「やっべええぇぇぇぇっ!!」
叫び声と共に女子寮を飛び出した黒い大きな塊が、談話室へと階段を転げ落ちてきた。
現在、午前十時五十分。既に、午前の授業は殆ど終わってしまった。エリは談話室をダッシュで横切り、寮の出口へ突進する。
急げば、お昼前最後の授業、呪文学には間に合うかもしれない。例え間に合わずとも、あの授業中ならば実践中に皆の中に紛れやすい。
冷たい石の廊下を駆け抜け、果物の描かれた大きな絵の前を通り過ぎ、階段を駆け上がる。玄関ホールを横切り、再び階段。三階まで上り、エリは動く階段を降りた。こちらの方が近道だ。いくつか角を曲がり、エリは飛ぶように駆ける。
と、前方に見知った赤毛を見てエリは足を止めた。瞬きを数回繰り返す。
そこにいるのは、間違いなくジニーだった。「嘆きのマートル」がいる女子トイレだ。壁に何か書かれている。赤いそれは、まるで血文字のよう。ジニーは壁の文字に構わず、女子トイレへと入っていく。エリはそちらへと駆け寄った。
「こんな所でさぼりかね、ジニー・ウィーズリー」
態と野太い声を出し、ひょこっとトイレに顔を覗かせる。
しかし、女子トイレの中には誰もいなかった。マートルでさえ、何処かへお出かけ中だ。
「あっれー……? おかしいなぁ……」
エリは首を捻りながら、女子トイレへと入っていく。
正面の洗面台まで歩いていった所で、女子トイレの入り口の扉が大きな音を立てて閉まった。エリは、がばっと振り返る。やはり、そちらにも誰もいない。
「こんにちは、エリ。会えて嬉しいわ。昨日の夕食の時は、あまり話せなかったもの」
エリは咄嗟に振り返った。隣に、ジニーが口元に笑みを浮かべて立っていた。
……気配が無かった。
ジニーの異様な様子を感じ取り、エリは一歩退く。
「どうしたの? そんなに怖がらなくったっていいじゃない」
ジニーは更に笑みを濃くする。エリの脳裏を、鶏小屋の前で出会った時の彼女の表情が過ぎる。
「ジニー……こんな所で、何を――」
言葉は途切れた。エリは体を沈める。赤い閃光が、三センチほど頭上を通り抜けた。
目の前の彼女は、無表情でこちらに杖を向けていた。
「こんな距離でかわすなんて、話に聞いていた通り、素晴らしい運動神経だね」
声がした方を振り返る。
閉じた女子トイレの入り口の扉に、腕を組み寄りかかっている人物がいた。背の高い、黒髪の少年だ。輪郭は何処かぼんやりとしている。
エリは眉根を寄せた。
「お前……なんで……。
……ここは女子トイレだぞ!? 変態か!」
「どうやら、己の置かれた状況に気がついていないみたいだね。馬鹿みたいに喚いている場合かい?」
彼は静かな声で言い、視線をエリから外す。エリもその視線につられ、隣のジニーの方に目をやった。
ジニーは、自分の杖を喉下に当てていた。
「ようやく分かったみたいだね」
息を呑んだエリを見て、彼は満足げに微笑む。
「君が断れば、彼女に自殺をさせる。君は、僕の手中に飛び込んできたんだ。君には、一緒に来てもらう」
「お前、一体――」
「リドル。それが僕の名前だ。君は、僕を知っている筈だよ」
エリは訝る。流石のエリも、ゴースト以上に不明確な姿をする友人など持たない。
リドルの目を、奇妙な赤い光が横切った。
「僕はやがて、ヴォルデモートとしてこの世界に君臨する。その名前は、聞いた事があるだろう?」
No.59
「ナイスだよ、ハリー! ロックハートの奴、役立たずだと思ってたけど、部屋やスリザリンの継承者について調べる事に関しては案外そうでもないよな」
「彼が抜けてるお陰だよ。ハグリッドを犯人だと信じて疑わないのは、やっぱり腹が立つけどね。だけど、それも今夜までだ。ハーマイオニー達が、ハグリッドの無実を証明してくれるよ」
「まったく、ロックハート先生が、もうこんな警戒措置は不要だと考えていらっしゃるのには驚きますね」
ロンは、ロックハートの口ぶりを真似して言う。
「あいつ、どんな顔するかな。ずっと言い続けてた事が、間違いだなんて分かったら」
「ロックハートの事だから、どんな顔もしないだろ。『私には最初から分かっていましたよ!』なんて言って、意見を百八十度変えるだけさ」
「それもそうか。――サラはどうしたの? ずっと黙り込んでるけど」
ロンは、ハリーの向こう側を俯き加減に歩くサラの方を覗き込む。
サラの代わりに、ハリーが言葉を発した。
「……エリの事?」
サラは顔を上げ、ゆっくりと頷く。ロンはきょとんとする。
「エリ? エリがどうかしたのかい?」
「さっき、ハリーがロックハートを帰そうと相槌を打ち始めた辺りで、ハッフルパフの生徒達とすれ違ったでしょう?
……その中に、エリの姿が無かったわ」
ロンは目を見開き、息を呑む。
ハリーは、両隣の友人の背中を軽く叩いた。
「大丈夫だよ。エリの事だから、きっと寝坊とかじゃないかな。お昼になったら、きっとハッフルパフのテーブルで同じ寮の仲間達と仲良くやってるさ」
そう言いつつも、上手く笑顔は作れておらず、表情は強張っている。
「エリって確かに遅刻とかしそうなタイプに見えるけれど、あれでも、私達三人の中で一番早寝早起きなのよ……」
ハリーとロンも、口を閉ざしてしまう。
しんと静まり返った廊下に、マクゴナガルの怒声が響いた。
「ポッター! ウィーズリー! シャノン! 何をしているのですか?」
三人は揃って飛び上がる。マクゴナガルは口を真一文字に結び、つり上がった目で三人を見据えている。
「僕達……僕達……僕達、あの……様子を見に……」
「ハーマイオニーの」
口ごもりながら言うロンの言葉に、ハリーが続いて言った。サラもロンもマクゴナガルも、一斉にハリーに注目する。
「先生、もう随分長い事ハーマイオニーに会っていません」
先ほどのようにフォローに入ろうと口を開くロン。ハリーはその足を強く踏んだ。今度の相手はマクゴナガルだ。話に食い違いが起きてしまったら、誤魔化しきれるとは思えない。
「だから、僕達、こっそり医務室に忍び込んで、それで、ハーマイオニーにマンドレイクがもう直ぐ取れるから、だから、あの、心配しないようにって、そう言おうと思ったんです」
ハリーが一息に言い終え、再び廊下に静寂が訪れる。マクゴナガルは目を逸らさずハリーを見据えている。ハリーも、マクゴナガルから目を離さない。ロンとサラは、恐々とマクゴナガルの様子を伺っていた。
マクゴナガルの口が開く。ハリー、ロン、サラは身構えた。
「そうでしょうとも」
マクゴナガルの声はかすれていた。眼鏡の向こうにきらりと光る涙を見つけ、サラはあんぐりと口を開けそうになるのを何とか抑える。
「そうでしょうとも。襲われた人達の友達が、一番辛い思いをしてきた事でしょう……。
よく分かりました。ポッター、もちろん、いいですとも。ミス・グレンジャーのお見舞いを許可します。ビンズ先生には、私から貴方達の欠席の事をお知らせしておきましょう。マダム・ポンフリーには、私から許可が出たと言いなさい」
ハリー、ロン、サラの三人が立ち去っても、マクゴナガルはその場に立ち竦んでいた。
被害に遭った者も、もちろん辛い。だが、その周囲の者の辛さも、計り知れない。何も出来なかった無力な自分への憤り。失ってしまった悲しみ。これからも続く苦しみ。
『どうしてだろうね、ミネルバ……。私は皆に笑顔でいてほしいのに、皆を守りたいのに、こうして何も出来ずに終わってしまう……。ハグリッドの無実を証明してやれなかった。マートルを守りきれなかった。
すまない、ミネルバ。本当は、君の卒業を祝う筈だったのに……』
マクゴナガルは、そっと鼻をかむ。
音を抑えたつもりだったが、静まり返った廊下に、その音ははっきりと響いた。
ハリー、ロン、サラの三人は途方に暮れていた。
仕方なく、三人はマクゴナガルに言った通りに医務室へとやってきた。渋々と三人を入れたマダム・ポンフリーの言葉は、最もな話だった。サラ達はハーマイオニーの傍の椅子に座ったが、彼女がそれに気づいているとは思えない。何を話しかけても、何の効果も無いだろう。
「それにしても、ハーマイオニーが自分を襲った奴を本当に見たと思うかい?」
ロンは意気消沈した様子だった。石のように固まったハーマイオニーの顔を見ながら、悲しげに話す。
「だって、そいつがこっそり忍び寄って襲ったのだったら、誰も見ちゃいないだろう……」
ハリーが見ているのは、ハーマイオニーの顔ではなかった。サラはそれに気づき、視線を追う。その先には、毛布の上で固く結ばれたハーマイオニーの右手があった。
サラがそれに気づいたとき、ハリーは既に、その事を口にしていた。
「見て。何か握ってる……何か、紙切れみたいだけど……」
サラはハッと口を押さえた。
延期となったクィディッチ戦の日の事が、記憶に蘇る。
「ハリー! 私、これ見たわ。この紙切れ、ハーマイオニーが図書館で本からちぎり取ったページよ……。その後、ハーマイオニーは襲われたの。襲われた事にばかり気を取られて、すっかり忘れていたけれど……」
「書かれてた内容は?」
「そこまでは……行動が分かる程度にしか見えなかったから……」
「それじゃ、何とか取り出してみて」
そう囁き、ロンは椅子を動かす。マダム・ポンフリーの視界からハリーを遮る為だ。
サラも、ハリーが紙切れを取り出そうとするのを手伝う。なかなか取り出すことが出来ない。ハーマイオニーの手から紙切れを取り出す前に、紙切れが破れてしまいそうだ。マダム・ポンフリーの方をチラチラと気にしながら、引っ張ったり、捻ったりと試行錯誤する。
数分後、ようやく紙を引っ張り出した。ロンもこちらを振り返り、三人は額を寄せ合って紙切れを覗き込む。
それは、スリザリンの怪物の正体、そしてその怪物の襲撃手段を明らかにする物だった。
サラは言葉を失う。何故、ハーマイオニーが襲われた? マグル出身だから? サラへの見せしめ? それも、確かにあるかもしれない。だが、何故ここへ来てハーマイオニーなのか。ハーマイオニーでは、あまりにサラに近すぎる。人質は多いままにしておいた方が、サラをより縛る事が出来る。
ハーマイオニーにアリス。連続する親しい者への襲撃で、サラの周りが危険なのだとばかり思っていた。だがそれならば、アリスよりもハリーやロン、ドラコを狙う筈だ。そもそも、アリスは混血なのだから。ナミがスクイブだったとハンナは言ったが、それをリドルが知っていただろうか。
サラは再び、紙切れに目を落とす。ハリーとロンは、興奮して解けた謎を語り合っている。
ハーマイオニーが選ばれたのは、この事に気づいたからかもしれない。これが先生の手に渡れば、あっと言う間に事件は解決するだろう。現に、ハリーとロンは次々と闇を取り払い謎の解明を進めている。
この紙切れは始まりを告げるファンファーレだ。ハリーとロンも、事件の真相を知ってしまった。賽は投げられた。リドルは動き出すだろう。否、今朝の連絡で既に動き出しているだろうか。
一通りの真相解明を終え、ハリーとロンは弾かれたように立ち上がる。
「職員室へ行こう。あと十分で、マクゴナガル先生が戻ってくるはずだ。間も無く休憩時間だ」
サラとロンも立ち上がる。
真っ直ぐ職員室へと向かいながら、サラは一抹の不安を抱いていた。やはり、先ほどのハッフルパフの列にエリがいなかった事が気がかりでならない。
そしてある事に思い当たり、サラの顔から血の気が失せた。
真相を知った者に対して、リドルは動きを見せる。つまり、今朝の連絡よりも前に動きを見せている可能性もあるのだ。まさか、エリも――
否、エリが何らかの情報を握っているとは限らない。ただ、たまたま今日は寝坊しただけなのかもしれない。
しかし、嫌な予感は的中した。
職員室に着き、三人は終業のベルを待っていたが、全く鳴る様子が無い。代わりに、魔法で拡大されたマクゴナガルの声が、廊下に響き渡った。
「生徒は全員、直ちにそれぞれの寮へ戻りなさい。教師は全員、職員室に大至急お集まりください」
ざわっと全身の毛が逆立つ。
ハリーとロンは、どうしようかと話す。そして、三人は教師達のマントが掛けられた洋服掛けの中へと身を隠した。
やがて、騒がしい足音と共に、次々と教師達が職員室へ入ってきた。当惑した者や、中には怯えきっている教師もいる。学校中に伝えて回っていたからだろう。マクゴナガルが現れたのは、最後だった。
「とうとう、恐れていた事態が起こりました」
しんと静まった職員室を見渡し、マクゴナガルが口火を切った。
「生徒が二人、怪物に連れ去られました。『秘密の部屋』そのものの中へです」
フリットウィックが悲鳴を上げた。スプラウトは手で口を覆う。
「何故、そんなにはっきり言えるのですか?」
スネイプだ。スネイプの手は、傍にある椅子の背をぎゅっと握り締めている。
答えるマクゴナガルは、顔面蒼白だった。
「『スリザリンの継承者』が、また伝言を書き残しました。最初に残された文字の直ぐ下にです。
『彼女達の白骨は永遠に『秘密の部屋』に横たわるであろう』」
フリットウィックは泣き出した。マダム・フーチは、腰が抜けたようにその場にへたり込む。
「誰ですか? 二人、という事は分かっているのでしょう……。どの子ですか?」
「ジニー・ウィーズリーと、エリ・モリイです」
ハリーとロンの間で、ロンがへなへなと崩れ落ちた。
「全校生徒を明日、帰宅させなければなりません。ホグワーツはこれでお終いです。ダンブルドアは、いつもおっしゃっていた……」
その時、職員室の扉が開いた。マクゴナガルが最後ではなかったらしい。
ロックハートが、にっこりと微笑みながら入ってきた。
「大変失礼しました――ついウトウトと――何か聞き逃してしまいましたか?」
他の教師達からの刺々しい視線には気づいていないようだ。
スネイプは椅子の背から手を離し、一歩進み出た。
「なんと、適任者が。まさに適任だ。ロックハート、女子学生が怪物に拉致された。『秘密の部屋』そのものに連れ去られた。いよいよ貴方の出番が来ましたぞ」
ロックハートの顔から血の気が引いた。
「その通りだわ、ギルデロイ」
スプラウトが口を挟んだ。
「昨夜でしたね。確か、『秘密の部屋』の入り口が何処にあるか、とっくに知っているとおっしゃったのは?」
「私は――その、私は――」
「そうですとも。『部屋』の中に何がいるか知っていると、自信たっぷりに私に話しませんでしたか?」
フリットウィックも容赦無い。
「い、言いましたか? 覚えていませんが……」
「我輩は確かに覚えておりますぞ。ハグリッドが掴まる前に、自分が怪物と対決するチャンスが無かったのは、残念だとかおっしゃいましたな。何もかも不手際だった、最初から自分の好きなようにやらせてもらうべきだったとか?」
ロックハートは何とか逃れようとモゴモゴと言うが、教師達は冷たい視線を逸らさない。
「それではギルデロイ、貴方にお任せしましょう」
マクゴナガルが止めを刺した。
「今夜こそ、絶好のチャンスでしょう。誰にも貴方の邪魔をさせはしませんとも。お一人で怪物と取り組む事が出来ますよ。お望み通り、お好きなように」
誰もロックハートを庇う者はいなかった。
ロックハートはこの上なく情け無い顔をしていた。唇は振るえ、絶望的な目で周りを見つめ、いつもの笑顔も一切消えている。
「よ、よろしい。へ、部屋に戻って、し、支度をします」
ロックハートはふらふらと職員室を出て行った。
「さてと」
マクゴナガルは気を取り直すように言った。
「これで厄介払いが出来ました。
寮監の先生方は寮に戻り、生徒に何が起こったかを知らせてください。明日一番のホグワーツ特急で生徒を帰宅させる、とおっしゃってください。
他の先生方は、生徒が一人たりとも寮の外に残っていないよう見廻ってください」
スネイプが真っ先に職員室を去った。他の教師達も皆立ち上がり、一人、また一人と部屋を出て行く。
最後の教師が職員室を出て行った途端、サラがマントの間から飛び出した。
ハリーは慌てて後を追う。職員室の入り口の所で、サラの腕を掴み引きとめた。
「何処へ行く気だよ、サラ!」
「決まってるじゃない。『秘密の部屋』へ行くのよ。助けに行かなくちゃ」
「駄目だよ。僕達だけじゃ、危険すぎる。それに、寮へ戻らなきゃ。マクゴナガルが話をしにくる前に」
「それじゃあ、どうするって言うの? このまま二人を見殺しにするの? 今度は石にされたんじゃないのよ。部屋へ連れ去られたの! 分かってる? それが如何いう事なのか!!」
「分かってる! だからこそ、慎重にならなきゃいけないって言ってるんだろ! ……きっと大丈夫だよ、エリとジニーなら。エリは、そんなに簡単にくたばる奴かい?」
サラは俯き、ゆっくりと首を振る。だけれど、時間の問題だ。
ハリーはサラが落ち着いたのを見て取り、手を離す。そして、洋服掛けの方へと歩いていった。マントを掻き分け、中で座り込んでいるロンに手を差し出す。
「ロンも、行こう。きっと、ロックハートが助けてくれるよ……」
サラは、感情の無い瞳でその言葉を聞いていた。
空も、遠くの山々も、夕日に照らされ赤く染まっている。グリフィンドールの談話室にも西日が差し込み、陰鬱な室内に哀愁を漂わせていた。
フレッドとジョージが立ち上がり、寝室へと引っ込んだ。パーシーは既に、両親へふくろう便を飛ばした後直ぐに部屋へ引き篭もっている。
未だかつて無いほど談話室は込み合っているのに、未だかつて無いほど談話室は静まり返っていた。
「ジニーは何か知っていたんだよ、ハリー」
職員室での話を聞いて以来、ロンは初めて口を利いた。
「だから連れて行かれたんだ。パーシーの馬鹿馬鹿しい何かの話じゃなかったんだ。何か『秘密の部屋』に関する事を見つけたんだ。きっと、その所為でジニーは……」
ロンは激しく目を擦った。
「だって、ジニーは純血だ。他に理由がある筈無い」
エリもだ。ダンブルドアは、サラとエリは両親どちらも魔法使いだと言っていた。
サラは膝の上で組んだ腕に顔を埋める。どうして、自分は誰も守る事が出来ないのだろう。授業の成績だって、優秀だ。つまり、自分は他の人達より力がある。なのに、傍にいる人さえ守れない。
「ハリー、サラ。ほんの僅かでも、可能性はあるかな。つまり……ジニーとエリがまだ……」
「言うまでも無いわ」
迷う事無く帰ってきたサラの言葉に、ロンは絶望する。しかし、サラの言葉は予想の逆だった。
「……そう簡単に、エリが殺られる筈無いじゃない。あれでも、一応私と双子なのよ。絶対、まだ生きてる。エリが一緒ならば、ジニーだってきっと生きてる」
ハリーは、サラに視線を向ける。その期待は、絶望的な物だと思った。サラとて自覚しているのだろう。やはり顔は上げないし、肩が震えている。
だが、気休めの言葉だとしても、ロンを多少なりとも復活させるのには効果があった。とは言え、やはり空元気でしかないのだが。
「僕達、ロックハートに会いに行くべきじゃないかな? 僕達の知っている事を教えてやるんだ。ロックハートは何とかして、『秘密の部屋』に入ろうとしているんだ。僕達の考えを話して、バジリスクがそこにいるって教えてあげよう」
サラがすっくと立ち上がった。ハリーは目を瞬かせて、何処かへ行こうとするサラを見上げる。
「サラ?」
「行くのでしょう」
ロンも無言で立ち上がり、サラに続く。
ハリーも立ち上がった。他に良い考えも思いつかないし、兎に角何か出来る事をしたい。反対する理由は無い。
グリフィンドールの皆は、ウィーズリー兄弟やサラが気の毒で何もいえなかった。三人が肖像画の出入り口から出て行くのを見ても、誰も止める者はいなかった。
日は次第に地平線の向こうへ落ちていき、ロックハートの部屋の前についた頃には、既に辺りは闇に包まれていた。
ロックハートは一体何をしているのか、部屋の中からは慌ただしい物音が聞こえてくる。
ハリーがノックすると、中の音はピタリと止んだ。それから、恐る恐るといった様子で扉が少しだけ開いた。ロックハートの目だけが覗いている。
「ああ……ポッター君……シャノン嬢にウィーズリー君も……」
扉がまた少し開く。
「私は今、少々取り込み中なので、急いでくれると……」
「先生、僕達、お知らせしたい事があるんです」
ハリーはロックハートの言葉を遮り、意気込んで言った。
「先生のお役に立つと思うんです」
「あー――いや――今はあまり都合が――」
ロックハートは迷惑そうな顔をしている。
「つまり――いや――いいでしょう」
ロックハートは渋々と扉を開く。
三人は部屋の中へと入り、唖然とした。
部屋の中は殆ど片付けられている。床に置かれた大きなトランクに、ローブやら本やらが分けて入るものの、慌てて放り込んだかのように詰め込まれている。壁いっぱいに張られていた写真ももう無く、全て机の上に置かれたいくつかの箱に収まっていた。
「何処かへ行かれるのですか?」
ハリーの問いかけに、ロックハートは片づけを進めながら、歯切れの悪い返事を返す。
「緊急に呼び出されて……仕方なく……行かなければ……」
「僕の妹はどうなるんですか?」
ロンは愕然としていた。
「そう、その事だが……まったく気の毒な事だ」
そう言いながらも、引き出しを開け中身をバッグの中へひっくり返す。サラはただ、呆然とその行動を見ていた。
……この男は、一体何をしている?
「誰よりも私が一番残念に思っている……」
残念に思っている? 何を?
エリ達がさらわれた事を?
スリザリンの継承者を捕まえられない事を?
怪物と戦えない事を?
ならば、何故部屋を片付けている? 呼ばれたからと言って出て行く? まるで逃げるようではないか。
逃げる?
どうして?
エリ達を残して?
エリ達を見殺しにして?
何もせずに?
何もしようとせずに?
サラ達は、こんな奴を頼って、こんな奴の役に立とうとして、ここへ来たのか。これに任せて、これを信じて、談話室でじっとしていたのか。
馬鹿馬鹿しい。実に馬鹿馬鹿しくて、笑みが漏れる。
「……サラ?」
突然肩を震わせ小さく笑い出したサラを、ハリーは訝しげに振り返る。
サラの笑いは段々と大きくなっていく。ロンもぎょっとしてサラを見つめた。
サラの甲高い笑い声が部屋中に響き渡る。ハリーもロンもロックハートも身動き一つできずに、豹変したサラを見つめていた。
「馬鹿みたい! 私達ってば、こんな腰抜けを頼ってここへ来たの? こんな虫けらを信じて、任せて、何もしないでいたの? ただ談話室でじっとしていたの?
これを信じて、任せて、頼って、何もせずに、時間を浪費して、信用して、役に立とうとして、無駄な時間を、こんな事する間には助けに行けば、時間が無いのに、殺されかねないのに」
高笑いは既に止んでいた。顔は憎しみに満ち、目の奥には赤い光が見え隠れする。
サラの手が、ロックハートの首に掛かる。ロックハートの顔から血の気が引いていく。
「貴方は助けられると言った。怪物の正体を知ってると、戦えた筈だと、倒す機会が欲しかったと、犯人をこの手で捕まえたかったと。そのチャンスが与えられたというのに、貴方は逃げる。何もせずに。エリ達がさらわれたのに。彼女達は今も囚われているというのに。何もせずに。ただ、怖いから。貴方は見捨てて逃げようとしている。怖いから。口先だけ。だから逃げようと。見捨てて。見殺しにして。エリ達を助けようとせずに。見殺しに。
許さない。逃がさない。逃げるな。見殺しになんてさせるものか。この嘘吐き者! この屑が!!
許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない――」
「サラ!」
ハリーがサラの腕を掴んだ。
「彼を放して。死んでしまう。――敵は、ロックハートじゃないだろう」
サラは冷ややかな目でロックハートを見据えていたが、既にあの妙な光は見えなかった。
睨み据えたまま、突き飛ばすように手を放した。こんな小さな少女の何処にあれ程の握力があったのか、ロックハートは膝をつきゴホゴホとむせ返る。
サラは部屋の出入り口まで歩いていく。サラが傍を通る際、ロンは思わず身を引いた。そんな事に構いはせず、サラは腕を組み扉に寄りかかった。最早、ロックハートの逃げ道は無い。
ハリーは冷たい目でロックハートを見下ろす。
「先生、本当に逃げ出すおつもりですか? 本に書いてあるように、あんなに色々な事をなさったのに」
「本は誤解を招く」
「ご自分で書かれたのでしょう!」
「まあまあ、坊や」
ロックハートは、ようやく呼吸が正常に出来るようになったらしい。すっくと立ち上がり、目の前で憤るハリーを見下ろした。
「ちょっと考えれば分かる事だ。私の本があんなに売れるのは、中に書かれている事を全部私がやったと思うからでね。
もしアルメニアの醜い魔法戦士の話だったら、例え狼男から村を救ったのがその人でも、本は半分も売れなかった筈です。本人が表紙を飾ったら、とても見られたものじゃない。ファッション感覚ゼロだ。バンドンの泣き妖怪を追い払った魔女は、顎が毛深かった。
要するに、そんなものですよ……。
「それじゃ、先生は、他の沢山の人達のやった仕事を、自分の手柄になさったんですか?」
ハリーは失望したような口調だった。
「ハリーよ、ハリー。そんなに単純なものではない。仕事はしましたよ。
まず、そういう人達を探し出す。どうやって仕事をやり遂げたのかを聞き出す。それから『忘却術』をかける。すると、その人達は自分がやった仕事の事を忘れる。
私が自慢できる物があるとすれば、『忘却術』ですね。
ハリー、大変な仕事ですよ。本にサインをしたり、広告写真を撮ったりすれば済む訳ではないんです。有名になりたければ、倦まず弛まず、長く辛い道のりを歩む覚悟が要る」
「心配御無用。ハリーは、貴方みたいに他人の褌で相撲をとるような事をしようなんて、絶対に思わないわ」
そう言ったサラの様子は、怒りはあれどいつも通りだった。
ロックハートもそれに安堵したのか、こちらに背を向けた状態で、トランクを閉め鍵を掛ける。
「さてと。これで全部でしょう。否、一つだけ残っている」
ロックハートは杖を取り出し振り返ったが、そこで表情も強張る。
扉の所にいた筈のサラが、目の前まで迫っていた。あっと言う間に胸倉と左腕を捕まれ、視界が一転する。気がつけば、左腕と後ろ襟を掴まれ、サラの上体が胸の上に乗っていた。
身動き一つとれずにいるロックハートに、ハリーとロンの杖が脅すように突きつけられる。
「私に何をしろと言うのかね?」
ロックハートは力なく言った。
「『秘密の部屋』が何処にあるかも知らない。私には何も出来ない」
「運のいい人だ」
ハリーは目で合図し、サラを退かせる。杖を更に突きつけ、ロックハートを立たせながら言った。
「僕達は多分、そのありかを知っている。中に何がいるかも。さあ、行こう」
ハリーは通り道になる所にあるトランクを、脇へと蹴飛ばした。
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The Blood
第1部
希望求めし少女たちは
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2007/12/26