夕暮れの中、インターホンの音が響く。応答は無い。しかしかりんは、そのまま帰るつもりなど無かった。扉越しに、家の中へと声を掛ける。
「マミちゃん、私だよ。かりんだよ。学校のプリント持って来たの」
 扉の向こうからは、物音一つしないまま。
「今日は、さやかちゃんも学校に出て来たんだよ。また一緒に、魔女退治に行こう? ううん、魔女退治じゃなくてもいい。マミちゃんと一緒に夕暮れの町を歩いたり、美味しいケーキ屋さんに立ち寄ったり、学校へ通ったり……私、それだけで幸せなんだよ。魔法少女の本体が何であろうと、マミちゃんがマミちゃんである事には変わりがないもの」
 やはり、何の反応も無いまま。
 かりんはキッと眉を吊り上げると、家の中へと「移動」した。
 広い窓からは西日が差し込み、リビングは朱く染まっている。水受けの上には、現れた食器が数枚とフォークが置かれていた。
「マミちゃん、ケーキしか食べてない……」
 まともな食事は喉を通らなかったのだろう。彼女の両親の月命日に買って来られたケーキは底を付き、折りたたまれた箱がゴミ箱に捨てられていた。
 マミのお気に入りのケーキ屋を巡ってみたが、何処にも彼女の姿は無かった。店員に尋ねても、それらしき女の子は来ていないらしい。食料を買いに出たと言う訳でもないようだ。
 あと、マミの行きそうな所と言えば。
「そうだ、公園……」
 日は完全に暮れ、赤みがかった街灯が園内を照らしていた。色とりどりのライトに照らされ、噴水が幻想的に輝く。
 夜の公園に人の姿は無い。マミの姿さえも。
 ここも違ったか。去ろうとしてかりんは、ふと足を止める。……あまりにも、人がいなさ過ぎではないか?
 日が落ちたとは言え、まだ早い時間帯。深夜と言う訳でもない。子供の姿は無いにしても、部活帰りの中高生や公園前を通りすがる人々ぐらいはいても良いはずだ。
 まさかと思い、左手をかざす。中指の指輪が光り、ソウルジェムへと形を変えた。紺色のソウルジェムは、強く光っている。
「魔女……」
 公園に現れる魔女。それは、マミにとって苦い思い出があった。マミが魔法少女になって間もない頃、魔女に囚われた子供を助ける事が出来なかったのだ。だからマミは公園をよく巡回するし、また挫けそうな時も公園に来て決意を新たにしていた。公園はマミのトラウマであり、出発点なのだ。
 結界は直ぐに見つかった。指輪がきらめき、入口が開く。白い光の中、瞬く黄色。間違いない。マミはこの中で戦っている。
 かりんは魔法少女姿へと変身すると、結界の中へと飛び込んで行った。

 結界の中は薄暗く、木製の柱と屋根が渡り廊下のように掛かっていた。排気ガスのような臭いが、かすかに鼻をつく。
 マミは奥だろうか。道なりに、かりんは結界を進んで行く。
 間も無く、前方にわらわらと蠢く影が見えて来た。あの数は、使い魔か。使い魔はかりんに気付いたようだが、酷く動きが鈍い。駆け寄り鎌で切りつけるのは、造作もなかった。
 ただ道を切り開くための作業として、黒い錆びやガラクタの塊のような使い魔を淡々と切り刻んでいく。
「悪いけど、あなた達と遊んでいる暇は無いの」
 前へ、前へ。多少のダメージも構わず先を急いでいたかりんは、横から迫った一体の発するガスをもろに食らってしまった。
「……っ」
 ごほごほとむせ返るかりんの腹に、ボックスドライバーのような腕が叩き込まれる。かりんは後ろっ飛びに吹っ飛び、背後の壁へと強かに背中をぶつけた。
 尻餅をついたかりんを、尚も使い魔の腕が襲う。横に転がり何とか避け、尻餅をついたまま後ずさるも直ぐ壁が背中に当たる。
「動きが早くなった……!?」
 反応速度と瞬発力には、自信がある。そうでなくても、この使い魔達は他の魔女の使い魔に比べて動きが鈍かった。それが突然、反撃する間も無くなった。
 ――違う。
 辺りに滞留するガスの流れを横目に捕らえる。結界にも、空気の流れはあるのだろう。僅かではあるが、渦巻くように流れている。その、速さ。
 使い魔が速くなったのではない。かりんが遅くなったのだ。
「原因はさっきのガス……かな」
 一人ごちた途端、強い衝撃が襲った。他の使い魔をも轢き殺し、かりん目掛けて突進して来たのは、タイヤのような形の使い魔。かりんを壁に叩き付けたかと思うと、自身もその衝撃で消滅する。
 崩れ落ちたところへ繰り出される攻撃を間一髪の所でかわし、かりんは移動の魔法を発動させた。
 群がる使い魔の輪を抜けて、再度、今度は数メートル先へと移動する。愚鈍な使い魔らはかりんの行き先を追えず、右往左往していた。ガスの効果も、永続的と言う訳ではないらしい。
 いつまでも使い魔にかまけている訳にはいかない。早く、マミの元へと行かなければ。嫌な予感がしてならない。
 鋼鉄かと思われた扉は、存外に軽かった。単なる銀メッキのようだ。錆付いた扉を押し開き、かりんはひたすら奥へと進む。
 移動の魔法で使い魔をかわし続け、幾つ目の扉だったか。開いた先にこれまでのような柱や天井は無く、開けた場所となっていた。
「ここね……」
 突如、悲鳴が響き渡った。
 見回せば、コンクリの地面の上に膝を付き、うなだれるマミの姿があった。その正面には、黒く大きな魔女の姿。かりんは目を見開く。錆付いた身体の中に、一瞬見えた小さな腕。
「――させないッ!」
 瞬時に、魔女の傍らに現れる。そして、腕が消えようとする腹目掛けて鎌を振り下ろした。ガチン、と硬い金属音。それでも怯む程度には効果があったらしく、その隙にかりんは細い腕を掴み引き寄せる。
 魔女へ取り込まれかけていたのは、小さな男の子だった。脈はある。気絶しているだけのようだ。ぐったりした身体を支え抱え上げる。
 魔女も何が起きたのか把握したらしく、腕のような長いガラクタがかりんを襲った。子供を庇いつつ、数メートルも後ろに吹っ飛ばされる。
「かりん!!」
 起き上がるかりんの元へと、マミが駆け寄ってきた。かりんはにっこりと笑い返す。
「平気、平気。この子も、気絶しているだけみたい」
 それを聞いて、マミの顔に安堵の色が浮かんだ。目尻に涙さえも浮かんでいる。
「良かった……」
 かりんは微笑み、立ち上がった。
「さあ、魔女を倒そう」
 言うなり、かりんは鎌を構えて突進して行く。叩きつけられる腕をかわし、その体躯に斬りつける。ガキンと言う鈍い音、痺れるような手への衝撃。
 付き纏う蝿を振り払うかのように、かりんは再び叩き飛ばされた。
「嘘でしょ……? とどめのつもりだったのに……」
「駄目、かりん! あなたの攻撃では、この魔女は倒せない……!」
 マミは子供を抱きしめていた。まるで、もう奪われまいと言うかのように。その状態では、戦う事など出来ないであろうに。
 ……否、例えその腕に子供の姿が無くても、彼女は戦えないだろう。魔女を見つめる彼女の表情。その瞳に浮かぶのは、怯えの色。
「マミちゃん……?」
 病院での魔女との戦いでさえ、死にそうにこそなったもののまどかとさやかを庇いかりんを励ますほどには、気を取り直していた。
 今の彼女に、闘志は無い。心の底から、完全に怯えきってしまっている。
「ここは……この魔女は、私が魔法少女になって間もない頃に一度戦った魔女なの……」
 震える声。その瞳に溜まっていた涙が、ツーッと頬を伝って行った。
「その頃の私はまだまだ弱くて……リボンで銃を作り出す事も出来なかった。話した事があるでしょう? 敵わなくて、逃げ出した事があるって……それが、この魔女なのよ……!」
「マミ……ちゃん……」
 マミの過去のトラウマは、話にだけ聞いた事があった。子供が魔女に囚われ、けれども敵わずに逃げ出してしまったと。もちろん、その子供はもうこの世にいないだろう。
 だからマミは、公園をよく巡回する。もう二度と、同じように子供が魔女に囚われぬように。そして、当時の後悔と決意を胸に刻み、魔法少女の使命を再確認するために。
「……そっか」
 かりんは再び鎌を構え、魔女に対峙する。魔女は自身の錆から、使い魔を召還していた。そのためか、魔女自体の錆が少なくなっているように見える。
「かりん」
 呼び止めるようなマミの声に振り返り、そしてかりんはニッと笑った。
「だったら、その仇取らなくっちゃね。道を切り開くのが、私の役目だもの!」
 トンと軽く地面を蹴る。
 厄介なガスを食らう前に、使い魔は一刀両断。渾身の一撃を、魔女本体に食らわせる。
 相変わらずの、硬い身体。けれども、一撃目に比べれば手ごたえがあった。ぐらりと、魔女の身体が大きく傾く。
「やった……!?」
 傾いた魔女の身体が、眩い銀色に輝いた。ただの錆の塊のようだった身体はその全貌を露わにし、まるでロボットか何かのように形を変化する。
「な……っ」
 息を吐く間も無く、四つの車輪を得た魔女は真っ直ぐにかりんへと突進して来た。
 あったのは途方も無い重量感と、身体を引きちぎられるかのような痛み。何が起こったのか認識する間も無く、かりんは地面に横たわっていた。
 遥か遠くへと走り去って行った魔女は手足の生えた形に起き上がり、再びこちらへと向き直る。
 そして再度、銀色の車体に形態変化。
 家族の声が、聞こえた気がした。
 かりんの名を必死に呼ぶ幼い妹。何とか、椅子と車体の間からかりんを引っ張り出そうとする父と母。迫る火の手。
『ごめん……ごめんな……かりん……』
 弱々しい父の声が、最後に聞いた家族の声だった。母は妹を抱き上げ、顔を背けるようにして泣いていた。
 かりんは何も言わなかった。言えなかった。「助けて」「見捨てないで」心ではどんなに思おうとも、頭では事実無理なのだと理解してしまっていたから。自分と共に心中してくれなんて、そんな言葉は恐ろしくて言えようがない。
 魔女に轢かれた足は、動きそうに無い。かりんの魔法は、マミやさやかのような治癒能力に長けていない。痛みこそ遮断出来ても、このままではソウルジェムが砕かれるのも時間の問題だろう。それとも、この足を自動修復しようとして、濁りきるのが早いだろうか。
 動けない、逃げる事の出来ないかりんは、この場で死ぬしかない。誰も巻き込まずに。
『――あきらめないで! 大丈夫、今助けるから!』
 ぱちりと、かりんは閉じかけていた目を開けた。
 もう死ぬしかない。家族にも見捨てられ、生きる事を諦めたかりんに掛けられた励ましの言葉。赤い炎を背景に、随所で聞こえる爆音にも怯まずかりんのために足を止めた女の子。
「……マミちゃん」
 車体となった魔女が、駆け抜ける。しかしそこに、かりんの身体は無かった。
 ターゲットが見つからず辺りを見回す魔女の上空に、濃紺の闇が渦巻く。
「うああああああああ!!」
 怒声を上げ、重力に従ってかりんは魔女目掛けて落下して行く。闇を取り巻きながら、輝く銀の刃。かりんはそれを、力いっぱい魔女目掛けて振り下ろした。
 ざくりと言う、重い手応え。
 そして、銀の光が弾けた。
 ぐにゃりと辺りが歪み、普段の公園が姿を現す。どさりとそのまま、かりんは地面へと落下した。一瞬紺色の光が弾け、変身が解かれる。
「かりん!」
 駆け寄ってきたマミは、かりんの足を治癒し身体を助け起こす。かりんは力なく微笑った。
「へへ……ちょっと、危なかったかな……」
「……もう! 無茶をするんだから……」
 マミは、ホッと安堵の表情を浮かべる。今にも泣き出しそうな表情。ぽつりと落ちてきた雨粒が、彼女の頬を伝って行った。
 かりんが救い出されたあの日から、彼女はずっと一人で戦って来たのだ。助けられなかった痛みや後悔、いつか自分も死んでしまうかもしれない恐怖や孤独を抱えながら。
 かりんがいなくなったら、彼女はまた独りになってしまう。寂しい思いをさせる事になってしまう。
 グ、と腕に力を入れてかりんは上体を起こし、そして彼女を抱きしめていた。
 ぽつり、ぽつりと降り出した雨は、徐々に強さを増して行く。
「好きだよ、マミちゃん……大好き」
 しんとした静寂の中、聞こえるのは雨音だけ。
 そ……と優しく、かりんの頭に手が触れた。かりんを抱きしめ返し、マミは呟いた。
「私もよ、かりん」
 かりんは目を見開く。
 叶わない恋だと思っていた。まさか、こんな事って。
「かりんは、私の大切な友達だもの」
 ――ああ、やっぱり。
 今更何を、落ち込む事がある。解っていた事ではないか。
 マミは、かりんを抱く腕に力を入れる。ただ、友達として。
「あの時魔女に囚われたあの子は、私が諦めてしまったあの子は、もう戻って来ない……また同じ魔女に会って、私、何してるんだろうって自分の目的を見失っちゃって……。私一人生き残って、死んだ身体を無理に動かして、その上誰も救えなくて……あの子が亡くなったこの場で死ねるなら、せめてもの償いになるかなって……。
 私、もう死んでるんだって知って……この身体とソウルジェムの事聞かされて、どうして良いか解らなかった。それに何より……キュゥべえが、そんな大事な事を隠していたって事がショックで……」
 ふと、マミの身体が離れる。涙に濡れた瞳が、かりんを見つめていた。
「かりんは、私に隠し事なんてしないわよね? 友達だものね?」
 脳裏を過ぎったのは、ソウルジェムの更なる事実。キュゥべえと協力関係を組み、他の魔法少女に仕掛けている所業。
 そして、マミへのこの想いさえも。
 ……全てを包み隠して、かりんは微笑んだ。
「うん。私は何があっても、マミちゃんの味方だよ」
 知らなくていい。
 知らないままでいい。
 それが、彼女の笑顔を守る事に繋がるのだから。
「マミちゃん。あなたがいてくれたから、私は救われたの。死ぬだなんて言わないで。私だけじゃない。まどかちゃんやさやかちゃんだって、マミちゃんに助けられた。杏子ちゃんだって、危ないところを助けたのが出会ったきっかけじゃない。
 どんなに辛い戦いでも、マミちゃんは『皆のため』って事を忘れない。この力は、魔法少女は正義の味方なんだって誇りを持って戦える。マミちゃんは、皆の希望の光なんだよ」
「何だか、面と向かって言われると照れくさいわね……」
 マミは少し笑う。かりんも、笑った。
「辛かったら一人になろうとしないで。私に話して。マミちゃんは、一人じゃないんだよ」

 雨に濡れた住宅街を、青白い光が照らし出す。二つの傘が、静かな通りを進んで行く。マミとかりんは、ソウルジェムの反応を頼りに工場地帯の方へと向かっていた。
「すっかり遅くなっちゃったわね……美樹さん、大丈夫かしら。
 情けないわね。新人の美樹さんでさえ、立ち直ってまた学校に出て来たって言うのに」
「さやかちゃんだって、昨日は休んでたみたいだよ。杏子ちゃんが励ましてくれたおかげかな」
「……佐倉さん?」
 かりんは大きく頷く。くるんと傘を回し、小さくピースをした。
「昨日、杏子ちゃんと仲直り出来ましたっ」
 丸く見開かれた目が、柔らかな微笑みの形に変わる。
「そう……良かった……」
「さやかちゃんへの敵対心も、もう無いみたい。また一緒に戦えるかは、ちょっと分からないけど……あれっ?」
 かりんもマミも、立ち止まる。
 ついさっきまで強く光っていたソウルジェムは、ふっとその輝きを失っていた。
「誰かが魔女を倒したのね……美樹さんかしら」
「今は、杏子ちゃんや暁美さんって可能性もあるからね……」
 杏子ならともかく、何を企んでいるか知れない暁美ほむらとの接触はなるべく避けたい。
 しかし、さやかの可能性もあるとなれば合流すべく向かわざるを得ない。魔女は討伐されたと言え、かりんのような移動魔法の使い手でもない限りまだ遠くへは行っていないはずだ。
 暗い夜道を歩く事十数分、やはりさやかが戦っていたらしい。かりん達は、傘も持たず一人ふらふらと歩くさやかを見付けた。
「さやかちゃーん!」
「美樹さん!」
 二人の声に、さやかは足を止める。マミとかりんは、彼女の元へと駆け寄った。マミが、自分の傘を差し出す。
「大変。びしょびしょじゃない。
 ごめんなさい。私達も、公園で魔女と遭遇して……良かったわ、無事で……」
 陰になっていたさやかの表情が、振り返ったことで青く照らされる。その双眸が、かりんを射抜いた。
「かりんさん……どう言うつもり……?」
「美樹……さん……?」
 戸惑うマミを無視して、雨に濡れるのも構わずさやかはかりんに詰め寄った。
「仁美から聞きました……わざわざ仁美を煽るような真似をして、一体何がしたいの? あたしが恭介に告白なんて出来る訳ないじゃん……あたし達、ゾンビなんだよ? どうして、あんな事……っ」
 さやかは、今にも掴みかからんばかりの勢いだ。昨日、仁美から受けた相談。彼女は今日、さやかに自身の気持ちを伝えると言っていた。その時、かりんに相談した事も聞いたのだろう。かりんが、仁美の後押しをした事を。
 かりんは困ったように微笑った。
「別に……。私は何も、あなたの恋路を邪魔したいわけじゃないよ。志筑さんだって、真剣なんだよ。友達であるさやかちゃんの事を思って、自分の気持ちにふたをしてしまっていた」
 この展開を想定して、仁美の後押しをした事は事実。
 しかし、さやかに遠慮し自分の気持ちを告げまいとしていた仁美に純粋に情が沸いたのもまた事実だ。――自分と、重なったのかもしれない。
 かりんは、戸惑うさやかを正面から見据える。
「――さやかちゃんは、それでいいの? 友達に遠慮させてまで、男が欲しかったの?」
「……そんな……つもりじゃ……」
「ごめんね。私、そんな志筑さんが見てられなくて。あなたが自分の気持ちを言い出せずにいる隙に、告白してしまう事も出来た。だけど、志筑さんはしなかった。さやかちゃんとの友情も大切にしつつ、恋からも逃げない道を選んだの」
 畳み掛けるように、かりんは続ける。
 本当に伝えられない気持ちを、かりんは知っている。だからこそ。伝えられる者が、我慢する必要など無い。
 かりんはさやかへと歩み寄る。彼女の耳元で、囁くように言った。
「それでもさやかちゃんは、志筑さんを横恋慕した嫌な奴だと思っちゃうのかな?」
 さやかは言葉が出ない。その胸中に渦巻くのは、きっと自己嫌悪。
「美樹さん!!」
 呼び止めるマミの声を振り切るようにして、さやかは駆け去ってしまう。
 佇むかりんの口元には、微笑みが浮かんでいた。
 追い詰められ、しかし誰の事も責められず、彼女は一人すさんでいく。彼女が生むグリーフシードは、かりんの――そしてマミの糧となり、彼女を絶望から遠ざける道具となるのだ。


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2012/10/27