その場の誰もが、珍しいその光景を唖然と眺めていた。それを見た生徒は一瞬固まり、それからふと我に返って自分の元の行動に戻る。
 今、明るい金髪をお下げにした女子生徒が、持ってきた本を注目の的になっている机に置いた。
「珍しいわねーっ。エリが、黙り込んで一心不乱に勉強しているなんて。明日は雨どころか、天変地異ね」
 注目を集めているのは、エリだった。エリはハンナの茶化しにも答えず、黙々と羊皮紙に何やら書き連ねている。本の文字を辿るその眼も、真剣そのものだ。
 正面に座るアーニーが、本当に心配しているかのようにエリの顔を覗き込む。
「エリ、熱でもあるんじゃないか?」
「いくら何でも酷いですよ、二人共。エリだって、たまには疲れて自分が何をしてるか分からなくなる事だってあるでしょう」
「いや、それ、ジャスティンの方が酷い事言ってないか?」
「……何の本?」
 エリが広げている本をちらりと見て、スーザンが尋ねた。
 日本語で書かれているのだろうか。書かれた文章は読む事が出来ない。所々に妙なポーズの人が図示されている。
「ストレッチとかの健康法の本」
 エリは羽ペンを置き、大きく伸びをする。
 勉強ではないとは言え、じっと席に着き一言も話さず作業に集中しているのは疲れる。
「クィディッチの、新しい練習メニューを考えてみようと思って。
これはマグルが運動前にやる体操なんだけどさ、これ俺達もやった方がいいんじゃないかって思うんだ。ストレッチだけじゃなく、腹筋や背筋みたいな筋トレも。
ずっと箒に乗りっぱなしで走る事なんか無いとは言え、ボール投げるのに腕力は使うし、腹筋鍛えれば鍛えた分だけ色んな体勢からのシュートやパスが可能になる。
この間サラに聞いてみたら、グリフィンドールも同じらしいけど、クィディッチの練習ってアップが箒でぐるぐる飛び回る程度なんだよな。後は、パス練、シュート練、ポジション練。
やっぱ、基礎体力作るのって大切だと思うんだよ」
 明日、新メンバーでの顔合わせがある。
 それまでに、セドリックに渡せる状態にしなくては。





No.75





 ナミ達は開始五分前に「闇の魔術に対する防衛術」の教室に着いた。まだ、リーマスは来ていないらしい。
 サラやハリー達は、既に教室にいて、一番前の席を陣取っていた。ナミはその横を平然とすり抜け、教室の一番後ろまで行く。
 サラと同じ学年、同じ寮、同じ寝室、同じ選択教科と言えども、特に会話を交わす事は無かった。放課後は図書館で宿題をしたり、リーマスやセブルスの所へ行ったり、フィルチに知られていない外への隠し通路を見回ったりして、門限まで時間を潰す。夜はラベンダーやパーバティと宿題やお喋りをして、寝室へは睡眠と着替えにしか行かない生活だ。
 ハリーはサラと殆ど一緒にいる為、なかなか共に行動する訳にもいかなかった。昼休みは図書館、放課後はクィディッチ競技場にいる事が多いという事までは分かっている。
 ダンブルドアの監視下であるホグワーツにいる間は問題無いだろうと、ナミも思っている。気をつけるべきは、ホグズミードだ。ちょうど、ハリーやサラも今年は三年生。ホグズミードへ行ける年齢だ。メインストリートに人が集中する為紛れる事も容易く、マグルの目を気にする必要も無いあの村は、十七年前にナミも襲撃に遭った場である。
 それから、自分たちしか知らない隠し通路。
 その中でも、危険スポットであるホグズミードと繋がる通路が七つある。それらの内、三つはフィルチも知っていた。先日見回ったところフィルチに問い詰められた事から、この十数年の間にもう一つ知られてしまったらしい。五階の鏡の裏も、いつの間にか崩れてしまっていた。残るは二つ。隻眼の魔女の所と、暴れ柳の所だ。
 当然、それ以外の、例えば森や山へ通じる抜け道も注意すべきだろう。寧ろ、体力があり食料も十分ならば、こちらの方が隠れるのには適している。

 ラベンダーとパーバティが、ナミに並んで同じく一番後ろの席に座った。移動教室は、同室である彼女たちと一緒にしている。
 ラベンダーは教科書の準備をしながら、最前列に座るサラ達の方を見やる。
「ねぇ。確かナミって、サラと従姉妹なのよね?」
「うん、そうだよ」
 ナミも教科書を鞄から出し、素っ気無く答える。
「その割には、あまり一緒にいるトコ見ないけど……寧ろ、避けてるようにも見えるわ。仲悪いの?」
「まあ、良くはないかな……」
「サラって養女で、エリ達家族と折り合いが上手くいってないらしいって聞いてるけど、それじゃ義理の親戚全体と?」
「敵対するほどではないけどね。母方は全滅してるし」
「ああ、マグルって寿命短いらしいものね」
 確かに魔法使いと比べれば短いが、ラベンダーが思っているであろうほどではない。けれど、詳細を説明するのも面倒なので黙っておく事にした。
 パーバティが、ナミ達の手元にある教科書を見て口を挟んだ。
「教科書、要らないらしいわよ」
「え?」
 訳が分からず、ラベンダーとナミは聞き返す。
「パドマから聞いたのよ。レイブンクローはもう、『闇の魔術に対する防衛術』の授業あったみたいで。初日から実地練習なんですって」
 ナミの表情が、「え」と言う風に凍てついた。
 実技には、苦い思い出しか無い。覚悟はしていたが、まだ先だろうと思っていたのに。
 その時、開きっぱなしにしていた扉から、リーマスが入ってきた。リーマスは使い古した鞄を教卓に置き、生徒達に微笑みかける。
 パーバティの聞いた話は本当だった。皆、教科書をしまい、杖だけを出して教室を後にする。
 ナミは生徒達を掻き分け、先頭を行くリーマスの横に並んだ。
「リー……ルーピン先生、私達、何処へ向かってるんですか?」
「着いてからのお楽しみだよ」
 リーマスは相変わらずの笑顔で、のほほんとした調子で答える。
 キョロキョロと周囲の生徒達を見回す。大丈夫、皆これから何をするのかという会話に夢中で、こちらを気にする者はいない。
 ナミは手と手が触れ合うほどに近づき、リーマスの目を見据える。そして、囁くような小さな声で話しかけた。
「まさか、忘れてはないよね? 私、実技は――」
「大丈夫。考えはあるよ。そうでなくても、今日の課題は君にはさせたくない」
「どういう事?」
 尋ねながら、角を曲がる。
 リーマスが答える事は無かった。ポルターガイストのピーブズがいて、鍵穴にチューインガムを詰め込んでいたのだ。
 ピーブズはリーマスが近づいてくると、ガムを詰める作業を止め、音のハズれた調子で歌いだした。
「ルーニ、ルーピ、ルーピン。バーカ、マヌケ、ルーピン。ルーニ、ルーピ、ルーピン――」
 と、不意に歌うのをやめた。じっとナミを見つめている。
 不味い。ピーブズはナミを知っている。教師やゴーストに説明はされているようだが、説明されたその場にピーブズがいたとは考えにくい。例え口止めされていても、ピーブズがこれほど面白いネタを放っておく事は無いだろう。
「おおおぉぉぉぉぉぉ!」
 ピーブズは奇声を上げたかと思うと、ナミの視線の高さまで降りてきた。ナミはリーマスの背後に隠れようとしたが、遅かった。
「ここに、懐かしい顔がいるぞぉ! 偽者魔法使いの悪戯っ子、若作りしてまで留年――」
「ピーブズ、私なら鍵穴からガムを剥がしておくけどね」
 リーマスがピーブズの言葉を遮り、朗らかに言った。
「フィルチさんが箒を取りに入れなくなるじゃないか」
 リーマスは微笑んでいる。ナミには、いつもの微笑みとの違いが分かった。ピーブズの冥福を祈る。
 不幸な事に、ピーブズは気づけなかったらしい。言う事など聞きもせず、それどころかあっかんべぇをして見せた。
 ピーブズは、授業の模範演技の的になる事が決まった。
「この簡単な呪文は役に立つよ」
 リーマスは杖を出し、そう生徒達に話しかける。
 リーマスの呪文によってピーブズは撃退され、一行は再び歩き出した。

 廊下をもう一つ渡って辿り着いた先は、職員室だった。
 今、職員室の中にいるのはセブルスだけだった。グリフィンドールの生徒達が列を成して入ってくるのを、セブルスはせせら笑いを浮かべて眺めていた。最後にナミとリーマスが入り、扉が閉められる。
「ルーピン、開けておいてくれ。我輩、できれば見たくないのでね」
 そう言いながら、セブルスは立ち上がってこちらへと歩いてくる。
 ドアまで来ると立ち止まり、くるりと振りかえった。
「ルーピン、多分誰も君に忠告していないと思うが、このクラスにはネビル・ロングボトムがいる。この子には難しい課題を与えないよう、ご忠告申し上げておこう。ミス・グレンジャーが耳元でヒソヒソ指図を与えるなら別だがね」
 懲りない奴だ。だが、相手はリーマスだ。ナミが口を挟むまでもないだろう。
 果たして、リーマスは言った。
「術の最初の段階で、ネビルに僕のアシスタントを勤めてもらいたいと思っていてね。それに、ネビルはきっと、とても上手くやってくれると思うよ」
 セブルスの言葉で真っ赤になっていたネビルの顔が、更に赤くなっていた。
 セブルスは嘲りの表情を浮かべていたが、何も言わずに職員室を出て行った。セブルスが扉を強く閉めた音が、バタンと大きく響いた。
 リーマスは何事も無かったかのように、皆に部屋の奥まで来るよう合図する。
 皆は、古い洋服箪笥の前に集まった。箪笥は大きく揺れ、飛び跳ねて壁から離れた。驚いた生徒達が、飛びあがって後ずさる。
「心配しなくていい。中にボガートが入ってるんだ」
 グリフィンドールの反応も、ハッフルパフのそれと同様だった。ネビルは恐怖で引きつった表情で、リーマスを見ている。
「それでは、最初の問題ですが、ボガートとは何でしょう?」
 ハーマイオニーの手が素早く真っ直ぐに挙がった。
「形態模写妖怪です。私達が一番怖いと思うのはこれだ、と判断すると、それに姿を変える事が出来ます」
「私でもそんなに上手くは説明出来なかっただろう」
 リーマスの褒め言葉に、ハーマイオニーは頬を染める。
「それじゃあ、ボガートが好む場所がどんな所かはどうだろう。サラ」
「暗がりと狭さのある、閉鎖的な場所です。ここにある洋箪笥の他にも、流しの下の食器棚や、押入れ、ベッドの下などが挙げられます」
「そうだね。私は一度、大きな柱時計の中に引っかかっている奴に出会った事がある。
ここにいるのは、昨日の午後に入り込んだ奴で、三年生の実習に使いたいから、先生方にはそのまま放っておいて頂きたいと、校長先生にお願いしたものだ。
中の暗がりに座り込んでいるボガートは、まだ何の姿にもなっていない。箪笥の戸の外にいる誰かが、何を怖がるのかまだ知らない。ボガートが一人っきりの時にどんな姿をしているのか、誰も知らない。
しかし、私が外に出してやると、たちまち、それぞれが一番怖いと思っているものに姿を変えるはずです。
という事は、つまり、私達の方が初めからボガートより大変有利な立場にありますが、ハリー、何故だか分かるかな?」
「えーっと……僕達、人数が沢山いるので、どんな姿に変身すればいいか分からない?」
「その通り。
ボガート退治をする時は、誰かと一緒にいるのが一番いい。向こうが混乱するからね。
首の無い死体に変身すべきか、人肉を喰らうナメクジになるべきか。私はボガートがまさにその過ちを犯したのを一度見た事がある。一度に二人を脅そうとしてね、半身ナメクジに変身したんだ。どう見ても恐ろしいとは言えなかった。
ボガートを退散させる呪文は簡単だ。しかし精神力が必要だ。こいつを本当にやっつけるのは何か、ナミ、分かるかい?」
「笑い」
 ナミは二カッと笑って答える。
「正解。
君たちは、ボガートに君たちが滑稽だと思える姿をとらせる必要がある。
初めは杖無しで練習しよう。私に続いて言ってみるんだ。――リディクラス!」
 リーマスに続き、生徒達は声を揃えて呪文を唱える。
 それからリーマスは、具体的な対処法をネビルに教えていた。怖いものは何か、そして次に何を思い描きながら杖を振れば良いか。
 セブルスにネビルのおばあさんの服装をさせるというリーマスの発想は、皆から熱い支持を得た。
「ネビルが首尾良くやっつけたらその後、ボガートは次々に君達に向かってくるだろう。
皆、ちょっと考えてくれるかな。何が一番怖いかって。そして、その姿をどうしたら可笑しな姿に変えられるか、想像してみて……」
 職員室はしんと静まり返る。
 ナミも子供達と同様、物思いに耽る。自分が最も怖れるものは、一体何なのか。
 直ぐに、人間とは思えぬような白い顔が浮かんだ。紅く鋭い瞳、切り込みのような鼻、薄く笑う口元――たった一度、目にしただけのその顔。息の詰まるような重苦しい気配を放ち、ただその存在だけで重圧となる。
 そこまで考え、続け様に別の人物が脳裏に浮かんだ。容姿こそ人間らしいものの、その魔力の気配はヴォルデモートと同列に並ぶ。
 ……だが、今更彼女が怖いとは思わない。寧ろ、忌々しいのはこの記憶である。そして、それを呼び起こす――
「皆、いいかい?」
 不意に、リーマスの声がナミの思考を遮った。
 「怖いもの」自体を考えるのに時間をかけてしまったのだ。まだ、それをどうすれば面白い姿に変えられるか思いつかない。
 寒気が襲うあの息。冷たく光る腐った手。吸魂鬼だ。
 リーマスが皆に、ネビルを残して下がるように指示する。ナミは壁際へと後退しながら、思考を巡らす。やはり、二番煎じになってしまうが、手っ取り早いのは誰かの特徴を重ね合わせる事だ。誰が良いだろうか。
「ネビル、三つ数えてからだ」
 リーマスは杖を洋箪笥の取っ手に向ける。
 圭太はどうだろう。典型的な中年体系の吸魂鬼も、見てみたい。
 リーマスの掛け声と共に、彼の杖先から火花が迸った。火花は取っ手へと直進し、洋箪笥が勢い良く開く。普段以上に陰険な表情のセブルスが、まるで妖怪か何かのような様子で洋箪笥の中から這い出てきた。
 ネビルは表情を凍らせ後ずさりする。セブルスはネビルの方へとじりじりと進み来る。ネビルは殆ど悲鳴のような声で叫んだ。
「リ、リ、リディクラス!」
 パチンという音がし、セブルスは躓いた。レースで縁取られた、緑色の長いドレスを着ている。頭にはハゲタカの付いた巨大な帽子を被り、手には深紅のこれまた巨大なハンドバッグを提げている。
 ナミは思わず噴出した。セブルスがこの場にいない事が、残念でならない。カメラでも持ってくるべきだった。
 生徒達の笑い声に、ボガートは途方にくれたように立ち止まる。リーマスの声が響いた。
「パーバティ、前へ!」
 パーバティが進み出た。セブルスはパーバティの方へと向き直る。
 そうだ。歳をとらせるならいっそ、ダンブルドアまでにしてしまうのも面白いかもしれない。ベルトに挟むほど長い髭を蓄えた吸魂鬼も見ものだ。
 ただ問題は――呪文が、発動するかという事。
 ナミはリーマスを盗み見る。リーマスは生徒とボガートの闘いを見守るのに気を取られていて、ナミの視線に気づく様子は無い。
 リーマスは、ナミが魔法を使えない事を知っている。授業前に確認したし、考えはあると言っていた。リーマスがそういうならば、大丈夫なのだろう。

 結局、ナミがボガートと対峙する事は無かった。ナミだけではない。ハリー、ハーマイオニー、そしてサラも同様である。
 最後に再び対峙した時のネビルは、最初と随分と変わっていた。オドオドした様子は微塵も無く、自ら前に進み出てボガートを退治した。
 拍手の中、リーマスが声を張り上げた。
「よくやった!
ネビル、よく出来た。皆、よくやった。そうだな……ボガートと対決したグリフィンドール生一人につき五点をやろう――ネビルは十点だ。二回やったからね。ハーマイオニー、サラ、ハリー、ナミも五点ずつだ」
「でも、僕、何もしませんでした」
「ハリー、君達は授業の最初に、私の質問に正しく答えてくれた」
 なるほど、とナミは胸を撫で下ろす。
 考えとは、これだったのだ。初めから、ナミを吸魂鬼と対峙させる気は無かった。だから、ナミに質問をしたのだ。
 だが、それではハリー達は何故だろう? こんなにもカモフラージュが必要だろうか?
 リーマスは微笑み、朗らかに話す。
「宿題は、ボガートに関する章を読んで、まとめを提出する事……月曜までだ。
今日はこれでおしまい」
 リーマスの言葉が終わると同時に、わっと場が沸く。
 皆、授業の内容を興奮した面持ちで友達と話しながら、職員室を出て行く。ナミもラベンダーとパーバティと一緒に出て行こうとした。
「ナミ、ちょっといいかい」
「はい、先生」
 ナミは動かしかけた足を止め、二人に先に行くように言う。
 子供達が全員部屋の外へ出て行き、ナミは口を開いた。
「ありがと、リーマス。ボガートを私と対峙させなかったの、態とでしょ。私、魔法使えないから」
「態となのは確かだけど、理由は違うよ。私も一応教師だからね。生徒には均等に授業を受けさせるさ」
「それじゃ、どうして?」
 ナミはきょとんとし、尋ねる。
 リーマスは暫く口を噤んでいたが、やがて言った。
「……君は、ヴォルデモートを間近で見た事がある。ハリーや、サラもだ。あの場でヴォルデモートが現れるのは、良くないと思った」
「その名前、口に出さないでよ」
 ナミはぎょっとして、口を尖らせる。
「でも、それなら問題無かったわ。私が思い浮かんだ怖いものは、『例のあの人』じゃなかったから」
「そうなのかい?」
 ナミはこくりと頷く。
「そりゃ、最初に浮かんだのは奴だったけど。でも、考えてたらシャノンも一緒だなって思って、そしたら、怖いのとは違うんじゃないか、って思ったの。
それで改めて考えたら、浮かんできたのは吸魂鬼だった。若しかしたら、ハリーやサラも違ったかもよ」
「そうかもしれないね。でも、彼だった可能性もあるから。君と違って、彼らは子供なんだから」
「……そうかな。
それで、用件は何? 態々呼び止めるなんて、何か話があったんでしょ?」
「ああ、うん」
 リーマスは頷き、ナミを見据える。
「吸魂鬼の防衛術練習、今日から始めようと思うんだ」





 澄み切った青空が、何処までも続いている。エリは大きく息を吸い込む。ここには、車の排気ガスもマグルの世界の騒音も無い。新鮮な空気が、エリの胸を満たす。
 絶好のクィディッチ日和。こんな天気の日は、顔合わせは早々に切り上げて、さっさと練習に入りたい。
 更衣室まで来ると、既にセドリックが着替えて待っていた。
「よぅ、セドリック! 早いな」
「キャプテンになったからには、先頭に立って皆を引っ張っていかなきゃいけないからね。エリにはいつも一番乗りを取られるから、急いで来たよ。
朝も、一体何時に起きてるんだい? 五時半に起きて談話室に下りていくと、いつも既にロードワークから帰ってきて休憩取ってるところじゃないか」
「んー、何時だろ。俺、目覚ましとか掛けてないし、時間気にしてないんだよな。とりあえず、目が覚めた時間に起きて、適当に休憩挟みつつ六時まで走ったり筋トレしたりしてるけど」
「目覚まし時計を使ってないの? よく起きれるね」
「そりゃあ、夜は九時過ぎに眠っちまうからな。遅くても、日付変わる頃には寝室に上がるし」
「その生活だと、いつ宿題を……?」
「朝食前後とか、魔法史や呪文学の授業中とか」
 ……なるほど、道理で成績が悪い訳だ。
「なんか今、凄く馬鹿にされた気がしたんだけど……」
「そんな事ないよ」
「まぁいいや。
ところでさ、俺、ちょっと練習メニュー考えてみたんだけど。新しくこれも加えたらどうかな、って」
「へぇ。見せて」
 エリは鞄から羊皮紙の切れ端を取り出す。
「字ぃ汚くて、読みにくいかもしれないけど……」
 羊皮紙を受けとったセドリックは、黙って目を通す。
「んじゃ、俺も着替えてくるわ」
 そう言い置き、エリは女子更衣室の方へと入っていった。
 ロッカーの前に荷物を置き、カナリアイエローのユニフォームを取り出す。
 エリが入学してからの二年間、ハッフルパフ寮は最下位しかとっていない。ここ十数年の記録を見ても、ハッフルパフは負け続きらしい。
 毎年、優勝はスリザリン寮。ハリーやサラがグリフィンドール・チームに入ってからというもの、グリフィンドールがスリザリンを負かすのではと期待されているが、未だ優勝カップはスネイプの部屋にある。
 だがそれは、毎年最後の試合になって図ったかのようにハプニングが起こるからであって、もしかしたら今年こそはグリフィンドールが勝利するかもしれない。
 しかし、出来る事ならば、グリフィンドールに任せず自分達でスリザリンを負かしたいものだ。どうにも、ハッフルパフは劣等生の集まりの地味な寮だと思われがちである。ホグワーツに蔓延るその固定観念を覆したい。
 それにエリ個人としては、グリフィンドールの優勝も、スリザリンの優勝ほどで無いにしろ癪に障るのは確かだ。グリフィンドールの勝利は、サラの勝利に直結するのだから。寮全体ならば規模が広いから兎も角、クィディッチとなると限られたメンバーである為、その中のサラの役割は大きい。彼女には決して負けたくない。
 制服のローブを脱ぎながら、先週の「闇の魔術に対する防衛術」の授業がふと脳裏を過ぎる。エリはボガートを負かす事が出来なかった。呪文を唱えるどころか、指一本動かせなかった。他の皆は易々と魔法をかけていたのに、エリだけが課題を達成できなかったのだ。
 エリと対峙したボガートは、サラへと姿を変えた。小学生の頃のサラ。報復をし、学校を恐怖に陥れていた小さな少女。
 そして、ボガートの姿は更に変化した。
 サラの髪をそのまま短くしたかのような黒髪、ちらちらと危険な赤い光が見え隠れする瞳、嘲りの笑みにほころばせた口元。忘れる由もない。――トム・マールヴォロ・リドル。若かりし頃のヴォルデモート卿。
 エリは、ヴォルデモートが自分達の祖父ではないかという可能性を怖れていた。あのボガートは、それを如実に表している。
 リドルは、祖母と付き合っていた事があると言っていた。だが、エリが可能性を怖れる理由は、その言葉だけではない。
 ――あまりにも、似過ぎている。
 家族からの信頼を当然のように足蹴にし、冷たく笑う少女。己に心開いた女の子を当然のように利用し、嘲るように笑む少年。
 細く艶やかな黒髪。目鼻立ちの整った顔には、いかにも真面目そうな表情を貼り付けて。
 人を追いつめる事に悦びを覚え、細められた瞳の奥には危険な赤い光を宿す。
「……あいつは変わったんだ」
 エリは、脳裏に浮かぶ考えを追い払うかのように、声に出して呟いた。
「違う。サラをリドルなんかと一緒にするなんて、どうかしてる」
「リドルって?」
 他に誰もいないと思っていたエリは、奇妙な叫び声を上げて飛びあがった。
 既にユニフォームに着替えた女子生徒が、鞄を手に更衣室へ入ってきたところだった。新しいチームメイトだろう。
「あ、いやぁ……その、親戚にリドル・シャノンって奴がいるんだ」
 エリはヘラっと笑って誤魔化す。
 いくら言い繕う為とは言え、名前を変えてもリドルが自分の親戚だと言うのは耐え難い抵抗があった。
「えーっと、新しいメンバー? 俺は――」
「知ってるわ。エリ・モリイよね。サラ・シャノンが一緒に住んでいる家の子でしょ。有名だもの」
 エリの言葉を遮り、彼女は単調な口調で話す。
「私はチェンバース。貴女と同じ、チェイサーよ。私、クィディッチ・チームに入るのは初めてなの。貴女は去年もいたわよね? 色々と教えてね」
「ああ、俺で足りる限りはな。と言うのも、俺も去年はチームに入っていたとは言え、ポジションはビーターだったから。チェイサーは俺も初めてなんだ」
「そう」
 チェンバースは無感情に相槌を打つ。
 エリは脱いだ制服をロッカーに詰め込み、カナリア・イエローのユニフォームを頭からかぶる。
「お前、若しかして先に来てたのか? セドリックは、俺が二番だって言ってたけど……まさか、セドリックより先にここへ? 早いな」
「ううん。着替えてから来ただけ。ロッカーへは、荷物を置きに来たの」
 チェンバースは一番手前のロッカーを開け、小さな手提げ鞄を中に置いた。
「お前、箒は?」
「出た所の部屋に置いてきたわ。だって、持ってきたら狭いし邪魔になるでしょう?」
「ああ、そっか」
 戸を閉めると、チェンバースはくるりと背を向けて更衣室を出て行こうとする。エリは慌てて呼び止めた。
「待ってよ、俺も直ぐ終わるから。一緒に行こうぜ」
「どうして?」
「へ?」
 エリは思いもしなかった回答に、着替えていた手を止めてきょとんとする。
「え……どうしてって、え?」
「だって、一緒に行くも何も出て直ぐが集合場所じゃない」
「いや……まあ、そりゃ、そうだけど……」
「悪いけど、無駄に誰かとばかり一緒に行動する必要性を感じないのよ。ごめんなさい」
 彼女は素っ気無く言うと、更衣室を出て行った。
 エリは、ただ呆然とその後ろ姿を見送っていた。

 エリが着替え終えて更衣室を出て行くと、セドリックとチェンバースの他に、もう一人男子生徒が増えていた。彼も、着替えてから来たらしい。
 やがて、一人二人と新たなハッフルパフ・チームのメンバーが更衣室に入ってきた。
 ようやく七人の選手が揃い、セドリックは口を開いた。セドリックは自己紹介をし、それから選手一人一人に話を振る。
 今年、新しくキャプテンになったセドリックは、チームの編成にあたり選手の大幅な入れ替えを行った。箒の扱いが上手いと言われている者やすばしっこい者には片っ端から声をかけ、予選を受けさせた。集まった者全員に全てのポジションのテストを行い、才能のある者の取りこぼしが決して無いようにした。
 その結果、去年から引き続きの選手でも、人によってはポジションが変わっている。エリも、その一人だ。
 エリは今年、チェイサーになった。サラと同じポジションである。当然、対グリフィンドール戦ではサラとぶつかり合う事にもなるだろう。
 昨年は緊急事態により、サラ達グリフィンドールとの試合はお流れになった。また同じような事が起こる可能性は、極めて低い。
 今年はきっと、サラと闘う事になる。
 ――サラにだけは。
 例え、結果的にはグリフィンドールが勝とうとも、サラだけは決して自分の脇を抜かせない。
 サラにだけは、決して負けない。
 エリは決意を固めるかのように、拳をぎゅっと固く握った。


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2008/08/04