかったのだろう。
 康穂も、覚悟しなくてはいけない。
 トム・リドル――本の中の人物である彼は、この世界に留まる事は出来ないのだと。


Back  Next
「 つかの間の…… 」 目次へ

2009/12/30