少女は、急な勾配を我が家へと急いでいた。雲はどんよりと厚く垂れ込め、今にも雨が降り出しそうだ。
 天気とはうってかわって、少女の気分は晴れ晴れとしていた。今日は、彼女の誕生日。イギリスまで勤めている父親も、今日は休暇をとり、家で彼女の帰りを待っている。
 少女に母親はいなかった。彼女の幼い頃に亡くなったのだと聞かされている。
 立派な門構えの寺が見えてきた。これが、少女の家である。寺と言えども形だけ。仏具の類は一切無く、何の宗教に属するのかさえ、少女は知らない。

 二人暮らしには大きすぎる家の上空に、何か奇妙な物が浮かんでいる事にふと気がつく。
 家の敷地と同じぐらい大きな髑髏。髑髏の口からは、蛇がまるで舌のように這い出て来ている。緑がかった靄を背景に、小さなエメラルド色の光が集まってギラギラと形作っている。
 それは、少女の不安を駆り立てた。先程までのウキウキとした感情は急激に落ち込んだ。いても立ってもいられなくなり、少女は門の中へと駆け込む。
 庭の石畳を駆け抜け、玄関の扉をガラリと開ける。そこには、青い顔をした父親が立っていた。手には、杖を握り締めている。
「お父さん!? 一体――」
「居間へ走れ! 飛行粉を横に置いてある。例の場所へ逃げるんだ!」
 少女は、不安が現実の物となった事を知った。
 例の場所。それは、いざという時にそこへ飛ぶように日々言われていた場所だ。一度も、行った事は無い。
 そこへ行く事は、これが父親との永遠の別れになる事を意味していた。
 今、イギリスでは「例のあの人」が日々勢力を拡大していると言う。その魔手はまだ日本までは届いていないが、それでも父はイギリスと繋がりがある。危険性は零ではなかった。
「お父さん……」
「急げ。お前は、魔力の気配が薄い。遠くまで逃げれば、奴も居場所を直ぐには――」
 冷たい声が父の力強い声を遮り、次いで轟音と共に緑色の光が当たりに満ちた。





No.69





 徐々にスピードを落としていく汽車に、サラは眉を顰めた。
 腕時計を確認するが、まだ到着するには早すぎる。
 いつの間にか外は雨が降り出している。ピストンの音が弱くなるのと反比例して、雨音は強くなっていく。
 とうとう、汽車は完全に停止した。その反動で、何処かで荷物が落ちるような音がする。
 そして車内が真っ暗になったのは、突然の事だった。驚いたような悲鳴が、他のコンパートメントから聞こえた。
 視力を奪われ、雨音はいっそう激しく聞こえた。落ち着かないさざめきが、至る所から聞こえてくる。
 何事なのか運転席に行って聞いてみようと、サラはふと席を立った。ゆっくりとコンパートメントの扉を開け、通路を見渡す。魔力を持つ生徒達の気配は分かっても、壁やペットの物は分からない。
「ルーモス」
 低く呟き、杖先に明かりを灯す。青白い光が、辺りをぼんやりと照らす。
 薄暗がりの中を、ゆっくりと前方へと歩いていく。
 一両目へ移ろうとした時、目の前に人影が現れた。サラは相手の顔を照らす。違和感があるが、気配は――
「エリ……よね?」
「サラか。今、ここって何両目だか分かるか?」
「二両目よ。何? 暗闇で方向感覚が狂ってしまったの?」
 鼻で笑いながら言ったが、エリはそれに答えなかった。図星らしい。
「どうしたのよ、その髪? 切ったの?」
「ダイアゴン横丁で買った、悪戯グッズ。この髪ゴム付けると、その先が無くなるんだ。多分、縮小呪文とかの応用だと思う」
 言いながら、エリはいつもの結び目の所に付いているゴムを引っ張っる。
 言われてみれば、輪郭はショートカットでも、髪の先は切ったと言うよりも結んだ形だ。
「それ、やめた方がいいわよ。ただでさえゴツイのに、髪が無かったら女の子に見えなくなるわ」
「うるせーよ。余計なお世話だ。
それより、何が起こったのか分かるか?」
 エリは、きょろきょろと辺りを見回す。サラは首を振った。
「分からないわ。それで今、運転席へ聞きに行こうとしていたの」

 その時突然、冷たい風が吹き抜けた。生徒達の騒ぐ声は聞こえなくなっていた。雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
 エリの表情が強張り、サラは咄嗟に背後を振りかえる。
 杖明かりに照らし出されたのは、恐ろしいほどに不気味な姿だった。
 顔を覆い隠すようにしてマントを被った人影。だが、人の気配はしない。マントから覗く手は腐敗しているかのようは灰白色で、醜い瘡蓋に覆われている。
 サラは、書物のみでこの生物を目にした事があった。吸魂鬼。アズカバンの看守だ。
 吸魂鬼は、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。サラは前へ進み出て、杖を構えた。呪文だけは知っている。使えるかは別だが。
「エクスペクト・パトローナム!」
 杖は何の反応も見せない。高度な呪文だ。練習した事も無いのだから、やはり無理があるか。
 サラは構えを変え、杖の振り方を慣れた物に変える。
「インペディメンタ!」
 光は確かに吸魂鬼を直撃したが、何の効果も無かった。守護霊の呪文しか効かないようだ。
 ガラガラという音がした。吸魂鬼が息を吸い込んでいる。息だけでなく、他の物も吸い込んでいるように見えた。
 サラもエリも、突如襲い掛かった冷気に身体を震わせる。寒気と共に、記憶が走馬灯のように駆け巡る。
 小さな杖が、サラの手から滑り落ちた。明かりが消え、カラカラと杖の立てる音が辺りに響く。
 崖の遥か下方に打ち寄せる荒波。男の声と、冷たい仮面。緑色の光と轟音。落下する金の光。教師やクラスメイト、そして家族の冷たい視線。偽りの笑顔を向ける教師。集団で襲い来るクラスメイト。いない物として扱う家族。柵を越え、宙に浮き上がる身体。落ちていく祖母――
 吸魂鬼は、真っ直ぐこちらへと向かってくる。そしてサラはふと、吸魂鬼の目的は自分でない事に気がついた。眼があるのかも定かでないが、確かに、吸魂鬼の意識はエリへと向けられていた。
 エリは虚ろな眼をしていた。冷たい床に膝を着き、ぼんやりと吸魂鬼を見あげている。
 吸魂鬼はサラの横を素通りして行った。サラには眼もくれない。サラは振り返り、吸魂鬼の横をすり抜け、エリの正面に立つ。
 絶望的に思われた。抵抗する手段は、何も無い。全身の毛が逆立ち、声は震えていた。
「貴方が探しているのは、シリウス・ブラックでしょう……。エリは何も関係無いわ。ここにブラックはいない。立ち去れ……!」
 果たして、サラの言葉を理解しているのだろうか。例え理解しているとしても、吸魂鬼にはサラの言う事を聞くつもりはさらさら無い様子だ。ただガラガラと音を立てながら、滑るようにして近づいてくる。
 サラは吸魂鬼に背を向けると、エリの顔を抱え込むようにして抱きしめた。危険だ。奴は、エリを狙っている。
 ……何故、こんな奴を守ろうとする?
 一つの疑問が、サラの胸中に浮かんだ。入学前の十年間。サラも祖母も、家族から厄介者扱いされていたのだ。祖母の死で、それは更なる物となった。皆、サラを迫害した。その記憶が、鮮明に思い出される。エリも、例外ではないのだ。
 この世に幸福など無い。サラはそれを知っている。今更、どうして希望が抱けようか。これからも、サラが幸せになる事など無いのだ。決して――

「ここにブラックはいない」
 誰かの声が聞こえた。強い調子の、男の声。
 サラの時と同じだ。吸魂鬼が動く様子は無い。再び、男の声がした。
「エクスペクト・パトローナム」
 サラはエリを胸に抱いたまま、振りかえった。
 吸魂鬼の向こうに、人影がある。彼が持つ杖の先から、銀色の光が飛び出した。何かの形をしているようだが、吸魂鬼に見え隠れして、こちらからは分からない。光は吸魂鬼に向かい、吸魂鬼はサラ達の横を通り過ぎその場を立ち去った。
 一両目と二両目の明かりが点いた。突然の明るさに、サラは眼を瞬く。エリがもぞもぞと動き、サラを突き放した。罰の悪そうな顔で、よろよろと立ち上がる。
 明かりの元で、サラは改めて男を見た。大人の男だった。顔は青白くやつれていて、くたびれた継ぎ接ぎだらけのローブを着ている。
 パキッという音を立てて板チョコを割ると、彼は穏やかな笑みを浮かべてそれを差し出した。
「気分が良くなるよ。食べるといい」
「ありがとうございます……」
「どうも……」
 サラとエリは、困惑しながらもチョコの欠片を受けとる。
 二人にチョコを渡すと、彼は運転席の方へと去っていった。それを呆然と見送りながら、エリは呟くように言った。
「……なあ、サラ」
「何?」
「あの人、明るくなってから、驚いたような顔で俺の事見てなかったか?」
「気のせいじゃない?」
 言いながら踵を返し、ドラコ達とのコンパートメントへと戻っていく。
 明るくなってしまえば、運転席まで行く用も無い。
「そうかなぁ……?」
 エリは、手にしたチョコレートを一口かじった。





「ナミ! ナミ!!」
 呼ばれているのは、自分の名だけではなかった。切迫した様子で叫ぶ声。
 眼を開けると、ハーマイオニーの顔が一番に視界に入った。それから、アリスやジニー、懐かしい顔。
 どうやら、自分は気絶してしまったらしい。ナミが起き上がると、皆の表情は僅かに和らいだ。しかしそれでもまだ心配そうな顔をしており、視線をナミの横へと移す。
 ナミの横には、ハリーが倒れていた。ナミは慌ててハリーの傍らに膝を着き、覗き込むようにする。
「ハリー!? 大丈夫?」
 ハリーが、僅かに呻き声をあげる。そして、眼を開いた。一同、ホッと胸を撫で下ろす。
 ロンとハーマイオニーが、ハリーを抱えて席に戻した。車内が暗くなるまで奥の座席で眠っていた者が、ナミに手を差し出す。ナミは大人しくその手を借りて立ち上がり、席に座った。アリスはまだ、心配そうにナミの顔を見つめている。
 ハリーは辺りをキョロキョロと見回す。
「何が起こったの? あいつは何処に行ったんだ? 誰が叫んだの?」
「誰も叫んでないよ」
 ロンが心配そうに答える。
 どうも、ハリーは自分に何が起こったのか分かっていないようだった。恐らく、ナミと似たものを見たのだろう。もしくは、音のみか。
 ちょうど、十八年前の今日だ。陰山寺の上に、闇の印が現れた。ナミの父親は、ヴォルデモートの手によって殺された……。
 パキンと言う大きな音で、皆飛びあがった。リーマスが、大きな板チョコを割っていた。やはり、変わっていない。懐かしい光景に、ナミは微かに笑みを漏らす。
 リーマスは、チョコの欠片を子供達に配る。ハリーとナミには、中でも一番大きな欠片を渡した。ナミは、渡されたチョコを一口かじる。途端に、冷え切っていた身体が指先までじんと温かくなるのを感じた。
 ハリーは受け取ったものの、口をつけない。リーマスはハリーの質問に答え、チョコを食べるように念を押す。そして、コンパートメントの扉へと向かう。
「私は運転手と話してこなければ。失礼――」
「待ってください。私も――」
「君は、ここで休んでいた方がいい」
「……はい」
 リーマスは、通路へと消えていった。
 互いに聞きたい事はあったが、今この場で話す訳にはいかない。後にしても、時間はたくさんある。
 それに彼の言う通り、今は少し休んでいるべきだ。
 ナミは壁にもたれ、動き出した窓の外の風景をぼんやりと眺める。情け無い。何が「ハリーを守る」だ。これしきの事で気絶していては、先が思いやられる。
 自分は無力だ。再びホグワーツを訪れても、やはり昔と変わらぬだろう。授業は辛く、その度にシャノンの言葉を思い出す事になるだろう。
 今更あの台詞を思い出したところで、とうの昔に絶望し諦めたナミには、痛みなど無い。シャノンはもう、昔の人なのだから。もう、いないのだから。
 ――でも、あの子がいるんだよね……。
 憎いほどに、シャノンとそっくりの娘。魔力の気配も、性格も。昔のシャノンを知る人の話では、容姿も瓜二つだと言う。
 何も、ここまで奴に似なくても良い物を。

 ふと、対向線上に座るジニーに視線が行った。ジニーは隅で縮こまり、ガタガタと震えていた。
 昨夜の、廊下での会話を思い出す。先学期の事件。吸魂鬼で、再びそれが思い出されたのだろう。
 ナミはそっと席を立ち、ジニーの横に座る。そして、そっと背中を撫でた。ジニーは青い顔をして、小声ですすり上げている。
 ハーマイオニーがやって来た。彼女はジニーの傍まで来て、慰めるようにジニーを抱きしめる。
 ナミはジニーの手にある物を見て言った。
「ルーピン先生から頂いたチョコを食べるといいよ。本当に効くんだから。
――ハリーや、皆も」
 そう言って皆の方を振りかえり、ちょっと笑ってみせる。
 そこへ、リーマスが戻ってきた。リーマスはコンパートメントの中を見回し、苦笑する。
「おやおや。チョコレートに毒なんか入れてないよ……」
 皆一様にチョコをかじった。
 リーマスは席に戻りながら話す。
「あと十分でホグワーツに着く。ハリー、ナミ、大丈夫かい?」
「はい」
 ハリーは、呟くように言った。
 ナミは、ただ頷いただけだった。再び自分の無力さを思い出し、罰が悪かった。





 サラがコンパートメントへ戻ると、ドラコがちょうどコンパートメントから出てきた所だった。
「どうしたの、ドラコ? 何処へ行くの?」
 戻ってきたサラを見て、ドラコはホッと息を吐く。そしてサラと一緒に、再びコンパートメントの中へと戻った。
「サラを探しに行こうとしてたところだよ。良かった、何も無かったみたいで。
サラは見たか? 吸魂鬼が、この汽車に乗り込んできたんだ……。父上が言ってた。魔法省の遣いさ。ブラックの事は当然、知ってるだろ? それで、アズカバンの看守がホグワーツの護衛に当たるらしい」
「そう……」
 サラは強張った表情で相槌を打つ。では、吸魂鬼はホグワーツへ行ってもいるのか。あの感覚は、二度と味わいたくないものだった。
 ドラコは何か言いたげな様子で、ちらちらとサラの方を伺っている。それに気づき、サラは苦笑した。
「若しかして、ブラックが監獄で呟いていた言葉も、耳に入ってるのかしら?」
「え――あ、ああ――うん、まあ。
それじゃ、君はその話は知ってるんだな?」
「ええ。ブラックはハリーを狙っている。そして私も、生きている事を知れば狙われるかもしれない、って。
絶対にブラックを捕まえようなんて馬鹿な真似はしないように、って念も押されたわ。
変よね。私だって、態々自分から飛んで火に入るような事はしないわよ。ねぇ?」
「あー……ウン、そうだな」
 歯切れの悪いドラコの返答に内心首を傾げつつも、サラは話を続ける。
「それで思い出したわ。ドラコに、手伝って欲しい事があるの。
……私の実父が、今も生きているらしいのよ」
 サラは珍しく、満面の笑みだった。純粋に嬉しそうに話す。
「私の養父母が、そんな話をしていたそうよ……。アリスから聞いたの。父の所に魔法省が来て、それが実父の事と関係してるんじゃないかと話してたって。
スネイプは私の実父の事を知っている。いつも、その事を引き合いに出すもの。ホグワーツの生徒だったのかも知れないわ。
私、お父さんに会いたい。私のお母さんは、私を孤児院に捨てた。だけど、父親はきっと、おばあちゃんがそうだったように、愛情を注いでくれてたんじゃないかと思うの」
「……」
「私……お父さんを、調べたいの。そして会いたい。
ねぇ、ドラコ。お父さんを調べるのに、協力してくれないかしら。ドラコのお父さんは、何か知らないかしら」
 ドラコは視線を泳がせていた。一体、何を動揺しているのだろうか。
「あー……でも、例え分かったとしても、会えるとは限らないんじゃないか?
それに、今まで生死も分からなかったんだろ? そんなに隠されてるんだったら、知らない方がいいのかもしれないし……」
「ドラコ、何か知ってるの?」
「いや、知らない。
知らないけど、でも――ああ、ほら、もう直ぐだ。ホグズミードが見えてきた。荷物を纏めよう」


Back  Next
「 The Blood  第1部 希望求めし少女たちは 」 目次へ

2008/04/07