城へと戻るトンネルは狭く、通るのが一苦労だった。ルーピン、ペティグリュー、ロンは横向きになって歩かざるを得ない。ルーピンは、ペティグリューに杖を突きつけたままだ。スネイプはシリウスが宙吊りにして運んでいたが、その頭は低い天井にぶつかってばかりだった。
「なあ……えっと……親父」
 エリは、おずおずと話しかける。
 シリウスも慣れないらしく、振り向くのにやや間があった。シリウスは笑いそうなのを堪えているような、何とも奇妙な表情をしていた。
「それ、ちょっと可哀相じゃないか?」
「何がだ?」
 シリウスはきょとんとする。前に浮いていたスネイプは、上から突き出た岩に正面から顔をぶつけた。
「前、前! スネイプ、ぶつかってるって!」
「ん? ああ――ちょっと、慣れなくてな。暫く杖を使う事が無かったものだから……」
 シリウスはそう言うが、端から避ける気など無いように見えた。
 エリは他のメンバーを見回す。サラ達――シリウスと同じ事をしそうなメンバーばかりだ。ルーピンは、ペティグリューと繋がっているから駄目だ。唯一この場でスネイプと親しいのはナミだけだが、ナミは魔法が使えない。
 シリウスとハリーは、一緒に暮らそうと言う話で盛り上がっていた。予想外に喜ぶハリーに、シリウスは笑顔になる。
「ねえ、私も――その、貴方と暮らしてもいいかしら」
 サラだった。
 シリウスは、ちらりとナミを見る。視線に気付き、ナミは言った。
「戸籍上、サラはシャノンの養女だから……私は仮の保護者をやってるだけだよ。止める権利なんて無い」
 シリウスはぱあっと笑顔になる。そして、サラに尋ねた。
「お前も一緒に来たいんだな? 本当に?」
「本当よ」
 エリは黙り込んでいた。思わず歩みがのろくなり、彼らから離れるようにして歩く。
 シリウスとの生活も、楽しそうではある。だが、ナミや圭太、アリスとも別れたくなかった。エリは、今の生活に不満なんてないのだ。





No.100





 サラは、期待に胸を弾ませていた。
 あの家を出る事が出来る。父親と一緒に暮らせるのだ。もう、夏休みが近付く度に憂鬱になる事も、クリスマス休暇に帰る先が無く、ホグワーツに残ったりドラコの家に世話になったりする事も無くなる。
 シリウスは、サラの頭越しにエリに話しかけた。
「エリ、お前は――」
「エリは私の子だよ」
 ぴしゃりとナミが言った。
「サラの事は、好きにすればいい。でも、エリは私と圭太がずっと育てて来た子なの。手放すつもりなんて無い」
 厳しい口調だった。シリウスの無実が判明したと言うのに、ナミはまだ何か蟠りを抱えているかのようだった。
 肩を落とすシリウスに、エリが慌てて言った。
「でっ、でも、会うくらいなら! なあ、母さん、それぐらいはいいだろ?」
「それくらいなら……」
 ナミは渋々と頷いた。シリウスはホッと安堵した表情になる。
 暫く、無言のまま一行は進んでいた。
 どれくらい進んだだろう。やがて、エリがぽつりと尋ねた。小さな声だったが、静まり返った中、直ぐ前にいるサラにははっきりとその声が聞こえて来た。
「母さんは……親父が無実だって判った今……どう思ってる? その……」
「私達が別れたのは、十二年前の事件よりも前だよ」
 ナミは静かに答える。
 サラは振り返らずに、耳を欹てていた。心成しか、他の者達も息を潜めているような気がした。
「……シリウスは、私を裏切ったの」
「……っ! だから、あれはお前の誤解で――」
 シリウスが振り返った。浮気でもしたのだろうか。
 ナミは冷たく言い放つ。
「何が? シャノンに知らせたのは事実でしょう?」
「シャノンは、心配していたんだ! ナミを捜していた――」
 サラは眼を瞬く。どうも、浮気と言う訳ではなさそうだ。
「捜していた? そりゃあ、そうでしょうね。私がシャノンの娘だと知られれば、人質にされるかも知れないんだから。あの人は、自分が窮地に立たされるのを避けたかっただけだ」
「人質になるって事は、お前はシャノンの弱みになり得たって事だ!」
「あの人が心配したのは世間体だ! 私の事なんて、本気でどうでも良かったんだ!」
 サラの前にいるハリーが振り返る。前の方で、ルーピンも心配げに振り返っていた。
 サラ、ハリー、エリ、ハーマイオニーは、口論する二人に挟まれてしまっていた。
「大体、シャノンは何度も君を助けに入ったじゃないか――」
「それが仕事だもの。私じゃなくても、助けに来たよ」
「……ナミも、ホグワーツに通ってたんだよね?」
 ハリーが恐々と口を挟んだ。
「サラ達のおばあさん――母親と、何かあったの? 誕生日に父親が殺されたって言ったけど――」
「……始まりは、それだったね。十六歳になる誕生日だった。ある日家に帰ったら、闇の印が上がっていた。私の父親は、例のあの人に殺された――」

 サラはそっと背後を振り返った。
 エリが後ろを振り返っている。エリとハーマイオニーの後ろに、ナミの金髪が見え隠れしていた。
「例のあの人は、私の父を手にかけた後、続けて私を捕らえようとした。――そこへ、シャノンが来たの。何とかその場を逃げ出して……私はその日、初めてシャノンが母親だった事を知った。それから私は、ホグワーツに編入する事になった――」
 サラはどきりとする。
 ある日、初めて知った母親。同時にあった、ホグワーツからの勧誘。そして出会った、大切な者達。
「でも、私はホグワーツを逃げ出した」
 ナミの話は突然飛んだ。
「シャノンから逃げ出したの。もう会いたくなかった。同時に、皆とも別れてしまったけれど……でも二年後にシリウスが私を見つけてくれて、私は皆と再会した。絶対に、シャノンには伝えないでって言ったのに……そう言ったのに、何度も念を押したのに、シリウスは約束を破った。数ヵ月後、シリウスはシャノンを連れて来た――」
「シャノンは、本当に心配してたんだ! お前の手掛かりを得ようと、教職にまで就いた事もあった――」
「黙って!! あの人が私を心配する筈が無い――貴方は解ってくれていたと思ったのに――だから、私達は別れた」
「でも結局、シャノンは圭太の継母になっていたと」
 サラは淡々と言う。ナミは、何も言わなかった。
「なあ、母さんは何でそんなにシャノンのばあさんを嫌うんだ? 一体、何が――?」
「最初は、嫌いじゃなかったんだよ」
 ナミの一言は、意外なものだった。ナミは自嘲するように笑う。
「シャノンは、私が娘だと言う事を隠した。シャノンは有名な闇払いだ。予見者としての才能も買われている。狙われている立場だから、私が人質にならないように――私の身を案じての事だと思っていた。全く疑わなかった……。
馬鹿な私は、シャノンに認めてもらえるようになろうと思った。シャノンが何も心配せずに、胸張って『この子が娘だ』って言えるようにって。
でも、違った。
シャノンは、私の心配をして娘だって事を伏せてる訳じゃなかった。彼女は、はっきりと言った。『私の娘ならば、こんなスクイブな訳がないだろう』って……」
 シリウスの顔色がさっと変わった。
「そんな、まさか――」
「本当だよ。
あれは結構きつかったなあ……スクイブって事は開き直っていたけれど、それでも何とかしようと、まあまあ頑張っていたからね。それも、シャノンに認めてもらう為に……でも結局、あの人はスクイブの娘なんて嫌なだけだったんだよ。お父さんごと私を捨てたのも、その所為だと思うよ。私がスクイブだって事に気がついたんだ」
 サラは言葉が出なかった。
 優しかった祖母。温かかった祖母。いつも、サラを構ってくれた。サラを可愛がってくれた。
 ――それは、私は人より力があったから?
 思えば、奇妙な話だ。祖母はナミの母親だった。エリやアリスも、血の繋がる孫だったのだ。いくらサラは養女と言う立場とは言え、どうしてサラばかりが祖母と一緒にいたのだろう。
 追放されたアラゴグを見捨てた祖母。
 リドルと親しかった祖母。
 そして、実の娘をスクイブだと言う理由で切り捨てた祖母――





 外は既に真っ暗だった。遠くに見える城の明かりに向かって、一行は歩き出す。前の方で、ルーピンがペティグリューに杖を突きつけ、脅していた。
 誰も一言も喋らず、ただ只管校庭を歩いて行く。
 不意に、雲が切れた。月明かりを浴び、ぼんやりとした影が落ちる。綺麗な満月だった。一拍置いて、サラはサッと顔色を返る。
 前を見ると、シリウスが片手を挙げてサラ達を制止していた。前を行く三人が立ち止まり、宙に浮くスネイプがぶつかっていた。ルーピンの手足が震えている。
「どうしましょう――今夜はあの薬を飲んでいないわ! 危険よ!」
「逃げろ」
 シリウスが低い声で言った。
「逃げろ! 早く!」
 シリウスは、飛び出そうとするハリーを押さえる。
「私に任せて――逃げるんだ!」
「ロンが繋がれたままだ!」
 エリが飛び出そうとしたが、ナミに掴まれていた。
「放せよ! ロンが!!」
「レダクト!」
 サラはルーピンとペティグリューを繋ぐ手錠に狙いを定めた。手錠を粉砕し、ロンに向かって叫ぶ。
「ロン! こっちへ――」
 サラは言葉を途切れさせた。
 ルーピンが恐ろしい唸り声を上げていた。頭が伸び、身体が伸びる。背中が盛り上がる。顔や手に毛が生えだし、手は丸まって鉤爪が生えていた――
 狼人間は後ろ足で立ち上がった所へ、大きな犬が飛び掛った。シリウスがサラ達の傍から消えていた。犬は狼人間の首に食らいつき、ロンやペティグリューから遠ざける。
 ペティグリューの動きは素早かった。ルーピンが落とした杖に飛びつき、ロンが転倒する。ハーマイオニーが悲鳴を上げた。ロンが手前にいて、ペティグリューを狙えない。
 破裂するような音と共に閃光が飛び、ロンは動かなくなった。続いて、同じ音と閃光。クルックシャンクスが宙を飛ぶ。
「ステューピファイ!」
「エクスペリアームス!」
 サラの放った呪文は逸れ、ルーピンの杖が宙へと舞った。ハリーも、杖をペティグリューに向けていた。
「動くな!」
 ハリーが叫んだが、遅かった。ペティグリューは変身してしまっていた。
 草むらだ。サラは駆け出した。
「待ちなさい! サラ!」
 草木を掻き分け、森へと駆け込む。

 注意してみれば、動物の姿でも幽かに気配がしていた。ごく僅かな、探っても解り難いほど微弱な気配。けれども、後を追うには十分だ。
 サラは確実に、ペティグリューの居場所を仕留めていた。狙いを定めて呪文を放ちながら、じわじわと追い詰めて行く。
 彼が裏切らなければ、サラと祖母が日本へ行く事はなかった。祖母が殺される事はなかった。
 彼の所為で、祖母は亡くなった。彼の所為で、シリウスは無実の罪で十二年間もアズカバンに閉じ込められた。
 行く手に紅い閃光が当たり、ネズミは急ブレーキをかける。向きを変えて走り出そうとしたネズミを、サラは足で踏み付けた。草の下でキーキー喚くネズミを見下ろす。
「ごめんなさいね……小さくって、杖じゃ狙いが定まらなかったんだもの。加減が難しいわ……このまま、踏み潰しちゃうかも……」
 サラは、ペティグリューを踏み付けている足にじわじわと体重をかける。ペティグリューは慌てて人間の姿に戻った。サラの脚を撥ね退け、駆け出す。
 数歩も行かない内に、ペティグリューは喉を押さえ膝を着いた。サラはクスクスと笑う。
「馬鹿ねえ……逃げられると思ってるの?」
「ぐ……あ゛……」
 喉を押さえながら、ペティグリューは怯えた目つきでサラを振り返った。
 言い知れない高揚感がサラの胸に沸き起こる。ペティグリューの命は、サラの手中にあった。生かすも殺すも、サラ次第だ。
「安心して……直ぐに殺しはしないから……叫びの屋敷にいた時は思わず殺そうとしてしまったけれど……」
 つい、と杖を振り上げ、ペティグリューを宙吊りにする。ペティグリューは涙を流し、口から泡を吹いていて、非常に醜い相貌だった。
 首は絞めているが、この程度ならば死にはしない。サラの話す言葉も、聞こえているだろう。
 サラは首を傾げて笑う。
「貴方が周囲を苦しめた分だけ、貴方自身も苦しまなくちゃね……。十二年……だったかしら……?」
 ガサ、と背後で大きな物音がした。振り向きざまに、サラは今夜二度目のタックルを受けた。
 サラが起き上がると、ナミがペティグリューとの間に立ち、彼に銃口を突きつけていた。
「退いて!」
「退くものか!」
 サラは杖を振った。
 しかし、閃光が当たる前に、ナミはペティグリューを抱きかかえ横へと飛び退いていた。
「邪魔する気!?」
「そうだよ! 貴女に殺しはさせない」
 ナミの声は震えていた。けれど、もう彼女は泣いていなかった。
「……ごめんね、ピーター」
 ペティグリューに馬乗りになり、銃口を突きつけながらナミはぽつりと言った。
「覚えてる? 貴方が私に言ってくれた言葉――」
 行方をくらまし、再会した時だった、とナミは語った。当時を懐かしむような声色だった。
『確かに僕は頼りないかも知れないけど、でも、傍にいる事は出来る。一人一人の力は小さくても、どんなに大きな荷でも、分けて持てば軽くなるんだ。
一人で抱えて逃げないでよ……僕も、君の荷を持つからさ。その為の、『仲間』だろ?
僕が重い荷に押し潰されそうになったら、今度はナミが手伝ってね』
「――貴方は、私にそう言った。そう言って、私を救ってくれた。
でも、私は逃げ出した。
貴方が重い荷に苦しんでいた時、私は貴方を手伝えなかった。貴方は私を手伝ってくれたのに。
貴方を許す事は決して出来ない。でも、貴方だけを責める事も決して出来ない。苦しむ貴方を救えなかった私にも、非はあるから。
私はいつも救われてばかりで、誰かを救えた事なんて無かった。力が無くても、人を救える――貴方は、それを教えてくれたのに。ごめんね、ピーター……」
 先程まで走っていたからか、気温が急激に下がったように感じた。
 サラは寒さに手を擦りながらも、ナミを見つめていた。ナミは、振り返らずに呟いた。
「ごめんね、サラ。こんな根性無しな母親で……」
 サラの中で、何かが崩壊した。
 サラは、上げていた杖腕をゆっくりと下ろした。

 今度はサラが手錠を出し、再びペティグリューは手錠に繋がれた。今度は、両脇はサラとナミだ。
「ねえ、ロンは……?」
「分からない。私も直ぐ、貴女達を追ったから」
 ナミは誤魔化す事無く答える。サラはペティグリューを睨みつける。
 大して行かない内に、サラは凍りついたように立ち止まった。ナミがふらりとよろめく。
 寒さの原因が解った――大量の吸魂鬼が、何処かへ集結して行く所だった。
 サラ達の存在に気付き、吸魂鬼はこちらへと滑るようにして地を這って来る。ペティグリューが金切り声を上げた。
「来るな――あっちへ行け――嫌だ――嫌だ――!」
「エ、エクスペクト・パトローナム!」
 呪文を唱えたが、何も起こらない。迂闊だった。こんな事なら、練習しておくべきだった。
「エクスペクト・パトローナム――エクスペクト・パトローナム――」
 死人のような腐敗した手が、スルスルとこちらへ伸びてくる。
「エクスペクト・パトローナム――」
「サラ! 何か幸せな事を思い浮かべるの――」
 ナミが耳を押さえながら、サラに助言する。
 幸せな事と言われても、こんな状況で突然思い浮かばない。サラは我武者羅に杖を振り、呪文を繰り返すばかりだ。
「エクスペクト――エクスペクト・パトローナム――」
 後ろから、サラの肩に手が触れる。
 振り返ったサラの眼に飛び込んできたのは、虚ろな眼窩と灰色の皮膚だった。その下にある穴が、音を立てて周囲の空気と共に何かを吸っていた――
 サラの杖が落ちる。
 続いて、サラの身体もその場に崩れ落ちた。





「おーい……ハリー! ハーマイオニー! シリウスー、何処だー?」
 エリは立ち止まり、頭を掻く。
 辺りは木々で覆われ、月明かりまで遮られてしまっている。杖に灯した光が、唯一の光源だった。
 エリが黙って立ち止まると、カサコソと夜の獣の動く音がするだけ。ハリーやハーマイオニーの姿は無い。当然、ずっと前に駆け込んで行ったサラやナミも見当たらなかった。
 帰る道も判らない。本格的に迷子だ。
「やっべー……」
 朝になれば、ハグリッド辺りが見つけてくれるだろうか。だがまず、朝まで何も無いと言う保証は無い。
 杖明かりを掲げ、闇に眼を凝らしながら、エリは大声で呼ばう。
「ハリー! ハーマイオニー! サラー、母さーん! 親父ー? ペティグリュー? ――もう、誰でもいいからさあ!!」
 言って、大きな木を回り込みエリは硬直した。
 向こうも一瞬、驚いたようだった。一時の間、エリと灰色の狼は見つめ合っていた。
 我に返り、後ろに飛び退く。鋭い鉤爪が、空を切った。
 踵を返し、エリは駆け出した。ガサガサと音がしていて、振り返らずとも彼が後を追い駆けて来ているのが判った。
「ルーピン先生! 俺だよ俺!」
 追って来るルーピンに向かって叫ぶが、彼の耳には届いていない。
「うわったあ!」
 後ろを振り向きながら走っていたエリは、木の根に脚を取られて転倒した。狼は地面を蹴り、ひとっ飛びにエリへと襲い掛かる。
「わああああああ――ス、ステューピファイ!」
 ぱっと頭に浮かんだ呪文を唱える。紅い閃光が、狼の腹に当たった。狼はキャンと鳴いて退く。
 その内に、エリは素早く立ち上がった。傍の木に眼を留め、するすると登って行く。
 木の股に座り込んで下を覗くと、狼はまだ木の下をうろうろしていた。エリが登ったのを理解しているのだ。
「マジかよ〜……」
 これでは降りられない。ルーピンが元に戻るまで、一体何時間あるのだろう? 唯一良かった事と言えば、ルーピンがここにいると言う事は、他の者には危害が及ばないと言う事か。エリがここに座り続けていれば、誰も傷付く事は無い。
 不意に、狼は首を伸ばして何処か遠くを見た。かと思うと、狼は木の下を離れ、何処かへと去って行ってしまった。
 何処へ行ったのだろう。何かに気付いたのだろうか。誰かが襲われていなければ良いのだが……。
 突如、寒気がエリを襲った。
 エリは目を見開く。何百何十と言う吸魂鬼が、こちらへと向かって来ていた。
 ぐらりとエリの身体が傾き、木の下へと落下した。変に着いてしまった腕に、痛みが走る。
 倒れ込んでいるエリに、吸魂鬼は覆いかぶさるようにして来た。
「やめろ――来るな――」
 心を蝕まれていくような感覚と、腕の痛み。二重のダメージで、エリの意識が朦朧とする。
 起き上がろうとしたエリの身体は、死人のような手に押し付けられた。吸魂鬼は、自らのフードに手を掛ける。何をしようとしているのかを理解し、エリを恐怖が襲う。
 嫌だ――誰か――
 吸魂鬼の動きがピタリと止まった。眩い銀色の光が見えた。吸魂鬼は散り散りになって逃げて行く。
 逃げ去る吸魂鬼の間から駆け寄って来たのは、銀色に輝く雌鹿だった。
 朦朧とした意識の中でそれを見つめ、そしてエリは意識を手放した。


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2010/04/02