目覚まし時計がけたたましく鳴っている。沙穂は布団の中から手を伸ばし、それを止めた。頭上に置いてある服に着替え、目を擦りながらカーテンを開ける。西側に位置している窓から、午前中に日差しが差す事は無い。ただ、冬場などは早く起きると赤く染まった本宅やその向こうの雑木林を見る事が出来た。
 その本宅に、ランドセルを背負った小さな少女が入って行った。沙穂は目を瞬く。
 梨花だ。こんな朝早くに、一体、何の用だろうか。
 沙穂はランドセルを背負うと、離れを出た。結局、昨晩は食事をとっていない。梨花がいれば、祖父の理不尽な怒りも幾らか緩和されているかも知れない。祖父が梨花を呼んだのならば、若しかしたら朝食も作っているかも知れない。例え作っては無いにせよ、食パンぐらいは買って来ているだろう。
 いつもそうしているように、食卓にある裏口へと向かう。閉められた扉の向こうからは、幽かに話し声が聞えて来ていた。声は二つ。祖父と、梨花の物だ。
 食卓に入ろうと扉に手を掛けた時、中の会話がはっきりと聞こえて来た。
「――やっぱり、今年こそ沙穂は祟られるんかいね」
 その言葉に、沙穂は動きを止める。
 祖父の声だ。「やっぱり」とは、どういう意味なのか。何故、それを梨花に尋ねるのか。祖父は、何か知っているのか。そして、梨花も――
 祖父は続けている。
「オヤシロさまは、沙穂を嫌って……沙穂は祟られる理由が……」
「今までの……沙穂の所為……」
 扉越しに聞える二人の声は小さく、所々聞き取れない。沙穂はそっと扉に耳を押し当てた。
 梨花の声が聞えた。
「――最近、沙穂は何か変わった行動をとりましたですか?」
「……っ」
 沙穂はぱっと扉から耳を離す。足音を立てぬようにじりじりと下がり、そして門の方へと駆け出した。
 ――何故、梨花がそんな事を気にする?
 祖父と梨花の密会が、何の意味を示しているのかは分からない。二人が、オヤシロさまの祟りに関して何を知っているのか分からない。けれど、確実に分かる事があった。
 この村の人々は、沙穂に隠し事をしている。





No.6





「珍しいねぇ。沙穂が弁当を忘れて来るなんて。明日は雨どころか、槍が降るんじゃなーい?」
 昼休み。沙穂がいつもの重箱どころか、食パンさえも持って来ていないのを知り、魅音が茶化すように言った。
「今日は寝坊してしまって……。急いでいたものだから」
「何も、お弁当を忘れるほど急がなくても良いではありませんの」
「例によって、今朝も魅音の方が遅かったしな〜」
 圭一は魅音の方へと身を乗り出し、皮肉るように言った。
 すっと隣から白いフォークが差し出された。プラスチック製の、弁当のセットにあるような物だ。
「使っていいよ。これぐらいしか、持ってないけど……」
「ありがとう、レナ」
 沙穂は大人しく、そのフォークを受け取る。
「沙穂、本 宅 へ は 行 か な か っ た のですか?」
 沙穂は、ぱっと梨花を見る。
 梨花は感情の無い目で、じっと沙穂を見つめていた。いつもと様子の違う冷たい視線に、沙穂はぞくっと寒気を感じる。
 梨花は、沙穂が立ち聞きしていた事に気付いているのだろうか。否、しかし沙穂は物音を立てていない。こちら側に、窓は無かった。扉の向こうにいた祖父と梨花からは、沙穂の存在は分からなかった筈だ。
 沙穂は平静を装い、きょとんとした調子で答える。
「ああ……離れから真っ直ぐ、出かけたからな」
 沙穂が答えると、梨花はにっこりと笑った。いつもの、愛らしい笑顔だった。
「そしたら、朝御飯も食べていないのです。かわいそ、かわいそなのですよ」
 そう言って身を乗り出し、沙穂の頭を撫でる。伸ばされた腕に沙穂は一瞬びくりと肩を揺らしたが、平静を装い続けた。梨花の表情を伺い見るが、もう先程のような異様な雰囲気は纏っていなかった。
「って事は、今日の沙穂はいつも以上に強敵って訳か!」
 そう言って、圭一は弁当のおかずを口に放り込む。続けて、沙都子の弁当に箸を伸ばした。
「あっ! やりましたわね、圭一さん!」
「ぼさっとしてるのが悪いんだぜ」
「レナも負けないんだよっ。だよっ」
「圭ちゃんのから揚げ、いっただきー!」
「魅ぃの春巻き、おいしいのですよ」
 いつものように、おかずの争奪戦が始まる。明るい声が教室に響く。
 沙穂は、困惑しながらその情景を見つめていた。昨日の大石の話が脳裏を過ぎる。部活メンバー達の過去や、被害者との関わり。オヤシロさまの祟りに関して、隠されている事実。そして、今朝の祖父と梨花の会話。
 突然に降りかかった非日常。けれど目の前の皆の様子は明るく、日常と何ら変わらない。
「ん? どうしたんだ、沙穂。食わないのか?」
 圭一が怪訝気に沙穂を振り返る。
 レナも首を傾げた。
「若しかして、まだ体調が悪いのかな? かな?」
 沙穂は慌てて首を振る。
 そうだ、皆、大切な仲間ではないか。沙穂が唯一、ずっといたいと思える居場所なのだ。それを、昨日まで知りもしなかった人の話で、自ら壊してしまってどうする。
 沙穂はニッと笑って見せた。
「大丈夫だ。ハンデだよ。そろそろ、私も参戦と行くか」
 そう言うと、レナから借りたフォークを弁当へと伸ばした。

 昼食を終え、歯磨きを終えた沙穂は水道で水を飲んでいた。昨日は弁当が食パンしか無く、晩御飯は食べていない。更に今朝も朝御飯は食べておらず、昼食は五人分を六人で食べたのだ。いつも人並み以上に食べている沙穂には、到底足りなかった。水でも良いから、少しでも腹が膨れればと思ったのだ。
 ふと視界の端に人影が映り、沙穂は身体を起こす。それから廊下を渡り、突き当たりの玄関へと向かった。
 昇降口の扉を開け、沙穂はその名を呼ぶ。
「……大石さん?」
 車へと戻りかけていた大石は振り返り、にこにこっと笑う。
「おやおや、岡藤沙穂さんじゃないですかぁ。良かった。昼休みでしょうから、誰か出て来ないかとおもっていたんですよぉ」
「はぁ……。えっと、何かまた――?」
「いえいえ、今日は岡藤さんではなくてですね。……古手梨花さんをお呼び頂けますかねぇ?」
 沙穂の表情が硬くなる。
 今朝の祖父と梨花の会話が脳裏を過ぎった。梨花は、警察に目を付けられている存在だという事なのか。
「なあに、ちょっとお話するだけですよ。お願いできませんかねぇ……んっふっふ」
「えっと……はい、呼んで来ます……」
「あ、車へ来るようにお伝え願えますか? あまり多くの人の目に付くのは、避けたいのでねぇ……」
 沙穂は承諾し、教室へと戻って行った。
 教室の扉を開ける。既に皆歯磨きも済ませ、教室にいた。沙穂は、梨花に手招きする。
「……梨花、ちょっと」
「み? 何ですか?」
 梨花は席を立ち、教室から出て来る。後ろ手に扉を閉めた。
 沙穂は昇降口の方へ目をやる。
「梨花にお客さんが来ている。外で待っているそうだ」
 言って、沙穂は昇降口へと歩き出す。梨花は首を傾げながらも付いて来た。
 昇降口まで来て、沙穂は窓の外をきょろきょろと見る。見覚えのある車を見つけ、指差した。
「あの車だ。大石さん、と言う人が……」
 沙穂は振り返る。
 ……梨花は、じっと沙穂を見つめていた。
「――沙穂は大石とお話をしたのですか?」
 沙穂は口を閉ざす。ぞっと鳥肌が立つのを感じた。
『最近、沙穂は何か変わった行動をとりましたですか?』
 今朝耳にした言葉が、脳裏を過ぎる。上手い言い訳が思いつかない。答えられずにいると、梨花はぱあっと笑顔になった。いつもの愛くるしい笑顔。
「ここまで案内してくれて、ありがとうなのです。にぱーっ」
 そう言って昇降口を出て行く梨花は、いつもの梨花と何ら変わりなかった。
 けれども、沙穂は見た。今日の昼休みだけでもう、二回目だ。確かに梨花は、いつもと違った様子だった。いつもと違う目を沙穂に向けていた。梨花は、何かを知っている。
「……」

 沙穂は踵を返し、足早に教室へと向かった。
 梨花は、一体何を知っているのだろうか。一体何を隠しているのだろうか。今朝、祖父と一体何を話していたのだろうか。大石は、一体何の話を梨花にするのだろうか。
 疑問ばかりが渦巻くが、どの疑問も答えは導き出せなかった。
 後で大石に聞いてみようか。答えてくれるだろうか。若し、沙穂が身を守る為に必要な事ならば、彼は答えてくれるだろう。若しかしたら、梨花が味方か否かを判断してくれているのかも知れない。梨花が味方だと警察も信用したならば、沙穂の迷いも幾らか晴れる。
 そう思いながら、沙穂は教室の扉に手を掛けた。クーラーがある訳でもないのに、夏場に扉を閉めたりして暑くないのだろうか。
「――さん、死んだらしいよ」
 沙穂は硬直する。
 魅音の声だった。驚くような圭一の声が聞こえる。
「富竹さんと鷹野さんが!? ――何で!?」
「圭ちゃん、声大きい。これ、極秘事項って事になってるんだから」
「あ……、すまん」
「ねぇ、魅ぃちゃん……被害者は、それだけ?」
 レナの声だ。
 沙穂は扉の前に立ったまま、耳を澄ます。教室の扉は家の裏口よりも薄い。中の話し声ははっきりと聞こえた。
「死体が見つかったのは、ね……」
「オヤシロさまなら、もう一人だよね……。若しかして、沙穂ちゃんのおばあちゃんが……?」
「……恐らくね」
「何だ? どういう事だよ、もう一人って」
「オヤシロさまの祟りは、死体と行方不明者が出るようになってるんだよ。今までの事件も、そうでしょ?」
「あ……!」
 沙穂は唇を噛む。
 圭一には話してあるのか。沙穂には、全て隠していたと言うのに。
「……富竹さんと鷹野さんは生贄、沙穂のばあさんは鬼隠し……か」
 沙穂は眉を顰める。
 鬼隠し。聞いた事の無い単語だ。何故、引っ越してきたばかりの圭一は教えられているのに、沙穂は教えてもらえない?
 魅音が頷く。
「多分、そういう事だと思う」
「けど、おかしくないか? これまで、死んだのは一人ずつだろ? 富竹さんと鷹野さん――今年は二人もいるじゃねーか」
「……今年の祟りは、まだ終わっていないのかもね」
 魅音の口振りは推測と言うよりも、確信を得ているかのようだった。
 レナの不安げな声がする。
「それじゃあ、まだ被害者が出るのかな、かな……。次の被害者って、まさか沙穂ちゃんじゃないよね……」
 沙穂はぎょっと息を呑む。心臓が波打つのを感じる。
「沙穂のおばあさんが消えた理由によっては……ね。可能性は高いと思うよ……。今までの被害者も、近しい者同士だしね……」
「――そこで何をしていますの……?」
 沙穂はパッと振り返る。沙都子が直ぐ後ろに立っていた。
 教室内で皆と一緒にいたのではなかったのか。近付いて来たのに、沙穂は全く気付かなかった。
「どうしましたの? 若しかして、驚きましたかしら?」
 悪戯っぽく笑う沙都子は、いつもと何の変哲も無かった。
 沙都子の事だ。恐らく、態と気付かれないように近付いてきたのだろう。きっとそうだ。
「当然だ。まったく、そんなに近付いてから声を掛けなくても――」
「沙穂さんは、何をしていましたの?」
 沙都子の質問に沙穂は言葉を詰まらせる。
 ――落ち着け、落ち着くんだ。
 沙穂は自分自身に言い聞かせる。
 沙都子の疑問は、至極全うだ。きっと、沙都子は元々教室内にはいなかった。何処かへ行っていたのだろう。だから、教室内の会話も知らない。教室の前でずっと立ち止まっている沙穂を見れば、何をしているのかと疑問に思っても不思議ではない。
「いやぁ……教室は暑いから、少し涼もうと思って……」
「変な沙穂さん。凄い汗ですわよ」
 そして、沙都子は教室の扉に手を掛けた。沙穂が止める間も無く、思いっきり扉を開ける。
 途端に飛んできたのは、魅音の明るい声だった。
「沙穂、遅ーい。梨花ちゃん連れて行って、また水飲んでたんじゃない?」
「水飲み過ぎると、お腹壊しちゃうんだよ、だよ」
「沙都子は何処行ってたんだ? トイレか?」
「もうっ、圭一さん! デリカシーが足りません事よ!! トイレじゃありませんわ!」
 先程までの会話が、夢だったかのようだった。何事も無かったかのように、皆明るく話す。
 かと言って、沙都子のいる場で話を掘り返す事も出来ない。沙穂は腑に落ちないものを感じながらも、皆に合わせて笑うしか無かった。





 その日は魅音がバイトとの事で、部活は無しとなった。
「いや〜、ホントごめんね。人手足りないって、急に頼まれちゃってさぁ……」
 レナと圭一と別れ、坂道を登りながら魅音は沙穂に言った。
「問題無い……仕方無い事だ」
 沙穂は返すが、全く別の事を考えていた。
 沙穂が越して来る前にもあった、連続怪死事件。今年の被害者達。圭一には話して、どうして沙穂だけ除け者にされるのか。
 聞けば、答えてくれるのだろうか。若し、隠されたら。それを思うと、聞くのが怖い。けれど、沙穂からも避けてばかりでは、何も知る事が出来ない。
「……なあ、魅音」
 沙穂は立ち止まる。一歩遅れて、魅音も立ち止まった。
 数日前にもあった流れ。けれど、今回の疑惑の相手は魅音本人だ。
「『オヤシロさまの祟り』って言われている物が、この村にはあるよな……?」
「……珍しいね、沙穂からオヤシロさまの話を持ち出すなんて」
 茶化す訳でもない、静かな声だった。
 沙穂はぎゅっと拳を握る。
「私が越して来て間も無く、梨花の両親が亡くなった……。昨年は、悟史がいなくなってしまった……。
なあ、魅音。私が越して来る前にも、同じような事件はあったのかな……」
 ――お願い……。
 本当の事を話してくれ。沙穂は視線を落としたまま、魅音の言葉を待つ。
 魅音の口が開いた。
「――無かったよ」
 沙穂は顔を上げる。魅音は話してくれなかった。魅音は意図的に、沙穂に事件の事を隠しているのだ。
「あんな突飛な事件、そう何回も起こっちゃたまんないよ。だから――」
「嘘だ……!!」
 沙穂は叫び、魅音の言葉を遮っていた。
 どうして隠す。どうして話してくれない。沙穂は、仲間ではないのか。
「嘘だ。連続怪死事件は五年前からあるのだろう。一年目はダム現場の監督と犯人の一人、二年目は沙都子の両親。私が引っ越して来てからのは、三年目と四年目だ。どれも綿流しの日の翌日だった。一人が死に、一人が消え……私は知っている! 隠しても無駄だ!!
今年だって、被害者が出たのだろう。富竹さんは、首を掻き毟って死に! 鷹野さんは、山奥で焼死体が見つかった!
どうしてだ! どうして隠す!? どうして、私ばかり除け者にするんだ!!」
「ご、ごめん。除け者なんて、そんなつもりは無かったんだよ。だってホラ、沙穂ってオヤシロさまの話はあまり好きじゃないみたいだしさ……」
「何がオヤシロさまだ。全ては人為的な事件だろう!? そうやってオヤシロさまと言う煙に巻いて、誤魔化そうって言うのか!? そんな非科学的な物が通用するのは、雛見沢ぐらいだ! 馬鹿馬鹿しい!! 私は知っているぞ! この連続怪死事件は、オヤシロさまの祟りなんかじゃない! オヤシロさまなんて物、存在しない!!」
「沙穂」
 魅音の声は、決して大きくなど無かった。静かな声だったが、いつもの魅音とは違った気迫があった。沙穂は気圧され、黙り込む。
 世界から音が無くなったかのようだった。ただ蜩の鳴く声だけが、やけに大きく聞こえる。
「ずっと前から言おうと思ってたんだよね……」
「な、何だ……」
 圧し切られまいと、沙穂は尋ね返す。
「……何だ!? 言いたい事があるなら、言えば良いだろう!!」
「オヤシロさまを否定するの、止めた方が身の為だよ」
 魅音はあくまで静かな口調だった。
 その目に光は無く、じっと沙穂を見下ろしている。ぞっと恐怖に似た物を感じながらも、沙穂は視線を逸らす事が出来なかった。
「おじさん、沙穂と仲間でいたいからさぁ……。ずっと……ね」
 そう言って魅音は、ニタリと笑った。


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2009/08/09