何処にでもあるような、小学校の朝の会の風景。
だが、そのクラスには、僅かだが決定的な違和感があった。
……そのクラスには、一人の少女がいたのだ。
彼女の名前は、サラ・シャノン
No.1
水平線に船が浮かんでいる。
二人が立っている崖に、冷たい波が打ちつける。
潮の匂いを乗せて吹き付ける風に、少女は緩んでいたマフラーをきつく巻きなおした。
「誕生日、おめでとう。サラ」
そう言って、少女の祖母が紙袋を差し出す。
少女は目を輝かせてそれを受け取った。
「わぁーっ。ねぇ、今開けていいっ?」
微笑みながら「どうぞ」と言われ、少女は開けにくくても手袋を外さずに、紙袋を開けた。
中に入っているのは、ラベンダー色のカチューシャ。
「サラは、ピンクよりもこの色の方が好きだろう?」
「うんっ。だって、おばあちゃんの目と同じだもん! 綺麗でいいなぁって思うの」
少女の祖母は瞬きを数回繰り返し、微笑んだ。
少女は早速、カチューシャを付けてみる。
「どう? にあう?」
その時だった。
崖に、もう一人、他の人がやってきたのが分かった。
誰だろうと少女は祖母の向こうを覗こうとするが、ぐい、と彼女の背中の後ろに押し戻された。
新たな来訪者が誰なのか見えない。
祖母の緊張した声が聞こえた。
「何の用だ。どうしてお前がここにいる」
「こちらへ来たのは私用でしてね。でもまさか、貴女に会えるとは思っていませんでしたよ」
彼女は、手を素早くポケットに突っ込んだ。
「どうやら、私に久々に仕事をさせるチャンスを持ってきたようだな。ここは日本だが――まぁ、事情を話せば後で申請しても何とかなるだろう」
「私を捕まえると?」
「ああ。もちろんだとも」
ポケットから出された彼女の手には、何やら木の棒が握られていた。彼女は、それを会話の相手へと向ける。
何か、通常とは違った気配が辺りに充満した。
「――何か、後ろに隠しているな?」
「……っ!」
会話の相手が、ばっと横に動いた。
それによって、一瞬、その人物と横にいる「何か」が見えた。
しかしその顔を少女が認識する前に、彼女は振り向き、少女に向かって杖を振った。
一瞬の間に、色々な事が起こった。
少女の体は猛スピードでその場から浮き上がる。
祖母の背に緑の光が当たった。
祖母はそのまま、冬の波が打ちつける海へと落下していった。
それはほんの一瞬の事。しかし、それが永遠のように感じられた。
――おばあちゃんが落下していく……手を伸ばしても、到底届かない……。
そこで、目が覚めた。
――ああ……夢だ。
七歳の誕生日。サラの唯一の味方は、逝ってしまった。あれから、幾度もこの夢を見る。
気がつけば、サラは寝ながら泣いていたらしい。パジャマの袖でぐいと涙を拭き、起き上がる。
階下から、養母であるナミの声が聞こえてきた。
「今日、休みじゃないでしょ! 遅刻するよ!!」
隣の部屋から、バタバタと慌てて起きる音が聞こえる。
サラは机や服の方へ、視線を向けた。教科書はランドセルへと収まり、服はこちらへ飛んでくる。
サラは不思議な力を持っている。祖母が亡くなった冬休み明けから、サラの周囲ではおかしな事が頻繁に起こった。
そして、いつからかサラはそれを制御できるようになった。
操れるようになれば、便利な力だ。でも、厄介な力でもある。例え今は制御できても、制御できなかった事があったという事実は無くならない。制御できる前に、サラの周りからは人がいなくなっていた。
否、いる事はいる。だが、それはサラに敵意を持って近付く者ばかり。
「サラも早くしなさい!! 何時だと思ってるの! まだ寝てんの!?」
サラは溜め息を吐くと、飛んできた服に着替え、ランドセルを持って部屋を出た。
徒歩十五分ほどで学校に着き、四階へと上がる。
五年生の教室が並ぶ廊下に、机が一つ放置されていた。
机と椅子の表面には「死ね」だの「化け物」だの、ありきたりな言葉が油性ペンらしきもので書かれている。机に付けていた雑巾はボロボロ。引き出しを開けてみれば、中には泥や石。
サラはランドセルを背負ったまま、教室へ入った。
クラスメイト達はちらちらとこちらを見つつ、気づいていないかのように会話を続けている。
サラは教卓の前に立ち、教室を見回す。
「私の机に悪戯をした度胸のある子は、どなた?」
声を張り上げていた訳でも無いのに、教室はしんと静まり返った。
誰も一言も発しない。
サラは一人一人を見回す。目を逸らす者。俯いたままの者。犯人の方を振り向かぬようにと顔を固定している者。
その中に、緊張した面持ちで私から目を逸らさぬようにじっとこちらを見ている子がいた。その子の友達を見れば、心配そうな顔やばれまいと高をくくっているかのような顔。
「――あなた達ね」
サラが彼女達から目を逸らさずに言えば、彼女達はびくっと肩を震わせた。
他のクラスメイト達は一斉に彼女達を振り返る。
「違う! 私達は何もしてない!!」
「そうだよ!! 勝手に言いがかりつけないでよねっ」
反論する声が僅かに震えている。
反論しない子は、顔が真っ青になっている。
――馬鹿みたい。
サラは、冷たい視線を彼女達に注ぐ。隠し通せると思っていたのだろうか。
「覚えてなさい」
彼女達の顔から血の気が引いた。
サラはそんな事には構わず、廊下へ戻る。「力」を使って落書きを消し、石や泥を消す。雑巾も直したいところだが、生憎、一発で直す方法が分からない。仕方が無いから、ボロボロな雑巾は消し去る。
そして、机を元の場所に運び入れ、ランドセルの中身を机の中へ。終わった所で、ちょうどチャイムが鳴った。
担任が入ってくるが、机の事は言わない。言ったところで、教師は何もしないのだから。低学年の頃は、毎回相談していた。でもそれでは結局、何も変わらなかった。……ただ、仕打ちが酷くなるだけで。
だからサラは、自分の身は自分で守る。誰にも頼ったりなんかしない。
サラは他の人たちより「強い」のだから。弱者に負け、頼るなんてしない。
頼ったところで、裏切られる事だってあるのだから。
授業中。この時間が、最も楽かもしれない。皆、席に着いていて何も仕掛けてこないから。
――さてと……。
サラは、前方の席に座るクラスメイトに、順々に視線を移す。
彼女達、どうしてやろうか。
このまま放っておけば、また繰り返すだろう。毎日毎日机を廊下から教室へ戻すなどと言う、くだらない事はしたくない。
彼女達が学校へ来なければ、話は早い。サラが学校へ行かないと言う手もある。けれど、サラは家にだっていたくない。あの家には、サラの居場所は無い。サラは、あの家の子ではないから。
サラは、祖母の養女だった。
一歳の頃、サラと祖母は日本に来て、今の家族と暮らし始めたらしい。それまでは、イギリスにいたと聞いている。祖母はイギリス人だから。
それが如何いう訳か、日本で暮らし始めた。祖母は、あの家の父圭太の継母だ。だからあの家で、サラと祖母だけ、血の繋がりが無かった。
それに、圭太もナミも祖母を嫌っていた。サラの事も嫌っていた。だから、サラと祖母は二人で出かける事が多かった。
……そして、祖母が死んだ。
あの家に、サラは一人になってしまった。サラ一人、嫌われていて。
更にサラの周りで奇妙な事ばかり起こり始めたものだから、完全に嫌われ者になった。
圭太は顔を合わせれば嫌味ばかり。ナミは文句ばかり。同年齢のエリは、サラの所為で苛めにあっているらしい。一つ年下のアリスは、サラになど関わらないようにする。
そんな家に、サラの居場所など無い。
だからサラは、不登校になる気などさらさら無かった。
次の日の朝。
朝の会で、担任がクラスメイトの事故を告げた。昨日の下校中。四人の女子生徒が、車に撥ねられた。
教室内はヒソヒソとざわめく。
サラは、ふっと小さく鼻で笑う。こうなる事は、分かっていただろうに。どうして、毎回懲りないのだろう。
被害に遭った四人は、昨日サラの机に悪戯をした生徒達。四人とも、入院した。命に別状は無い。……手加減したのだから。
「静かにしろ! 先生の話は終わってない。言っても無駄なんだろうけど、この事故とシャノンは何の関係も無いに決まってる。『報復』だの何だの、馬鹿馬鹿しい噂は止めておけ。そんな事ある筈が無い。でも、シャノンがやってないにしたって『罰が当たる』のは確かだからな。それが嫌なら、変な噂はするな」
この教師は珍しい事に、サラを名指しする。「報復」の噂の事も。
だからと言って、サラはこの教師を恨もうとは思わなかった。他の教師みたいに遠まわしに言っても、皆が関連付けてサラの噂をしている事は変わらない。それなら、自分には害の無いように遠回しに注意する教師よりも、こういう教師の方がまだマシだ。
一人の生徒が、バンと机を叩いて立ち上がった。
皆、驚いて彼を見る。彼は、窓際の一番後ろに座っているサラを振り返った。
「ああ! 確かにシャノンが事故を起こしたなんて、ありえないだろうよ! でも、いつもこいつに何か嫌な事をした奴が酷い目に遭う! 先生、気づいてないんですか?
シャノンさ、苛めにあったら先生に言えばいいだろ!? なんでそうやって、殺人未遂みたいな事ばかりするんだよ!」
――殺すつもりなんかない。
サラは立ち上がり、反論しようとしたがその前に彼が続けた。
「俺に『報復』するか? すればいいだろ! 俺だってもう、お前の機嫌ばかり伺って学校生活を過ごすなんて嫌だ! 皆だって、そうだろ!? 毎日毎日こんなチビを怖がりながら学校に来るなんてさ。先生、こいつを転校には出来ないんですか?」
「先生はシャノンを転校させたいとは思わない」
「でも、俺達皆はそう思ってる! シャノンの転校に賛成の人ー!」
数人の手が挙がった。
それを見て、恐る恐る、だが次々と手が挙がる。ぽつり、ぽつり。周りの反応を伺うように。恐る恐る、不安げに。
そして、とうとうクラス全員の手が挙がっていた。
他の生徒が立ち上がる。
「シャノンさえいなければ、誰も殺されそうになったりしないで済むんだよ! 先生が何も出来ないなら、俺達で校長――否、教育委員会に直接言おうぜ!!」
「私は殺そうとなんてしてないわ!!」
サラは叫び、立ち上がった。
殺しなんて、するものか。サラは、目の前で祖母を失っている。死が、どれ程に辛く重いものかを知っている。
「出ーてーけ、出ーてーけ」
誰かが言いながら、手を叩き出した。
それを合図に、次々と手を叩き、声を合わせる。
「やめろ! そんな事、するもんじゃない!!」
叫ぶ教師に対し、サラに沸いた感情は、感謝や感動ではなかった。
――偽善者が。貴方だって、私が出て行く事を望んでいるくせに。
昔からそうだった。
サラの身の回りでおかしな事が起こり始めたのは、低学年の頃。その時の教師も、サラを庇ってくれた。
でも、聞いてしまった。
その教師が他の教師と、サラを学校から追い出せないか話し合っているのを。思い返してみれば、その教師は口だけで何もしやしなかった。
生徒達は敵。
家族は味方になってくれない。
教師だって、味方にはならない。
ならば、サラ自身が仕返しして身を守るしかないではないか。
「授業をするぞ! 止めろって言ってるのが聞こえないのか!!?」
どんなに怒鳴りつけようとも、例え相手が小学生だとしても、大勢の力には勝てない。「出て行け」コールは一定の調子でずっと続く。
握り締めた拳は、震えていた。
――黙れ。五月蝿い。
サラは、手拍子を始めた生徒を浮かした。……「力」で。
「出て行け」コールは、悲鳴へと変わる。
サラはその子の首を殺さない程度に締め付ける。
「五月蝿いのよ……私が出て行くか如何かなんて、貴方達の決める事じゃないわ!!」
どうせここを出ていったって、もう私が普通の子達に普通に混じる事は出来ないだろう。異端者は疎外される世の中だから。
家庭学習なんて絶対に嫌だ。家にも学校にも、サラの居場所なんて無い。
不意に、隣の席の子が私に殴りかかった。突然の事で防ぎ損ねたサラは、開け放されていた扉からベランダへ吹っ飛ぶ。サラの力が途切れ、浮かされていた子は床に落下する。
悲鳴が重なり、殴りかかった子に続いて他のクラスメイトもサラに殴りかかりに来る。
騒ぎを聞いた隣のクラスの生徒や教師が窓から顔を覗かせた。
教師は慌ててこちらへ来る。教師のいなくなったクラスの生徒達も、やってきた。六年生のクラスからもやってくる。サラはクラスだけでなく、学校中に嫌われているから。
「やめろ! やめなさい!!」
教室から教師の声が聞こえる。
……声だけ。
生徒に殴られたりして声が途切れる様子も無いから、きっとこちらへ助けに来ようともしていない。
サラは「力」を使ったり、相手を投げ飛ばしたりして応戦するが、どんどん追い詰められていく。
背中がベランダの柵に当たった。まずい、と思った時には遅かった。
サラは、いとも簡単に柵の外側へと投げ出された。
頭をよぎったのは、祖母が殺された時の記憶。
――嫌だ。
殺されるものか。
祖母は、自分の命をかけてまでサラを守ってくれたのに。それなのに、サラは自分の事さえ守れずに死ぬと言うのか。
地面が段々と近付いてくる。
……出来る筈。
サラには、それだけの「力」がある。
――浮け!
ふわりと、体が浮いた。そしてサラは、足から無事に着地した。
怒りがこみ上げる。
サラはキッと四階のベランダを見上げた。
「来い」
サラは、低いトーンで呟いた。脅すような、冷徹な声。
ベランダにいた者達は柵を越え、落下してくる。学校中に悲鳴が響く。
殺すつもりは無い。地面に達する前に、生徒達の体を浮かせる。
何度も。何度も。
――いい加減にして。
「……最初に攻撃してきたのは、あなた達よ?」
どうして。
如何してサラなのか。
如何して、自分だけがこんな目に遭わなければいけないのか。
「私だって……私だって、好きでこんな力を持ってる訳じゃないんだから!!」
家に帰れば、ナミが電気もつけずに食卓に座って待っていた。
圭太はまだ帰っていないし、エリとアリスは恐らく自室にいるのだろう。
「……座りなさい」
サラは反抗もせず、椅子に腰掛ける。
話は考えるまでも無く分かる。どうせ、今日の学校での事について連絡が行ったのだろう。
ナミは右手を机の下から出さない。何かを持っているのだろうか。
「貴女、自分の立場は分かってるよね?」
「ええ。我が子でもない私を養ってくださり、貴女方には感謝してもしきれませんね」
皮肉を込めてそう言い返せば、ナミはにっこりと笑った。
別に許している訳ではないという事は、サラには分かる。これは、ナミの怒りだ。
「私達は貴女を引き取りたくなんか無かったんだよ? 予感は当たったね。そもそも、貴女が生き残ったあの夜から不審に思うべきだった……」
サラは答えない。
ただ、無表情で黙り込んでいる。
ナミは、サラに厳しい視線を向ける。
「若しかして貴女、蛇と会話が出来るんじゃない?」
「……それが何か貴女と関係ある?」
「やっぱり! だから嫌だったんだ。貴女を育てるなんて……」
ナミは、恐ろしいとでも言うように腕を摩る。
……不愉快極まりない。
「それだけなら、私、部屋に戻るわ。貴女も、その方が会わなくて済むから良いでしょう」
「そうだね」
肯定の言葉……。
「……」
サラは食卓に手を着き、立ち上がる。
立ち去るサラの背に、声が掛かった。
「長期休暇が疎ましいよ。貴女、部屋から出てくるんじゃないよ。謹慎処分だ。学校で貴女のやった事を考えれば、妥当でしょ?
今日から夏休みが終わるまで、トイレ・お風呂以外で部屋を出る事を禁じる。――いいね?」
「いいね?」も何も、その言い方は相手に否定を許さない。
「分かったら、部屋へ戻りなさい。ああ、そうそう。学校からの電話があって直ぐ、クーラーも撤去したから。それに、明日には窓の外に格子を付けるからね。それまで、窓も開けちゃ駄目だよ」
サラは立ち止まり、振り返る。
今年の夏は、例年以上に暑い。特に夜は寝苦しく、クーラーで冷やしておいても、止めて寝なければならないのが辛いと言うのに。
ナミはサラをじっと睨み付けていた。怒りではないのだ、とサラは知る。警戒、怯え、ナミの表情にあるのは、そう言った感情。
サラは何も言わずに、再び背を向け二階へ上がっていった。
「うわー……憂鬱だ……」
サラが事件を起こした次の日の朝、エリは緊張しながら学校へ向かっていた。
「休みたい」と言ったけれど、もちろんあのナミが許してくれる筈も無い。あんな事があった次の日だ。どのような言いがかりを付けられる事か、考えるだけでも憂鬱になる。
「おはよっ、エリ!」
俯き加減に歩いていると、突然、後ろからランドセルをど突かれた。
親友の留美だ。
「お、おはよう……」
「元気ないなぁ〜っ。エリが元気無いと、調子狂っちゃうよ。まぁ、昨日あんな事があったんだから無理も無いけど。でも、さ。別にエリが何かした訳じゃないもん。気にする事無いって。エリを責めてくる人がいたら、殴り飛ばしてそう言えばいいんだよ!」
「殴り飛ばすのはエリじゃなくて、俺の担当な」
言いながら後ろから来たのは俊哉――一応、エリの彼氏である。
エリはニヤッと笑った。
「でも、俊哉って俺より力無ぇよな」
「事実でも言っていい事と言っちゃいけない事があるんだよ、エリ」
「うわっ。何気にお前も酷っ! 大丈夫! エリより足は速いから!」
「足速いって、逃げるのしか役に立たねぇじゃん」
「細かい事は気にしない!」
二人と話すエリの顔には、笑顔が戻っていた。
言葉に出さずとも、二人には感謝している。彼らが居なかったら、エリは今でもサラの事で苛められ続けていたのだろう。
妹のアリスは、今まで一度もサラの事で迫害された事がないという。アリスは顔も可愛いし、愛想も良い。嫌われる要素を持ち合わせていなかった。自慢の妹だ。サラの家族というだけでエリは迫害されたが、アリスは寧ろ同情されたぐらいである。
エリは気合を入れるように、パンと両手で自分の頬を叩いた。
「よっし! 今日で夏休みだし、今日も気合入れていこうぜっ!」
俊哉がにやりと笑う。
「お? 通知表、今回は自信ありって事?」
「――思い出させるなよ……」
ナミはにこにこと笑っている。
アリスもつられて、にこにこと笑った。
エリはだらだらと汗をかいている。暑いからではなく、冷や汗である。
「エリ? この成績は何かなぁ?」
「うん、まぁ、どんまいだろ」
無理やり明るい口調で言い、ハ、ハ、ハと乾いた笑いを漏らすエリ。
それから、思い出したように言った。
「そうだ! 俺、サラのも預かってきたんだった。うん。じゃあ、取ってくる」
逃げた。
ナミは呆れたように溜め息を吐き、今度はアリスの通知表に目を通す。
「算数があがったね。頑張ったじゃない」
ナミの言うとおり、今学期の通知表は昨年度よりも良かった。でも、アリスは満足出来ない。
アリスの成績は、決してエリほど悪くは無い。でも、エリは体育がずば抜けている。毎年、リレーではアンカーか第一走者。学校対抗の駅伝にも、選手として選ばれた。それにクラスメイトのリーダー格で、代表委員もやっている。
サラはと言えば、勉強の成績がいい。体育も決して悪くないし、音痴って訳でもない。噂は本当だったけれど、それさえなければ完全無欠と言えよう。
アリスはどれも平均よりは上だが、サラやエリほどではない。ナミや圭太はそれでもアリスを誉めるが、アリス自身が納得出来なかった。
「これ、サラの」
エリは、サラの通知表を乱暴に食卓に置いた。
「どうせ、またオール3だろ。あのガリ勉」
「勉強に関しては、エリもサラを見習うべきだね」
エリは舌打ちすると、お母さんの後ろでこっそり下品な手まねをした。
だが、運悪くそれを見られてしまった。無言の鉄拳制裁が下る。エリはその場に沈んだ。
抵抗すればエリの方が強い筈だが、食事抜きにされると辛い。
「今日の晩御飯、何にしようかー」
ナミは床でピクピクと震えているエリに構わず、何事も無かったかのような笑顔で話していた。
翌朝。
アリスが十時頃に起きて一階へ降りると、リビングの扉の前でエリが息を潜めていた。
「エリ? そんな所で何やって――」
言いかけたアリスの口を、エリは塞ぐ。
「何か、俺とサラ宛に手紙が来たんだ。英語でさ。二人共、起きてきてそれを見てから、もう二時間は話し込んでる」
そう言って、再び扉に耳を押し付けた。
アリスもそれを真似る。
「――当然、断るよ。でも、サラは若しかしたら、預けた方がいいかも……。だって、あそこに行かせれば、帰ってくるのは夏休みだけだもの。運が良ければ、夏休みも残れるかもしれない。私みたいに、マクゴナガルの家とかに泊まって」
「でも、お前が教師の家に行ったのは、シャノンがそうしたからだろう?」
「それはそうだけど。でも、夏休みしか帰ってこない」
「じゃあ、行かせるか?」
お父さんがそう言えば、ナミは「うーん」と曖昧な返事だけ。
エリの話によると、ずっとこれを繰り返しているらしい。
「お前はあの学校と関わりたくないんだろ? だったら、『お断りです』って返事すりゃあいいだけじゃないか。まぁ、確かにサラがいなくなればそれもいいけど……でも、それでお前が嫌な思い出を思い出すなら、やめた方がいい。あと十年もすれば、サラだって勝手にこの家を出て行くさ」
「別に、嫌な事ばかりだった訳じゃない!」
「でも、関わりたくない、って言ったじゃないか」
「それは……そうだけど……」
どうやら、ナミがどちらとも決められずにいるようだ。
暫く間が空き、圭太のため息が聞こえた。
「まぁ、ゆっくり考えればいいよ。今月中にイギリスまで返事を返せばいいんだから」
ガタ、と音がした。圭太が席を立ったらしい。
ナミが、きっぱりと言った。
「――断ろう」
「……いいんだな? それで」
「いいよ。決めた。もう、変えない。関わりたくないんだ、どうしても」
「……分かった」
「そうと決まったら、そこで盗み聞きしている二人をどうしようか?」
「え?」
足音が近づいてきた。
逃げ出す前に、扉が開いた。そこには、笑顔のお母さんが立っている。
エリが引きつった笑顔を返す。
「ど、ど〜も〜……」
深夜。ふと異質な気配を感じて、サラはベッドを飛び起きた。
誰だろうか。私自身やエリと同じ種の気配。ナミやアリスにもあるけど薄い、あの気配。
玄関の呼び鈴が鳴った。
その音で、隣の部屋や向かいの部屋の人達が起きたのが分かる。斜め前は相変わらず静かだが。
物音がして、それからばたばたと廊下を通り、階段を駆け下りるナミの足音。後に続くようにする圭太の足音。
それから、廊下にアリスが出てきた。しかし、下に行こうか如何しようか迷っているらしい。
微かに、階下から話し声が聞こえる。
アリスは暫く迷っていたようだが、コンコンとエリの部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。だが、それぐらいでエリは起きない。カチャリ、と音がしてアリスがエリの部屋へ入っていくのが分かった。どす、という鈍い音と、「うっ」という呻き声。
話し声がし、二人は忍び足で階下へと降りていった。
サラは勝手に部屋を出る事を許されていない。だが、そんな事に頓着しようとは思わなかった。サラ達と同じ種の気配を纏う真夜中の客人がどのような人か、興味を持つなと言うのが無理な話だ。
サラは鍵を開け、恐る恐る下へと降りていった。
階段の下まで降りたが、そこにはエリもアリスもいなかった。この家はそんなに広くなく、階段を降りて直ぐがリビングへの扉だと言うのに。
エリの気配は、リビングからした。
という事は、二人も会話への参加を認めてもらえたらしい。
サラはどうだろうか。ナミやエリ、アリスはサラと同じく、「気配」が分かるらしい。でも、お母さんは私が部屋を出てきた事に怒りに来ない。客人がいるからなのだろうか。それとも……。
訝っていると、勝手に目の前の扉が開いた。サラは驚き、思わず構える。
扉の直ぐ前には誰もいなかった。
食卓に、ナミ、圭太、エリ、アリス、そして客人が座っていた。客人は真っ白な長い髪と髭の、背が高い老人。
「こんばんは、サラ。君もこちらに来て座りなさい。大切な話があるのでの。わしは、アルバス・ダンブルドア。ホグワーツ魔法魔術学校の校長じゃ」
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The Blood
第1部
希望求めし少女たちは
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2007/01/02