グリフィンドール談話室へと帰ってきたサラは、ハリーの手にある物を見て硬直した。
 ロンがこちらへ気づき、笑顔で手を振る。サラは首もとのネックレスをギュッと握り、恐る恐るそちらへ近付いていった。
「ただいま、サラ。アリスの話って、何だった?」
 サラは答えず、ハリーの手元をただ見つめる。
 それは黒い表紙の日記だった。小さな薄い、古びた本。水に濡れて角が破れかけ、凹凸が出来ているが……間違いない。
 ハリーはその日記を、ただひたすらにパラパラと捲っていた。どのページも、真っ白だ。
「これ、マートルのトイレに落ちてたんだ。だれかが捨てたみたい。こんな物持ってたって、どうしようもないって僕は言ったのに」
「どうして、五十年も前の日記が落ちてたのかが不思議なんだ。誰が、どうして、この日記を捨てたんだろう……」
「そんなの、計り知れないね」
 ロンは肩を竦めて言った。
 ハリーはパラパラと白紙のページを捲る。その手が、一ページ目で止まった。文字が書かれているのは、そのページだけなのだ。
 そこには、日記の所有者の名前が書かれていた。――T・M・リドル、と。
 恐怖の日々の始まりだった。





No.52





 サラは飛び起き、枕の横に置いておいた杖を握り締めた。
 窓の横に寄りかかった少年は、クスクスと笑う。
「相変わらず、反応が早いね。来た途端に気づくなんて」
 サラは何も言わず、ただ杖を彼に向ける。その顔は、睡眠不足によって青白くなっていた。
 医務室で貰った悪夢を見ないようにする薬は未だに飲んでいるし、ハーマイオニーも退院した。ジャスティンとニック以来、誰も襲われていない。例え他の生徒から疑われていようと、ハリー達という仲間がいる。
 何も恐れるものは無かった――彼が度々現れたりしなければ。
「どうやら、お友達に余計な事は何も言ってないみたいだね。君が賢い子で良かったよ。若しも余計な事を言えば、君のお友達がどうなるか、理解出来ているみたいだからね」
 リドルはそう言って愉快気に笑う。
 彼の姿は青白く透き通っていたが、確かにそこにいるし声も聞こえる。クリスマスの時よりも、明らかに力をつけていた。
「別に、眠っていてもいいんだよ? 態々起きて迎えなくても、君のお友達を殺したりはしないさ。――それとも、彼女が僕に殺される心当たりでもあるのかい?」
「……別に。そういう訳じゃないわ」
 サラは平静を装って答えた。
 ハーマイオニーには、リドルの名前は言っていない。だが、クリスマスの日に何があったのかを話してしまった。
 そして、彼女はマグル出身。
 リドルが次のターゲットにしようとしても、不思議ではない。
「本当に、君って嘘が下手だね」
 氷のように冷たい感覚がサラの背を襲った。
「君のおばあさんとは違って、少し感情的になりやすいところがあるからね。もっと落ち着いて行動しなきゃ。それで妹を挑発したりするから、昔の事を皆の前で暴露されるんだろう」
「……」
「僕はいずれ、力を取り戻す。その際、君には僕の右腕になってもらおうと思っているからね。それなのに、そんなに直情的じゃ困るよ」
「私は貴方の仲間になんかならない!!」
「君はこちら側へ来るべき人間なんだ。そちらへいては、何れ一人になる」
 サラは顔を顰めた。その言葉は、昨年も聞いた言葉だ。
「強者が弱者と共存するなんて、不可能なんだ。君も、日本で嫌と言うほど思い知らされただろう? 一人にはなりたくないだろう?」
「別に私は一人ぼっちなんかじゃないわ!! ハリーだっている! ハーマイオニーだっている! ロンだっている! ドラコだっている! ビンセントだって、グレゴリーだって! 貴方がどんな寂しい学校生活を送ってたのか知らないけど、一緒にしないで頂戴!!」
 リドルは何か言おうと口を開きかけたが、止める。そして、すぅっと窓に吸い込まれるようにして消えていった。
 サラは右手で杖を、左手でネックレスを握り締め、口を真一文字に結び、窓へと近付いていく。
 先ほどまでリドルのいた所に立ったその時、背後から声が掛かった。
「サラ……? 誰かいるの……?」
 ハーマイオニーは眠そうな声で尋ね、カーテンを少し開けて顔を覗かせた。
 サラは表情に笑顔を貼り付ける。
「昨夜薬を飲み忘れたら、また例の夢を見ちゃって。起こしてしまって、ごめんなさい」
「嘘」
 サラはパッと表情を強張らせた。
 ハーマイオニーはベッドから起き上がり、靴を履いてその場に立つ。
「ねえ、一体何に悩んでいるの? ここ最近、襲撃事件は無いのに。貴女達を敵視する目も大分減ってきたじゃない。
若しかして、クリスマスの日に会った犯人に、まだ脅されているの? さっきまで、その人物が部屋にいたの? 貴女が寝不足なのは、それで――」
「やめて!!」
 サラは耳を塞ぎ、叫んだ。声が震える。
「やめて……それ以上、言わないで……聞き出そうとしないで……」
 そして顔を上げ、今にも泣き出しそうな目でハーマイオニーを見つめた。
「お願い……死なないで……」

 沈黙がその場を支配した。
 シリアスまっしぐらな空気の中、ハーマイオニーはサラの後ろにある窓の外にこの場にそぐわぬ姿を見かけ、思わず「あっ」と声を上げた。
 サラはハーマイオニーの言葉につられ、後ろを振り返る。そして、目をパチクリさせた。
 クィディッチ競技場の方へと飛んでいく姿があった。二つに結んだ長い黒髪が、朝日に輝いている。
「あれって……エリよね?」
 サラは素早く窓を開け、外の冷たい空気の中へと顔を突き出した。
「エリ!」
 サラの呼び止める声は、当然、エリには聞こえなかった。エリは森の向こうへと飛んで行き、とうとう見えなくなった。
 今日は二月十四日。バレンタインだ。エリはチョコレートケーキを作っていた。当然、日本の彼氏へプレゼントするのだろう。
 エリが授業をサボろうが、知った事ではない。サラには関係の無い事だ。
 だが、サラはエリを行かせたくなかった。何故、そのように思うのか自分でもさっぱり分からなかった。
 ただ、エリは傷つく事になる。そんな気がしてならなかったのだ。





 薬草学の授業に、当然、エリの姿は無かった。サラは、エリと同室のハッフルパフ生二人がスプラウトに、エリは風邪をひいて寮で寝ていると話しているのを聞いた。
 エリは休んで正解だったかもしれない。
 その日、どの授業もまともな授業にはならなかった。ロックハートが呼んだ小人が教室に乱入し、バレンタイン・カードを配って回っていたのだ。
 本日最後の授業である呪文学の授業を終えると、ハーマイオニーはくるりとサラに向き直った。
「サラはこの後、予定があるわよね。私達、いつも通り図書館にいるわ」
「予定? 何があるって言うんだ?」
 ロンが少し不機嫌そうに尋ねる。サラだけ勉強を抜け出すのが、気に入らないのだろう。
 ハリーは教科書を鞄にしまいながら、ロン以上に不機嫌な様子で言った。小人に引き倒されて皆の前で歌われては、無理も無いだろう。
「決まってるだろう。マルフォイの所だよ。ロックハートの小人に頼んでなかったから、手渡しするって事なんじゃない? まあ、それが正解だよ」
「……ハリー。あのさ、確かにさっきのは嫌だったろうけど、ジニーは知らなかったんだ。まさか、あんな風に伝えられるなんて――」
「僕は別に、ジニーには怒ってないよ。全てはロックハートが悪いんだ。よくも、こんなしょうも無い事を思いつくもんだよ……」
 そしてハリーは、思いついたようにロンを振り返った。
「そうだ。君の兄さん達、普段授業後って何処にいるのかな」
「僕の兄さんって……」
「フレッドとジョージだよ。彼らに、ロックハートへの贈物を頼めないかな。小人で皆の前で贈れば、ロックハートも受けとらざるを得ないと思うんだ」
 ハリーの表情は生き生きと輝いていた。
 サラは何も聞かなかった事にしておこうと目を逸らし、テキパキと荷物を片付ける。
「それじゃ……私、行って来るわ」
「ええ。頑張ってね!」
「あ。待って、サラ!」
 ハリーに呼び止められ、サラは振り返らずに立ち止まる。あの笑顔を見るのは、心臓に悪い。
 ハリーの声は弾んでいた。
「サラ、チョコを作る練習で沢山失敗してたよね? あの失敗作って、まだ持ってる?」
「あげる物以外なら……捨てたわ……」
「そっか……。
じゃあね。頑張ってね」
「ええ。ありがとう」
 サラは、そそくさとその場を立ち去った。
 立ち去り際、ハリーの声が耳に入った。
「残念だなぁ……。あれもロックハートへの贈物に入れたかったのに……」

 呪文学の教室から遠く離れた場所へ来て、サラは立ち止まり溜め息を吐いた。
 確かに、あげる物以外は全て捨ててしまった。だが、それは失敗作とイコールではない。
 結局、失敗作しか出来なかったのだ。
 サラの料理の腕は、散々なものだった。ただ溶かして固めるだけでも、何故かいびつな形になる。ナッツ類を混ぜてみれば、一箇所に固まってしまう。サラが作ろうとした物など、到底イメージ通りには出来なかった。
 一方、エリは意外な事になかなか器用だった。基本的な事は直ぐに出来るようになり、二月に入った頃には自分で色々とアレンジを重ねていた。
 鞄の中から、小さな小包を取り出す。外装こそアリスに包んでもらった為綺麗にしてあるものの、中身は酷い。それを渡すなんて、出来る筈が無かった。
「――サラ?」
 サラはぎくりと顔を上げた。
 ドラコが一人でこちらへ歩いてくる。
「やっぱりサラだ。探してたんだ。アリスに言われて――何か、渡したい物があるんだって? それ?」
 サラは慌てて包みを隠そうとしたが、遅かった。
 包みに添えられたメッセージカードには、はっきりと「ドラコへ」と書かれている。言い訳のしようが無かった。
 サラは突きつけるようにして、チョコレートの小包を差し出した。
「……日本には、バレンタインにチョコを贈る習慣があるの。アリスが、やろうって言うから。最近じゃ、友チョコって言うのが流行ってるわ。男女問わず、友達同士でチョコを贈り合うの」
 男子と贈りあっている光景は目にした事が無いが、サラはドラコと目を合わさずにそう言った。
 ドラコは気圧されたように頷きながら、小包を受け取る。アリスから聞いた話による期待とは違い、見目明らかに落ち込んでいたが、サラは気がつかなかった。
「……ごめんなさい。それ、失敗作よ」
「え?」
「失敗作しか出来なかったの。だから……その……パーキンソンから貰った物には劣っているだろうけど……」
 サラは目を泳がせていたが、正面から忍び笑いが聞こえてそちらへ目を向けた。
「サラにも、魔法薬以外に苦手な事があるんだな。ホッとしたよ」
 そう言って、ドラコは笑い飛ばす。完璧過ぎると、かえって遠い存在みたいで寂しい。これぐらいで丁度良いのだと。
 困惑していたサラの顔にも、笑みが漏れた。

 一人の女子生徒が、廊下の角から二人の様子を伺っていた。
――裏切り者。
 これで、決定的だ。彼女の護りは、崩れ落ちる。寧ろ、敵を増やすだろう。
 大した能力も無いのに。
 一年生のみで二年生に護られた者に歯向かうのは、無理がある。ましてや、その二年生は学年首席の有名人やムードメーカー、学校理事の息子やスリザリン二年生のリーダー格だ。
 だが、その内の一人が彼女から離れ、寧ろ敵視するようになったら。
 女子生徒は、クスクスと含み笑いをした。
 周囲の目を誤魔化すのも、ここまでだ。万人から好かれるなんて、絶対にありえない事を思い知らせてやる。





 日が沈む頃、箒小屋の前にエリは降り立った。無断で借りた箒を片付けると、とぼとぼと城へ向かって歩き出す。
 箒でホグズミードまで行き、三本の箒の暖炉を借りて陰山寺へ。そこから再び箒で地元へと帰った。
 ちょうど、下校時刻だった。箒は自宅の玄関先に置き、エリは校門の所から校内を覗いていた。部活の無い者や受検を控えた中学三年生が通り過ぎていく。来訪者のエリを物珍しそうに見る者もあった。
 そこへ、野球部の集団が校舎から出てきた。ユニフォームを着ているので、直ぐに分かる。どうやら外を走るらしく、集団はこちらへ近付いてくる。そしてその中に、俊哉の姿もあった。
 エリは声を掛けようと一歩踏み出したが、次に出てきた女子の集団からの声に足を止めた。
「ほうら! 早く行かないと、それ持って走ってたら溶けちゃうよ!」
「成瀬くーん! ちょっとこっち〜」
 友達に押し出され、前に出てきたのは留美だった。
 ……溶ける? 何の話だろう。
 俊哉の友達や先輩も、一斉にはやし立てる。
「おおっ。愛の告白?」
「いいなぁ。成瀬は可愛い彼女がいて」
 自分は、彼らの前に姿を見せていない。
「俺らにもちょっとは分けろよー」
「留美からのは駄目ですよ」
「うわ、生意気ー」
 留美? 留美が彼女?
 何が何やら、さっぱり分からない。
 エリが混乱している間にも、目の前で俊哉は留美から小さな袋を受け取っていた。義理チョコといった雰囲気ではない。
「あーあー、堂々と渡して。先生に見られてても知らねーぞ」
「俺、これ鞄にしまってきます」
 そう言って、俊哉は校舎へ戻ろうとする。エリは、慌てて門の陰から出た。
「俊哉!」
 俊哉は立ち止まって振り返り、目を見開いた。留美は気まずそうに目を逸らす。同じ小学校だった者達は唖然とし、エリと俊哉、そして留美を交互に見つめる。何も知らぬ者達は、目をパチクリさせていた。
「俊哉……? 如何いう事だよ……?」
 俊哉は黙ったまま、目を合わせようともしない。
「留美……!」
「……」
「……何しに来たんだよ」
 俊哉が口を開いた。しかし、やはり目を合わせようとしない。
「何って……今日、バレンタインだろ? だから、これ……」
 野球部の一人が、エリを指差し、仲間を見回した。
「え? 何、何? 元カノ?」
「しっ。バッカ。黙ってろ」
 俊哉は頷いた。
「ああ……元カノだよ」
「な……っ。『元』って何だよ!?」
「お前こそ、今更どういうつもりだよ? 俺達、とっくに自然消滅したじゃんか」
「俺はそんなつもり無い!」
「手紙も何も書かかず、帰って来ても大して会おうとしなかったのに?」
 留美が口を挟む。
「それなのに、彼女だったって言うの? ――エリ、俊哉の事なんて何とも思ってなかったじゃない! クリスマスプレゼントだって、俊哉からの物をあんなにあっさり交換したりして!」
「だって、留美は親友だから――」
「結局、その程度だったんだろ。連絡も取らず、ずっと会っても無いのに互いを思い続けるなんて、不可能なんだよ」
「だけど、俺は俊哉を――」
「俺は今、留美が好きなんだ」
 俊哉はきっぱりと言い放った。今、傍から見れば自分達がどう見えるのだろうか。
 恐らく、きっぱりと言い放つ俊哉はカッコイイと思われるだろう。そしてエリは、仲睦まじい二人の間を邪魔する厚かましい女だ。
「……」
 エリは俊哉の方へと歩み寄り、持ってきた箱を笑顔で差し出した。
「チョコムースケーキ。俺が作ったんだ。なかなか上手く出来たんだぜ。最後に、さ。皆で分けて食ってよ。折角作ったのに捨てるってのも、もったいないし」
 俊哉は、困惑したようにケーキの箱を見つめる。
「……受けとれねーよ」
「別に、深い意味は無いからさ。俺も、嫌なんだ。これを持ち帰ると、何だかそのまま引きずっちまう気がして」
「受けとれないっつってんだろ!」
 ドン、と押し返された。その反動で、エリの手から箱が滑り落ちる。
 中身こそ出なかったものの、潰れたのは明らかだった。
「あ……ごめん……」
 エリは苦笑する。
「いや、こっちこそ悪かったな。そうだよな。普通に考えりゃ、受けとりにくいもんな。悪ぃ」
 エリはしゃがみ込み、半分潰れた箱を拾い上げた。
 ……駄目だ。顔を上げられない。
「……エリ?」
「……バイバイ……っ」
 エリは俯いたまま背を向け、その場を駆け去った。





「今日は風邪で授業を休んでいた訳ではないのか」
「細かい事は気にすんなって。ちゃんと、寮の門限までには帰るしさ」
「当然だ」
 スネイプは眉間に皺を寄せながらも、道具の片づけを中断し、エリが座った前に紅茶を差し出す。
 真っ直ぐハッフルパフ寮へ帰るのは気まずかった。ハンナとスーザンには、今日何処へ行くかを話してあった。当然、どうだったか様子を聞こうとするだろう。
「今日の授業さ、どんなだった? いやー、残念だな〜。流行に遅れて風邪ひいちまったりしてさ。クィディッチの練習日じゃなかったのが幸いかなー」
 スネイプは何も言わず、真剣な顔でエリを見つめている。
「……な、何だ?」
「まだ熱が下がっていないのではないかね? 君が授業の事を聞くとは……」
「失礼な奴だな! へーん。どうせ、俺は馬鹿ですよーだ」
 口を尖らせ、エリは置かれた紅茶に口をつける。
「……まだミルクを入れとらんぞ」
「え」
 エリはピタリと飲む動作を止めた。
 エリはつい最近、紅茶を飲めるようになったばかりだ。飲む時はいつも、ミルクを大量に入れていた。
「ハハ……やっぱ、まだちょっとボーっとしてるみたいだな」
 エリは笑って誤魔化し、ミルクをいくつか手に取る。
 入れてはかき混ぜ、入れてはかき混ぜ、やがてエリは手を止め、スプーンを置いた。その音が地下牢教室に、コトンとやけに大きく響く。
「今日は、一年生の飛行訓練があったそうだ」
 エリは何も反応を見せない。
「授業後に片付け、確認したところ、学校の箒が一本足りなかったらしい」
「……」
 無言で半分ほど飲み干し、カップを皿の上に置く。
「ロックハートは、部屋にあった煙突飛行粉が一往復分ほど減っていると言っていた」
「そりゃ、あいつ、媚売れば誰でも部屋の中に入れるからな」
「……エリ、背中に煤が付いているぞ」
 エリはもぞもぞとコートを脱ぐ。生地が黒くて分かりにくいが、確かによく見れば煤まみれだった。
 エリは苦笑いする。
「ハハ……。ホグズミードで、脱いで叩くべきだったな。相変わらず、どうも煙突飛行は慣れねぇんだよなぁ……」

「何処へ行っていた?」
 スネイプの質問に、エリは表情を強張らせる。
 しかし、直ぐに乾いた笑いを漏らした。
「尋問ってか。始末書とか書くのかな。授業サボって学校抜け出したなんて、一体何点減点されるんだろうな」
「……」
 エリはおどけた調子で肩を竦める。
「ま、いいさ。クィディッチで次こそ勝つようにすればいいし。
俺、日本に行ってたんだ。
ほら、話した事あるだろ。彼氏がいるって。尤も、今じゃ過去形になっちまったけど」
「それは――」
 エリは声を出して笑い、スネイプの言葉を遮った。
「お笑いだよな。俺、一人で勘違いしてたんだ。俺達もう、自然消滅してたんだってよ。
今日、バレンタインだからさ。日本には、チョコを渡す習慣があるんだ。――俊哉には、留美が渡してた。俺の一番の親友が、俊哉の彼女になってたんだ」
「エリ……」
「同情なんかすんなよ。ただ俺が勘違いしてた、ってだけの話なんだから。
……薄々、気づいてたんだ」
 昨年のクリスマス休暇。留美は、エリを部屋へ入れなかった。その時の留美の様子で、大体の予想はついた。だが、エリはそれに気づかなかったふりをしたのだ。自分を騙した。
 だから、翌日も会いに行った。留美と言葉を交わす事で、親友だと再確認したかった。留美がエリを裏切るような真似をする筈が無い、と。すると、アリスと一緒に近くの公園へ行ったと言う。
 公園へ向かった。そこで聞いた言葉。もう、はっきりと認識せざるを得なかった。
 だがそれでも、エリはまだチャンスがあるかもしれないと思ったのだ。留美の様子では、多少の罪悪感があるようだった。つまりあの時点では、周囲も本人達も、俊哉の彼女はエリだと言う認識だったのだ。
 自分でも卑怯だったと思う。エリは、そこに付け込むような真似をしたのだ。態と気づかぬふりをし、留美とはずっと親友で、俊哉とはずっと恋人でい続けようとした。その居場所を失いたくなかった。
「俺は、裏切られたとかは思ってないんだ。ただ……その場に居場所が無くなった気がして。日本で初めて俺を認めてくれたのが、あいつらだったから。だから……寂しかったんだ」
 離れていても互いを想い合えている、大切な彼氏だと思っていた。離れていても通じ合える、大切な親友だと思っていた。
 だが、今日会った二人はまるで別人のようだった。
 遠く離れていた期間は、こんなにも大きな差を作り出した。
「俺にとって、二人は何だったんだろな……。若しかしたら俺、去年のサラみたいに一人になるのが嫌で、あいつらを利用していただけかもしれない。そんな風にまで思えてきてさ。そしたら、自分が凄く嫌になった」
 エリの笑顔は、今にも泣きそうだった。
「俺、もう修復不可能なんだって分かっても、チョコを渡そうとしたんだ。『それじゃ、これは友チョコで』って。皆で分けて食ってくれって。
そうする事で、これからもまだ変わらぬ関係でいようとしたんだ。また、夏休みに帰ったら三人で遊べるような、小学生の頃の関係を夢見てたんだ……」
 エリは天井を仰ぎ、肩を震わせて笑う。
 下を向くと、涙が零れ落ちそうだった。だから、わざとらしいほど明るい声で言った。
「でも、受けとってくれなかったぁ!
そりゃ、そうだよな。元カノからのチョコなんて、受けとれるかっての。ましてや、彼女や他の仲間の前でなんかさ。
大丈夫。俊哉なら、留美をきっと大切にしてくれるよ。留美なら、俊哉の事を一番に考えてくれる……」
 スネイプは自分の分も紅茶を淹れ、エリの正面の席に腰掛けた。
「……そのチョコと言うのが、それか」
 エリは一度ギュッと目を瞑り、それから顔を元に戻した。
 スネイプは、エリの傍らに置かれている半分潰れた箱を、その長く細い指で指していた。エリは笑顔で頷く。
 するとスネイプは、小皿とフォーク、包丁を持ち出してきた。エリは目をパチクリさせる。
「君の妹が話していた。ここ一ヶ月、姉妹三人で菓子作りに励んでいたそうだな。丁度、今日は研究が延び、夕飯を食べていない」
 エリは暫く呆気に取られたようにスネイプを見つめていたが、フッとその顔に笑みが漏れた。
「そう言や、俺もまだ食ってねぇや。じゃ、半分こなー」
 エリは包丁を手に取り、ケーキを真っ二つに切る。
 素早く、スネイプが形の整った方を杖を振って皿に乗せた。
「あーっ。魔法使うなんて、ずりぃぞ! そもそも、俺が作ったのに!!」
「普通は、作った本人が崩れた方を取るだろうが」
「え〜っ」
 エリは「ちぇー」と舌打ちしながらも、棚の一角からフォークを出す。
 同じ棚に、調合用の道具も並べられていた。寧ろ、道具棚に食器が混じっていると言った方がしっくり来る。
 フォークを手に、エリはどっかりと席に座った。半分になったケーキが乗った、切り開いた箱を自分の手元へ引き寄せる。
「いただきまーす!」
「足を閉じて座らんか。見っとも無い」
「母さんみたいな事を言うー」
 口を尖らせつつも、足を揃える。そしてやっと、ケーキにありついた。
「……意外と料理上手だな」
「『意外と』は余計だ。
……あれ? そう言やスネイプ、甘いもの好きだっけ?」
 スネイプは、何も言葉を返さなかった。


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2007/10/17