目が逸らせなかった。
 魅音は口元に笑みを浮かべ、沙穂を見下ろす。その目に光は無く、言い知れない威圧感が沙穂を襲う。
 ふっとその威圧感が無くなった。魅音はくるりと背を向ける。
「おっとぉ! 急がなきゃバイト送れちゃう。沙穂っ、走るよ!」
 沙穂はその場に立ち尽くしていた。
 魅音は振り返り、手招きする。
「おーい、先行っちゃうよ〜っ」
 いつもの魅音だ。沙穂は、地面を蹴り彼女を追って駆け出した。
 けれど、追いつこうとはしなかった。追いつけない振りをして、少し距離をとって走っていた。
 オヤシロさまを否定するな。
 そう言った魅音は、いつもの沙穂がよく知る魅音では無かった。あれが、園崎家時期頭首の迫力と言うものなのだろうか。
 沙穂とは仲間でいたいから、オヤシロさまを否定するな。魅音はそう言った。
 沙穂は、前を走る魅音の背中を寂しげに見つめる。
 それはつまり、オヤシロさまを否定するような奴は仲間ではない。「オヤシロさまの祟り」の被害者になっても仕方が無い。そういう事だろうか――







No.7





 家へ帰ると、沙穂は真っ直ぐに台所へと向かった。流石に、何か買ってあるだろう。腹が減って仕方が無い。
 予想通り、台所には大量に買い込んだ食パンがあった。
 沙穂がそれを開けてもきゅもきゅと食べていると、祖父が台所に現れた。
「……帰ってたんかい」
 冷たい視線を浴びせられ、沙穂は食パンを口に運ぶ手を止める。
 台所に立ったまま食べていた事を後悔した。どうして、幾つか持って離れへ行かなかったのだろう。
 祖父は、沙穂を憎んでいる。祖母が失踪したのは、沙穂と言う疫病神がいるからだと思っている。
 沙穂は身を硬くする。罵声が来るか、それとも殴られるだろうか。殴ろうとしてくれた方が良いな、と沙穂は思う。祖父は元気で腰も真っ直ぐだが、それでも老人だ。罵声は、どうしたって聞こえる。殴りかかって来るならば、避けられる自信がある。
 しかし、どんなに待っても祖父は何も行動を取らなかった。ただ眉根を寄せて、沙穂を睨みつけている。
「あ、あの……えっと……」
 不意に、今朝の会話が脳裏に浮かんだ。
 梨花を家に呼び出し、沙穂は祟られるのかと確認していた祖父。二年前に引っ越して来た沙穂と母に、祖父母は事件について教えてくれなかった。思えば、彼も沙穂に隠し事をしている人物なのだ。
 沙穂は、キッと彼を睨み返す。
「……『オヤシロさまの祟り』、一昨年と去年だけじゃないって聞いた」
 祖父は答えない。やはり、ただ睨みつけているだけだった。
 まるで、人形にでも話しているかのようだった。それほどに、祖父は返事もしなければ動きもしない。
「それから、今朝……古手さんが家に来てたよね?」
 祖父母は、他の老人と同じように「梨花ちゃま」と呼ぶ。オヤシロさまの生まれ変わりである彼女を呼び捨てにする事を、彼らは快く思わなかった。かと言って、同級生をその様には呼び難い。結果、祖父母の前では苗字で呼ぶ事にしていた。
 暫し、部屋に沈黙が満ちる。
 ゆっくりと、祖父は頷いた。
「……聞いていたのか」
 沙穂は、ぎゅっと拳を握り締める。
 彼は隠そうともしなかった。梨花に、祟りの伺いを立てていた事を。
「どうして、あんな事……っ」
「大丈夫だ」
 祖父は静かに話す。やはり、眉根を寄せた冷たい視線で沙穂を見下ろしていた。
「――近い内に、お前は『転校』する」
 沙穂の目が開かれる。もう会う事の無い親友の顔が、脳裏を過ぎる。「転校」させられてしまった、彼。
 脚の力が抜け、その場に崩れ落ちた。やはり、沙穂は次の被害者として狙われているのだ。沙穂も、オヤシロさまの祟りにあうのだ。
 祖父は棚を開け、風呂敷に包まれた四角い物を取り出した。いつも沙穂が持って行っている弁当だ。
 祖父は無言で、座り込んでいる沙穂の前にそれを置く。そして、何も言わずに台所を出て行った。

 祖父が台所を出て行くなり、沙穂は重箱の入った風呂敷包みと食パンの袋を複数手に持ち、裏口を飛び出した。真っ直ぐに離れまで走り、鍵を掛ける。
 それから、風呂敷を解く。中はやはり重箱で、祖父が作ったのであろうおかずが詰め込まれていた。
 乾いた笑いが沙穂の口から漏れる。
「は……最後の晩餐と言う訳か……」
 夕飯にと言う事だろう。これを食べれば、今夜は本宅へ行く必要が無くなる。
 一緒に付いていた割り箸を割り、おかずを口に運ぶ。卵焼き、から揚げ、ハンバーグ……どれも、いつものおかずの種類だ。ハンバーグが何やら妙な味だったが、沙穂は構わず食べ尽くした。味に文句を言うよりも、空腹の方が大きかった。
 腹ごしらえが住んだ頃には、日は西へと大きく傾いていた。
 そっと窓の外を覗き誰もいないのを確認すると、沙穂は離れを出た。忍び足で本宅の方へと向かう。
 自分の身は自分で守らなくてはいけない。富竹が殺害された事件からして、敵は複数犯の可能性が高い。素手では心許無い。
 本宅をぐるりと回りこみ、門側に出る。そこに停められた軽トラックの荷台に、予想通りそれはあった。
 軽トラックまで行くには、大きな窓の前を通る事になる。外からでは白いカーテンで中が見えないが、中からは人影が確認出来る。耳を澄まし、その部屋に誰もいない事を確認すると、沙穂は慎重に軽トラックへと歩いて行く。
 そして、荷台に積まれた電動鋸を手に取った。
 綿流しの準備で愛用していた電動鋸だ。準備で使っていた為、まだ倉には仕舞われていなかったのだろう。これならば、使い慣れている。沙穂が思いつく、最も身近な武器だった。
 白い布の巻かれたそれを持って、沙穂は離れへと戻る。
 問題は、常に持ち歩く訳にはいかないと言う事だ。離れに置いておくしかない。襲撃して来た者が家に帰る隙を与えてくれるとは思えないが、何も無いよりはマシだ。
 ――明日は、大石さんの所へ行こう。
 明日の教科書をランドセルに詰めながら、沙穂は考える。
 大石の所へ行って、彼が言った通り命を狙われていたと話すのだ。魅音や、祖父と梨花の事は……。
 沙穂は作業の手を止める。魅音達は、大切な仲間だ。彼女達が警察に疑われるのは、やはり心苦しい。それに魅音の言い方では、オヤシロさまを認めるなら見逃してやるとも取れる。仲間にしてやると。
「……」
 結局考えは纏まらぬままに、夜は更けていった。





 翌朝、沙穂は昨日以上に早く家を出た。昨日調達した食パンがあるから、弁当は問題無い。
 魅音やレナ、圭一を待つつもりは無かった。まだ朝早い時間だ。待ち合わせ場所には誰も来ていない。
 朝の雛見沢は、いつにも増して長閑に見える。けれど裏では、毎年誰かの死と失踪を画策しているのだ。沙穂の命を狙っているのだ。
 何事も無く学校に着き、沙穂はホッと息を吐く。靴を履き替え、教室へ向かう。扉を開けた途端に降って来た盥に、沙穂はよろけた。
「沙穂さんっ!?」
 尻餅をついた沙穂に、沙都子が駆け寄る。
「痛た……久しぶりだな、沙都子のトラップに掛かるなんて」
「圭一さんへの仕掛けの最中でしたのよ。まさか、こんな早い時間に人が来るなんて……どうしましたの、今日は?」
「沙穂、大丈夫ですか?」
「平気だ、ありがとう。今日は、その……用事があってな。先生に呼ばれていたんだ。だから……」
 適当に誤魔化して、沙穂は自分の席へと向かう。沙都子は再びトラップの作業へと戻り、梨花も沙穂の前の席に着いた。
 教科書を机の中へと移しながら、沙穂はじっと梨花の背中を見つめる。
 祖父と会話をしていた梨花。今年の被害者は沙穂なのかと、祖父に確認されていた。梨花は、オヤシロさまの生まれ変わりと言われている。村の者達からの信頼も厚い。
「……なあ、梨花」
 沙都子がトラップに夢中になっているのを確認し、沙穂はその背中に話しかけた。長い髪が揺れ、梨花が振り返る。
「昨日……大石と、何を話していたんだ?」
 梨花は直ぐには答えなかった。
 その間は、答え方を考えているかのようにも思われた。
「……オヤシロさまの祟りの事です」
「具体的には?」
「良いのですか?」
 逆に聞き返され、沙穂はきょとんとする。
 梨花の口調はいつもと同じだが、話し方は静かで落ち着いていて、どうにも違和感が拭いきれなかった。
「良いとは、何の事だ」
「……沙穂は、オヤシロさまの話を嫌っているのです。だから――」
「構わない。どんな話だったのか、教えて」
 梨花は、ちらりと沙都子の方を見る。それから、言った。
「――富竹と鷹野がオヤシロさまの祟りにあいました」
「言い方を変えるな。大石の話なら、『殺された』と言われた筈だ」
「みぃ……なんだか、今日の沙穂は怖いのですよ……」
「とぼけるな。他には?」
「……やっぱり、沙穂は大石と話したのですね」
 沙穂は言葉に詰まる。
 また、あの瞳だ。光の無い無感情な瞳が、じっと沙穂を見つめていた。
「ボクも同じなのです。事件についてと、魅ぃを疑うような話を聞かされただけなのですよ」
「何故、私がどんな話をしたのかまで知っているんだ……?」
「『決まっている事』だからです」
 意味を取りかねる言葉に、沙穂は首を捻る。梨花は、大石を良く知っているという事だろうか。彼は、今までにもそう言った疑惑ばかり雛見沢の住人にかけていたのだろうか。
 そうだとすれば、厄介だ。今後、彼の話についても真偽をもう一度考え直してみなければならなくなる。散々悩み、その結果彼の話を信じてみる事にしたと言うのに。

 沙穂はぎゅっと拳を握り締める。
 尋ねたい事は、もう一つあった。寧ろ、そちらが本題なのだ。
「梨花は……オヤシロさまの祟りについて、何か知っているのか……?」
 梨花は黙って、ただ首を傾げる。
「本当の事を話してくれ。どうして富竹さんが殺されねばならなかった? どうして、祖母が……っ」
 俯く梨花の肩を掴み、沙穂は尋ねる。
 人の良い富竹が、何故殺されねばならなかったのか。祖母が失踪したのは、沙穂の所為なのか。沙穂も、殺されてしまうのだろうか。
 梨花の瞳が、沙穂に向けられた。俯き加減のまま、梨花は正面からじっと沙穂を見据える。
「彼らの死も、沙穂のおばあさんも、全ては決まっていた事なのですよ……」
「……っ」
 沙穂は、梨花の肩に掛けていた手を離す。日本人形のように切り揃えられた前髪の向こうから覗く目は、薄気味悪いものがあった。
 やはり、梨花は何か知っている。何か知っているなんて物ではない、首謀者の可能性も出てきた。決められていたと、何故彼女が知っている? それは、御三家が一連の事件を暗躍してきたからに他ならない。
 ――オヤシロさまの生まれ変わり……そう言う意味だったのか。
 全ては、オヤシロさまの祟りと言われている。大石は、園崎家が筆頭だろうと踏んでいた。確かに、魅音の様子では園崎家も一枚噛んでいるのだろう。だが、筆頭は違ったのだ。村長と言う立場で表立って村を纏める、公由家。会合の首領となり、裏で村人達を引っ張る園崎家。そして、それらの古老達が敬っているのは誰だ? 他でもない、梨花ではないか。

 盥の落ちる大きな音が聞こえ、沙穂はハッと我に返った。
 見れば、圭一が沙都子のトラップに引っかかった所だった。続いて、レナと魅音も教室に姿を現す。魅音と眼が合い、彼女は声を上げた。
「なんだぁ。沙穂、もう来てるじゃん! 先行くなら言ってよ。待ってたんだよ、私達」
「す、すまない……。急に、用事が出来てしまって……」
 沙穂はしどろもどろに言う。
 彼女達は、いつもの調子で話しながらこちらへと向かってくる。
 沙穂の席を通り過ぎる時、魅音が口を開いた。
「――じゃあ、これが昨日の返事って事で良いんだね?」
 沙穂は目を見開き、パッと振り返る。
 魅音はもう沙穂の席を通り過ぎ、自分の席へと着いていた。レナや圭一と、いつものように笑い合っている。
 しまった。そう思っても、もう遅い。
 昨日の警告は、最後のチャンスだったのだ。沙穂が皆の仲間でいられる、「転校」させられずに済む、最後のチャンス。それを、沙穂はふいにしてしまった。
「沙穂、大丈夫なのですか? 凄く顔色が悪いのですよ」
 梨花が心配そうに尋ねてくる。
 その声に沙都子も振り返り、驚いたように目を丸くする。
「どうしましたの!? 真っ青ですわよ!」
「あ……」
 ガタと椅子を引き、沙穂は席を立った。教科書をまとめて取り出し、ランドセルに仕舞う。
「沙穂さん?」
「ちょっと沙穂、どうしたのさ?」
 沙穂の行動に気付いた魅音が、素っ頓狂な声を上げる。
「私……早退する。先生に言っておいてくれ」
 そう言うと、ランドセルを背負い席を離れた。
「おいおい。早退って、まだホームルームも始まってねーぞ」
「沙穂ちゃん、どうしちゃったのかな? かな?」
「沙穂!? 一人で帰って大丈夫なの? 保健室に行った方が――」
 心配しているかのような仲間達の声にも構わず、沙穂は教室を出て行った。
 足早に廊下を歩き、靴を履き替え外へ出る。殆ど小走りに近いような速さで、沙穂は家へと向かった。
 ふと、何やら違和感を感じる。
 誰かに見られているような視線。まさか、尾行られているのか。可能性は十分にある。
 沙穂は辺りを確認しようと、立ち止まった。一泊遅れて、ひた……と聞こえる足音。
「……誰だ? 誰か、いるのか?」
 しんと辺りは静まり返っている。慎重に辺りを見回すが、誰の姿も認められない。
 ――気のせいか……。
 神経質になり過ぎているのかも知れない。そう思いなおし、再び歩き出す。
 今度ははっきりと、沙穂に合わせた足音が聞こえて来た。ひたひたと歩く足音。靴を履いている沙穂の足跡ではない。
 ぞっと鳥肌が立つのを感じる。
 沙穂は歩くスピードを上げる。足音は、沙穂に合わせてスピードを上げた。住宅の間を抜け、田圃ばかりの道に出た所で沙穂は立ち止まった。一歩遅れて、背後の足音も立ち止まる。それとほぼ同時に、沙穂は振り返った。
 誰も、いない。
 猫の子一匹いなかった。そこにはただ、長閑な田園風景が広がっているだけ。住居は数十メートルは後ろだ。
「嘘、だろ……?」
 隠れる時間など無かった。足音は、沙穂が立ち止まった直後まで聞こえていた。直ぐ、背後で。
『沙穂ちゃんは経験無い? ひたひたと足音が聞こえて、夜は枕元に立ってずぅーっと見下ろされるの』
 レナの言葉が脳裏に浮かぶ。それがオヤシロさまの祟りの兆候だと、彼女は言っていた。
 オヤシロさまの祟りの兆候――とうとう沙穂は、本格的に狙われ始めたのだ。


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2009/08/30