「こんな時間に、何処へ行くんだ?」
 談話室を横切り、何処かへ出かけようとするアリスに、ドラコは声をかけた。
 アリスは授業時のように、鞄を提げている。
 ここ最近、アリスは気がつけば一人で何処かへ出かけていた。帰ってくるのはいつも、六時ギリギリだ。
「ちょっとね、魔法薬学の教室に」
「忘れ物かい? 何にせよ、明日にした方がいいよ。また、六時頃まで帰ってこないつもりだろう? 今、城の中は危険だっていうのに」
「平気よ。スネイプ先生から許可は得ているわ。忘れ物じゃなくって、えーっと、何て言えばいいのかしら……研究って言うと大げさなんだけど、色々勉強してみてるの」
 アリスは未だに魔法が使えない。集団で取り囲まれれば、何も対抗する手段が無い。
 だが、最も身近な者達が敵となった今、サラやエリを盾にする事は難しい。自分でも対抗する術が必要だ。
 アリスの得意な物と言えば、魔法薬学だ。魔法薬の調合ならば、腕に自信がある。
 いざという時に使用できる薬を作って、持ち歩いておけば良い。非合法だって構わない。他に、身を守る手段が無いのだから。
 アリスが談話室を出て行こうとすると、ドラコが後からついて来た。当然、あとの二人も一緒に来る。
「僕達も一緒に行くよ。一人での行動は禁じられてるだろ? そうでなくても、確かに危険なんだ。心配だからね。
僕が一緒なら、スリザリンの継承者に狙われる事も無いだろう。僕は純血だから」
 一瞬、アリスは頷こうとした。
 しかし、思いとどまる。今、この鞄の中に入っている魔法薬の資料の中には、決して微笑ましいとは言えない物もある。
 ドラコが自分を心配してくれるのは嬉しい。嬉しいのだが……。
「……いいわ。大丈夫よ。だって、地下牢教室は直ぐそこだもの」
 ドラコの自分に対する印象を悪くしたくない。
 アリスの本性を知ったら、ドラコはどう思うだろうか。女子生徒達の話が正しかったのだ、と思ってしまうかもしれない。ドラコも、敵意に満ちた視線をアリスに向けるようになるかもしれない。
「遠慮するなって。僕も、君の事はサラから任されてるんだ。また前みたいな事になるといけないし――」
「結構よ」
 アリスはドラコの言葉を遮った。
「あたしだって、もうそんな子供じゃないの。ドラコだって、宿題とか色々自分のする事があるでしょう」
 アリスは棘々した口調で言うと、薄暗い石の廊下へと出て行った。

 壁に紛れた扉を閉じ、溜め息を吐く。
 どうして、あんな可愛げのない言い方をしてしまったのだろう。感情を露にするなんて、見っとも無い。
 本当は、嬉しかったのに。あの言葉さえドラコの口から出てこなければ。
 結局、彼がアリスを気にかけるのは、アリスがサラの妹だからでしかない。サラの妹でなければ、ドラコの傍にいる事さえ出来なかった。
 サラからドラコを奪おうという気にはなれなかった。既に、あの二人の想いは明白だ。パンジーのように自分の気持ちに素直に行動する度胸は、アリスには無い。
 再び溜め息を吐くと、アリスは教室へと歩き始めた。
 今は、自分の足で前に進む下準備をしなくてはいけない。





No.57





「ルーモス」
 ハリーの杖先に、小さな灯りが灯った。サラもそれに倣い、呪文を唱える。
 ハリー、ロン、サラ、ファングの三人と一匹は、禁じられた森にいた。暗闇の中、木々が風に吹かれ脅かすようにざわざわと音を立てる。
「いい考えだよ」
 灯りを放つ二人の杖を見て、ロンが言った。
「僕も点ければいいんだけど、でも、僕のは爆発したりするかもしれないし……」
 ハリーはロンの言葉を聞いている様子もなく、草むらを指差した。列からはぐれた蜘蛛が二匹、杖灯りから逃れるようにして、木の陰へと隠れていく。
「オーケー」
 ロンの声は引きつっている。
「いいよ。行こう」
 ハリーが先頭に立って歩を進める。ファングが直ぐ後に、軽い足取りで続く。ロンは慌てて、はぐれまいとついていく。
 サラはホグワーツ城に目をやる。大丈夫。彼は、この森に危険があると言っていた。ならば、他の危険はあるようだが、少なくとも彼自身が来る事は無いだろう。
 森の方へと視線を戻すと、サラもハリー達に続いて森の中へと入って行った。
 たった二匹だった蜘蛛は、他の仲間と合流して群れとなった。杖灯りに照らされる蜘蛛は、次第にその数を増やしていく。
 聞こえるのは、小枝の折れる音や、木の葉の擦れ合う音ばかり。ふくろうの声一つしない。二十分も歩けば、とうとう星空も生い茂る木々に覆い隠されてしまった。
 先頭のハリーが立ち止まった。蜘蛛の群れが、小道を外れたのだ。
 立ち止まり、サラは足元から視線を外し、改めて周囲を見渡す。まさに、一寸先は闇。昨年処罰で森に入ったときよりも、遥かに深くまで入ってきている事が分かった。杖灯りの照らされた所を外れれば、一切物を確認する事が出来ない。
「痛っ」
 ロンが小さな悲鳴を上げた。サラはパッと振り返り、杖先をロンの方へ向ける。
「どうしたの!?」
「ごめん。僕がロンの足を踏んだんだ。ごめんよ、ロン。
……どうする?」
「ここまで来てしまったんだから」
「そうね。今更よ」
 三人は顔を見合わせ頷き合うと、茂みの中へと入っていった。サラは杖を持たぬ方の手で後ろ髪をまとめ、服と上着の間に入れた。失敗した。髪は結んでくれば良かった。
 視界は先ほどまでより更に悪くなっていた。殆ど暗闇で何も見えない。サラの杖灯りに、ロンの踵が照らされている。ファングが歩調に合わせゆっくりと左右に振っている尾が、サラの右手の甲をくすぐった。

 やがて地面が下り坂になった頃、ファングが突然大きく吼えた。
 木霊するその声に、ハリー、ロン、サラは一斉に飛び上がった。
「なんだい?」
 ロンが大声をあげ、キョロキョロと辺りを見回しながら、ハリーの肘を掴む。
 サラは警戒心を募らせ、辺りの様子を伺った。何か、音が聞こえている。
「向こうで何かが動いている」
 ハリーが囁くような声で言った。
「しーっ……何か大きいものだ」
 右手の暗闇に、何やら大きなシルエットが浮かんでいた。木立の間を、枝を音を立てて折りながら進んでくる。
「もう駄目だ……」
 ロンが絶望的な声を出した。
「もう駄目、もう駄目、駄目――」
「黙りなさい、ロン!」
「君の声が聞こえてしまう」
「僕の声?」
 ロンの声は、今までのどの時よりも上ずっていた。
「とっくに聞こえてるよ。ファングの声が!」
 三人はその場に凍てついたように立ち竦んでいた。ファングの吼える声の中、サラはネックレスを握り締める。杖を掲げ、いつ相手が飛びかかっても良いように攻撃態勢をとる。
 しかし、影は襲い掛かってこない。低いゴロゴロと言う奇妙な音の末、急に静かになった。
「何をしているんだろう?」
「飛びかかる準備だろう」
「ねぇ……何か、妙な臭いがしない?」
「臭い? 毒ガスかい?」
 相手は一向に動きを見せない。
 サラは首を傾げる。何の臭いだろう。知っている筈だが、思い出せない。この森の中では、いやにそぐわない違和感のあるものだった。
「行っちゃったのかな?」
「さあ――」
 突然、右手にカッと閃光が走った。突然の眩い光に、反射的に手をかざし目を覆う。ファングはキャンと鳴いて逃げようとしたが、荊に絡まってしまい、尚更鳴くばかりだった。
「ハリー! サラ!」
 ロンが大声で叫んだ。先ほどまでのような怯えた声ではなかった。
「僕達の車だ!」
「えっ?」
 ハリーとサラの声が重なった。
 意気揚々と光の方へ向かうロンに、ハリーとサラは状況を飲み込めぬままについて行った。滑ったり転んだりしながら進むと、大して行かぬ内に開けた場所に出た。
 そこにあるのは、ウィーズリー氏の車だった。
 なるほど、先ほどの臭いが分かった。車の排気ガスの臭いだったのだ。
 車に乗客はいなかった。深い木の茂みが車を囲み、木の枝々は屋根のように重なり合っている。誰の手も加えられていない森の中、ヘッドライトの明かりがやけに強かった。
 ロンが呆気にとられた様子で車に近付くと、まるで主人に懐く犬のように車がすり寄ってきた。
「こいつ、ずっとここにいたんだ!」
 ロンは車の周りを歩きながら言った。声が弾んでいる。
「見てよ。森の中で野生化しちゃってる……」
 車は独りでに森の中を動き回っていたのか、傷や泥の汚れが至る所にあった。
 サラは杖を持つ手を下ろし、もう片方の手もネックレスを放す。ハリーは杖をローブの中に仕舞い込んだ。ファングだけはこの車が気に入らないらしく、ハリーにぴったりとくっついて離れなかった。
「僕達、こいつが襲ってくとおもったのに!」
 ロンは車に寄りかかり、優しく叩く。
「お前は何処に行っちゃったのかって、ずっと気にしてたよ!」

 ハリーは既に車の事など気にも留めておらず、地面を見回し蜘蛛の群れを探していた。
「見失っちゃったよ。探しに行かなくちゃ」
 サラは地面に目を凝らす。どんなに見回しても、この辺りにはもう蜘蛛の群れは無かった。ヘッドライトの明かりで、逃げてしまったのだ。
 その時、カシャッカシャッという音が聞こえ、サラは顔を上げた。ハリーとロンの方から、再び音がした。
 振り返ると同時に、毛むくじゃらな何かがサラを左右から掴んだ。そのまま、身動きをとる事も出来ずに足が宙へ浮く。次の瞬間には、暗い木立の中へと運び込まれていた。
 暗闇の中、サラは自分の体を挟むものを見下ろした。毛むくじゃらの長い脚だ。左右を見れば、自分の頭より少し上の高さに黒光りする一対の鋏があった。
 前を、大きな生物が二匹進んでいた。恐らく、ハリーとロンを運んでいるのだろう。背後からも、ファングの鳴き声と共に同じ生物の気配がついてくる。サラは、杖を落とさぬようにしっかりと握りしめているしかなかった。
 やがて、辺りが薄明かりに包まれた。地面を覆う木の葉の上で、何百匹という蜘蛛が蠢いている。それも、先ほどまでサラ達が追っていたようなただの蜘蛛ではない。八つ目の黒々とした巨大な蜘蛛。
 場所は、広い窪地の縁だった。木は切り払われていて、サラは久しぶりに星々を見た気がした。あの殆ど真上に見える星は、北極星だろうか。サラは天文学の内容を頭の中で復習する。
 サラを挟んだ巨大蜘蛛は、前の二匹に続いて傾斜を滑り降りていった。仲間達は獲物に興奮し、鋏をガチャガチャと言わせながら回りに集まってくる。
 あれが北極星なら、そこにあるのが北斗七星だろう。ホグワーツの星空は、日本の星空よりも北の端まで見える。
 突然蜘蛛に放されて地面に落ち、サラは現実逃避を終了させる。直ぐにすっくと立ち上がり、杖を握り締める手に力を入れた。リドルは、この事を言っていたのだ。
 蜘蛛は、鋏をガチャつかせながら誰かを呼んでいるようだった。「アラゴグ!」と叫び続ける。
 糸が絡み合い靄のようになっている巣の真ん中から、他の巨大蜘蛛より更に一回りも二回りも大きい蜘蛛が出てきた。全身を覆う黒い毛には白い物も混じっている。八つの目は白濁していた。
「何の用だ?」
 盲目の蜘蛛は、鋏を激しく鳴らしながら言った。
「人間です」
 答えたのは、ハリーを運んでいた蜘蛛だった。アラゴグと呼ばれた蜘蛛は、こちらへと近付いてくる。
「ハグリッドか?」
「知らない人間です」
「殺せ。眠っていたのに……」
「僕達、ハグリッドの友達です!」
 ハリーが叫んだ。
 蜘蛛達は一斉に鋏を鳴らす。アラゴグが立ち止まった。
「ハグリッドは一度もこの窪地に人を遣した事は無い」
「でも、遣さざるを得ない状況になったのよ。だから私達が来たんです」
 サラも慌てて口添えした。
「ハグリッドが大変なんです。それで、僕達が来たんです」
「大変? しかし、何故お前達を遣した?」
「学校の皆は、ハグリッドがけしかけて――か、怪――何物かに、学生を襲わせたと思っているんです。ハグリッドを逮捕して、アズカバンに送りました」
 その言葉を聞いた途端、アラゴグは怒り狂い鋏を鳴らした。他の蜘蛛もそれに倣い、窪地中に鋏の音が木霊する。拍手喝采の音に似ていたが、それは拍手と違い、あまりにも恐ろしいものだった。サラは後ずさり、ハリーとロンの傍らに立つ。
「しかし、それは昔の話だ。何年も何年も前の事だ。よく覚えている。それでハグリッドは退学させられた。皆がわしの事を、所謂『秘密の部屋』に住む怪物だと信じ込んだ。ハグリッドが『部屋』を開けて、わしを自由にしたのだと考えた」
「……部屋を開けたと『考えた』?」
「それじゃ、貴方は……貴方が『秘密の部屋』から出てきたのではないのですか?」
「わしが!?」
 アラゴグは怒りに鋏を打ち鳴らす。
「わしはこの城で生まれたのではない。遠い所からやって来た。まだ卵だった時に、旅人がわしをハグリッドに与えた。
ハグリッドはまだ少年だったが、わしの面倒を見てくれた。城の物置に隠し、友達と二人で食事の残り物を持ってきてくれた。
ハグリッドはわしの親友だ。いい奴だ。わしが見つかってしまい、女の子を殺した罪を着せられた時、ハグリッドはわしを護ってくれた。
その時以来、わしはこの森に住み続けた。ハグリッドは今でも時々訪ねてきてくれる。妻も捜してきてくれた。モサグを。見ろ。わしらの家族はこんなに大きくなった。皆、ハグリッドのお陰だ……」
「それじゃ、一度も――誰も襲った事はないのですか?」
「一度も無い。
襲うのはわしの本能だ。しかし、ハグリッドとシャノンの名誉の為に、わしは決して人間を傷つけはしなかった」
「シャノン……?」
 ハリーが目を見開き、自分の隣に立つサラを見上げた。
「殺された女の子の死体は、トイレで発見された。しかしわしは、自分の育った物置の中以外、城の他の場所は何処も見た事が無い。わしらの仲間は、暗くて静かな所を好む……」
「それなら……一体、何が女の子を殺したのか知りませんか? 何者であれ、そいつは今戻ってきて、また皆を襲って――」
 ハリーの声は、カシャカシャと幾つもの鋏が激しく打ち鳴らされる音に掻き消された。周りを取り囲む蜘蛛が、ゴソゴソと動いた。
「城に住むその物は、わしら蜘蛛の仲間が何よりも恐れる、太古の生物だ。その怪物が城の中を動き回っている気配を感じた時、わしを外に出してくれとハグリッドにどんなに必死で頼んだか、よく覚えている」
「一体、その生物は?」
「わしらはその生物の話をしない! わしらはその名前さえ口にしない! ハグリッドに何度も聞かれたが、わしはその恐ろしい生物の名前を、決してハグリッドに教えはしなかった」
 ハリーも、それ以上追及しようとはしなかった。
 サラはネックレスを握り締める。蜘蛛は、四方八方からじりじりと詰め寄ってきている。
「それじゃ、僕達は帰ります」
 ハリーが、巣へと帰っていくアラゴグに話しかけた。絶望的な声だった。
 アラゴグは立ち止まり、ゆっくりと言った。
「帰る? それはなるまい……」
「でも――でも――」
「でも、私達、ハグリッドの友達です!」
 サラがハリーの言葉の後を継いだ。
「それに、私、サラ・シャノンっていいます。ハグリッドの友達のシャノンは、私の祖母です。
私はハグリッドの友達です。彼女の孫です。養女です。ハリーとロンは、ハグリッドとも、私とも、友達です!」
「シャノンの孫?」
 アラゴグの声の調子で、サラは自分の発言が逆効果だったという事を悟った。
 アラゴグは鋏を激しく打ち鳴らす。
「シャノンは確かに、ハグリッドと共にわしの世話をしてくれた。だが、彼女はわしを見捨てた! ハグリッドに迷惑をかけた裏切り者だとでも思ったのだろう。わしが森に追放されてからというもの、ハグリッドは来てくれたが、シャノンがわしを訪ねてきた事は無い……」
「そんな――おばあちゃんが、そんな筈――」
「それに」
 困惑するサラの言葉を遮り、アラゴグは続けた。
「わしの命令で、娘や息子達はハグリッドを傷つけはしない。しかし、わしらの真っ只中に進んでノコノコ迷い込んできた新鮮な肉を、お預けには出来まい。
さらば、ハグリッドの友人よ」
 サラは硬く握り締めていた杖をサッと掲げた。
「レラシオ!」
 ハリーに向かって脚を伸ばしていた蜘蛛が、火花に当たって弾き飛ばされた。
 窪地にカシャカシャという威嚇の音が響き渡る。蜘蛛は一斉にガサゴソと向かってきた。ハリーも杖を構え、立ち上がる。
「アラーニャ・エグズメイ!」
 杖先から白い光が飛び出し、数匹の蜘蛛が吹き飛ばされる。
 蜘蛛は猶も遅い来る。一気に飛ばせる蜘蛛の数にも、限界がある。もう駄目だ。サラがそう思った時だった。窪地に眩い光が差し込んだ。
 野生化した中古のフォード・アングリアが、荒々しく斜面を走り降りてくる。蜘蛛をなぎ倒し、サラ達の所まで来ると、ブレーキ音を響かせて止まり、ドアが開いた。
「ファングを!」
 ハリーが前の座席に飛び込みながら叫んだ。ロンが嫌がるファングを抱きかかえ、後部座席に放り込んだ。サラがその後に続いて乗り込む。
 サラが後部座席へ行こうとロンとハンドルの間を通っている内に、ドアが独りでに閉まり、車は走り出した。突然の発進に、サラはそのままロンの座る所へと倒れこむ。
 行く手を阻む蜘蛛を蹴散らし、坂を目にも留まらぬ速さで駆け上がり、窪地を抜け出し、森へと突進する。木の枝が窓を叩いても構う事無く、勝手に進んでいく。この辺りの地理には詳しいのか、空間の広く開いている所を通っていた。
 地面は凸凹していて、車は度々跳ねながら走る。サラは必死にロンにしがみついているしかなかった。

「大丈夫かい?」
 ハリーはこちらを見て尋ねたが、どうも視線はサラには向けられていない。ロンの顔を見れば、声にならない叫びの形に口を開いたままだった。目はもう飛び出してはいないものの、サラの肩越しに正面を見つめたまま、口はきけないでいる。
 サラは呆れ返って溜め息を吐く。ロンを頼ってという訳ではないとは言え、こんな状況の者にしがみついている自分も情けなくなってくる。
 十分ほど経つと、道は凸凹でなくなった。サラはようやくロンから離れ、大声で吼えるファングのいる後部座席へと移る。木立はまばらになり、茂みの間からは空を垣間見る事が出来た。
 車が急停車し、サラはハリーの座る席の後ろに衝突した。森の入り口に到着したのだ。
 サラがドアを開けると、ファングがサラの後ろから飛び出して行き、一目散にハグリッドの小屋へと駆け去った。それを見送り、サラは車を降りる。ハリーは既に降りて、ただ呆然と立ち尽くしていた。
 ロンは一分ぐらい経って降りてきた。やっと手足の感覚を取り戻したようだが、首はまだ硬直し不自然に前を向いたままだった。
 ハリーが感謝を込めて車を撫でる。車はバックし、森の中へと姿を消して行った。
 ハリー、ロン、サラの三人は、ハグリッドの小屋の方へと向かった。ハリーは先に立って、透明マントを取りにハグリッドの小屋へと入ってしまう。ロンはおくびを出す。顔が青い。サラは、慌ててロンを小屋の裏のカボチャ畑へと引っ張っていった。
 畑の片隅で嘔吐するロンの背中を撫でてやっていると、ハリーがマントを片手に小屋から出てきた。ロンは袖で口を拭きながら、弱々しく話す。
「蜘蛛の後をつけろだって。ハグリッドを許さないぞ。僕達、生きてるのが不思議だよ」
「きっと、アラゴグなら自分の友達を傷つけないと思ったんだよ」
「だからハグリッドって駄目なんだ!」
 ロンは小屋の壁を拳で叩く。
「怪物はどうしたって怪物なのに、皆が、怪物を悪者にしてしまったんだと考えてる。そのつけがどうなったか! アズカバンの独房だ!」
 ロンは今更、ガタガタと震えだす。
「僕達をあんな所に追いやって、一体何の意味があった? 何が分かった? 教えてもらいたいよ」
「ハグリッドが『秘密の部屋』を開けたんじゃないって事だ」
 ハリーは、静かな声で言った。
「ハグリッドは無実だった」





 日本に比べて緯度の高い所にあるホグワーツ。夕食もサラの処罰も終えた後だが、まだこの時間、空は明るい。しかし、ここ、地下牢教室には外の明かりなど入る筈も無く、相変わらず薄暗かった。
 エリは勝手に紅茶を準備しながら、口を尖らせる。
「それでサラの奴、何て言ったと思う? 『気持ち悪い』だぜ、『気持ち悪い』! こっちは真剣に謝ってるってのによ。
『ごめんなさい。私、嘘は吐けないタイプなの』だとよ!」
 エリは声を一オクターブ高くして、サラの嫌味な口調を真似る。
「『貴女、脳だけでなく、視力も可哀想な事になってしまったの?』……お前に言われたかねぇよ!」
「ガチャガチャと大きな音を立てるな。割れてしまう。カップはまだしも、薬品の瓶が割れたらどうするのかね」
「あ、そうだ。スネイプ、スネイプ〜」
 エリは面白そうにニヤリと笑い、空のカップを片手にレポートの採点をするスネイプの方へと歩み寄る。スネイプは作業中だったレポートを一まとめにして重ね、裏返した。
「別に見やしねーよ」
「念の為だ。例え興味を持たぬ者にでも、生徒の成績を他人に明かす訳にはいかないからな」
「お前、そういう所変に真面目だよなぁ……。
そんでさ。サラなんだけど、あいつ、料理も下手なんだぜ。通りで魔法薬も苦手な訳だよなー。元々、そういう何か作るってのが苦手なんだよ、あいつ。小学校の時も、家庭科と図工はアヒルだらけでやんの」
「アヒル?」
「『2』って事。――あ。そう言や、1も取った事あったか。そうだよ、あったじゃんか。四年の三学期、1だった!」
「……」
 スネイプは特に反応を見せず、黙って席を立つ。
 エリは目を瞬いた。
「あれ〜? 反応無し? スネイプだって、サラの事嫌ってんだろ」
「我輩は、成績を理由に他者を嘲笑うほど堕ちてはいない。担当する教科なら、多少の説教も当然だがな」
 エリは腕を組み、「なるほど」と頷く。確かに、子供の間の喧嘩なら兎も角、教師がそれをすれば問題だろう。
 スネイプは薬品も一緒に並ぶ食器棚へと歩いていく。エリは手にしているカップに、紅茶を注ぎミルクを入れる。

「――それでは、シャノンを疑った事に対する自己嫌悪は晴れたのか?」
 エリが紅茶に口をつけた時、スネイプが正面に座りながら尋ねた。エリは視線だけスネイプに向け、それからカップを机に置く。
「……うん。
っつーかさ、俺が思ってるほど、あいつ、気にしてなかった。俺が馬鹿だって事なんか、今に知ったことじゃないってさ。
拍子抜けしたよ。あいつ、案外そういう所はあっさりしてるんだよなー。喧嘩する時だって、大抵その時の事でだし、俺達があいつを嫌ってる事に対して文句を言う事は無いし」
「それは、どうにもならない事だと奴も分かっているのかもしれんな……」
 スネイプが呟くように言った。エリは呆気にとられ、まじまじとスネイプを見つめる。
 スネイプはエリの視線に気づき、眉間に皺を寄せた。
「何だ?」
 エリは目をパチクリさせた。
「いや……なんか、驚いた……。お前、どうしたんだよ。なんか、サラの気持ちがよく分かる、みたいな感じでしみじみ言ってさ」
「別にシャノンに共感などしていない」
 サラに共感したつもりは無かった。
 ただ……自分も、似た状況だったから。
「でもさ、『どうにもならない』なんて、本当はそんな事ねぇんだよ」
 スネイプは視線を上げ、エリを見つめる。
 エリは真剣な表情だった。言葉を選びながら、ゆっくりと話す。
「どうにもならないんじゃなくて、どうにもしようとしてないんだ。
これは、俺もなんだけどさ。正面から本音を明かしてぶつかろうとしない。まず、自分が自分の本音を認めようとしない。
正面からぶつからないで、その事に触れないようにしてりゃ、そりゃあ、何も変わらねぇよ。何もしない内から、諦めちまってるんだから」
 スネイプは無言でエリの言葉を聞いていた。
 幼少時代の家族の事。学生時代の何より大切だった幼馴染や、密かに想いを寄せていた人。全て、ハッピーエンドとはならなかった。それは、正面からぶつかろうとしなかったからなのかもしれない。
「スネイプ……?」
 黙りこんだスネイプの顔を、エリが心配そうに覗き込んでいた。
 スネイプはフッと自嘲の笑みを浮かべる。
「少々昔の事を思い出してな。エリなんかに諭されるとはな」
「え。別に、俺が言ったのは、サラの事で――」
 スネイプはエリの言葉を遮り、立ち上がる。時計を見て眉を顰めた。
「どうしたんだ?」
「アリスが、魔法薬の調合の為にこの教室を使わせて欲しいと申し出ていたのだが……結局、来なかったな。
もう六時が来る。送っていこう。職員室へとなるが――」
「いや。大広間の前まででいいよ。そこでハンナ達と待ち合わせしてんだ。
それより、アリスが来るって言ってたって? それじゃ、なんで来なかったんだろ……」
「先に調べ物をして、資料が集まったら来ると言っていたからな。時間が遅くなったから、明日に変更したのだろう」
 スネイプが先に教室を出る。
 エリは後に続いて出ようとしたが、スネイプは入り口の所で立ち止まっていた。
「どうしたんだよ、スネイプ?」
 スネイプは目を見開き、廊下の向こうをじっと見つめている。エリはひょこっと顔を出し、そちらを見た。
 我が目を疑った。
「嘘だろ……あれって……」
 スネイプはマントを翻し、辺りに警戒しながらそちらへと歩み寄っていく。
 エリはハッと気がつき、駆け出した。スネイプを押しのけ、倒れている人物に駆け寄る。
「アリス!」
 それは紛れも無く、アリスだった。目を見開いたまま、石のように硬直している。傍には、本や材料の入った鞄と、蝋燭の光を反射し鈍く光る錫製の大鍋が転がっていた。
 エリはアリスの傍らに膝をつき、肩を揺さぶる。
 ドラコ・マルフォイがこの所しつこいほど話している言葉が脳裏に浮かんだ。「間違いなく、次は殺される」――
「アリス……おい、起きろよ。アリス……!」
 スネイプがエリとアリスの所へ辿り着いた。アリスの脈を確認する。
「大丈夫だ。生きている」
 そう言うと、アリスを抱え上げる。
 数メートル先まで進み、スネイプは振り返った。エリはアリスの倒れていた場所で、呆然と立ち尽くしている。
「エリ!」
 エリはびくりと肩を震わせて潤んだ目でスネイプを見た。
「……ついて来い。君を一人にする訳にはいかんだろう」





 寝室へ着くなり、サラはどっとベッドに倒れこんだ。一気に疲れが出てきたようだ。
 今日は本当に、慌ただしい一日だった。
――ああ、そうだわ。ドラコを叩いてしまったんだっけ……。
 魔法薬や薬草学、闇の魔術に対する防衛術などの授業が、まるで遠い昔の出来事のようだった。
 明日も魔法薬の授業はある。明日、ドラコに会ったら何て言えば良いだろう。ドラコは、またサラと組んでくれるだろうか。
 流石にあれは、やりすぎた。周りが見えなくなっていた。それなのにその後、パンジーの言葉に対しドラコによるフォローを期待するなんて、甘えているにも程がある。
 ドラコの事を物思いつつ、気がつけばサラの思考は森で聞いたアラゴグの言葉に向いていた。

『彼女はわしを見捨てた!』

『わしが森に追放されてからというもの、ハグリッドは来てくれたが、シャノンがわしを訪ねてきた事は無い……』

 祖母は全ての者に優しく、温かい人物だったのだと思っていた。実際、ハグリッドは今でも祖母を友達としているではないか。
 しかし、祖母の人柄を無条件に信じる事が出来なくなっているのも事実だった。
 サラの記憶には、優しい祖母の姿しか無い。それは、サラも祖母と同じように輪から外された存在だったからかもしれない。
 そもそも、自分の記憶が本物かどうかも怪しい。祖母の魔法によって植え付けられたものではないと言う証拠が、何処にある?
 ナミや圭太が祖母を嫌う理由も、そこにあるのかもしれない。祖母は、冷酷無比な人物だったのかもしれない。

 そしてふと、サラは何か引っかかるものを覚えた。何だろうか。何か、アラゴグはもっと重要な事を言っていた気がする。
 祖母の事で頭がいっぱいで、あの場ではそれに気づけなかった。
 そうだ、祖母。
 「秘密の部屋」が開かれたのは、祖母の学生時代だった。祖母の幼馴染、リドルが開いたのだ。

『殺された女の子の死体は、トイレで発見された』

 全てが、一本の糸のように繋がった。
 祖母の学生時代。白黒写真に写っていたメンバー。死体が発見された場所。
 全て、辻褄が合う。
「マートルだわ……」
 五十年前、部屋が開かれた時に殺されたのはマートルだったのだ。
 マートルは祖母と共に、制服のローブ姿であの写真に写っていた。多少の年齢差はあれど、同時期にホグワーツにいた筈だ。マートルが年下でない限り、マートルが死んだのは、確実に祖母の学生時代だという事になる。
 殺された生徒が、そのままその場所に留まっていたとしたら。マートルはトイレに棲みついている。何もかも、ぴったりだった。
 サラはベッドから飛び起きて、靴を爪先に突っかけたまま寝室を飛び出す。一刻も早く、この発見をハリーとロンに伝えねば。
 女子寮の扉を開き、談話室へ飛び出した所で、危うく誰かと正面衝突しそうになった。サラは慌てて立ち止まり、数歩退く。
 深刻な面持ちのマクゴナガルが、ランタンの薄明かりの中に立っていた。
「あー……こんばんは、マクゴナガル先生。えぇっと……談話室に、宿題のレポートを置き忘れてしまったようで……」
「ついて来るのです、シャノン。決して私から離れぬように」
 マクゴナガルは、それどころではないといった様子だった。問い詰められるだろうと思っていたサラは、拍子抜けする。
 それから、訝った。マクゴナガルは肖像画の裏の穴へと向かうではないか。こんな夜中に城を歩かせるなんて、一体何事だろう。
 マクゴナガルは立ち止まり、未だ階段の上にいるサラを見上げる。
「早くなさい。再び念を押しますが、決して私から離れぬようにするのですよ」
 サラは内心首を捻りながらも、マクゴナガルの後に続いてグリフィンドール寮を出る。マクゴナガルは始終、張り詰めた表情だった。
 つれて行かれた先は、医務室。
 サラは、崩れ落ちるようにしてその場に膝を着いた。


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2007/12/05