朝食を終えると、二人は裏庭の煉瓦の壁へと真っ直ぐ向かった。ゴミ箱の上、左から三番目の煉瓦。それを杖で軽く叩くと、ダイアゴン横丁へのアーチが出来る。
「ねえ、ふと思ったんだけど」
 サラはアーチを潜りながら、隣を歩くハリーを横目で見上げる。
「この入り口って、誰かが悪戯でゴミ箱を動かしたりしたら、おしまいじゃない?」
「それは大丈夫みたいだよ」
 ハリーは事も無げに言葉を返す。
「僕もちょっと気になってね、ゴミ箱を動かそうとしたんだ。と言っても、持ち上げるだけで直ぐ同じ場所に戻すつもりだったけど。
でも、持ち上げる事も出来なかった。何か、魔法であの場所にくっつけられてるのかもしれない」
「ふぅん……」
 サラはちらりと背後を振りかえる。煉瓦のアーチは既に、元通り固い壁の姿となっていた。
 幾多もの店が立ち並ぶ通りの入り口で、ハリーは足を止める。
「さてと……それじゃ、何処から行こうか。
そうだ。教科書はもう買い揃えた?」
「まだよ。でも、それはドラコと行く約束をしてるの。
そうね……買うとしたら、制服が新調しなきゃ小さいわ。せっかく案内してくれるのに普段と変わりないけれど、マダム・マルキンの洋装店にでも行く?」
 ハリーは頷き、二人は雑踏の中へと歩を進める。

 マダム・マルキンの店へと向かいながら、サラは呆れたように言った。
「それにしてもハリーから誘ったくせに、案内したい店とかは無いの?」
「ある事はあるよ。きっとサラも、気に入ると思うよ。でも、それは最後に取っておきたいからね。
その店以外だと、カフェやアイスクリーム・パーラーだからなぁ。さっき朝食をとったばかりだもの。
でも、買いたい物があれば言ってよ。何処に何を売ってる店があるのかは、大体把握してるからさ」
 そして、ハリーはニヤリと笑う。
「ところでサラ、一応それでも背が伸びてるんだね」
「失礼ね。入学当初に比べれば、身長差も少なくなってるでしょう」
 そう言って口を尖らせる。それから、得意気にほくそ笑んだ。
「この二年間で、十センチも伸びたのよ。
女の子の方が成長期が早いもの。その内、ハリーの身長を追い抜かすかもね?」
「どうかな。もう一、二年もすれば、サラはそれ以上身長が伸びなくなるだろうし、僕の方は逆にこれから伸びるだろうから」
 サラは言葉を詰まらせ、恨めしげにハリーを見上げる。

「それで? 最後に取っておきたい、案内したい店って何処なの?」
「それは最後のお楽しみだよ。
――ほら、着いたよ。制服を買った後にでも案内するよ」





No.67





「凄い……」
 制服を新調し終え、ハリーに案内されたのは「高級クィディッチ用具店」だった。そこの陳列台に置かれた商品を見て、サラは感嘆の溜め息を漏らした。
 一本の箒だった。
 ただの箒ではない。柄の滑らかなラインと言い、尾の輝くほどの艶と言い、そこらの箒とは――当然、ニンバスとも――全くの別格である事は明らかである。
「炎の雷・ファイアボルト。今月の上旬に出たばかりの最新作さ」
 ハリーがうっとりと呟く横で、サラは箒の脇にある説明書きを読み耽っていた。
 値段は書かれていない。店に問い合わせるように但し書きがある。
 一体いくらするのか、予想もつかなかった。
 サラは、グリンゴッツの祖母から受け継いだ金庫を思い返す。
 あれほどの金貨があれば、恐らくこの箒を購入する事は不可能ではないだろう。だが、祖母の所縁の物は決して無駄にしたくなかった。
 ハリーが言っていた通り、サラはじっと箒に見入っていたし、この箒を気に入った。
 夏休みがあと二日で終わってしまう事を、悔やみもした。もっと早くに来ていれば、もっと長くこの箒を眺めに通う事が出来たのに。

 ファイアボルトに見惚れている内に午前の時間は過ぎ、ハリーとサラは昼食を取る事にした。
 カフェ・テラスに並んだ鮮やかなパラソルの下で、二人は人混みを尻目に食事を取る。サラは辺りを見回し、恐る恐る尋ねた。
「ねぇ、ハリー……シリウス・ブラックの事、聞いた?」
 ダンブルドアは、ハリーが狙われていると話しに日本まで来た。サラも、生きていると分かれば恐らく狙われるだろうと。
 ハリーは、その話を知っているのだろうか。
「三週間近く前、アズカバンを脱獄した囚人だろ。ナイトバスの車掌さんに教えてもらった。ヴォルデモートの支持者で、一つの呪文で十三人も殺した、って。
そうだ。それで、ナイトバスを降りた途端、ファッジが待ち構えてたんだ。えーと……僕がした事って、耳に入ってる?」
 サラはこくりと頷いた。ハリーが伯母を膨らましてしまったという話は、ロンから手紙で聞いている。
 ハリーは決まり悪そうにしながらも、話を続ける。
「それで……僕、もちろん態とやった訳じゃないんだけど……だけど、去年のドビーの件は咎められただろ? だから、これはもう駄目だって思ったんだ。
けど、ファッジは何もその事について咎めなかったんだ。そりゃあもちろん、ラッキーだけど……でも、どうしてだろう? 魔法省大臣だよ? そんな大層な人物が、態々お出迎えなんて……」
「そりゃあ、生き残った男の子ハリー・ポッターですからね」
「茶化すなよ」
「茶化してる訳じゃないわ……。大臣がハリーの身を案じた理由は、私が思ってるので間違いないと思う。大元を辿れば、ヴォルデモートが力を失ったのが、貴方の所為だからよ」
「如何いう事? まさか、今年も――」
「――サラ?」
 不機嫌そうな声に呼ばれ、サラは背後を振りかえった。ハリーも、その人物を視界に入れる。
 サラの背後にある、低い茂み。彼はその茂みと、人混みとの間に立っていた。不健康なまでに白い顔、尖った顎、そして滑らかなプラチナブロンド。
 ドラコは、ジトッとした視線でサラとハリーを見下ろしていた。





 新学期を間近に控えたダイアゴン横丁は、いつもながら客足が多い。騒がしい人混みの中を、二人は無言で歩いていた。
 サラは、一歩前を歩くドラコをそっと盗み見る。
 怒っているのは明らかだった。ドラコは無言でずんずんと前へ進む。気をつけて歩かねば、置いていかれてしまう。
 ドラコが一体何に怒っているのか、サラには心当たりが無かった。
 時計を見るが、まだ約束の時間よりも早い。昼食を終えてから待ち合わせ場所に行った所で、遅刻する可能性は全く無い。
 夏休み中、手紙のやり取りも決して少なくはなかった。
 一体、何が不満だというのか。
 薬問屋で魔法薬学の材料の補充を買う間も、二人は終始無言だった。ドラコはむっつりと黙り込んだままだし、サラも話しかけようにも何を話しかけて良いのか分からない。
 フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店へ来るまでも、終始無言。店の前まで来ると、店長が分厚い手袋を嵌めながら出てきた。
「ホグワーツかね? 新しい教科書を買いに?」
 言いながら、ショーウィンドーの所に置いた鉄製の檻へと向かう。
「ええ。二冊ください」
 ドラコが言うと、彼は泣きそうな顔を見せた。
 店長が『怪物的な怪物の本』と闘っている間、サラは恐る恐るドラコに尋ねかける。
「あの……ドラコ? 何か怒ってる?」
「別に」
 ドラコの返事は素っ気無い。
 店長の叫び声が響く。
 サラは、段々と腹が立ってきた。何故、自分ばかりがこうも気を使わねばならない。ドラコに言うつもりが無いのならば、サラも気にする必要は無い筈だ。
「そう」
 同じように素っ気無く言うと、思ったよりも冷たい調子になってしまった。
 店長がやっとの思いで取り出した本をサラとドラコは受け取り、同時に貰った紐で咄嗟に縛る。紐があるならば檻に入れずとも全て紐で縛っておけば良いのに、と思ったが、ドラコもサラも、それを言ってやるほど機嫌は良く無かった。
「他には?」
 店長は手袋を外しながら問う。サラが、教科書リストに眼を通しながら答えた。
「『未来の霧を晴らす』をください。カッサンドラ・バブラッキーの……」
「ああ、君も『占い学』を始めるんだね?」

 店長に案内されるままに、サラとドラコは店の奥へと向かう。
 案内された場所は、占い関連の書物が置かれたコーナーだった。サラは出来る限り普段の調子で、ドラコに問いかけた。
「ドラコは、占い学は取らなかったのね?」
「ああ。占いなんて最も信憑性の低い魔法の一つだからな。それよりは、数占いやルーン語なんかの方がずっと役に立つ」
 サラはカチンときて、思わず刺々しく言い返す。
「だけど、ケンタウロスは星の動きを読むし、予見者は魔法省公認の占い師だわ」
「もちろん、中には本当の予言をする事が出来る優秀な魔法使いもいるだろうよ。例えば、サラのおばあさんみたいに。
でも、そんなの一握りの能力者だけだ。一般的じゃない。どうしてダンブルドアがこの教科を廃止しないのか、ほとほと疑問だよ」
「そんな事を言えば、魔法薬学や薬草学だって、専門の道にでも進まない限り不要な教科だわ。
いいじゃない。占い学が教科としてあったって。どうせ、選択教科だもの。不要だと思う人は取らなければいいだけの話だわ」
「そうだな。愛しいハリー・ポッターと一緒に取った教科だ。サラにとっては大切だろうな。
デートの約束をしていた日に、その前に他の男と会ってるなんて、一体どういうつもりだ? この後は、誰と会うつもりだ?」
 サラは一瞬、ぽかんとした。
 次いで、思わず笑みを漏らした。なるほど。ドラコは、そんな事を気にしていたのか。
 去年の有名人で奥様達のアイドルだったロックハート相手ならば兎も角、あまりにも的外れな嫉妬に笑みを隠し切れない。
「何言ってるのよ。ハリーはただの友達でしかないわ。ドラコも知ってる事でしょう?
それに、私もハリーも『漏れ鍋』に泊まっているんだもの。否が応でも会う事にはなるのよ」
 しかしドラコの顔を見た瞬間、笑ってはいけない場面だった事に気がついた。だが、もう遅い。
 店長が戻ってきた。サラに、『未来の霧を晴らす』を差し出す。
「他にご用件は?」
「もう一人、店員を呼んでくれませんか」
 ドラコは、サラの方を見ずに話す。
「僕達、選択教科が一緒ではありませんから、時間が掛かって仕方が無いので」





 十分後には、サラは教科書の包みを抱え、一人でフローリッシュ・アンド・ブロッツ書店を出ていた。
 買い物袋を複数提げ、前屈みになって、ダイアゴン横丁の通りをドスドスとのし歩く。まだ日は高いが、何処の店にも寄ろうとは思えなかった。
「馬鹿みたい!」
 漏れ鍋へと真っ直ぐ向かいながら、サラは吐き捨てるように呟く。
「友達とも一緒にいるなって言うの? 約束前の時間に誰と会おうと、私の勝手じゃない。
大体、ドラコだって人の事言えないじゃないの。
帰りのコンパートメントに、どうしてパンジーもいたのよ? どうしてパンジーは、これからも諦めないなんて言ってるのよ? 希望を持たせてるのよ?
ドラコが、きっぱりとケジメをつけていないからでしょう。自分の事は棚に上げて、他人を責める資格なんて無いわ。
おばあちゃんの職業だって知ってるくせに、態々それを貶す事もないじゃない。いっつも、そうよ。ドラコも、ハリーとロンも。無駄に張り合って、些細な事で喧嘩して、互いに絡んで。私にどうしろって言うのよ」

 漏れ鍋に着き、二階まで上がると、踊り場にハリーがいた。
 ハリーは、恐る恐る尋ねる。
「サラ……どうだった? デート――」
「知らない」
 冷たい口調で言い捨てると、サラは真っ直ぐ自分の部屋へと入っていった。
 そもそもの原因は、ハリーだ。ハリーが午前中に案内をしようかなんて言わなければ、こんな事にはならなかった。
 八つ当たりだという事は自分でも承知していたが、誰かに責任転嫁せずにはいられなかった。やりきれない思いは誰かにぶつける事で、幾分か発散する事が出来た。
 部屋に入り、荷物を投げ出してベッドに横たわる。
 そのまま不貞寝しようとしたが、ガフガフという音と何やら破壊されている音で、慌てて飛び起きた。『怪物的な怪物の本』だった。フローリッシュ・アンド・ブロッツ書店で貰った紐は投げた拍子に外れ、紙袋は噛み切られていた。あろう事か、一緒に入れられていた本も大きく破損している。
 サラはゆらりと立ち上がる。『怪物的な怪物の本』は暴れまわり、備品の化粧台の椅子までも被害に遭っていた。備品も本も、この程度の破壊ならば魔法で直せるのだから、その点については問題無い。
 だが、例え直せると言えども、本の破壊は許し難い事だった。
 サラはベッドから降り立ち、破壊された椅子の方へと歩いていく。本は椅子を離れ、何も無い所で床を傷つけ、空を噛んでいるところだった。
 破壊された椅子の脚を一本、そっと拾い上げる。
「……くたばれ」
 折れて尖った脚の先は、見事『怪物的な怪物の本』の表紙に深々と刺さった。本は串刺しの状態で、大人しくなる。
 それを見届けると、サラは再びフラフラとベッドへ戻っていった。なんだか、一気にどっと疲れた気がする。
 その晩、夕食の頃になってもサラは部屋から出て来なかった。


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2008/03/31