夏休み最終日のダイアゴン横丁は、大勢の買い物客で混み合っている。
サラとハーマイオニーは、ペットショップから雑踏の中へと出て行った。外で待っていたのは、三人の少年少女。ロンは、ハーマイオニーの腕に抱えられた巨大な猫を見て唖然とした。
「君……君、あの怪物を買ったのか?」
赤みがかったオレンジ色の毛、気難しそうな潰れた顔、ややガニマタな四肢。それは、先ほどロンのペットであるスキャバーズに襲い掛かったあの猫に間違いなかった。
ハーマイオニーはどういう訳か誇らしそうに微笑む。
「この子、素敵でしょう。ね?」
「ハーマイオニー、そいつ、危うく僕の頭を剥ぐところだったんだぞ!」
「そんなつもりは無かったのよ。ねえ、クルックシャンクス?」
「それに、スキャバーズの事はどうしてくれるんだい? こいつは安静にしてなきゃいけないんだ。そんなのに周りをウロウロされたら、安心できないだろ」
「それで思い出したわ。ロン、貴方『ネズミ栄養ドリンク』を忘れてたわよ。
それに、取り越し苦労はやめなさい。クルックシャンクスは女子寮で寝るんだし、スキャバーズは貴方の男子寮でしょ。何が問題なの?
可哀相なクルックシャンクス。あの魔女が言ってたわ。この子、もう随分長い事あの店にいたって。誰も欲しがる人がいなかったんだって」
「そりゃ不思議だね」
ロンは吐き捨てるように言った。
五人は、漏れ鍋へ向かって歩き出す。歩きながらも、ロンは用心深くちらちらとクルックシャンクスに目をやる。クルックシャンクスはハーマイオニーの足元をのそのそと歩きながら、じっとロンの胸ポケットを見つめていた。
「ねえ、ハーマイオニー。本当にこの猫を飼うつもりかい? こいつ、絶対スキャバーズを狙ってるよ。スキャバーズがここに入ってるって、分かってるんだ。ねえ、本当はふくろうを買うつもりだったんだろ? 今からでも遅くないよ。さっきの店に戻ってさ……」
「クルックシャンクスを、取り替えて来いって言うの?」
ハーマイオニーは冷ややかな声でぴしゃりと言った。
「馬鹿な事言わないで。私はこの子を飼うって決めたの」
そう言ってのけたのと同時だった。スキャバーズが、ロンの胸ポケットめがけて大きく跳躍した。
猫の割りに大きな身体に突進され、ロンは思わずよろける。スキャバーズは、ロンの胸ポケットを飛び出した。逃走を図るスキャバーズを、ハリー達は慌てて地面に這いつくばって捕らえる。ロンは、クルックシャンクスの後ろ首をむんずと乱暴に掴んだ。
「この化け猫め! 早速スキャバーズに襲い掛かるなんて!」
「そんな扱いはやめて、ロン!!」
ハーマイオニーは、ロンの手から奪うようにしてクルックシャンクスを抱きしめる。
「この子は、ちょっと好奇心旺盛なだけよ。スキャバーズと遊びたいんだわ。だって、ほら、ペットショップを出て初めて知り合った動物なんだもの」
「好奇心だって? ああ、そりゃあ興味があるだろうな。スキャバーズがどんな味――」
甲高い鳴き声がロンの言葉を遮った。
スキャバーズは、自分を捕らえた者の手中から逃げ出そうと暴れていた。ロンは慌ててスキャバーズを受けとり、彼女をキッと睨み据える。
「ナミ! 君、一体スキャバーズに何をしたんだ!?」
「何もしてないよ。ただ、やっと大人しくなってそろそろと顔を出したかと思うと、突然暴れだして……」
きょとんとした表情で答えるのは、金髪の日系人、そしてサラ達と同じ十二歳くらいの少女だった。
No.66
シリウス・ブラックとは、何者なのか。三姉妹は当然、彼の事を何も知らなかった。それを知り、ダンブルドアは「やはり」と言う。
「ナミの事じゃから、娘達に話とらんじゃろう事は、予想がついておった」
「先生。一体何をこの子達にお教えになるつもりで――」
「心配せずとも、余計な話をするつもりはない」
警戒するナミに微笑いかけ、ダンブルドアはサラ、エリ、アリスを順番に見る。
「シリウス・ブラックは、アズカバンに収容されておった。十二年前の罪によってのぅ」
「アズカバン……?」
エリは首を捻る。
サラは聞き覚えがあった。アズカバン。忘れる筈も無い。
「……魔法界の監獄よ。罪人の中でも凶悪な者達が、そこに収容されるの。二ヶ月前、ハグリッドが濡れ衣を着せられて入れられたのも、その監獄よ。――後でハグリッドから聞いたの」
サラは慌てて付け加えた。あの場に、サラ達はいなかった事になっている。ダンブルドアは気づいていたようだが、サラ自信が墓穴を掘ってしまっては、見過ごせなくなってしまうだろう。
その場の誰も、特に不信感を覚えた様子はないようだった。アリスがダンブルドアの方へと身を乗り出す。
「十二年前、彼は一体何の罪を犯したんですか?」
凶悪犯の脱獄。それを、ダンブルドアが態々アリス達へと伝えに来た。それが何故なのかは分からぬが、通常の事ではない筈だ。
きっと、今年もまたホグワーツで何かが起こる。今度こそ、取り残されるものか。今年の自分は、去年とは違う。
ダンブルドアは、気遣うようにナミに視線をやる。
「……私は平気です。もう十二年も前の事ですし、彼らとはそれより前に絶縁していましたから」
ナミは食卓の一点を見つめている。
ダンブルドアは憂うような瞳で、悲しげに話した。
「――シリウス・ブラックは十二年前、十二人の罪無き通行人のマグルと一人の勇敢な魔法使いを殺害したのじゃ」
「無差別殺人……否、十二人は巻き添えですか……?」
「その通りじゃ。彼は、一度の呪文でそれら全てを吹き飛ばした」
サラは思わず息を呑む。たった一度の呪文で、十三人の命を奪う。並大抵の者では出来ない。
それ程の力を持った犯罪者が、脱獄した……。
「……それで、ダンブルドア先生がいらっしゃったという事は、それが私達と何らかの関係が?」
アリスが勢い込んで尋ねる。
ダンブルドアは僅かに眉を動かす。アリスの様子は、何処かわくわくしているようにも見えたのだ。
「どの道、いずれ知る事になるじゃろうから――そして、ならば明確な情報を得ている方が良いじゃろうから、この事を話す」
「先生!?」
「案ずるでない、ナミ。わしが話そうとしておるのは、君が思っておる話ではない。これは、君も知らぬ話じゃ。
シリウス・ブラックは、脱獄前にこんな事を繰り返し呟いていたそうじゃ――『あいつは、ホグワーツにいる』と」
みるみるとナミの目が見開かれる。震える声で、ナミは尋ねた。
「そ、それは……ハリーの事ですか、サラの事ですか。それとも、両方……?」
「『彼』と言っておった」
「それじゃ、ハリーが……!?」
三姉妹は、きょとんとしてナミとダンブルドアとを交互に見る。
「何だよ。一体、何の話だ?」
「ブラックは、死喰人なんだよ」
答えたのはナミの方だった。
ナミは、下唇を強く噛む。まるで、何かを悔やむかのように。まるで、彼を憎むかのように。
「あいつは死喰人だった。『例のあの人』の随一の部下だったんだよ。――当然、自分の主を討った者を怨む筈でしょ?」
サラはハッと息を呑む。
「それで、ハリーが……。ハリーは? 今、彼は何処にいるんですか? もちろん、護衛は付いてますよね?」
「心配無用じゃ。ハリーの事は、信頼を置ける魔女がずっと隣で見守っておる」
サラとエリはホッと胸を撫で下ろす。ナミは窓の外を眺めながら、そわそわと落ち着かない様子だった。
サラとエリが互いに「真似をするな」と言い争いを開始しかけたのを、ダンブルドアの深刻な声が遮った。
「――じゃが、若しかすると、彼はサラがホグワーツに入学しておる事を知らなんだかもしれん」
サラは目をパチクリさせる。
「と、言いますと……?」
「十二年前、ヴォルデモートが力を失った時、君達は日本へと逃走を図った。その時君達の祖母は、自分達が死んだように見せかけたのじゃ。それから数日間――行方を隠す呪文を徹底的に施し終えるまで、君達は世間からは死んだものと思われておった。
シリウス・ブラックが罪を犯し捕まったのは、君達が死んでいると思われていた間じゃ。彼は、サラが生きておる事さえも知らない可能性がある」
「……それはつまり、サラが生きている事を奴が知れば、奴はサラをも命を狙うかも知れないという事ですか?」
それまで黙り込んでいた圭太が口を開いた。
圭太は話を整理するように、慎重に、言葉を選びながらゆっくりと話す。
「では、先ほどそちらの魔法省の方がいらっしゃったのは、その件だったのですね」
それは、問いかけというよりも確認といった響きがあった。
圭太の口から魔法省などという単語が出てくるのは、どうも妙な感覚だった。魔法界との繋がりを拒否する両親。魔女である事に変わりはなく、完全に拒否する事は出来ないナミは兎も角、圭太はマグルだ。魔法界の知識も大して無いであろうに、何故かその言葉に慣れているような印象を受ける。
ダンブルドアは神妙な顔で頷く。
「左様。わしは警告に来たのじゃ」
そう言い、ダンブルドアは明るいブルーの瞳を真っ直ぐサラに向ける。
「シリウス・ブラックが君の生存、そして君がホグワーツに在学している事に気づくのは、時間の問題じゃろう。
約束して欲しい。決して、危険な行動は取らんと」
「はい、先生」
サラは素直に頷いた。ダンブルドアは、エリ、アリス、圭太、ナミへと視線を順に移す。
「そしてもちろんの事じゃが、シリウス・ブラックを己の手で捕まえようなどとは、決して考えぬ事じゃ」
一瞬、自分の所でダンブルドアの視線が止まった気がして、アリスはどきりとする。
しかし、次の言葉ではもうアリスではなく、サラとエリを視界に捕らえていた。
「――例え、何を聞こうともじゃ」
五人は、気圧されるようにして頷いた。
「用件は以上じゃ。それでは、そろそろお暇しようかの」
ダンブルドアはそう言って席を立つ。一家も一斉に席を立ち、ダンブルドアを玄関先まで見送ろうと後に続く。
玄関で靴を履き、扉に手をかけたとき、ずっと俯き考え込んでいたナミが顔を上げ口を開いた。
「ダンブルドア先生」
皆、一様にナミを振り返る。
ナミは拳を握り締める。
「……老け薬の逆の作用がある魔法薬って、ありましたよね? 先生に、お頼みしたい事があるんです。
今年――シリウス・ブラックが捕まるまで、私を生徒としてホグワーツへ通わせてください」
ダンブルドアと圭太は、驚き言葉を失う。
「お願いします。ハリーが心配なんです。当然、お金も払います。都合の悪い事になれば、私が騙したという事にしてくださって構いません。
会う事は無くなっていても、彼らは私の大切な親友でした。だけど、私は何も出来ませんでした。彼らと出会えなければ、あの一年はありませんでした。
――ブラックから、ハリーを守らせてください」
ナミは、真剣な瞳でダンブルドアを見つめる。
「わしは構わんが……良いのかね? ホグワーツは、君にとって辛い場でもあったのでは――」
「平気です」
ナミは毅然と言い放つ。
「では、編入の手続きを行っておこう」
「ありがとうございます」
ナミは深々と頭を下げる。ダンブルドアは、真夏の日差しの下へと出て行った。
上体を起こし、奥へと戻っていくナミの背に、圭太は問いかける。
「……本当に、大丈夫なのか」
「大丈夫だって言ってるでしょうに。教師とかじゃあ、務まらないだろうけどさ。生徒なら、私の能力でも問題無いって」
ナミの声は、あっけらかんとしている。圭太は、苛立つような声で言った。
「その話じゃない。だって、あそこはシャノンが――」
「それぐらい何でも無いよ」
ナミは立ち止まり、静かな声で言う。振り返った時にはもう、笑顔だった。
「……女ってのは、いざという時には強いんだから」
そして居間を通り抜け、二階へと上がって行く。途中だった洗濯物を片付けなくてはいけない。
アリスは、直ぐ後について行った。
二階に上がり、直ぐ右手にあるのはサラの部屋。その隣がナミと圭太の部屋だ。部屋はどれも開け放していて、ナミが自室にいる事は容易に分かった。
「――ねぇ、お母さん」
「なあに? 手伝いでもしてくれるの?」
ナミは洗濯物を畳みながら言う。アリスは戸口の所にもたれかかり、静かに言った。
「ホグワーツへ行くのは、ハリーだけの為なの?」
ナミは答えない。
端から返事は期待していない。アリスは続けた。
「お母さん、さっき、言いかけた言葉を変えたわよね?」
やはり、ナミは答えない。
「……女全般も強いかもしれないけど、言おうとしたのは子を守ろうとするときの母親じゃないの?」
「何を言い出すかと思ったら。ハリーは別に、私の子じゃないでしょうが」
ナミは茶化すように笑って言う。
アリスは壁から背中を話し、仁王立ちになる。
「お母さんは、どうしてサラを嫌うの? サラが、小学校で報復をしていたから?
違うわよね。そんな事を言ったら、エリだって小四の頃は喧嘩ばかりだった。
それに、お母さんは生まれた時からサラとエリを区別してる。サラだけを孤児院に捨てた。どうしてサラだったの?」
「……アリスに話すつもりは無いよ」
ナミは背を向けたまま、手元を動かしたまま話す。
「アリスだけじゃない。エリにも、サラ本人にも話すつもりはない。子供達に話したところで、理不尽な理由でしかないから。認められる筈もないからね。寧ろ、私が言うのもおかしいけれど、その理由を認めてしまうような子にはなって欲しくない」
「認める為じゃない。ただ、知りたいだけよ。
――シャノンのおばあさんが、何か関わってるの?」
「……」
アリスはそれを、肯定と受け取った。
「シャノンのおばあさん、お母さんを娘だと認めなかったって聞いたわ。それが原因? だから、今度はお母さんが、サラを娘だと認めないの?」
「やめなさい、アリス」
ぴしゃりと言う声は、圭太のものだった。圭太が、廊下の部屋の前に当たる所に立っていた。
「何処でそんな話を聞いたのか知らないが、人の過去を無意味に探るのは良い趣味じゃない」
「……お父さんもよね」
アリスは腕を組み、圭太を横目で眺める。
「お父さんはどうして? お父さんは親との不仲も無かったんでしょ? シャノンのおばあさんの事は、継母として認めてなかったみたいだけど」
「父さん達はただ、サラを遠ざけたいだけだよ」
「だから、それがどうしてって聞いてるのよ。どうしてサラを娘として認めないの?」
「認めないも何も、私達はサラの親じゃないんだよ」
答えたのは、ナミだった。ナミはやはり背を向けたまま、呟くように話す。
「サラの親はシャノンだけ。お母さん達はサラを捨てたんだよ」
「だから、どうして捨てたのかって事を――」
「それは、私がまだ未熟者だったからかな。逃げ切りたかった。それだけだよ」
呟く声は、後悔の念がこもり寂しそうなものだった。
一ヵ月後、八月三十日の朝、サラは足音を立てぬように忍び足で階段を降りていた。
降りた所は、ローブを着た者達がひしめくパブ。中には、どう見ても人間とは思えない者もいる。朝とは言え、そこには少なくない客の姿がある。
「お早うございます、シャノン様。何に致しますか?」
パブの亭主、トムが飛んできた。サラは店内に目を走らせながら、ぎこちない笑みを浮かべて言う。
「ありがとうございます。でも、今朝は外で食べる予定なので……」
そう言い置いて、サラはそそくさと中庭へ出て行こうとする。しかし、二メートルも進まぬ内に聞きなれた声がした。
「おはよう、サラ。こんな早い時間に、何処へ行くんだい?」
サラは立ち止まり、表情を強張らせた。見つかってしまった。
咄嗟の嘘も思いつかない。そもそも、嘘なんて吐けば、ばれた時に尚更話がこじれてしまうだろう。
何とか曖昧に終わらせる、という選択肢はさっぱり消えていた。
「え、えーと……ドラコと約束してて……」
ハリーの表情から、すっと笑顔が引っ込んだ。
だから言いたくなかったのだ。サラとドラコの仲には文句を言わずとも、朝から彼の名前を聞いて気分が良い筈がないだろう。それに。
「それじゃ、サラがエリ達より一人だけ早く来たのは、マルフォイとデートをする為だったんだね」
当然、その結論に至るであろう事も予想できた。第一、事実である。
サラは昨夜、一人だけ先に漏れ鍋へやって来た。そしてハリーも、ここに泊まっているのだ。伯母を膨らましてしまい、家出をしたらしい。
「でも、別に、ドラコの為だけで来た訳じゃないわ。ハリーにも、早く会いたかったもの……本当よ?」
「いいよ、別にフォローなんてしなくても。別に僕は怒ってなんかいないからね」
そう言って愛想の良い笑みを浮かべようとするが、その笑顔は上手くいっていない。
「態々、こそこそと隠れて出かけようとしなくてもいいのに。僕は、君がマルフォイと付き合う事に反対した覚えはないよ?
君がここへ来た理由が、僕に会うのは二の次で、マルフォイに会うのが一番の目的だろうと、それぐらいで腹を立てたりはしないさ」
「ごめんなさい……」
「どうして謝るんだい? 腹を立ててなんかいない、って言ってるのに。本当に、僕は二の次だからかい?」
「そうじゃないわ。私、ハリーに会いたかったわ。もの凄く。順番なんて無いわよ」
サラは慌てて否定する。言葉の難しさを噛みしめていた。
「ただ、貴方達って仲が悪いじゃない? だから、ドラコとの約束の事は言わない方がいいかなって思って……何か聞かれたら面倒だから、朝の内にこっそり出かけようとしたの。ごめんなさい」
「いいよ、もう」
ハリーは、傍の空いている席に腰掛ける。
ここまで必死に言い訳をされては、まるで自分が駄々を捏ねる独占欲の強い子供みたいだ。
「僕を避けようと朝の内に出かけようとしたって事は、マルフォイと約束してる時間はまだなの?」
「ええ。昼過ぎからだもの。お互い、昼食を済ませてから」
「それじゃ、午前中は空いてるんだね。一緒に店を見て回らないか? 一ヶ月近くここで暮してるから、ダイアゴン内の店は殆ど分かるようになったんだ。良かったら、案内するよ」
サラはハリーの正面の椅子を引きながら、頷いた。
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第1部
希望求めし少女たちは
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2008/02/17