辺りは漆黒の闇に包まれている。
闇の中、小さな足音だけが聞こえていた。先を急ぐその足音は、段々とこちらへ近付いてくる。特に恐怖は感じない。何故だか、この足音の主は安全だと分かっていた。魔力の気配も分からないというのに。やがて、闇の中から黒い人影が現れた。小さな人影は、何かを腕に抱えている。
人影はサラと殆ど同じぐらいの背丈に見えた。動いているので確かめようがないが、恐らく大して変わらないだろう。
その時、あの囁くような音が聞こえた。音だが、その言葉は声のように分かる。
これは、いつもの夢だ。眠り込んでしまったのだ。もう再び見まいと思っていたのに。やはり、事件はあれで終わりではないのだ。
ズルズルと重たい物を引きずる音がする。声も音も、段々と近付いてくる。
サラは逃げたいのだが、またしても、体が言う事を聞かない。足がその場に括りつけられたかのように、動かない。
嫌だ……。
見たくない。このままでは、この声の主が来てしまう。階段を降りてゆく小さな人影は、殺されてしまう。
サラは声を上げようとしたが、息さえもが詰まったかのようだった。
駄目だ。その先へ降りて行ってはいけない。その角を曲がってはいけない。逃げて――
No.45
頭に強い衝撃を受け、サラは目を覚ました。
そして、恐ろしい現実を認識した。今は、魔法薬の授業中だったのだ。
スネイプは教科書を手に、冷たい黒い目でサラを見下ろしている。先ほどの衝撃は、スネイプが手元の教科書でサラの頭を叩いたものらしい。
「我らが英雄サラ・シャノンは、説明など聞かずとも、完璧な薬が調合出来るようだな?」
スリザリン生の間から、どっと笑いが起こった。
パーキンソンはドラコの後ろに座り、何やらドラコに耳打ちしていた。胸糞の悪い光景から目を逸らすように、サラは俯いた。
「だが、貴様の成績は、平均に遥かに及ばなかったと思うが。そのように学ぶ気が無いから、いつまで経っても調合の基礎さえ身につかないのではないかね? シャノンも、まさか養女がこれほどに劣等生になるとは思いもよらなかっただろう。草葉の陰で、さぞかし嘆き悲しんでいる事だろう……」
「……すみません」
サラは俯いたまま謝った。授業中に眠ってしまったのは、自分が悪い。分かっているから謝ったのだが、声の調子はどうしても反抗的になってしまった。
当然、スネイプがそれで反省していると思う筈が無い。
「グリフィンドール、十点減点。授業後に残って、教室の掃除をして行きたまえ。――ポッター」
サラの隣に座っていたハリーが、びくりと反応した。
「起こさなかったのだから、同罪だ。貴様も、掃除をして行きたまえ」
「……ごめん、ハリー」
スネイプが教壇の前へと戻り、サラは小さな声で、巻き込んでしまったハリーに謝った。
地下牢教室の掃除を終え、サラとハリーは急いで昼食を食べ終えると、図書館へと階段を上っていった。
最後の階段に差し掛かった頃、前方からジャスティン・フィンチ‐フレッチリーがやってきた。今日はエリ達と一緒ではないようだ。
ハリーが挨拶をしようと口を開きかけたが、彼はくるりと踵を返して足早にその場を立ち去った。
「……フィルチが言った事、本気にしてるのかな」
「もしもそうなら、彼は飛んだお馬鹿さんね」
サラは何でもない事のように軽く言い、肩を竦めた。
二人は図書館の奥で、魔法史の宿題の長さを測っているロンを発見した。ハーマイオニーは見当たらない。
ロンは長さが足りない事を愚痴り、羊皮紙から手を離した。羊皮紙はクルクルと丸まった。
「ハーマイオニーなんか、もう一メートル四十センチも書いたんだぜ。しかも細かい字で。サラも、どうせそれぐらい書いてるんだろうけど」
「まさか。私、クィディッチの練習で忙しいもの。文章を締めくくる為に少し長くなったけど、それでも四十センチも長くなんてないわよ」
サラは『箒の最高速度の研究』を鞄から取り出すと、ロンの隣にすとんと腰掛けた。
「ハーマイオニーは何処?」
ハリーもロンを挟むそうにして座り、巻尺を無造作に掴んで自分の羊皮紙を広げながら聞いた。
「どっかあの辺だよ」
ロンは書棚の辺りを指差した。
「また別の本を探してる。あいつ、クリスマスまでに図書館中の本を全部読んでしまうつもりじゃないか」
サラが読書に耽り、ハリーとロンが先ほどジャスティンが逃げて行った話をしていると、ハーマイオニーがやって来た。ここ数日ずっと苛々しているようだったが、やっと三人と話す気になったようだ。
「『ホグワーツの歴史』が全部貸し出されてるの」
ハーマイオニーはサラの隣に腰掛けた。
「しかも、あと二週間は予約でいっぱい。私のを家に置いてこなけりゃ良かった。残念。でも、ロックハートの本でいっぱいだったから、トランクに入りきらなかったの」
「サラは持ってないの?」
ロンの言葉に、サラが首を振った。
「一応、持ってきてたけどね。ロックハートの本だって、私は教科書以外持ってきてないから。でも、スリザリンがニンバス2001を手に入れてるって知ってから、クィディッチ関連の本ばかり借りてるでしょう? 置き場が無いから、教科書以外の本は全て家に送り返しちゃったのよ」
「どうしてその本が欲しいの?」
ハリーが尋ねた。
「皆が借りたがっている理由と同じよ。『秘密の部屋』の伝説を調べたいの」
「それ、何なの?」
「それが分からないのよ。私もハーマイオニーも、全然思い出せなくって」
「尤も、サラはそこまで思い出そうとしているようには見えないけれどね」
ハーマイオニーはサラが読んでいる本に目をやりながら言った。
「それに、他のどの本にも書いてないのよね――」
「サラ、君の作文見せて」
ロンが時計を見ながら絶望的な声を出した。
「見せちゃ駄目よ、サラ」
本に栞を挟んでしまい、羊皮紙を出しかけたサラの手を止め、ハーマイオニーは厳しい声で言った。
「提出まで十日もあったじゃない」
「あとたった六センチなんだけどなぁ。いいよ、どうせ……」
予鈴がなり、四人は席を立った。
ロンとハーマイオニーは、ハリーとサラの前で口喧嘩を繰り広げながら魔法史の教室へ向かう。
ふと、ハリーは隣を歩くサラを見下ろして言った。
「ねぇ、若しかしてサラ、まだあの夢を見たりしてる?」
サラは目を見開いてハリーを見上げた。
ハーマイオニーもロンの話を無視して、ぱっとこちらを振り返った。
「同じではないけど……そうね。似たような夢を見たわ。ついさっきだけど」
「それじゃあ、やっぱりまた誰かが襲われる……?」
「サラ、貴女、その夢を見たくなくて、あの事件の後もずっと寝てないでしょう?」
ハーマイオニーが説教をするかのような口調で言った。
「同室なんだから、当然気づいてるわよ。たまに目を覚ましたら、隣のベッドで何度も寝返りを打つ音が聞こえるんだもの。窓を開けて外を眺めてた事もあるわよね?」
「……ごめんなさい。寒かった?」
「そういう話じゃないわ。駄目よ、そんな事してたら」
予想通りのハーマイオニーの言葉に、サラは口を尖らせた。
「だって、嫌なんだもの。ミセス・ノリスの夢が正夢になってからというもの、何だか気になっちゃって。クィディッチで疲れていても、寝たらその夢を見そうな気がするのよね。実際、さっき授業中にちょっとうたた寝しただけで夢見ちゃったし」
「マダム・ポンフリーに言って、夢を見ないで寝られる薬を何か貰ったらどうかしら……」
「嫌よ。『怖い夢を見るから、見ないようにして下さい』とでもお願いするって言うの?」
「でも、このままじゃサラの身がもたないよ」
「……大丈夫よ、別に」
「咄嗟に答えられてないだけ、自分でもこのままじゃ良くないって分かってるんでしょう」
サラは目を伏せた。
確かにハリーの言う通り、このままでは身がもたない。授業中には眠ってしまうし、クィディッチも集中出来ない。ここ最近、大きな怪我はまだしていないものの、ぼーっとしていてブラッジャーをまともに食らう事が多々あった。
だけれど、所詮は夢なのだ。そんな事で医務室の世話になるのは気が引ける。
いつの間にかハーマイオニーに文句を言うのをやめていたロンが、サラに話しかけた。
「それじゃ、ジニーを連れて行って、そういう薬を貰うのはどう? ジニーもあれ以来顔色が悪いし、きっとそういう薬もあった方がいいと思うんだ。ちょっと多めにって事にして、サラの分も貰えばいい」
「名案だよ、ロン! ジニーだったら、例え彼女が渋ったとしても、心配した僕達が無理矢理って事にすればいいからね。それならどうだい、サラ?」
サラは、渋々頷いた。
魔法史の授業は、睡魔との闘いが最も苦痛な教科だった。普段ならば真面目に聞いていて、眠くなる事など無いが、睡眠不足の状態では信じられないほど違った。眠くて仕方が無い。
だが、眠ってしまえば恐らく、またしても先ほどの夢が待っている。ビンズは生徒を起こそうとする事が無い。よって、あの小さな人影が襲われるところまで目撃する事になるだろう。
板書を取ろうとはしているが、羽ペンを持つ手が眠気で思うように動かない。気がつけば、妙な線が羊皮紙上に何本も現れていた。
兎に角眠気を追い払おうと、昼休みに読んだ本の内容を復習する。競技用箒の先駆けとなった、シルバーアローの最高速度は……。現在、業界最大手である、ニンバスの最初のモデル、ニンバス1000の最高速度は……。確か、筆者はマグルの技術の話をしていた。新幹線に使われている、特殊な形だ。何という名称だったろうか……。
しかしとうとう思い出せる内容も尽きてきてしまった。時計を見れば、まだ授業時間は半分しか経っていない。睡魔は容赦なく襲い来る。
その時、ハーマイオニーがすっと手を挙げた。
「ミス――あー?」
「グレンジャーです。先生、『秘密の部屋』について何か教えていただけませんか」
ハーマイオニーのはっきりとした言葉に、睡魔はあっさりと撃退された。サラには、ハーマイオニーが輝かしい女神のように見えた。
ビンズは瞬きを数回、繰り返した。
「私が教えとるのは、魔法史です。事実を教えとるのであり、ミス・グレンジャー、神話や伝説ではないのです」
ビンズは軽く咳払いし、授業を続けようとした。
しかし、再び上がったハーマイオニーの手で遮られる。
「ミス・グラント?」
「先生、お願いです。伝説というのは必ず、事実に基づいているのではありませんか?」
ビンズは驚いて、ハーマイオニーをまじまじと眺めた。
「……ふむ。然り、そんな風にも言えましょう。多分。
しかしながらです。貴女が仰るところの伝説はと言えば、これは誠に人騒がせなものであり、荒唐無稽な話とさえ言えるものであり……」
ビンズがどのように言おうが、クラス中はその話に耳を傾け、待ち構えていた。今までこれ程にも興味を示される事など無かった先生は、明らかにうろたえていた。
「あー、よろしい」
ビンズはようやく、話をする事を了解した。
「さて……『秘密の部屋』とは……」
「皆さんも知っての通り、ホグワーツは一千年以上も前――正確な年号は不明であるからにして――その当時の、最も偉大なる四人の魔女と魔法使い達によって、創設されたのであります。創設者の名前にちなみ、四つの学寮を次のように名づけたのであります。
即ち、ゴドリック・グリフィンドール、ヘルガ・ハッフルパフ、ロウェナ・レイブンクロー、そしてサラザール・スリザリン。
彼らはマグルの詮索好きな目から遠く離れたこの地に、共にこの城を築いたのであります。何故ならば、その時代には魔法は一般の人々の恐れるところであり、魔女や魔法使いは多大なる迫害を受けたからであります」
ビンズは一度そこで話を切り、漠然と教室を見渡し、再び話し出した。
「数年の間、創設者達は和気藹々で、魔法力を示した若者達を探し出しては、この城に誘って教育したのであります。
しかしながら、四人の間に意見の相違が出てきた。スリザリンと他の三人との亀裂は広がっていった。
スリザリンは、ホグワーツには選別された生徒のみが入学を許されるべきだと考えた。魔法教育は、純粋に魔法族の家系にのみ与えられるべきだという信念を持ち、マグルの親を持つ生徒は学ぶ資格が無いと考えて、入学させる事を嫌ったのであります。
暫くして、この問題を巡り、スリザリンとグリフィンドールが激しく言い争い、スリザリンが学校を去ったのであります」
ビンズはそこで再び話を切り、口を閉じた。
「信頼出来る歴史的資料は、ここまでしか語ってくれぬのです。
しかし、こうした真摯な事実が、『秘密の部屋』という空想の伝説により、曖昧なものになっておる。スリザリンがこの城に、他の創設者には全く知られていない、隠された部屋を作ったという話がある。
その伝説によれば、スリザリンは『秘密の部屋』を密封し、この学校に彼の真の継承者が現れる時まで、何人もその部屋を開ける事が出来ないようにしたという。その継承者のみが、『秘密の部屋』の封印を解き、その中の恐怖を解き放ち、それを用いてこの学校から魔法を学ぶに相応しからざる者を追放するという」
クラスはしんと静まり返っていた。それは眠気による物ではなく、生徒全員がビンズの話に聞き入っていた。
ビンズはかすかに困惑した様子を見せた。
「もちろん、全ては戯言であります。
当然ながら、その様な部屋の証を求め、最高の学識ある魔女や魔法使いが、何度もこの学校を探索したのでありますが、その様な物は存在しなかったのであります。騙されやすい者を怖がらせる作り話であります」
ハーマイオニーの手が、また空中に挙がった。
「先生――『部屋の中の恐怖』というのは、具体的に如何いう事ですか?」
「何らかの怪物だと信じられており、スリザリンの継承者のみが操る事が出来るという」
ビンズは干からびた甲高い声で言った。生徒達は、互いに怖々と顔を見合わせた。
「言っておきましょう。そんな物は存在しない。
『部屋』など無い、遵って怪物はおらん」
「でも、先生」
シェーマス・フィネガンが手を挙げずに口を挟んだ。
「もし『部屋』がスリザリンの継承者によってのみ開けられるなら、他の誰も、それを見つける事は出来ない、そうでしょう?」
「ナンセンス。オッフラハーティ君」
ビンズは厳しい声できっぱりと言った。
「歴代のホグワーツ校長、女校長先生方が、何も発見しなかったのだからして――」
「でも、先生」
パーバティ・パチルだ。
「そこを開けるのには、闇の魔術を使わないといけないのでは――」
「ミス・ペニーフェザー、闇の魔術を使わないからと言って、使えないという事にはならない。
繰り返しではありますが、もしダンブルドアのような方が――」
「でも、スリザリンと血が繋がっていないといけないのでは……。ですから、ダンブルドアは――」
「以上! おしまい!」
ビンズはもう沢山だとばかりに、声を張り上げぴしゃりと言った。
「これは神話であります! 部屋は存在しない! スリザリンが、部屋どころか、秘密の箒置き場さえ作った形跡は無いのであります! こんな馬鹿馬鹿しい作り話を聞かせた事を悔やんでおる。
よろしければ、歴史に戻る事にする。実態ある、信ずるに足る、検証できる事実であるところの歴史に!!」
サラは再び、睡魔と闘わねばならなかった。
「サラザール・スリザリンが、狂った変人だったって事は知ってたさ」
授業が終わり、夕食前に寮へ鞄を置きに生徒で廊下は混み合っている。その人混みを掻き分けながら、ロンは三人に話しかけていた。
「でも、知らなかったなぁ。例の純血主義の何のって、スリザリンが言い出したなんて。僕なら、お金を貰ったって、そんな奴の寮に入るもんか。はっきり言って、組み分け帽子が若し僕をスリザリンに入れてたら、僕、記者に飛び乗って真っ直ぐ家に帰ってたな……」
「当然だわ」
「……そうね」
ハーマイオニーも同意するので、サラも同じように頷いた。
事実、スリザリンだけは断固として拒否し通した。サラの祖母は、死喰人に殺されたのだ。死喰人の多くは、スリザリン出身だ。そんな寮なんて絶対に入りたくなかった。
だが、サラは帽子の言葉を忘れた訳ではない。組み分け帽子は、何としてもサラをスリザリンに入れようとした。サラほどスリザリン向きの者は、今までに一人しかいなかったとまで言ってのけた。スリザリンを卒業した多くの死喰人達以上に、サラはスリザリン向きだと言われたのだ。
サラがグリフィンドールに入ったのは、サラがスリザリンを断固として拒否したからに過ぎない。
「やあ、ハリー! サラ!」
声をした方を見れば、コリン・クリービーが人波に流されながら、嬉しそうにこちらへ手を振っていた。
先日、ロンの杖が逆噴射した時に石化呪文をかけたが、今はもう全く気にしていないようだった。
サラは喧騒で聞こえなかったふりをする。ハリーは、感情の無い声で棒読みの返事をした。コリンの声は、ハリーとは対照的に無駄に弾んでいる。
「ハリー、ハリー、僕のクラスの子が言ってたんだけど、君って……」
しかし、コリンは皆まで言う前に人波に流されていく。
「後でね、ハリー!」
コリンはそう言って人ごみの向こうに消えた。
ハーマイオニーが訝った。
「クラスの子が貴方の事、何て言ってたのかしら?」
「僕がスリザリンの継承者だとか言ってたんだろ」
「ここの連中ときたら、何でも信じ込むんだから」
ロンは、吐き捨てるように言った。階段の所まで来ると、混雑もなくなり、楽に階段を上る事が出来た。
「『秘密の部屋』があるって、本当にそう思う?」
ロンはハーマイオニーに問いかけた。
「分からないけど……」
ハーマイオニーは眉根を寄せ、慎重に話した。
「ダンブルドアでもミセス・ノリスを治してやれなかった。って事は、私考えたんだけど、猫を襲ったのは若しかしたら――そうね――ヒトじゃないかもしれない」
四人が角を曲がると、そこは丁度例の事件の現場がある廊下の端だった。
四人は一度、立ち止まった。フィルチに捕まりたいと思う者なんている筈が無い。辺りを見回したが、どうやら誰もいないようだった。猫が吊るされていた松明の下辺りに、椅子がぽつんと置かれているだけだ。フィルチの努力も空しく、壁の字は全く消えていないようだった。
「あそこ、フィルチが見張ってる所だ」
ロンが呟いた。
四人は念入りに辺りを見回し、顔を見合わせた。
「ちょっと調べたって構わないだろ」
ハリーは鞄を放り出し、床に伏した。放り出された鞄は、斜め後ろにいたサラがちょうどキャッチした。
ハリーは、四つん這いのまま叫んだ。
「焼け焦げがある! あっちにも……こっちにも……」
「来てみて! 変だわ……」
文字の書かれた壁に近寄ったハーマイオニーが、声を上げた。
サラは立ち上がったハリーに鞄を返し、ハーマイオニーの方へと小走りに寄って行った。
ハーマイオニーの指差した先には、二十匹あまりの蜘蛛がいた。一番上の窓ガラスの小さな割れ目から、先を争うようにして這い出そうとしている。小学校低学年の頃に絵本で読んだ話のように、たった一本の銀色の蜘蛛の糸が長く垂れ下がっていた。
「蜘蛛があんな風に動くのを見た事ある?」
ハリーもサラも当然、首を振った。サラはじっとその蜘蛛を見つめる。ハリーはロンを探して横を振り向きながら言った。
「ロン、君は? ロン?」
ロンはずっと彼方に立っていた。顔は引きつり、恐怖の色が浮かんでいる。
「どうしたんだい?」
「僕……蜘蛛が……好きじゃない」
「まあ、知らなかったわ」
ハーマイオニーが、驚いたようにロンを振り返った。
ロンは、窓の方へは目を向けないように気をつけていた。
「蜘蛛なんて、魔法薬で何回も使ったじゃない……」
「死んだ奴なら構わないんだ。あいつらの動き方が嫌なんだ……」
ハーマイオニーはクスクスと笑い出した。
ロンはムッとして言った。
「何が可笑しいんだよ。
訳を知りたいなら言うけど、僕が三つの時、フレッドのおもちゃの箒の柄を折ったんだ。そしたら、あいつ、僕の――僕のテディ・ベアを馬鹿でかい大蜘蛛に変えちゃったんだ。
考えてもみろよ。嫌だぜ。熊のぬいぐるみを抱いている時に急に足がニョキニョキ生えてきて、そして――」
ロンは身震いし、言葉を途切らせた。ハーマイオニーはまだ、笑いを堪えるのに必死だ。サラまでもが、微笑を浮かべていた。
ハリーは、話題を変えた方が良さそうだと判断した。
「ねえ、床の水溜りの事、覚えてる? あれ、どっから来た水だろう。誰かが拭き取っちゃったけど」
「この辺りだった」
ロンは気を取り直し、フィルチの置いた椅子から離れた所まで意気揚々と歩いていき、床を指差した。
「このドアの所だった」
ロンは真鍮の取っ手に手を伸ばしたが、やけどをした時のように急に手を引っ込めた。
「どうしたの?」
「ここは入れない。――女子トイレだ」
「平気よ。誰もいる筈がないわ」
サラが淡々と言った。ハーマイオニーが、ロンの方まで歩いていく。
「そこ、『嘆きのマートル』のトイレよ。いらっしゃい。覗いてみましょう」
「故障中」と書かれた張り紙を無視し、ハーマイオニーは扉を開けた。
陰鬱な様子は、以前一度だけ入った時よりも更にエスカレートしていた。サラは一度来たっきり、全くここへは来ていなかった。
ハグリッドからのクリスマス・プレゼントに間違って紛れ込んだマグルの写真にマートルは写っていたが、特にマートルから話を聞こうとは思わなかった。例え祖母の友人だったとしても、まともに昔話をしてくれるとは思えない。
ハーマイオニーは三人に静かにしているように合図し、一番奥の小部屋の前へと歩いていった。マートルのいる個室だ。
「こんにちは、マートル。お元気?」
ハリーとロンは互いに顔を見合わせた。サラは、その横を平然と歩いていく。二人はその後に従うようにしてついて行った。
個室を覗き込んだハリーとロンを、マートルは胡散臭そうに見た。
「ここは女子トイレよ。この人達、女じゃないわ」
「ええ、そうね」
ハーマイオニーは相槌を打った。
「私、この人達に、ちょっと見せたかったの。つまり――えーと――ここが、素敵な所だってね」
ハーマイオニーは、トイレの中を漠然と指差した。
手洗い場の所にある大きな鏡はひび割れていて、染みが至る所にある。手洗い台自体も、あちこち縁が欠けていた。床は濡れて湿っぽく、蝋燭は燭台の中で燃え尽きそうになっている。小部屋の扉のペンキは剥げ落ち、引っ掻き傷だらけ。その内一つは、蝶番が壊れて外れてしまっていた。
どう考えても、ここが「素敵な場所」だとは思えなかった。陰鬱な空気のせいか、どうもここにいるのは嫌な感じがしてならない。気が急いて、早くここを出てしまいたくなる。昨年来た時はほんの短い間だったからか気にならなかったが、自分達とマートル以外がここにいるような、ただただ妙な気配がして、不安で仕方が無かった。
「何か見なかったかって、聞いてみて」
ハリーがハーマイオニーに耳打ちをした。
これがいけなかった。マートルは、不審げにハリーをじっと見た。
「何をコソコソしてるの?」
「何でもないよ。僕達、聞きたい事が――」
ハリーは慌てて弁解したが、マートルは涙声になっていた。
「皆、私の陰口を言うのはやめて欲しいの。私、確かに死んでるけど、感情はちゃんとあるのよ」
「マートル、誰も貴女を傷付けようなんて思ってないわ。ハリーはただ――」
「傷つけようと思ってないですって! 嘘よ!
私がこの学校で生きてた頃の人生って、悲惨そのものだった。今度は皆が、死んだ私の人生を台無しにしにやって来るのよ!!」
「貴女、ハロウィーンの日に何か見なかった?」
サラは淡々とした声で尋ねた。
ハーマイオニーとハリーも、急いで付け加えた。
「ちょうど貴女の玄関のドアの外で、ハロウィーンの日に、猫が襲われたのよ」
「あの夜、この辺りで誰か見かけなかった?」
「そんな事、気にしていられなかったわ」
マートルは心成しか興奮気味に見えた。
「ピーブズがあまりに酷い事を言うものだから、私、ここに引き篭もって自殺しようとしたの。そしたら、当然の事だけど、急に思い出したの。私って――私って――」
「既に死んでた」
ロンが後の言葉を続けた。
マートルは大きくすすり泣いて空中に飛び上がり、くるりと回って頭から便器へと突っ込んだ。サラは咄嗟にロンの後ろに隠れ、水飛沫を逃れた。マートルが消えた後のトイレには、彼女のすすり泣く声が何処からか聞こえていた。
サラは、便器の水が何処かに掛かっていないかとローブを確認する。ハーマイオニーは、やれやれといった調子で肩を竦めた。
「まったく。あれでもマートルにしては機嫌がいい方なのよ……。
さあ、出ましょう」
サラは、ローブが濡れていないか念入りにチェックしながら、三人より少し遅れて出入り口の扉へ向かった。
ハリーがハーマイオニーとロンに続いてトイレの外へ出た途端、大きな声が聞こえ、三人は飛びあがった。
「ロン!!」
階段の上に、監督生のバッジを輝かせたパーシーがいた。
とてつもないショックを受けた表情だ。
「そこは、女子トイレだ! 君達男子が、一体何を――?」
「ちょっと探してただけだよ」
ロンは肩を竦め、何でもないように言った。
「ほら、手掛かりをね……」
パーシーは肩を怒らせた。
「そこ――から――とっとと――離れるんだ。
人が見たらどう思うか分からないのか? 皆が夕食の席に着いているのに、またここに戻ってくるなんて……」
「なんで僕達がここにいちゃいけないんだよ」
ロンはむきになってパーシーを睨み付けた。
サラは流し台の前を通った所で、欠けた部分にローブを引っ掛けてしまった。下手に引っ張られた為、なかなか外れない。
「いいか? 僕達、あの猫には指一本触れてないんだぞ!!」
「僕もジニーにそう言ってやったよ。だけど、あの子は、それでも君達が退学処分になると思ってる。あんなに心を痛めて、目を泣き腫らしてるジニーを見るのは初めてだ。少しはあの子の事も考えてやれ。一年生は皆、この事件で神経をすり減らしてるんだ――」
「兄さんは、ジニーの事を心配してるんじゃない。
兄さんが心配してるのは、首席になるチャンスを、僕が台無しにするって事なんだ」
「グリフィンドール、五点減点!」
パーシーは監督生のバッジを指でいじりながらぴしゃりと言った。
「これでお前にはいい薬になるだろう。
探偵ごっこはもう、止めにしろ。さもないと、ママに手紙を書くぞ!」
パーシーは大股で歩き去って行った。
サラはようやくローブが外れ、トイレから出てきた。
「早くここを離れた方がいいわ。パーシーの気配がするわよ」
「今更、遅いよ……」
ハリーが気の抜けたように言った。
ロンは、首筋から耳まで髪と同じように真っ赤だった。
その夜の談話室で、ハリー、ロン、ハーマイオニー、サラの四人は、パーシーから出来る限り離れた位置に座っていた。
サラは首をこっくりこっくりさせては、ふるふると左右に振って眠気を飛ばし、気を取り直して魔法薬のレポートに取り組んでは船を漕ぎの繰り返しだった。
ロンはまだ機嫌が直らず、羊皮紙にインクの染みばかり作っていた。染みを拭おうと杖に手を伸ばせば、杖が発火し、羊皮紙が燃え出した。ロンは宿題と同じようにカッと暑くなり、「標準呪文集・二学年用」をバタンと閉じてしまった。タイミング良く、ハーマイオニーも同じように教科書を閉じた。
「だけど、一体何者かしら?」
ハーマイオニーが話し出し、サラはパッと目を覚ました。目を擦り、首を回して完全に眠気も吹っ飛んだ。
「出来損ないのスクイブや、マグル出身者の子を、ホグワーツから追い出したいと願っているのは、誰?」
「それでは考えてみましょう」
ロンは、わざとらしく首を捻って見せた。
「我々の知っている中で、マグル生まれは屑だ、と思っている人物は誰でしょう?」
そう言って、ハーマイオニーの顔を見た。ハーマイオニーはまさか、と言う顔でロンを見返した。
「若しかして、貴方、マルフォイの事を言ってるの――」
「モチのロンさ!」
「無いわね」
サラは、魔法史の宿題を片付けながら口を挟んだ。
「いくら彼でも、そんな事までしないわよ。そんなに大層な事が、彼に出来ると思う?」
「でも、あいつが言った事を聞いたろう? 『次はお前達の番だぞ、穢れた血め!』って。
二人共、しっかりしろよ。あいつの腐った鼠顔を見ただけでも、犯人だって分かりそうなもんだろ」
「マルフォイが、スリザリンの継承者?」
ハーマイオニーは、サラと同じく賛同していない様子だった。
とうとう、ハリーも教科書を閉じた。
「あいつの家族を見ろよ。あの家系は全部、スリザリン出身だ。あいつ、いつもそれを自慢してる。あいつなら、スリザリンの末裔だって不思議じゃない。あいつの父親も、何処から見ても悪玉だよ」
「あいつなら、何世紀も『秘密の部屋』の鍵を預かっていたかもしれない。親から子へ代々伝えて……」
「そうね。その可能性はあると思うわ……」
「ちょっと待ってよ」
サラは机に身を乗り出し、反論した。
「ミセス・ノリスは、ダンブルドアでも治せなかったのよ? それ程にも強い怪物が『部屋』にいるって事でしょう? そんなに強いなら、扱う方もそれ相応の力が備わってきゃ無理に決まってるわ。フラッフィーとは訳が違うのよ。分かってる? ドラコにそんな力があると、本気で思ってるの?」
「サラ。君、ビンズの話を聞いてなかったのかい? 部屋を開けられるのは、スリザリンの継承者なんだ! スリザリンの末裔なら、部屋を開ける事が出来る。あいつ自身がどんなに小物でも、そんなの問題無いに決まってるさ」
「スリザリンの末裔かどうかなんて、分からないじゃない。
それで、一体どうする訳? 後をつけて、部屋を開ける現場を押さえるとでも言うの? 嫌よ、私は。証拠も無いのにそうやって疑うなんて――」
「確かめる方法が無い事は無いわ」
ハーマイオニーが口を挟んだ。
少し考え込みながら、部屋の向こうにいるパーシーを盗み見て声を落とす。
「もちろん、難しいの。それに危険だわ、とっても。学校の規則をざっと五十は破る事になるわね」
「あと一ヶ月ぐらいして、もし君が説明してもいいというお気持ちにおなりになったら、その時は僕達にご連絡くださいませ、だ」
「承知しました、だ」
苛々と言うロンに、ハーマイオニーは冷たく返した。
「何をやらなければならないかと言うとね、私達がスリザリンの談話室に入り込んで、マルフォイに正体を気づかれずに、いくつか質問するのよ」
「だけど、不可能だよ」
「いいえ、そんな事は無いわ。――ポリジュース薬が少し必要なだけよ」
「それ、何?」
ハリーとロンの声が重なった。
ロンは驚いたようにサラを振り返る。
「サラは分かるのかい?」
「失礼ね。私、調合は苦手だけど、筆記は貴方よりも成績いいわよ。材料や作り方は分からなくても、薬名と効能は分かるわ。それにこの薬、数週間前にスネイプが授業で話してたしね」
「魔法薬の授業中に、僕達がスネイプの話を聞いてると思ってるの? もっとマシな事をやってるよ」
ロンはぶつくさと言った。
ハーマイオニーが二人に薬の説明をする間、サラは机に視線を落とし、考え込んでいた。
『秘密の部屋』を開いたのは、ドラコなのだろうか? だが、それは違うとサラは思った。何故だか自分でも分からないが、それは違うと断定できる。理屈では無いのだ。ただ感覚で、ドラコではないと思った。
では、一体誰が犯人なのだろう? 何故、こんな事をするのだろう?
ドラコは関係ない、と直感で理解しつつ、ドラコがこの事件の犯人でなくとも知っていたならば良いのにと思った。ドビーはハリーとサラを学校へ戻らせまいとする理由を、「危険だから」と言った。警告だと。それが『秘密の部屋』の事を言っているのならば、ドラコはサラの身の上を案じて言った事になる。
そこまで考え、サラはそれが確実にありえない話だという事に気がつき、考えを却下した。
それならば、当然、ドラコはハリーをも守ろうとした事になる。ドラコとハリーは、犬猿の仲だ。喧嘩友達という訳でもなく、ただ喧嘩しかしない。どう考えても、ドラコがハリーを守ろうとするとは思えない。
それに、ドラコの性格ならば、守る為に学校へ来させないという事は無いだろう。ドラコは、サラがどんなにホグワーツという居場所を大切にしているかを知っている。ホグワーツへは来させ、自分で守ろうとする筈だ。
ドラコはそういう人だ。放っておくという事が出来ない。ゴイルが宿題に悪戦苦闘していれば、最初は「自分で調べろ」と言っておきながら、結局は宿題を手伝っている。パーキンソンが話に割り込んできても無下にする事は無いし、どんなにサラの魔法薬での不器用さに呆れても見捨てる事は無い。
サラを今までに何度か救ってくれているのも、そんな性格故なのだと分かっていた。
だから、ドラコが『秘密の部屋』が開かれる事を知っていて、それから守る為にドビーを遣わしたとは考えられない。『部屋』が開かれたのは、全くの偶然に過ぎないのだ。
……ドラコがドビーを遣したのは、やはり、サラとハリーを学校に来させないようにする為。悪意あっての事なのだ。
「まあ……本の事は、あいつに頼めば簡単にサインぐらい貰えるな。あれでも一応、教師なんだから。
それじゃ、その薬があればマルフォイが『部屋』を開いたって本人の口から聞ける訳だ。きっとあいつ、得意気に話すだろうし……」
「ドラコじゃないわ。何度言えば分かるの?」
サラは冷ややかな視線をロンに向けた。
ロンはムッとし、それからにやーっと不快な笑みを浮かべた。サラは眉を顰める。
「随分、必死じゃないか。まあ、それもそうか。愛しい愛しいドラコ・マルフォイがスリザリンの継承者だなんて、思いたくないよな。あいつにとっては自慢でも、スリザリン生以外から見ればとんでもない非道だもんなぁ」
「馬鹿言わないで」
サラは冷たい声でぴしゃりと言った。
三人は一瞬、サラが泣き出すかと思った。サラは目を伏せ、長い睫毛が揺れた。
しかし、搾り出すような声は、決して涙声ではなかった。
「私が誰かを特別好きになるなんて……絶対にあり得ないわ……」
やはり、とハーマイオニーは思った。やはり、サラはドラコと何かあったのだ。
夢の事を抜きにしても、近頃サラの様子がおかしい事には薄々気づいていた。ドラコに裏切られでもしたのか。昨年の終わりはあれ程にもドラコを信頼していたのに、今年になってから様子がおかしい。魔法薬の授業で組んでも、ドラコに向ける笑顔が偽者だという事ぐらい気づいていた。
サラはホグワーツに入学するまで、周囲から迫害されてきた。回りが皆、敵だった。だから、入学当初は誰の事も信じていなかった。
それでも、今では自分達を信用している。互いに、親友だと確かめるまでもなく分かっていた。
ドラコとも同様だった筈だ。同じように信頼しあっていた筈だ。
信頼し合っていただけに、裏切りは耐え難いに違いない。それまでの信用は反動となり、自分を戒めるようになる。――そんな淡い期待を抱いてはいけないのだ、と。
談話室の生徒は段々と減っていき、四人も片付け出した。「おやすみ」と挨拶を交わし、サラとハーマイオニーは女子寮へ、ハリーとロンは男子寮へと階段を上っていく。
寝室に着き、寝る支度を整えてベッドに潜り込む。ベッドのカーテンを引く前に、ハーマイオニーはサラに言った。
「サラ。私達は、貴女の仲間よ。決して、裏切ったりなんてしないから」
サラは一瞬、きょとんとした表情を見せた。
それから、ふっと笑った。
「……ありがとう。じゃあね、おやすみ、ハーマイオニー」
「おやすみ……」
廊下からの灯りに照らされたサラの寂しそうな笑顔が、ハーマイオニーの脳裏に焼きついて離れなかった。
医務室から薬を貰うチャンスは逃してしまった。今夜も、サラは夢を見まいと眠れぬ夜を過ごすのだ。
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The Blood
第1部
希望求めし少女たちは
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2007/08/12