プラットホームには、冷たい雨が降りしきる。
 喧騒の中を人波に従って流され、サラ達はぬかるんで凸凹になった馬車道に出た。そして、思わずその場で立ち止まった。
 そこにあるのは、百台はありそうな数の馬車。問題は、その馬車を引いている馬だった。否、これを馬と呼ぶのだろうか。
 骨ばったどころではなく、骨に黒い皮が付いているだけで、骨の一本一本がくっきりと分かる。頭は到底馬には見えず、寧ろドラゴンに近く、だがノーバートのような可愛らしさは欠片も無い。眼に瞳は無く白く濁っていて、背中の隆起からは翼が生えている。黒く長い尾を垂らし、雨の中に佇んでいた。
「サラ? どうしたんだ?」
 突然立ち止まったサラを、ドラコが怪訝げに振りかえる。
 サラは止まっていた足を動かし、肩を竦めた。
「別に。流石に、こんな天候の中で眼にすると不気味な迫力があるわ。毎度の事だけど、あまりにも悪趣味な馬よね」
「馬? 何処に馬がいるって言うんだ?」
「え……? だって、ほら。こんなにたくさんいるじゃない。黒い骸骨みたいな馬が……馬車に繋がれてるじゃない」
「馬車を引く馬なんていないぞ?」
 サラは、傍まで近づいた黒い馬をまじまじと見つめる。ドラコも、ビンセントとグレゴリーもきょとんとしていて、彼らが嘘をついているようには見えない。
「見えないの……? いつも、見えてなかったの?」
「何を言ってるんだ? 大丈夫か?」
 ドラコの表情は、怪訝気な様子から心配そうな様子へと変化する。
 サラは慌てて取り繕って言った。
「ええ。大丈夫。見間違いかも……」
 そう口では言っても、これが見間違いだとは思えない。肉の無い馬は、確かにそこにいる。
 空いている馬車を探して歩きながらも、サラは黒い馬たちをチラチラと見る。毎年、ホグズミード駅と学校の間で馬車を引いている馬。自分だけにしか見えていないとなると、尚更薄気味悪い。
「……君も、これが見えるのか?」
 声をかけてきたのは、背の高い筋張ったスリザリン生だった。確か、セオドール・ノットと言ったか。会話するのは初めてだが、スリザリンの合同授業で何度も見かけている。
 ノットは、黒い馬に眼をやる。確かに、彼にはこの生物が見えているのだ。
 サラはゆっくりと頷く。
「貴方も見えるのね? 何なの、これ?」
 サラの問いかけに、ノットは眼を丸くする。
「へぇ。学年首席の君でも、知らないのか。
セストラルだ。聞いた事ぐらいはあるだろ?」
「ええ。写真や絵を見た事は無かったけれど」
 なるほど。通りで皆には見えない訳だ。
 サラは、祖母が殺されたところを見ている。だから、これが見えるのだろう。
 少し前を歩くドラコが、振りかえった。
「サラ。何をしてるんだ? ――ああ、セオドール。久しぶりだな」
 ノットの返事は、ただ頷くだけ。
 ドラコは一つの馬車の前で立ち止まった。後ろを歩いていたサラとノットも立ち止まる。
「サラ、この馬車が空いてる。隣もだ。
セオドールは一人なのか?」
「ああ」
「それじゃ、一緒に乗るといい。三人乗りだから、どのみち僕達は二組に別れる。どちらも一席余るからな」
「じゃあ、クラッブとゴイルと乗るよ。君達は恋人同士、二人でいたいだろうからな」
 途端に、二人の顔がトマトのように赤くなる。
 照れたように視線を落とす二人を見て、ノットは呆れたように呟いた。
「何だ。未だに慣れてないのか……」





No.70





「それにしても、驚いたよ」
 馬車に揺られて、窓の外で降りしきる雨を眺めながら、リーマスが呟いた。
 ナミは口の端を上げて笑う。
「私だって驚いたよ。セブルスが教師をやってる事は聞いていたけど、まさかリーマスにも会えるなんて。やっぱり、『闇の魔術に対する防衛術』?」
「うん。後任がなかなか見つかりにくくなっているそうでね」
「毎年変わってるんだってね。私達の時もだったよね。それで、この科目は呪われてるなんて噂があったっけ」
「ここ数年では、それに拍車がかかっているみたいだよ。何しろ、去年の教師は記憶喪失、一昨年なんて死亡してしまっているからね」
 リーマスは窓の外から視線を外し、ナミの方を振り返る。
「それで、去年も一昨年も、君の娘達は大活躍だったそうだね」
「語弊があるよ。複数形にしているけれど、活躍した内、私の娘はエリ一人。それに、一昨年はサラだしね。去年も、あの子は救出される側だったらしい」
 ふと、ホグワーツ特急で出会った少女の顔が、リーマスの脳裏を過ぎった。
 彼女には申し訳ないが、一瞬、とある男子生徒と重なったその顔。
「エリは……」
「……何?」
 何の感情も無い無機質な声。先程の自分と同じように窓の外を眺めている為、ナミの表情までは見えない。
 リーマスは静かに首を振る。
「いや――何でもない。
ナミが来たのは、やっぱりシリウス・ブラックの事があるからかい?」
「……うん」
 ナミはゆっくりと頷き、窓の外から憂うような視線を外す。
「リーマスも聞いてるんじゃない? シリウス・ブラックは脱獄する前、『あいつはホグワーツにいる』ってぼやいてたって。
ジェームズとリリーが殺されてしまった時、私は何もする事が出来なかった。狙われているという事実さえ、殺された後まで知らなかった。
無力な私に何が出来るのか分からないけど、それでも何かしたいの。ハリーだけは守りたいの」
「シリウス・ブラックがピーターと十二人のマグルを殺したのは、ジェームズ達が殺された翌日だった。
サラとシャノンが生きていたと発覚したのは、二日後だ。彼がハリーの事しか言っていなかったのは、サラが生きている事を知らなかったからかもしれない」
 ナミはただ、ぼんやりと馬車の前方を見つめている。
「もちろん、ハリーだけのつもりじゃないんだろう?」
「……私には、ハリーだけで手一杯だよ」
「有名だよ。サラは、マグルの養父母と折り合いが上手くいってないって。……本当なのかい?」
「あはは。参ったなぁ。説教?」
「それじゃ――」
 不意に、ナミが窓から身を引いた。
 リーマスのローブの裾を握るナミの顔は青白い。
 ちょうど、馬車が校門に差し掛かったところだった。校門の前には吸魂鬼が立ち、無い眼で馬車を一つ一つ見すえている。
 やがて吸魂鬼の前を通り過ぎ、リーマスは優しくナミの肩に手を置いた。
「大丈夫。もう過ぎたよ」
「……ごめん」
 ナミは、罰が悪そうにリーマスのローブから手を離す。
 そして自嘲するように笑った。
「守るとか言っておきながら、吸魂鬼で倒れたりするなんて。話にならないよね」
「吸魂鬼は、幸福な気分を吸い取るんだ。最低の記憶を呼び起こす。君も、ハリーも、最低な記憶と言ったら眼の前で親をヴォルデモートに殺された事だからね……無理ないよ」
「でも、このままじゃいけない」
 ナミは毅然と顔を上げ、リーマスの眼を見据える。
「吸魂鬼に抗う方法って無い? あったら、教えて欲しい」
 リーマスが頷くのと、馬車が停止するのとが同時だった。

 ナミとリーマスが馬車を降りると、ちょうど数メートル先でハリー達とドラコ達がもめているところだった。
 ドラコは、これ以上喜ばしい事は無いというほどに顔を輝かせている。サラがドラコの腕を引っ張り、先を急がせようとしていた。
 リーマスも当然、気づいたらしい。
「どうしたんだい?」
 割って入ったリーマスの声に咎めるような調子は無く、穏やかなものだった。
 ドラコはジロジロとリーマスの身なりを眺め、それから嘲るように答えた。
「いいえ、何も。えーと――先生」
「行きましょう、ドラコ」
 ドラコ達四人は、その場を去って行った。
 たくさんの生徒に混じって石段を上りながら、ナミは顔を顰めて話す。
「ホント、嫌な子。あいつ、リーマスを馬鹿にしたような態度を取って。あういう奴は、今に痛い目に遭うよ。
サラも、どうしてあんな子と付き合ってるんだろう。やっぱり、類は友を呼ぶって奴かね」
 リーマスは答えず、ただニコニコと微笑んでいるだけだ。
 玄関ホールに入り、リーマスはナミに言った。
「教師は一端、職員室に行かなくちゃいけないんだ。だから……」
「ああ、そっか。リーマスは教師だもんね」
 いつの間にか、自分もリーマスも学生のような気がしていた事に気づく。
 ナミは確かに生徒としてホグワーツへ来たが、リーマスは違うのだ。月日は流れた。昔と全く同じではない。
「あ、そうだ」
 大広間とは反対側へ向かおうとしたリーマスに、ナミはふと思い出して話しかける。
「マルフォイ達がコンパートメントに来た時って、本当に寝てたの?」
 リーマスは眼を瞬き、それから笑みを浮かべた。
「ご想像にお任せするよ」





 アリスの周りの席は、一年生で埋まっていた。
 昨年のバレンタイン。その日、アリスはパンジーを裏切り、それ以来、スリザリン生の者達からは避けられている。
 自然、アリスの周囲は空席が多くなり、そこに組み分けられた一年生が座るのだ。
 組分けの儀式が終わった頃、大広間の扉が開き、マクゴナガルの後に続いてハリーとハーマイオニー、そして金髪の少女が入ってきた。ハリーとハーマイオニーはグリフィンドールの席、ナミはマクゴナガルの後について職員テーブルまで向かう。
「えっと、アリス・モリイさん?」
 右隣の小柄な女の子が遠慮がちに声をかけて来た。アリスは微笑を浮かべる。
「アリスでいいわ」
「はい。私、アストリア・グリーングラスっていうの。
あの、アリスってハリー・ポッターと仲がいいのよね? 彼がホグワーツ特急で倒れたのって、本当? それで遅れて来たのかな……」
「ええ、本当よ。それが遅れてきた理由なのかは知らないけど」
 アストリアは更に何か聞こうとしたが、ダンブルドアが立ち上がった為、口を閉ざした。
 ダンブルドアは生徒達に笑いかけながら、青い瞳を輝かせ、「おめでとう!」と話し始める。
「新学期おめでとう!
皆にいくつかお知らせがある。一つはとても深刻な問題じゃから、皆がご馳走でボーっとなる前に片付けてしまう方がよかろうの……」
 ダンブルドアの言う「深刻な話」とは、吸魂鬼の事だった。ホグワーツ特急に乗り込んできた吸魂鬼。あれは、魔法省の意向でホグワーツの警備に当たる事になったらしい。
 無断で学校を離れるな。吸魂鬼といざこざを起こすな。それが、ダンブルドアの話だった。誰一人身動きせず、深刻な表情で壇上に立つダンブルドアを見つめる。
「楽しい話に移ろうかの」
 ダンブルドアは声の調子をガラリと変えて言った。
「今学期から、嬉しい事に、皆の新たな仲間を一人、新任の先生を二人、お迎えする事になった。
まず、新たな仲間じゃ。ナミ・モリイ。組分けは先に済んでおって、グリフィンドール生じゃ。三年生に編入する。皆、仲良くの」
 マクゴナガルに呼ばれ、ナミが前に進み出た。ナミ・モリイ。実年齢は三十四歳。アリス達三姉妹の母親。
 サラは彼女から目を逸らし、あらぬ方向をじっと見つめる。エリとアリスはちらりと、グリフィンドールの席に座るハリーとサラの方を見た。
 日系の顔に肩で切りそろえた金髪を持つ少女は、深々と頭を下げた。
 ダンブルドアの指示を受け、ナミはグリフィンドールのテーブルへと歩いて行き、手近な空席に座った。隣に座る赤毛の双子に何やら一言二言話しかけ、それから正面に向き直る。
 身を乗り出し珍しい転入生を見ようとする生徒達が大人しくなってから、ダンブルドアは話を続けた。
「次に、新任の先生を紹介しようかの。
まず、ルーピン先生。ありがたい事に、空席になっている『闇の魔術に対する防衛術』の担当をお引き受けくださった」
 気の無い拍手が大半だった。その中で、リーマスと同じコンパートメントだった生徒達、それからサラとエリだけが、大きな拍手をしていた。
「今回の教師も、先が見えてるな」
 憎まれ口を叩くのは、もちろんドラコだ。
「いいか。『闇の魔術に対する防衛術』のクラスは呪われてるんだ。あんな乞食みたいな奴に教職を頼むなんて、よっぽど引き受ける人がいなかったに違いない。
あいつもどうせ、給料欲しさに引き受けたんだろうよ。教師として務まるんだか怪しいところさ。
ああ、嫌だな。あんな見っとも無い奴に教わってるって父上が知ったら、何と仰る事か……」
 ドラコの隣にはパンジーが陣取り、相槌を打ったり賛同したりと逐一反応している。
「もう一人の新任の先生は」
 お世辞にも大歓迎とは言えない程度の拍手が止んでから、ダンブルドアは先を続けた。
「ケルバトーン先生は『魔法生物飼育学』の先生じゃったが、残念ながら前年度末をもって退職なさる事になった。手足が一本でも残っている内に余生を楽しまれたいとの事じゃ。
そこで後任じゃが、嬉しい事に、他ならぬルビウス・ハグリッドが、現職の森番役に加えて教鞭をとってくださる事になった」
 リーマスの時とは比べ物にならないほどの拍手の嵐だった。特に、グリフィンドールのテーブルからは割れんばかりの拍手が送られている。
 アリスは、生温かい気持ちで形ばかりの拍手を送っていた。ここまであからさまに差があると、リーマスに少しばかり同情してしまう。
 ハグリッドは俯き、自分の手を見つめている。その顔は遠めにも分かるほど真っ赤だった。
 正直なところ、リーマスよりも彼の方が、教師として務まるのか疑わしいとアリスは思う。魔法生物に関してハグリッドの右に出るものはいないという事は周知の事実だが、人に教えるとなると別問題だ。
 長く大きな拍手がようやくやみ、ダンブルドアは再び口を開いた。
「さて、これで大切な話は皆終わった。
さあ、宴じゃ!」
 眼の前の皿や杯に飲食物が現れる。
 暫く黙々と食事をとっていると、隣に座るアストリアがアリスの肩を叩いた。
「寮監のスネイプ先生って、どの先生?」
「あの先生よ。ほら、さっき紹介されたルーピン先生の隣に座ってる――」
 リーマスは何やらスネイプに話しかけていた。スネイプは苦々しげな表情だ。
 アリスは二人をじっと見つめていた。コンパートメントの奥で眠っているリーマスを目にした時の、ナミの表情。暗闇の中、ナミの存在に気づいた時のリーマスの表情。一瞬の表情だったが、二人は確かに互いに知っている様子だった。二人で馬車に乗り込んだのも、何か積もる話があっての事だろう。
 二人の教師は、スネイプの表情の為親しそうには見えずとも、少なくとも互いに知り合っているように見えた。
 ナミ・モリイ、リーマス・ルーピン、セブルス・スネイプ。若しかしたらこの三人は、同世代なのかもしれない。ナミとスネイプが同期だったという事は分かっている。リーマス・ルーピンも、同じなのかもしれない。
 スネイプは口が堅い。ナミの学生時代に何があったか。サラとエリの実父は誰なのか。何やら知っている様子だが、口を割ろうとはしない。
 リーマスはどうなのだろうか。何らかの情報を、聞き出す事が出来るだろうか。

 デザートのかぼちゃタルトが金の皿から無くなり、ダンブルドアが再び席を立った。
 いつもながらのダンブルドアの言葉で、生徒達は各々席を立ち、寮へと向かう。アストリアは、監督生に率いられて他の一年生の列に紛れていった。
「アリス、久しぶり」
 人混みの中、後ろから同学年の男子生徒がやってきた。アリスはちらりと見ただけで、再び正面に視線を戻す。
「何の用? ハーパー。また、お節介に来たのかしら」
「ああ、その通りだよ。聞くところによると、君、ホグワーツ特急でグリフィンドールの奴らと同じコンパートメントだったそうじゃないか」
「仕方ないでしょう。ウィーズリー一家やハーマイオニー達と一緒に駅へ来たんだもの。そのままジニーと一緒になったのよ。
先に言っておくけど、ハリー・ポッターやハーマイオニー・グレンジャーと一緒のコンパートメントになったのは、吸魂鬼が乗り込んできた後よ。最初からじゃないわ」
「やっぱりまた、ジニー・ウィーズリーか。君、もう少し自重できないのか?」
「する必要が無いわ」
 悪びれる風も無く言うアリスに、ハーパーは溜め息を吐く。
 階段を下り、冷たい地下の廊下を歩きながら、アリスは横目でハーパーを見る。
「貴方には関係無いじゃない。
そもそも、あたし自身がマグル出身と同様なのよ。母親は魔法使いでも、サラ達に入学案内が来るまで、魔法界の存在も知らなかったんだから。それなのに、ハーマイオニーやウィーズリー家を見下すなんて、しようとも思えないわ」
 ハーパーは思いっきり顔を顰める。
「君、それを恥だと思わないのか」
「悔しいとは思うけれど、恥なんて思わないわね」
「悔しい?」
「だって、そうでしょう? サラやエリは純血だから秀でたものがあるけれど、あたしは混血だから限界がある。生まれだけでそんな違いが出来るなんて、悔しいわよ」
「へぇ。君も純血主義だったんだな」
「やめて。別にそういう訳じゃないわ。貴方達みたいに、マグル出身者を見下したりなんてしないもの」
「マグル出身だと純血より劣ると思っているのは、純血主義じゃないのか?」
「劣るなんて思ってないわ。だって、ハーマイオニーはマグル出身でありながらも学年首席じゃない。彼女が劣ってるなんて、間違っても思えないわよ」
「だけど、君が義姉達に劣るのは、混血だからだと思ってるんだろ? 一緒じゃないか」
 アリスはピタリと立ち止まる。
 既に、談話室まで辿り着いていた。人混みの中、ハーパーも一拍遅れて立ち止まり、アリスを振り返る。
 アリスは不機嫌そうな表情を浮かべ、冷たい視線をハーパーに向けていた。
「貴方、不愉快だわ。
お節介の次は何? あたしを純血主義の差別者呼ばわりするの?
もう、いい加減あたしに近づくのはやめてちょうだい。余計なお世話なのよ」
「それじゃ、僕も言わせてもらうけど。
先学期の終わり、君が避けられはしても絡まれる事は無かったのはどうしてなのか、考えてみなかったのか? 僕だけでも、寮内に味方がいたからだ。味方がいなくなれば、確実に君は皆のサンドバック代わりになるだろうよ」
「味方なんて必要無いわ。あたしは去年までとは違う。一人でも平気よ」
「そうか、それじゃあ勝手にすればいい」
「ええ。そのつもりよ」
 ハーパーは肩を怒らせ、男子寮の方へと去っていった。
 アリスは肩に掛かった髪を払い、女子寮へと向かう。
 今年の自分の寝室を探しながら階段を上っていると、途中の階で数人の女の子が一つの部屋を飛び出して来た。その内の一人の顔がインクで真っ黒になっているのが、一瞬見えた。
 アリスはほくそ笑み、彼女達が飛び出した寝室の前まで行く。予想通り、そこの扉にアリスの名前はあった。
 アリスの荷物は、一番奥のベッドの脇に置かれていた。その傍に、空のインク壷が転がっている。中のインクはこぼれ、床を汚していた。
 アリスは無造作にティッシュをインクの水溜りに置く。ティッシュはみるみると、インクを吸い込み黒く染まっていく。
 恐らく、アリスの荷物をインクで汚そうとでもしたのだろう。荷物には予め、特殊な魔法薬を掛けてあった。荷物に何か危害を加えようものなら、加えようとした人物にそれが降りかかる。
 そそくさとパジャマに着替え、床のインクを拭き取ったティッシュをゴミ箱に捨てる。そして、ベッドに潜り込むとカーテンを閉めた。
 アリスは魔法を使う事が出来ない。だが、代替はいくらでもある。
 大丈夫だ。今年は負けない。準備は万端だ。
 さあ、闘いの始まりだ。


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2008/04/20