「ごめんなさい……」
 放課後の教室。今日は、職員会議のある曜日。教師は皆、職員室の中だ。
 蹴飛ばされた机に当たり、横へよろける。
「ゴメンで済んだら、警察はいらないんだよ。あんた、責任取りなよ。自分の姉ぐらい、どうにかしなよね」
「……」
「聞こえてるー?」
 机を蹴ったのとは別の生徒が、エリの耳を引っ張って大声を出す。
 エリを囲むのは六人。クラスで中心の女子グループだ。
「ほんっとイラつくんだけど! まるで、自分苛められてますーみたいな顔してさ。あんたの姉の所為で、うちらの友達が入院したの。分かってる?」
「理解してないんじゃね? こいつ、馬鹿だからさ」
「……サラじゃない」
 蚊の鳴くような声に反応し、女子達の笑い声が止む。
 前髪が掴まれ、俯くエリの顔が無理矢理上げられた。
「何? 何て言ったのか、よく聞こえなかったんだけど?」
 エリは潤んだ目で彼女達を睨み返す。
「サラじゃないって言ったんだよ。
だって、2組の子達が入院したのって事故なんでしょ? ストーブが炎上した、って……先生、そう言ってたもん。その子達、ストーブの前に引いてる線を無視して、上に座ったりまでしてたからだ、って。
サラ、何も関係無いじゃん」
「エリちゃん、ほんと何も理解してないんだねぇ……。
あたし、2組に幼馴染がいるんだけど、その子が言ってたんだよ。
四時間目の授業で、グループ作る事になったんだって。あいつって暗いし、危ない噂ばかりじゃん? だから、一緒にやるの断ったらしいんだよね。授業中、なんで断るのか分かってない子にも説明してたんだって。
そしたら、昼休みに事故発生。サラちゃんの仕業以外に何だって言うの?」
「だから、サラがどうやってストーブ燃やしたって言うんだよ! そんな事、出来る訳無いじゃん!
説明ってそれ、要は悪口言ってたんでしょ? そんな事するからだよ。罰が当たっただけじゃん!」
 バシッという強い音が教室内に響く。
 エリは床に倒れこみ、赤くなった頬を押さえる。
「あんた、あの化け物の味方をするんだ?」
「やっぱり、双子は双子だね。同じ事を言うんだ」
「いや、シャノンって養女らしいよ。だから苗字違うんだって。
ま、何にしたって、こいつは化け物を庇うつもりらしいけどね」
「それじゃ、あれかな。一つ下に妹いるんでしょ? あいつも、こいつと一緒で化け物の仲間なんじゃない?」
 その言葉に、エリは過敏な反応を見せる。
「やめて……アリスには何もするな!」
「は?」
「突然偉そうになったねー」
 再び頭を鷲掴みされ、床へ押し付けられる。
「何か言う事ないの〜?」
「……っ。
ごめんなさい……ごめんなさい……」
 謝ってばかりだった。
 サラに敵意を抱く者の殆どは、サラを恐れている。サラ本人に対抗する者など、敵意を抱く者達の三分の一にも満たない。
 本人に対抗できぬ者達は、皆、エリで憂さ晴らしをした。エリはそれでも、サラを庇い続けていた。
 信じていたのだ。サラではないと。サラに、そんな事が出来る筈が無い。サラが、そんな事をする筈が無い。
 信じていた。
 小三の、あの日までは。





No.61





「あれ? どうしたんだい? もう、力尽きたのかい?」
 日記に覆い被さるようにして倒れこんだエリを嘲笑うかのように、リドルは冷笑を浮かべる。
 エリの手はどの指も皮が剥かれ、何度も瘡蓋を剥がされ、ボロボロだった。見た目は良い物ではないが、意外と痛みは無い。寧ろ、書くほどに増加する疲労感の方が辛かった。
「可哀相なエリ・モリイ。姉の悪行の所為で苛められていたのに、それでも信じ続けていた。だけど、その姉にさえ裏切られるなんてね」
 可哀想などとは寸分も思っていないような口調で、リドルは話す。
「そして、その姉の人質としてこんな所へつれて来られて、こんな話したくもない事を書き連ねなければならない。他人を助ける為に、自分の身を削ってまで。
呆れるよ。そこまでして、何になる? こんな子、見捨ててしまえばいいじゃないか。そうでなければ、自分が死に絶える事になるだろうに」
「だったら、死んでしまえばいい」
 エリは床に手を着き、ゆっくりと体を起こす。
 固まりかけている血を剥がし、再び日記に向かう。
「仲間を見捨てるぐらいなら、俺が死ぬ方がマシだ」
 エリは白紙の日記を睨み据え、唇を噛む。
 血で書かれた小学校での日々は、既に消えている。リドルは背後で冷たく笑う。
 力を奪われる事による肉体的苦痛と、話したくも無い過去を打ち明ける事による精神的苦痛。二つの苦痛が、エリを苛む。
 これぐらい、平気だ。ここで倒れれば、リドルは再びジニーから力を奪い始める。既に、ジニーは弱りきっている。ここで自分が挫ける訳にはいかない。
 分かっているのに。
 分かっているのに、指一本も動かす事が出来なかった。もう、駄目なのか。ここまでか。
 その時だった。
「ジニー!」
「エリ!!」
 叫ぶ声に、エリは振り返った。緑の靄の向こうから、二つの陰が現れる。
 エリは目を見開いた。都合良く助けが来る事など、決して無い。そう思っていた。事実、そうして今までやってきた。
 だが、助けは来た。それは二人がリドルの罠に嵌ってしまった事を表すのだが、それでも安堵してしまう自分がいた。
 ハリーはジニーの方へ、サラはエリの方へと駆け寄ってくる。
「サラ……」
 サラはエリの正面に立ち、俯いていた。そして、振り絞るように出した声は、心成しか掠れていた。
「馬鹿……何、易々とさらわれてるのよ……学校、閉鎖するなんて話にまでなってんのよ!? そんな事になったら、どうしてくれるのよ!!」
「な……っ」
「……。そんな事になったら、エリ達を襲った犯人を逃す事になるじゃない……」
 サラは袖で目の辺りをぐいと拭き、顔を上げる。
「大丈夫? 指、怪我してるじゃない……」
 その言葉に、エリはハッとする。
「俺は大丈夫。それより、ジニーが……!」
 サラはハリーとジニーの方へと駆け寄っていく。
 巨大な石像の足元に、ジニーの体はうつ伏せで横たわっていた。ハリーは杖を脇に投げ捨て、ジニーの肩を掴んで仰向けにする。
「ジニー! 死んじゃ駄目だ! お願いだから、生きていて!!」
「ハリー! ジニーの様子は?」
 絶望に駆られるハリーの横に、サラは並んでしゃがみ込む。
 ジニーの顔は蒼白だった。目は固く閉じられているが、ハリーが抱き起こしたのにつれて手がだらりと下がる。つまり、石にはされていない。
「まさか……」
「ジニー、お願いだ。目を覚まして」
 ハリーが必死で揺さぶるが、ジニーが目を覚ます気配は無い。
「その子は目を覚ましはしない」
 静かな声に、サラは背筋の凍る思いがした。人を小馬鹿にするような、余裕の口調。振り返るまでも無い。
 振り返ったハリーが、その名前を口にした。
「トム――トム・リドル?」
 サラは、恐々と背後を振り返る。
 若き日のヴォルデモート。トム・リドルその人が、そこにいた。

 リドルの言う「監視している者」は、ジニーだった。ジニーはどういった経緯でか知らぬがリドルの日記と出会い、リドルを信じ込み、書き込んだのだ。クリスマスの朝の、サラと同じように。
 そしてリドルは、ジニーを利用した。ジニーを操り、ジニーを使って「秘密の部屋」を開き怪物を解き放ったのだ。
 ここへ降りてきたのも、ジニーに自ら向かわせたのだとリドルは話す。
「君は僕と似た所があると気づいたからね。ジニーだけで誘き寄せる事が出来るか、確証が無かった。だから、エリもここへつれて来たんだ」
 リドルはサラの方へ、視線を向ける。サラはその微笑を睨み返した。
「貴方と一緒になんて、されたくもないわ」
「ジニーは泣いたり喚いたりして、始めはとても退屈だったよ。しかし、この子の命はもうあまり残されていない。あまりにも日記に注ぎ込んでしまった。つまり、この僕に。僕は、お陰で日記を抜け出すまでになった。
僕とジニーとエリとで、君達が現れるのをここで待っていた。エリのお陰で、その間は退屈しなかったよ。エリは、ジニーを守る為に代わりに日記に書き込みをしてくれたからね」
 サラとハリーは、少し離れた所に座り込んでいるエリを振り返る。
 今も、ジニーの代わりに力を奪われ続けているのだろう。エリの額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「君達が来る事は分かっていたよ」
 リドルは話し続ける。
「ハリー・ポッター、僕は君に色々と聞きたい事がある」
「何を?」
 ハリーは拳を固く握り締め、リドルを見据え吐き捨てるように尋ね返した。
「そうだな……。
これといって特別な魔力も持たない赤ん坊が、不世出の偉大な魔法使いをどうやって破った? ヴォルデモート卿の力が打ち砕かれたのに、君の方は、たった一つの傷痕だけで逃れたのは何故か?」
 リドルの瞳の奥に、奇妙な赤い光が漂っているのが見えた。ハリーはロックハートの部屋でのサラを思い出し、僅かに眉を顰める。
「どうして、同じく逃れたサラの方は気にしないんだ?
何にせよ、僕が何故逃れたのか、どうして君が気にするんだ? ヴォルデモート卿は、君より後に出てきた人だろう」
 サラの片手は、無意識の内に首元のネックレスを握り締めていた。
 リドルの静かな声が、部屋の中に響き渡る。
「ヴォルデモートは僕の過去であり、現在であり、未来なんだよ……ハリー・ポッター」
 リドルはハリーの杖を振り、空中に文字を書く。
『TOM MARVOLO RIDDLE』
 リドルの名が、宙に浮かび淡い光を放つ。リドルはもう一度、杖を振った。文字が並び方を返る。
『I AM LORD VOLDEMORT』
 私はヴォルデモート卿だ――並び変わったその文字に、ハリーとサラは愕然とする。
 リドルは、実に愉しげにその様子を見ていた。
「分かったね?
この名前は、ホグワーツ在学中に既に使っていた。もちろん、親しい友人にしか明かしてないが。
そう、君達のおばあさんも知っていたよ、この名前を。その名前がいずれ恐れられ呼ばれなくなるという事までは、知らなかったけどね」
「幼馴染だから……?」
 サラは慎重に尋ねる。
 何か、リドルは途方も無い事を言い出すのではないか。取り返しのつかない事になるのではないか。
 何故か、そのような不安が心を過ぎったのだ。
「それだけで、そんな事を話したりはしないさ。――在学中、僕と彼女は一時期つき合っていた」
「嘘よ」
 サラは即座に否定する。
 しかし、リドルは相変わらずの笑顔だった。
「嘘だと思いたいなら、思っていればいいさ。だけどそれは、彼女の意思を否定する事になるけどね」
「分かったわ。そういう事ね。おばあちゃんの意思じゃないのでしょう。
クリスマスの日、貴方は私を日記に閉じ込めようとした。
それと同じで、おばあちゃんを騙して、若しくは脅して、それで一緒にいたのでしょう?」
「彼女の意思だよ。僕は騙してもいなければ、脅してもいない。
僕が七年生、彼女が五年生の時だ。彼女は仲間に裏切られ、一人になった。そして、僕を選んだ。ただ、それだけの事だ」
「嘘だ!!」
 サラは一声叫ぶと、頭を抱え耳を塞ぐようにして、その場にしゃがみ込んだ。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ――」
 ナミや圭太に嫌われる祖母。森へ追放されたアラゴグに、二度と会おうとはしなかった祖母。
 そして、リドルとつき合っていた……?
 祖母の優しい笑顔が、記憶から霞む。あの微笑みは、リドルと同種の物だったのだろうか。彼女は、サラが思うような人物ではなかったのだろうか……。
 一方、エリの方も表情を引きつらせていた。ある可能性が脳裏に浮かんだのだ。
 祖母は、母を捨てたという。ナミは、父子家庭で育ったのだと。
 若しも、それが目晦ましだったら? ナミや周囲の者に真実を悟らせない為に。ナミはヴォルデモートに狙われていたというような事を、スネイプは言っていた。それを避けようとしていたのだとしたら?
 可能性は、零ではない。


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2008/01/05