「別に気にする事無いって!」
陰鬱な空気に耐えかね、ナミは明るい声を出して言った。
占い学の教室から梯子を降りてきた踊り場。トレローニーがサラを引き止めた為、他の生徒も見物しているのか、まだ降りてこない。
「私も、ハーマイオニーと同意見。どうも、あの教師は怪しいと思うな。
『死の予告』って、それがいつだって言われた訳でもあるまいし。そりゃあ、誰だっていつかは死ぬに決まってんじゃない」
そう言って肩を竦め、笑い飛ばす。
ハリーは答えない。ロンは眼を伏せたままだし、ハーマイオニーは恐々とハリーの様子を伺っている。
ナミはフッと溜め息を吐く。
「馬鹿馬鹿しい。あんなの、子供騙しの演出だよ。
それに、ほら。少なくともホグワーツにいる間は安全が保障されてるよ。『例のあの人』さえ、ホグワーツには手を出せなかったんだよ? それなのに、どうしてハリーが死ぬなんて事あるの」
「君は、分かってないからそんな事言えるんだ」
口を挟んだのは、ロンだった。ロンは怯えた様子で話す。
「グリムって言えば、大抵の魔法使いなら恐ろしく思う。トレローニーが説明したじゃないか。聞いてなかったのかい?」
「聞いてたよ。あんな芝居かかった話し方じゃ、どうにも恐ろしいものとは思えなかったけどね」
「そりゃ、確かにあの教師は胡散臭いよ。でも、彼女の説明は事実だ」
「なあに? ロンは、あの予言が本物であって欲しいとでも言うの?」
「誰もそんな事言っちゃいないだろ!」
「サラよ」
ハーマイオニーが二人の会話を遮るようにして言った。
銀色の梯子を、ゆっくりとサラが降りてきていた。
「何を言われたの、サラ?」
ハーマイオニーは一番に梯子の所まで駆け寄り、サラが残り数段の所まで来るなり尋ねた。
サラは梯子を降り切り、黙って歩き出す。
「サラ。何を言われたにしたって、気にする必要は無いわよ。ねえ、ナミ?」
「え。あ、うん、まあ……」
トレローニーは、確かに胡散臭い。ナミもそう思っている。ハーマイオニーに同意だ。
だが、サラを励ますのはどうにも慣れない。
ハーマイオニーは歯切れの悪いナミに少し眉を動かしたが、再びサラの背に向かって話し出した。
「サラも死の予言? 気にする事無いのよ、サラもハリーも。さっきナミも言ってた通りだわ。このホグワーツで、どうして貴方達が死ぬって言うのよ」
「死の予言なんかじゃなかったわ……」
サラは足を止める。
振り向き、自嘲するような笑みを浮かべた。
「私、本当に『スリザリンの継承者』かもしれないんですって」
ロンは息を呑む。
ハーマイオニーは眼を見開いた。
「本当に……そんな事を先生が?」
「直接そう言った訳ではないけれどね……。
『秘密の部屋』の柱はね、どれも二匹の蛇が絡みつくような彫刻が施されていたの。ハリーは知ってるでしょう?」
突然話を振られ、ハリーはびくりと肩を揺らし、それから頷いた。
「彼女、それを私のお茶の葉に見たそうよ」
「そんなの――」
「当然、彼女はそれが実在する物だとは知らない筈。だけど、スリザリンの象徴として蛇だなんて、誰でも思いつくような事。
果たしてこれは、偶然なのかしらね。それとも、彼女は本当に『見た』のかしら……」
重苦しい沈黙が流れた。
小さな踊り場には人が増え、次々と五人を抜かしていく。サラは、ふと微笑んだ。
「行きましょう。『変身術』の授業に遅れてしまうわ」
No.72
教科書はいらない。
リーマス・ルーピンは、教室へ入ってくるなりそう言った。エリ達ハッフルパフ生は、怪訝げな表情できょろきょろと当たりを見回し、互いに顔を見合わせる。
エリはワクワクとした表情を浮かべていた。
ホグワーツ特急での一件以来、エリはルーピンに一目置いている。「闇の魔術に対する防衛術」が一日目からあると分かり、どれほど嬉しかった事か。
皆が教科書をしまったのを確認すると、ルーピンは再び口を開いた。
「きっと皆、これが何なのか気になってるんじゃないかな」
彼の後ろには、小さな食器棚があった。食器棚自体は、何の変哲も無い何処にでもあるような物だ。
問題は、エリ達が教室に入った時から、その棚がずっとガタガタと動いている事である。特にアーニーは警戒した様子で、ひと時もその棚から眼を離そうとはしない。
「そんなに心配する必要はない」
ルーピンは至って動じず、穏やかに話す。
「この中には、ボガートが入っているだけだから」
ボガート――イギリスの分類に従って言えば精霊の一種だが、要は家に棲みつくお化けだ。
決して、何処にでもいるようなポピュラーな物でも無いし、「今夜はカレーよ」と言うのと同じような口ぶりで話せる物ではない。
食器棚の揺れは、更に激しさを増している。
ジャスティンは椅子を引き、なるべく身体を遠ざけようとする。エリと珍しく加勢したスーザンの押しに負け、最前列に座ってしまった事を、大いに後悔していた。
「ボガートはクローゼットの中やベッドの下など、暗く閉ざされた場所を好む。この食器棚は厨房の物で、三年生の実習で使いたいからと校長先生にお頼みして、ここに運ばせてもらった。
流石に厨房となると、この人数で乗り込む訳にいかないからね。そこで働く者達も、びっくりしてしまう」
彼らはお客の対応は好んでやるだろうが、流石にこの人数の魔法使いはあまり会いたくないだろう。そう理解し苦笑したのは、エリだけだった。
ルーピンは心配そうな面持ちの生徒達を見回す。
「それでは、ボガートとは何でしょう? 誰か分かる人はいるかな」
誰も手を挙げる者は無いだろうと思った。
しかし、そろそろと低く挙手した者がいた。
「スーザン。説明してくれるかな」
「えっと……上手く説明は出来ないんですが……」
そう前置きし、スーザンは話し出す。
「魔法生物の一種です。それで、えっと、対峙した人の一番怖い物に、姿を変えます」
スーザンは顔を真っ赤にして、ルーピンの様子を伺い見る。
ルーピンはにっこりと微笑んだ。
「実に完結で上手な説明だね」
スーザンは安堵し、嬉しそうに座った。エリはハンナの後ろから、スーザンの方へやや身を乗り出す。
「スゲーじゃねーか」
「たまたま知ってたの。入学した時、魔法生物は興味があって少し調べたから……」
再びルーピンが話し出し、エリは身体を前に戻す。
その後にもボガートについての説明があり、次の質問にはアーニーが質問に答えた。
続いて、ボガートを退治する呪文を、ルーピンの後に続いてクラス全員で唱える。全員席を立ち前へと集まった。一番最初は、スーザンが受け持つ事になった。
「ボガートはスーザンの次に、皆の方へと向かってくるだろう。皆、自分が一番怖いものは何か、考えてくれるかな。そして、それをどう可笑しな姿へ変身させるか――」
ざわついていた教室が、しんと静まり返った。
エリも考える。自分が、最も怖れている物は何だろうか。
いざ考えてみると、何も思いつかない。可笑しな姿にしてみたい者ならば、いくらでも思いついた。スネイプ、フィルチ、マルフォイ、ミセス・ノリス――だが、どれも怖ろしくは思えない。
自分は、何が怖いのだろう? 対象物が思いつかなければ、どのような可笑しな姿にするかも思いつけない。
「そろそろいいかな?」
ルーピンが生徒達に向かって問いかける。
エリは焦った。皆、もう既に準備が出来ている。自分だけまだなのだ。
待って欲しいと言う事も出来ず、授業は先に進んでしまう。皆一歩下がり、杖を構えたスーザンが輪の中に残される。ルーピンは自分の杖を食器棚に向ける。
食器棚の扉が横滑りに大きく開いた。上段に乗った食器がカチャカチャと鳴る。
中から這い出てきたのは、人だった。顔は青ざめ、手足はまるで骨と皮、眼は白目を剥いている。それはまるで、ホラー映画に出てくるゾンビのようだった。
「リ、リディクラス!」
どもりながらも、スーザンが唱える。
パチンという大きな音と共に、ゾンビの少ない髪の毛が急に増え、とさかのように立った。顔はケバいメイクをしたかのよう。
クラス中に笑い声が満ちた。その声に掻き消されぬように、ルーピンは声を張り上げる。
「ジャスティン、前へ!」
ジャスティンが進み出た。
次々と、順番は進んでいく。もう直ぐエリの番だ。焦りは募るばかりで、全く思い浮かばない。
対峙すれば、勝手に変わってくれるだろうか。だが、突然変わったボガートに、エリは対処できるだろうか。
「リディクラス!」
ハンナの声だ。
トロールの棍棒が花束に変わり、煌びやかなドレスが着せられた。とうとう来てしまった。エリの番だ。
エリは杖を握り締め、一歩進み出る。
パチンという大きな音が響く。エリはごくりと唾を飲み込む。
生徒達はどう反応して良いか分からず、きょとんとした。教室は突然静かになる。スーザンは唖然としていた。アーニーとジャスティンは互いに顔を見合わせ、首を捻る。ハンナは輪の中に戻って振り返り、眼を瞬く。
エリの眼の前にいるのは、一人の小さな女の子だった。肩で切りそろえた黒髪に、子どもらしからぬ鋭い灰色の瞳。ラベンダー色のカチューシャは、グリフィンドールの同級生を連想させた。
心なしか、その瞳にはちらちらと危険な赤い光が見え隠れしているように見える。少女は冷たく嘲笑うような笑みを浮かべる。
「馬鹿ねぇ……」
幼さの残る声で、彼女は静かに嘲笑う。
「誰がいつ、『庇って』なんて頼んだの?
私には貴女の行動が理解出来ないわ。貴女、今まで一度でも私に味方してくれた? 貴女も、私の存在を無視していたじゃない。
それなのに、矛盾しているわ」
少女は今よりも高い声で、クスクスと笑う。
「私を責めるの? そんな事出来ないわよねぇ……だって、貴女も共犯だもの」
エリはただその場に立ち竦んでいた。見開かれた目で、じっと眼の前の少女を見つめている。
「だって、そうでしょ? 私の事、庇ってしまったんだもの。真相も知らずに、幻想を抱いて。馬鹿な子……」
甲高い笑い声が教室中に反響する。
エリだけでなく、今や皆が呆然と彼女を見つめていた。
と、ふと少女の姿がぐにゃりと歪んだ。段々と背丈が伸び、髪が短くなる。声も、段々と低くなっていく。
完全に姿が変わる直前に、パチンと音を立ててボガートは消えた。
否、消えてはいない。丸い銀白色の小さな球が宙に浮いている。エリとボガートの間に、ルーピンが立ちふさがっていた。
「リディクラス」
ゴキブリがポトリと床に落ちる。
「スーザン、とどめを刺すんだ!」
スーザンが前に出る。
再びゾンビが現れた。
「リディクラス!」
今度はどもる事も無く、毅然と言い放つ。
とさか頭とケバいメイクに、中年体系も追加されていた。しかしそれも一瞬で、ボガートは破裂した。
後に残ったのは、幾本もの細い煙の筋だけだった。
「皆、よくやった!」
笑い声と拍手の中、ルーピンが声を張り上げる。ハンナはスーザンに集まっている人垣を掻き分け、未だ呆然としているエリの所へ歩いて行った。
「エリ、大丈夫?」
恐る恐る、エリの顔を覗き込む。
ふいに、エリは顔を上げた。満面の笑みを浮かべている。
「情け無いなぁ。俺だけ上手くいかなかったよ。皆、スッゲーな。
スーザン〜! カッコ良かったぜ〜」
輪の中心にいるスーザンに向かって、大きく手を振る。
ルーピンは、クラス全員に五点ずつ与えた。質問にも答えたアーニーは十点、大活躍だったスーザンは十五点だ。
ボガートに関するレポートの宿題を言い渡され、授業は終わった。
皆、興奮して話しながら昼食へと向かう。
エリも、何事も無かったかのように笑っていた。四人は、エリが思ったほど落ち込んでいないのにホッと息を吐く。
だがそれでもやはり、ハンナは落ち着かない気持ちだった。去年、アリスが襲撃に遭った時もそうだ。いつもと同じ調子だからと言って、エリが何も気にしていないとは限らない。
アーニーも、エリに合わせて笑いながらも先程の事が気になっていた。エリの最も怖がる者。
あれは、サラではないだろうか。今よりも小さく、だがそこまで小さな訳でもなく、十歳程に見えた。
そして、変化していった人物。
服は、ホグワーツの制服へと変化して言った。ネクタイは緑色。上級生のようだった。だが、サラの成長した姿ではない。少年だった。
何処かサラと似た面影のある、黒髪の少年。
ルーピンは、ボガートが彼に完全に変化するのを遮った。彼は、少年を知っているのだろうか。
彼は一体、誰なのだろうか。
あれは一体、何を示していたのだろうか。
「魔法生物学」の授業へ向かう間、ロンとハーマイオニーは終始無言だった。先程、昼食の時に口論があったのだ。
ハリーとサラも、無言で二人の間を歩く。空は澄み渡っているというのに、重苦しくて仕方が無い。サラは隣を歩くハーマイオニーの様子を、盗み見る。
それから、反対隣のハリーを横目で見た。驚いた事に、彼は特に二人の様子を気にしてはいなかった。二人の醸し出す重苦しい空気には構わず、雨上がりの空を眺め、柔らかな草地を踏みしめ、晴々とした表情で歩いている。
これにハリーは慣れてしまったという事だろうか。サラは未だ、慣れる事など出来ない。ハリーに敬意さえ覚える。
だが、サラもハリーに敬意を表す程でもなかった。芝生を下り、ハグリッドの小屋に近づいてくると、サラもハリーのようにぱあっと表情が明るくなった。
「ドラコ!」
前を歩く三人が振りかえった。
サラははにかむ様に笑いながら、ドラコに小さく手を振る。ドラコも、照れたように手を振り返した。だが、サラと並んで歩くメンバーを見て、顔をやや強張らせる。
ハリーとロンは、サラと反対にテンションが一気に下がっていた。ハグリッドの最初の授業に、スリザリン――それも、マルフォイもいるだなんて。
ドラコはサラに向かって手招きする。サラはきょとんとし、ハリー、ロン、ハーマイオニーを順に見る。
「行ってきなさいよ。多分、貴女がハリーと隣り合って肩を並べているのが、気に食わないんでしょうから」
ハーマイオニーが笑みを浮かべて言う。
ロンはニヤニヤとドラコの方を見やる。
「それじゃ、ハリーとサラが手を繋いだり、肩か腕を組んだりしたら、どうするんだろうな」
「やめなさい。挑発するような真似なんて」
「やってみようぜ、ハリー。今朝の仕返しだ」
その言葉が、ハリーを動かした。サラの肩にハリーの腕が回され、引き寄せられる。
サラは呆れたようにハリーを見上げる。
「あのねぇ……」
「止めなさいって言ってるでしょう!」
どういう訳か、ハーマイオニーは真剣になっていた。
「サラも、ただ呆れてないで離れて。ハリー、止めなさい。ロンも乗せないで」
「おい、あいつこっちに来たぜ」
ロンの言う通り、ドラコはこちらへ向かって足早に歩いて来ていた。
四人の前まで来て、ドラコはピタリと立ち止まる。
「サラを放せ、ポッター」
「はいはい、仰せの通りに」
ハリーはからかうように言って、サラを放す。途端に、ドラコはサラの手を取り、グイグイと引っ張るようにして離れていった。
ロンが口を尖らせて言う。
「どうせなら、『嫌だと言ったらどうする?』とか言って、もうちょっとからかってみれば良かったのに」
「馬鹿言わないで」
「どうしたんだい、ハーマイオニー? 随分、真剣じゃないか」
「当然よ。
馬鹿だわ、貴方達。この後は、ハグリッドの授業なのよ? マルフォイは絶対今、気が立ってるわ。八つ当たりしかねない。
ただでさえ、ハグリッドの授業なんて彼がまともに受けるとは思えないし、これは本気で潰しにかかるわよ……」
「何だよ。それじゃ、マルフォイのご機嫌取りでもしろって言うのか?」
ロンは反論したが、それでも心配そうな様子だった。
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第1部
希望求めし少女たちは
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2008/05/19