「あったわ」
 三階の女子トイレ、マートルの棲み家で四人は額を寄せ合っていた。
 不意に、ハーマイオニーが「最も強力な魔法薬」のページを捲る手を止め、興奮した囁き声で言った。開かれたページには、ポリジュース薬の作り方が君の悪いイラストを使用して記されている。
「こんなに複雑な魔法薬は、初めてお目にかかるわ」
 ハーマイオニーは材料のリストを指で追いながら、ぶつぶつと読み上げた。
「――うん、こんなのは簡単ね。生徒用の材料棚にあるから、自分で勝手に取れるわ」
 それから小さく呻き声を上げた。
「見てよ、これ。二角獣の角の粉末――これ、何処で手に入れたらいいか分からないわ……。毒ツルヘビの皮の千切り――これも難しいわね……。
それから、当然だけど、変身したい相手の一部」
「何だって?」
 ロンが咄嗟に聞き返した。
「如何いう意味? 変身したい相手の一部って。クラッブの足の爪なんか入ってたら、絶対飲まないからね」
 ハーマイオニーはロンの苦情を無視し、話し続ける。
 今度は、ハリーが口を挟んだ。ハリーの心配はロンの物とは違った。
「ハーマイオニー、どんなに色々盗まなきゃならないか、分かってる? 毒ツルヘビの皮の千切りなんて、生徒用の棚には絶対にある筈無いし。
どうするの? スネイプの個人用の保管倉庫に盗みに入るの? 上手くいかないような気がする……」
 ハーマイオニーは、怒ったように本を閉じた。
「そう。怖気づいてやめるって言うなら、結構よ。
私は規則を破りたくはない。分かってるでしょう。だけど、マグル生まれの物を脅迫するなんて、ややこしい魔法薬を密造するよりずーっと悪い事だと思うの。
でも、二人はマルフォイがやってるのかどうか知りたくないって言うんなら、これから真っ直ぐマダム・ピンスの所へ行って、この本をお返ししてくるわ……」
「僕達に規則を破れって、君が説教する日が来ようとは思わなかったぜ。
分かった。やるよ。だけど、足の爪だけは勘弁してくれ。いいかい?」
「何も足の爪って決まってる訳じゃないわ」
 ハーマイオニーはくすりと笑い、再び本を開いた。

「サラは、異論は無いのよね?」
「当然。ドラコは犯人じゃないわ。それを証明する為にも、私はやるわよ」
「造るのにどのぐらいかかるの?」
 ハリーがハーマイオニーに尋ねた。ハーマイオニーは少し考える風にする。
「そうね……。満月草は満月の時に摘まなきゃならないし、クサカゲロウは二十一日間煎じる必要があるから……そう、材料が全部手に入れば、大体一ヶ月で出来上がると思うわ」
「一ヶ月も!? マルフォイはその間に、学校中のマグル生まれの半分を襲ってしまうよ!」
「彼だって決め付けたような発言はやめてちょうだい」
 ロンはサラにからかいの言葉を返そうとしたが、ハーマイオニーの様子に気づき、フォローを優先させた。
「でも、今の所、それがベストの計画だな。全速前進だ」
 そう言いつつ、トイレから出る際にハリーに囁いていた言葉を、サラは聞き逃さなかった。





No.46





 土曜日の朝。スリザリンのテーブルには、いつもにも増して青白い顔をしたドラコが座っていた。隣では、パンジー・パーキンソンが引っ切り無しにドラコを励ましている。アリスは、パンジーの反対隣に座っていた。
「大丈夫よ、ドラコ。だって、これまであんなに練習を頑張って来たじゃない。元々、ドラコには才能があるもの。その上、努力にニンバス2001! グリフィンドールなんて、目じゃないわ。ねぇ、ほら、ソーセージはどう? トーストもあるわ。ね、ドラコ。何かお腹に入れておかなきゃ」
 パンジーはバターを塗ったトーストをドラコに差し出す。
 自分のトーストにジャムを塗っていたアリスは、不意に顔を上げた。アリスの様子に気づき、パンジーも振り返る。その動作は、ドラコ、ゴイル、クラッブにまで連鎖した。
 サラが、こちらへと近付いてきていた。
「……何の用かしら、あいつ」
 パンジーは眉根を寄せ、アリスにしか聞こえないほどの小さな声で呟いた。
 アリスは「分からない」と言うように肩を竦める。

 サラは、アリス達の所まで来ると歩みを止めた。
「おはよう、ドラコ、クラッブ、ゴイル。アリスも、おはよう。……パーキンソンも」
 サラとパンジーの間に、不穏な空気が流れる。
 しかし、サラはサッと目を逸らし、ドラコに視線を向けた。
「雨が降らなくて良かったわ。まぁ、雲行きは怪しいけど……」
「グリフィンドールの選手が、試合前にスリザリンのシーカーに何の用? 密偵かしら?」
「私達の事は気にせず、食事を続けてていいわよ、パーキンソン」
 遠まわしに「貴女に用は無い」と言われ、パンジーは自分の皿に盛り付けられたソーセージに、ぐさりとフォークを突き立てた。
 サラの方へ背を向けながらも、パンジーは耳をそばだてていた。サラは微笑み、奮然と言い放った。
「今日の試合――正々堂々と勝負しましょう」
「ああ……よろしくな」
 パンジーは、この上なく不機嫌な表情だった。
 アリスは咄嗟に席を立った。
「ねぇ、サラ。あたし、試合前にハリーとお喋りしたいわ。ライバルではあるけど、やっぱり友達だもの。
……いいわよね? パンジー、ドラコ」
「構わないわ。いってらっしゃい」
 パンジーはアリスの意図するところを察し、満面の笑みで言った。
 ドラコも、渋々と頷く。
「ありがと。じゃ、行きましょ。サラ」
「ええ……。じゃあ、またね、ドラコ」
 アリスに手を引かれ、サラはスリザリンの席を離れて行った。離れ際、パンジーが再びドラコに擦り寄っているのを目にした。
 パンジーに手を貸すという事は、サラの邪魔をする事でもある。だが、アリスは別にドラコがどちらと好き合おうが知った事ではない。





 マダム・フーチのホイッスルを合図に、サラは地面を強く蹴り、大空へと舞い上がった。
 アンジェリーナがクァッフルを取り、スリザリンの大柄な選手を避けて飛ぶ。サラはアンジェリーナと平行にゴールへと向かう。正面から来たブラッジャーをかわし、パスを受け取った。しかし、その途端、ブラッジャーが後頭部を直撃した。取り落としたクァッフルは、スリザリン・チームの手に渡る。
 サラは方向転換し、クァッフルを追った。ケイティがクァッフルを持った選手の横に並ぶ。サラは横から来たブラッジャーを避け、何とか二人を抜いた。流石はニンバス2001、去年とは比べ物にならぬほどに速い。ゴール前でパスを待つ選手との間を、クァッフルから目を離さずに飛ぶ。と、左からブラッジャーが襲ってきた。サラはするりとそれをかわし、ゴール前の選手をマークする。
 しかし、再びブラッジャーが正面からサラをめがけて飛んできた。サラは上に、マークされていた選手は横に飛び、それを避ける。サラのマークから解放されたその一瞬、その選手にクァッフルがパスされた。難なく、ゴール。先取点はスリザリンだ。
「……っ」
 ブラッジャーが、まともにサラの肩を強打した。サラは箒に跨ったまま、旋回しながら落下する。地面スレスレで箒の柄を上に向け、再び試合の方へと加わる。スリザリンが三度目のゴールを決めた所だった。
 雨が降ってきた。ぽつりぽつりと降りだした雨は、あっと言う間に大粒の雨となる。サラは濡れて顔に張り付いた髪を払い、ブラッジャーをかわす。
「サラ!」
 アンジェリーナの声に振り返り、サラはクァッフルを受け取った。ゴールは目の前だ。
 しかし、またしてもブラッジャーがサラに襲い掛かった。ゴールポストへクァッフルを投げようとした右手を打ち付けられ、クァッフルを取り落とす。
 落としたクァッフルの先を見る間も無かった。ブラッジャーが右から飛んでくる。それをかわし、サラはようやく気がついた。
 サラが避けたブラッジャーは、誰が打つ訳でもないのに、独りでにサラの方へと飛んでくる。
 ブラッジャーに何か仕掛けられているという事は明白だった。サラはブラッジャーを避け、上へ下へと飛び回る。そうしながらも、何度かブラッジャーに叩き付けられた。最早、試合どころではなかった。どういう訳か、フレッドとジョージもやって来ない。
 スリザリンのビーターは、仕事が無いのでディフェンスに参加していた。当然、五対二で勝てる筈も無い。点差はどんどん開いていった。

 やっとマダム・フーチのホイッスルが鳴り響き、サラはブラッジャーをどうにか避けつつ、フラフラと地面へ降下して行った。
 着陸し、サラは右手で箒を持とうとして取り落とした。左手で拾いなおし、箒に縋るようにして立つ。誰かが横に降り立った。
「サラ、大丈夫?」
 ケイティだった。サラは息を切らしながら頷く。
「歩ける?」
「ええ……問題無いわ」
 今度は何とか声が出た。
 左手で箒に縋り、皆の集まっている方へと歩いていく。サラとケイティが辿り着くと、ウッドがフレッドとジョージに詰問している所だった。
「ボロ負けしてるんだぞ。フレッド、ジョージ、サラがブラッジャーに邪魔されてゴールを決められなかったんだ。何故かブラッジャーがサラに付き纏っている。一体、何処にいたんだ?」
「オリバー、俺達、その六メートルぐらい上の方にいた。もう一つのブラッジャーがハリーを殺そうとするのを食い止めてたんだ」
 ジョージは腹立たしげに言った。
「誰かが細工したんだ……ハリーの方も、サラの方も。
こっちも、ハリーに付き纏って離れない。ゲームが始まってからずっと、ハリー以外は狙わないんだ。
スリザリンの奴ら、ブラッジャーに何か仕掛けたに違いない」
「でも、最後に練習した後、ブラッジャーはマダム・フーチの部屋に、鍵を掛けてずっと仕舞ったままだった筈だ。練習の時は何もおかしな所は無かったし……」
 ハリーは、マダム・フーチがこちらへ歩いてくるのに気がついた。その肩越しには、スリザリン・チームが自分の方を指差して野次っているのが見える。サラは左手で箒に縋り、視線を落とし、肩で荒く息をしていた。
「聞いてくれ」
 ハリーは意を決し、言った。
「君達二人がずっと僕の周りを飛びまわっていたんじゃ、向こうから僕の方に飛び込んでくれない限り、スニッチを捕まえるのは無理だよ。
だから、二人共サラの方についてくれ。サラの方は寧ろ、誰か打ち返す人がいないと試合が出来ない。もう一つの狂ったブラッジャーは僕に任せてくれ」
「そんな、駄目よ!」
 サラが真っ先に抗議の声を上げた。
 フレッドも賛同する。
「バカ言うな。頭を吹っ飛ばされるぞ」
「私は大丈夫よ。何とか試合に加わるわ。そりゃ、オフェンスは難しいかもしれないけど、でもディフェンスには好都合よ。ブラッジャーが付いた選手が突っ込んで来れば、スリザリンの選手も逃げ出すだろうし……」
「それは箒に縋らず、一人でまともに立ってから言ってよ。
二手も駄目だよ。スニッチを捕まえるには、周りに人がいたら駄目なんだ。フレッドとジョージは、二人でサラを守っている方がいい」
 サラは背筋を伸ばして立とうとしたが、ふらつき、隣にいたアンジェリーナの腕を掴んだ。
「さっき、頭を強打してたから……他にも、腕とか肩とか……ブラッジャーの調査を依頼した方がいいよ」
「今中止したら、没収試合になる!」
 ハリーがいきり立って叫んだ。
「たかが狂ったブラッジャー一個の所為で、スリザリンに負けられるか!!
オリバー、さあ、僕をほっとくように、あの二人に言ってくれ!」
「オリバー、全て君の所為だぞ。『スニッチを掴め。然らずんば死あるのみ』――そんな馬鹿な事をハリーに言うからだ!!」
 ジョージが怒って叫んだところへ、マダム・フーチがやって来た。
「試合再開出来るの?」
 ウッドはハリーに目をやった。
 ハリーは決然とした表情だった。
「よし……フレッド、ジョージ。ハリーの言った事を聞いただろう。ハリーをほっとけ。サラに付くんだ。あっちのブラッジャーは彼一人に任せろ」

 雨はますますその威力を増していた。
 フレッドとジョージは棍棒を手に、サラの周りを飛び回る。打ち返したブラッジャーは、ハリーの時よりも周囲の選手が近いので、相手へ当たってから返って来た。
 ハリーはブラッジャーを避け、試合の数メートル上空を飛びまわった。ドラコはそれを見て鼻で笑う。サラの方へウィーズリーの双子が行き、そちらはもう問題無さそうに見えた。
「バレエの練習かい? ポッター」
 憎らしいドラコの声に、ハリーは振り返り、そして目にした。
 金色のスニッチだ。ドラコの左耳の僅か上を漂っている。
 捕まえたいが、ドラコが今にも気づいてしまうかも知れない。悶々と睨み付けていると、突如、右の肘に激痛が走った。ブラッジャーが強打したのだ。ブラッジャーは猶も襲い来る。
 その時、観衆から悲鳴が上がった。もう一つのブラッジャーが、サラを強打したのだ。サラは左手でかろうじて箒に掴まっている状態だった。
 ハリーは迷わず、余所見をするドラコの方へ急降下していった。ドラコはハリーの突進に気づき、大きく目を見開いた。ハリーが襲ってくると思ったのだろう。怖気つき、ハリーの行く手を避けて疾走した。
 ハリーは足で箒をしっかりと挟み、左手を伸ばし激しく空を掻いた――指先が、冷たいスニッチに触れた。ハリーはしっかりとそれを握り締める。
 そしてそのまま地面へと突っ込み、スニッチをしっかりと握り締めたまま、意識は手放した。

 歓声と悲鳴が入り混じる中、試合終了のホイッスルが鳴り響く。しかし次の瞬間、悲鳴の数が更に増えた。
 サラの左手を、ブラッジャーが打ち付けたのだ。
 選手も観衆もハリーの方へ気を取られていた、一瞬の出来事だった。
 冷たい雨が打ちつける中、サラは地面へ到達する前に気を失った。最後に見たのは、こちらへ真っ直ぐ飛んでくる緑色だった。





 暗闇の中、小さな影が果物籠を手に階段を降りていた。顔は分からない。
 冷たい声、何か思い物を引きずる音。いつもの夢だ。
 小さな影は、そんな物聞こえぬかのように階段を降りて行く。確実に、音の方へと向かっていた。
 駄目だ。
 その先へ行ってはいけない。
 帰って。来てはいけない。
 危険だ。
 来てはいけない。来なくていい。見舞いなどいらない――





 サラはベッドに寝かされていた。
 室内には、独特の薬品の匂いが漂っている。部屋は薄暗く、窓には雨が打ち付けていた。
「……目が覚めた?」
 隣から声がして、サラはぼんやりとそちらへ首を動かした。
 一メートル程間隔を空けて置かれた隣のベッドに、ハリーが横たわっていた。何処か痛むのか、汗を掻き、表情を歪ませている。
「医務室だよ。君、試合終了直後に箒から叩き落されたんだって。僕も気を失ってたから、皆に聞いたんだけど……」
「ハリー、大丈夫? 何処か痛むの?」
「腕がね。骨を再生中」
 ハリーは傍らの棚に置かれた薬とゴブレットを視線で示して言った。
 サラは眉を顰めた。ただの骨折にしては、言い方が妙だ。
「再生? 如何いう事?」
「……例の能無しがね」
 ハリーは恨みを込めてそれだけ言った。たった一言でも、サラは何があったのか想像できた。
 ハリーは痛みに呻き声を上げ、続ける。
「サラも骨折してたみたいだよ。右の腕と肩。骨折だから、怪我は直ぐに治ったけど。他に痛い所は無い?」
「私は平気よ。
痛むでしょう。喋らない方がいいわ」
「いや、喋ってた方が気が紛れるんだ。皆が見舞いに来てくれてたんだけど、マダム・ポンフリーが数時間前に追い返しちゃって……」
 そう言って、ハリーは力無く笑った。

 見舞いという言葉で、サラは先ほどの夢を思い出し、勢い良く身体を起こした。
「そうよ、お見舞い! 私、またあの夢を見たの。今夜だわ。今夜、また犠牲者が出る!」
 ハリーは痛みも忘れ、驚きに目を見開いた。
「……今夜? じゃあ、あの夢はやっぱり予知夢だったの? どうして、そんな事まで分かるの?」
「分からない……。でも、そうなの。確かなのよ。今夜だわ。被害者は、私達のお見舞いに来るのよ。
果物籠を持ってた。小さな影だったわ。私と同じぐらいだと思ったけど……」
 見舞いに来る小柄な者。
 サラに思い当たる人物は、一人しかいなかった。
「……アリスだわ」
 サラは小さな声で呟いた。
「アリスしかいないわ。スリザリンの継承者は、混血も襲うの? お母さんは魔女なのに……。
アリスが危険だわ。私、行かなきゃ!!」
 サラはベッドを飛び降りた。裸足なのも構わず、部屋を出ようとする。ハリーは慌てて身体を起こし、左手でサラの腕を掴んだ。
「駄目だよ、サラは寝ていなくちゃ! それに、どうやって説明するつもりだい? 夢で見たから、危険だって……」
「アリスならきっと分かってくれるわ。だって、何か言わなきゃアリスがここへ来ちゃう! ミセス・ノリスと同じになってしまうのよ!!」
「落ち着いて! サラ、君、混乱してるんだ。その夢が確かだって証拠も無い。それに、もう寮の門限を過ぎてるよ。アリスが来る筈無い」
「ただの夢じゃないのよ! それじゃ、ハリーはアリスを見殺しにしろって言うの!?」
「誰もそんな事言ってない!!」
 ハリーの怒鳴り声に、サラはピタリと押し黙った。
「サラ。君には休息が必要なんだ。
今日の試合のブラッジャーだって、サラならもっと避ける事が出来た筈だ。本当なら、ここじゃなくてグリフィンドール寮で寝ていた筈なんだ。
君は、あまりにも夢を気にしすぎてる」
「……」





 いつしか、ハリーは眠ってしまった。
 ハリーの言う通り、サラは夢を気にし過ぎているのかもしれない。確かに、ミセス・ノリスの事は現実となった。だが、それだけでは偶然の可能性が全く無いとは言い切れない。
 それに、夢という物は心配事を表したりもする。「秘密の部屋」や「スリザリンの継承者」の話を聞き、マグル出身者が狙われると知った。
 だから、アリスを心配しているのかもしれない。母親は魔女であっても、父親はマグルだから。
 家族内での、唯一の味方であり、大切な妹だから。だから、ハーマイオニーよりもアリスが夢に出てきたのかもしれない。

 そうは思っても、やはり不安は消えなかった。
 もし、夢が本当に未来の事だったら? もし、アリスが夜中に寮を抜け出して来たら?
 予知夢だという確固たる証拠も無いが、予知夢ではないという確固たる証拠も無い。
 せめて、ふくろう便を出せたら。エフィーがこの場にいれば、アリス宛に警告の手紙を出せるのに。
――警告……。
 ふと、ドビーが脳裏に浮かんだ。
 自分にも屋敷僕妖精がいれば、アリスの下へと行かせられるのに。
 だが、ドビーはマルフォイ家に仕える屋敷僕妖精だ。自分の呼び出しに答える筈が無い。
「私の僕。ここへ」
 自棄になって言った言葉は、空しく医務室に響くだけだった。当然、何かが室内に現れた様子も無い。
 やはり、何も方法は無いのだ。
 サラは溜め息を吐き、寝返りを打った――そして、硬直した。
 目の前には、目玉の大きな、襤褸を腰布のように纏ったモノがいた。サラは目を瞬かせる。
「え……ドビー?」
「そのような名前ではありません。ご主人様がお呼びになった」
「嘘……」
 サラはまじまじとその屋敷僕妖精を見つめた。
 全く見覚えは無かった。祖母に仕えていたのだろうか。それとも、祖母が亡くなる前、ゴドリックの谷にいた頃に一緒だったのだろうか。
「……ハリーも、貴方の主だったりする?」
「そのような名前は一族におりません。ご主人様は、一体何をお申し付けでしょう?」
「そうだったわ」
 サラはハッとした。
 今は、一刻を争うのだ。この屋敷僕妖精がサラとどう関係あろうと、今尋ねる事ではない。言いつけられるならば都合が良い。利用するほか無い。
「スリザリン寮に、アリス・モリイって女の子がいる筈よ。寝室には名札がある筈だし、日本人だから顔を見れば分かると思うわ。一年生よ。
彼女に、伝言を伝えて欲しいの。――夜、決して寮を出ないように、って。貴女が第二の犠牲者になるかもしれないから、って」
「了解しました」
 屋敷僕妖精は床に手を着いて深く叩頭すると、パチンと指を鳴らしてその場から消え去った。

 何処かの屋敷僕妖精が姿を消し、サラはふーっと深く息を吐いた。これで、取りあえずは安心だ。アリスが警告を聞いてくれれば、夢は偽りとなる。
 雨はいつの間にか止んでいた。ハリーの荒い息遣いだけが聞こえている。
 その息遣いが途切れ、突然、ハリーが叫んだ。
「やめろ!!」
 何事かとサラはそちらを振り返る。そして、ハリーの額の汗を拭う者がいる事に気がついた。
「ドビー!」
 サラとハリーの声が重なった。ドビーのテニスボールほどの大きさの目から、一筋の涙が流れた。
「ハリー・ポッターとサラ・シャノンは、学校に戻ってきてしまった。
ドビーめが、お二方に何べんも何べんも警告したのに。ああ、何故あなた方はドビーの申し上げた事をお聞き入れにならなかったのですか? 汽車に乗り遅れた時、何故にお戻りにならなかったのですか?」
 ハリーは身体を起こし、ドビーの手を押しのけた。
「何故ここに着たんだい? それに、どうして僕が汽車に乗り遅れた事を知ってるの?」
「分かりきった事だわ。……こいつが私達を閉め出したからよ!!」
 サラはベッドの上に立ち上がった。今にもドビーに掴みかからんばかりだ。
「仰る通りでございます。
ドビーめは隠れて、ハリー・ポッターとサラ・シャノンを待ち構えておりました。そして入り口を塞ぎました。ですから、ドビーは後で、自分の手にアイロンをかけなければなりませんでした――」
 ドビーは包帯を巻いた十本の長い指を二人に見せた。サラは、同情も何も無い冷ややかな目でそれを眺めていた。
「――でも、ドビーはそんな事は気にしませんでした。これでハリー・ポッターとサラ・シャノンは安全だと思ったからです。お二方が別の方法で学校へ行くなんて、ドビーめは夢にも思いませんでした!
ドビーめはハリー・ポッターとサラ・シャノンがホグワーツに戻ったと聞いた時、あんまり驚いたので、ご主人様の夕食を焦がしてしまったのです! あんなに酷く鞭打たれたのは、初めてでございました……」
「そうね……手にアイロンをかける必要は無かったわ」
 サラは何処までも冷たい声で言った。
「だって、私がこの場で貴方に思い知らせてやるもの!」
 サラはベッドを飛び降り、ハリーの向こう側にいるドビーへと掴みかかった。
 ハリーは咄嗟に左手でサラを押さえ、肩を間に入れる。だが、ハリーもドビーへの怒りは同じだった。
「君の所為で、僕達三人、対抗処分になる所だったんだ。
ドビー、僕の骨が生えてこない内に、とっとと出て行った方がいい。じゃないと、君を絞め殺してしまうかもしれない」
「だったら、退いてちょうだい! 私が絞め殺す!!」
 ドビーは弱々しく微笑んだ。
「ドビーめは、殺すという脅しには慣れっこでございます。お屋敷では一日五回も脅されます」
「脅しじゃないわ!」
「サラ、駄目だよ。……可哀想だ」
 ハリーは、ドビーが自分が来ている枕カバーで鼻をかむのを見て言った。その様子は、あまりにも哀れだった。
 サラは驚いてハリーを見た。
「可哀想? 可哀想ですって!?
分かってる? ハリー。こいつは、私達をホグワーツから追い出そうとしたのよ!!」
「分かってるよ。でも、怒りを抑えてくれ。それに、大声を出さないで。マダム・ポンフリーが来ちゃう」
 サラはふいっと背中を向け、自分のベッドに戻っていった。

 ハリーに聞かれ、ドビーは自分の身分について説明をした。
 そして、信じられないような事を言ってのけた。
「――ハリー・ポッターとサラ・シャノンは、何としても家に帰らなければならない。
ドビーめは考えました。ドビーのブラッジャーで、そうさせる事が出来ると……」
「君のブラッジャー?」
 ハリーは、ドビーへの哀れみによって消えていた怒りが、再びこみ上げてきた。
「一体どういう意味? 君のブラッジャーって? 君が、ブラッジャーで僕達を殺そうとしたの?」
 サラは最早、言葉も出なかった。
 殺そうとした。ドラコが。
 ドラコが、自分達を殺そうとした。
 ただそれだけが、頭の中でぐるぐると回っていた。ドビーに掴みかかる気さえ起こらなかった。
「殺すのではありません。滅相も無い!
ドビーめは、ハリー・ポッターとサラ・シャノンの命をお助けしたいのです! ここに留まるより、大怪我をして家に送り返される方が良いのでございます! ドビーめは、お二方が家に送り返される程度に怪我をするようにしたかったのです!」
「その程度の怪我って言いたい訳? 僕らがバラバラになって家に送り返されるようにしたかったのは、一体何故なのか、話せないの?」
「嗚呼、ハリー・ポッターが、お分かりくだされば良いのに!」
 ドビーはまたしても、自分がハリーとサラをいかに大切に思っているかを語りだした。
 ボロボロの枕カバーに涙を流しながら、自分達のような屋敷僕妖精がいかに酷い扱いを受けたかを話す。
「――でも、あなた方が『名前を呼んではいけないあの人』に打ち勝ってからというもの、私共のような者にとって、生活は全体によくなったのでございます。
ハリー・ポッターとサラ・シャノンが生き残った。闇の帝王の力は打ち砕かれた。
それは新しい夜明けでございました。暗闇の日に終わりは無いと思っていた私共にとって、ハリー・ポッターとサラ・シャノンは希望の道標のように輝いたのでございます……。
それなのに、ホグワーツで恐ろしい事が起きようとしている。
もう起こっているのかもしれません。ですから、ドビーめはハリー・ポッターとサラ・シャノンをここに留まらせる訳にはいかないのです。歴史が繰り返されようとしているのですから。
またしても、『秘密の部屋』が開かれたのですから――」
「何ですって!?」
 ドビーはハッと恐怖で凍りつき、ハリーのベッドの脇机にある水差しを掴み、自分の頭に打ち付け、ひっくり返って見えなくなった。
 「ドビーは悪い子、とっても悪い子……」とぶつぶつ呟きながら、ハリーのベッドの上に這い戻ってくる。
 サラは身を乗り出し、尋ねた。
「それじゃあ……貴方が私達を守ろうとした、って話は真実だったのね? 嘘偽りじゃなかったのね? 貴方の主に差し向けられ、私達を退学にしようとしていた訳じゃなかったのね……?」
「ご主人様はドビーめの行いを知りません。だから、ドビーめは自分自身にお仕置きをせねばならないのです」
 サラは、熱い物が込み上げてくるのを感じ、顔を伏せた。

 それでは、単なるサラの勘違いだったのだ。ドラコが、ハリーをも守ろうとする筈が無い。
 ドラコは、サラを追い出そうとなどしていなかった。
 サラを嫌ってなどいなかった。
 サラは初めて、嬉しい時も涙が流れるという事を知った。
 『部屋』の事など、もうどうでも良かった。ハリーとドビーの会話も、耳に入っていなかった。
 サラは、寝ている間も首にかけたままだったネックレスを握り締めた。
――良かった……。
 声に出さずに呟いた。声に出すと、涙声になってしまいそうだったのだ。

 ドビーは、しつこくハリーとサラに「帰らなくてはいけない」と繰り返す。
 しかし、ハッと気がついたように口を閉ざした。サラにもその理由が分かった。廊下を駆けてくる足音がする。この気配は、ダンブルドアとマクゴナガルの物だ。
「ドビーは行かなければ!」
 バチンと大きな音を立て、ドビーは先ほどの屋敷僕妖精と同じようにその場から消え去った。
 サラは慌てて布団に入り、狸寝入りをする。隣のベッドで、ハリーも同じように慌てて布団に入るのが分かった。
 間一髪、ダンブルドアが後ろ向きで入ってきた。石像のような物を運んでいる。足の方を持って、マクゴナガルも入ってきた。二人は持っていた物を、空いているベッドに慎重に降ろした。
「マダム・ポンフリーを」
 ダンブルドアが囁いた。
 マクゴナガルが医務室を出て行くのが分かった。
 間も無くして、マクゴナガルはマダム・ポンフリーと共に帰ってきた。
「何があったのですか?」
「また襲われたのじゃ。ミネルバがこの子を会談の所で見つけてのう」
「この子の傍に、葡萄が一房落ちていました。多分、この子はこっそりポッターとシャノンのお見舞いに来ようとしたのでしょう」
 サラはさぁーっと血の気が引くのを感じた。まさか……。
 恐る恐る、僅かに身を起こして向こうのベッドを見ようとした。

 第二の犠牲者は、アリスではなく、コリン・クリービーだった。


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2007/08/19