薄暗い廊下を、二つの人影が帰路を急ぐ。窓の外には闇が迫り、風がガタガタと窓を揺らしている。
廊下には、サラとハリーの興奮したような声が響いていた。
「ナイスプレーだったよ、サラ! 最近、本当にフェイントが上手くなったよね。まさかウッドも抜くなんてさ」
「それなら、ハリーだって。ハリーのスピードについて行けるシーカーなんて、何処のチームにもいないんじゃないかしら。
そう言えば、ウッドに言うのを忘れてしまったけれど、レイブンクローはシーカーが変わったそうよ。パーバティが教えてくれたの」
「へぇ。何て名前?」
「チョウ・チャン。四年生の女の子よ。
小柄で……そうね、スピードは速いかもしれない。でもがっしりした体型ではなかったから、角度のついたターンはあまり得意ではないと思うわ。腕力とかの問題で。
反射神経は良かったから、レイブンクロー戦では急旋回を多用したフェイントが有効だわ」
「反射神経なんて、どうやって確かめたんだい?」
「簡単よ。紙風船をそこそこの速さで、チョウに向けて飛ばしてみたの。彼女、あっさりと避けたわ」
サラの話に、ハリーは僅かに眉を顰めた。そして咎めるように言った。
「不意打ちで攻撃なんて、スリザリンみたいだ」
「スリザリンの場合は、本当に対象に怪我をさせる事を目的としてでしょう。
私は正面から飛ばしたもの。彼女が避けられないようなら急旋回出来るよう、追い払い呪文でなく浮遊呪文で飛ばしたし。それに紙風船なら、万一当たったとしても風船が潰れるだけで痛みはないわ」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
階段を上りきり、廊下を突き当たった所に太った婦人の肖像画が掛かっている。これが、グリフィンドール談話室の入り口だ。
絵画の立ち並ぶ廊下を歩きながら、サラは悪びれる風も無く肩を竦める。
「まあ、何にせよまずはレイブンクローよりスリザリン戦ね。
去年は結局、ドラコはからかうばかりで大して力を発揮していないでしょう。何が得意なのか、何が苦手なのか。
彼の性格からすると、スピードやら急旋回やら見せ付ければ、勝手に腹を立てて勝手に自爆してくれそうだけど。それには、彼よりずっと技能が勝ってなきゃいけないわ。苦手要素が分かれば、早いんだけど……」
「フォルチュナ・マジョール。
サラ、昼休みによくマルフォイと会ってるじゃないか。どうにかして聞き出せないのかい?」
「私だって、聞いてみようとしなかった訳じゃないわ。だけど、私達だって寮の線引きは出来てるの。彼もそう易々と口を割らないわよ。
色々と作戦を練って誘導尋問みたいな事をすれば、聞き出せない事も無いだろうけど……でも、せっかくの時間に、そういう話は、その、あまり……」
サラは紅くなって俯き、語尾も尻すぼみになって消えていった。
肖像画の裏に現れた穴をよじ登り、二人は談話室へと入る。談話室は、やけに騒々しかった。皆、興奮した様子でさざめいている。
ロンとハーマイオニーを暖炉の傍に見つけ、ハリーとサラはそちらへ真っ直ぐ歩いて行った。二人は、天文学の星座図を仕上げているところだった。
「何かあったの?」
ハリーが尋ねた。サラは箒をソファに立てかけるようにして置き、ハーマイオニーの横に腰掛けた。
「第一回目のホグズミード週末だ」
ロンが掲示板の方を指差しながら言った。
いつもは誰も気にかけず忘れ去られているかのような古い掲示板の前に、数人の生徒が群がっていた。人垣の向こうに、「お知らせ」が張り出されているのが見える。
「十月末。ハロウィーンさ」
「やったぜ」
肖像画の穴から這い出てきたフレッドが、こちらへ来ながら言った。
「ゾンコの店に行かなくちゃ。『臭い玉』が殆ど底をついてる」
ハリーは皆とは対称的に、面白く無さそうな表情だった。ふてぶてしい様子で、ロンの傍の椅子に座る。
サラは鞄から、休み時間の間に途中まで進めておいた星座図を取り出し、続きを書き込んでいく。
既に星座図を終えたハーマイオニーが、ハリーを慰めるように言った。
「ハリー、この次にはきっと行けるわ。
ブラックは直ぐ捕まるに決まってる。一度は目撃されてるし」
「ホグズミードで何かやらかすほど、ブラックは馬鹿じゃない」
ロンが口を挟んだ。
「ハリー、マクゴナガルに聞けよ。今度行っていいかって。次なんて永遠に来ないぜ――」
「ロン! ハリーは学校内にいなきゃいけないのよ」
「三年生でハリー一人だけを残しておくなんて、出来ないよ。
マクゴナガルに聞いてみろよ。ハリー、やれよ」
「うん、やってみる」
「マクゴナガルがそう簡単に決まりを捻じ曲げて許可をくれるかしら。
警戒されて見張られたら面倒だわ。黙って抜け出した方が早いんじゃない?」
「サラまで! 先生に尋ねてみるのは構わないわ。でも、抜け出すなんて絶対に駄目。ハリー、あなたロンのお父さんと約束したんでしょう。絶対に危険な事はしないって」
「ホグズミードに行くのが危険なものか」
「ハーマイオニーの言葉は正論だよ。私も、勝手に抜け出すのは関心しない」
ナミがロンの後ろに立っていた。スキャバーズが、咄嗟にロンの鞄の中に飛び込む。
それを見て、ナミは苦笑した。
「ほんと、私はスキャバーズに嫌われてるみたいだね」
「あなたはハリーを一人、ホグワーツに残させろって言うのかしら」
サラは星座図に眼を落としたまま、冷ややかに言い放つ。
「ハリー一人じゃないよ。私だって、ホグズミードには行けないもの」
「そうなの?」
ハリーが驚いて尋ねた。ホグズミード許可証にサインが貰えなかったのは、自分だけだとばかり思っていたのだ。
サラは仕上がった天文図をくるくると丸めながら問う。
「圭太にサイン、貰わなかったの?」
「親を呼び捨てにするんじゃないよ。
まあ、ね。だって彼は、私の保護者ではないでしょう。彼がサインをするのは、ハリーの許可証にロンの父親がサインするようなもんだよ」
「ナミの両親はどうしてるの?」
ロンが後ろを振り返り、尋ねる。ナミは軽く肩を竦めた。
「どっちも、墓ん中で眠ってる。
まあ、保護者を挙げるとするとマクゴナガルになるのかな……母が彼女と親しかったみたいでさ。
でも私、一度彼女の元から家出してるから今更保護者やってくれなんて頼めないし、頼んでもこんな危険な状況じゃ、あのマクゴナガルが許してくれるかどうか……」
サラは天文図と入れ替わりに取り出した魔法薬学の参考書をじっと見つめ、物思いに耽っていた。
No.76
「ドラコ、そっちは何かそれらしい物見つかった?」
「いや何も」
サラの問いかけに、ドラコは即答する。
二人が腰掛けている前には、何冊もの本が積み重ねられている。過去の卒業者名簿や、魔法界の偉人集だ。サラの実父が旧家の出身だという事までは、屋敷僕妖精の存在から分かっている。
正面の席では、ビンセントとグレゴリーが宿題をしていた。
「グレゴリー、河童ならそんな参考書を読むより、マグルの日本昔話辺りを読み拾う方が面白いし楽よ」
闇魔術に対する防衛術の宿題を前に唸り続けているグレゴリーを見かねて、サラが言った。
「日本昔話を英訳した物はあるかどうか分からないけど……世界の魔法生物全集みたいなものが、ここの図書館にもあるわ。私が取ってきた本の中にあると思うんだけど……」
言いながら、サラはビンセントとグレゴリーの間にある本の山を探す。目的の本は、下から二番目にあった。
上に重なった本をグレゴリーに持ち上げさせ、サラはその本を引き抜く。
「この本の、日本の項目よ。
それから、『幻の動物とその生息地』にも簡単な内容なら載っているわ。ほら、一年生の頃に買った教科書よ」
「一年生の頃の教科書なんて、僕が持ってると思うか?」
「それなら、私のを貸してあげる。魔法生物飼育学で役に立つかと思って、持ってきてるのよ」
そう言って、サラは足元に置いた鞄を引き寄せ、中を探す。
ややあって、サラは鞄から赤い表紙の小さな本を取り出した。表紙の名前欄には、日本のマグルが中一で習う形から一切崩していない筆記体で、サラ・シャノンと書かれている。
「付箋を貼ってあるページのどれかよ」
「幻の動物とその生息地」をグレゴリーに手渡すと、サラは再び自分の調べ物に取り掛かる。
ナミはグリフィンドール生だった。彼女は中途退学したらしく、卒業者名簿には載っていない。だが、年数から同学年を割り出す事は可能だ。そこにはハリーの両親や、ルーピン、スネイプの名前もあった。そして、近頃よく聞く名前。
「シリウス・ブラック……」
サラの呟きに、ドラコが過剰なまでに反応して振り返った。名簿に眼を注いでいたサラは、それに気づかなかった。
「彼も、母達と同期なのね」
「え。あ、ああ……そうみたいだな……」
ドラコはサラの手元をちらりと見て、ぎこちなく答える。
「母はホグワーツに途中から編入して、途中で退学しているわ。それ以降は、魔法界とはもちろん、イギリスとさえ繋がりを持っていないみたい。
今年、キングズ・クロス駅に行く時に陰山寺で祖父の没年を確認して来たの。1975年9月1日。彼女が十六になった日よ。つまり、彼女は五年生から編入した。それで中途退学って事は、ホグワーツにいたのは長くても二年半。
だから、可能性があるとすれば前後二年の人々だけど……それでも多いわね。それに、教師だって可能性としてはゼロではないし……。
ねぇ、ドラコ。あなたのお父さんには尋ねてみた?」
「あー、うん。でも、曖昧な返答ではぐらかされる」
「……」
サラは気づいていた。
ドラコは、サラが父親を調べる事に乗り気でない。サラの質問へも予め返答が決まっているかのように、妙な早さと歯切れの悪さで返って来る。
ドラコは何か知っているのだろうか。やはり、親から聞いたのだろうか。
だが、それでは何故隠そうとする? 何故、サラを父親から遠ざける? 何故、サラの父親は隠されている?
「あら、ドラコじゃない。何してるの?」
背後から掛けられた黄色い声は、振り返らずとも誰だか分かった。
サラは冷たい視線を背後の人物に送る。ハリー達はサラがドラコと二人で会っていると思っているようだが、実際はこの五人でいる事が多かった。
「図書館でする事と言ったら、宿題、調べ物、読書のどれかぐらいでしょう」
パンジーはサラを見向きもしない。ドラコの椅子の後ろまで行き、彼が広げている本を覗き込む。
「何の本?」
「あ、これは……」
「フィニアス・ナイジェラス・ブラック。生没年、1847〜1925年。彼はかのブラック家の者であり、ホグワーツ魔法学校校長として有名である。歴代の校長の中でも、彼ほど純血主義、スリザリン主義をあからさまに主張した者はいないだろう――」
パンジーの言葉が途切れた。ドラコが本を閉じたのだ。
「『過去の著名な魔法使い』? どうしてそんな本を?」
「フィニアス・ナイジェラス・ブラック――ブラック?
ブラックって、シリウス・ブラックの? ブラックも旧家出身なの?」
「あら、あなたそんな事も知らないの?」
答えたのはパンジーだった。
パンジーはサラを小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らす。
「ブラックって言ったら、魔法界じゃ有名な純血の一族よ。
本家筋はシリウス・ブラックで絶えてしまったけれど、分家筋は今も続いているわ。尤も、純血は殆ど姻戚関係だけれどね。
ドラコのお母様も、確かブラック家の出身よね? それも血族で」
「そうなの?」
サラはドラコを振り返る。ドラコは眼を泳がせ、曖昧に頷いた。
パンジーは、今度はサラが開いている本を覗き込む。そして、そこにある名前を見て尋ねた。
「あなた達、シリウス・ブラックについて調べてるの? 若しかして、例の噂の真意?」
「パンジー!」
ドラコはぱっと立ち上がる。
じろりとこちらを睨んだマダム・ピンスを無視し、パンジーの腕を掴む。
「そう言えば、スネイプ先生が君の事を探してらっしゃった」
そう言って、パンジーの腕を強く引き、図書館を出て行った。
後に残されたビンセントとグレゴリーは、宿題に集中する。触らぬ神に祟りなし。今のサラに話しかける勇気を、二人は持ち合わせなかった。
だから、一拍置いてサラが席を立ち後を追っても、二人は止めようともしなかった。
図書館を出て、サラは眼を閉じ魔力の気配を探る。
最近では、意識しない限り魔力の気配から人物を特定する事は出来なかった。混沌としたホグワーツにいて、魔法使いの気配に慣れてしまったのか。それとも、赤ん坊が匂いで母親を嗅ぎ分けるのと同じで、歳を重ねる毎に薄れる野生的本能なのか。
……それとも、今までは常に意識し、気配に敏感だったという事か。
だとすれば、これは良い方向へ向かっている兆しなのだろう。一昨年はまだ、周囲への警戒が解けなかった。他人を信用できなかった。昨年はリドル。新学期の頭からバジリスクの気配があり、警戒を解く事が出来なかった。
今年もブラックがハリーとサラを狙っているらしいが、外部の敵である。ホグワーツにいる限りは安全だ。
それに、シリウス・ブラックの件はダンブルドアや新聞で得た情報のみ。話に聞いただけでは、どうにも他人事に思えてしまう。正直、態々ナミが来る必要があったのだろうかとさえ思う。
ドラコとパンジーは直ぐに見つかった。他に誰もいない空き教室で、何やらドラコが話している声が聞こえる。サラは扉ににじり寄り、耳をそばだてる。
聞こえてきたのは、パンジーの声だった。
「……そうだったの。ごめんなさい。私、そうとは知らずに……。
でも……隠し通す事なんて出来るの? 魔法界じゃ、有名な噂なのよ。彼女の耳に入るのも、時間の問題じゃないかしら。
それならば噂の事は教えてしまって、貴方のお母様が否定しているってハッキリ説明した方が――」
「説明しようにも、それを証明する事は出来ない。それでサラが信じると思うか?」
「だけど、貴方のお母様が言っていたのでしょう?」
「あ……まあ……」
「それって、おかしくない? どうして証明出来ないのに、噂が嘘だと断定出来るの?」
「それは……あー……逆だよ。肯定する証拠が無いからさ。そんな事実は無かった。あれば、ブラック家にいた母上の耳に入らない筈が無い。そういう事さ」
「……」
パンジーの返答は無い。どうにも、腑に落ちない様子だ。
噂とは、何の事だろうか。詳しい内容を口にしないかと、サラは扉に完全に耳を押し当てる。
「あー、まあ、そういう訳だ。噂の事は、彼女の耳には絶対に入れないようにして欲しい」
「ドラコがそう言うなら、彼女の前では噂の話はしないわ。他の子が言いそうだったら、その場に私がいれば止める。
だけど、本当に隠し通せるかしら……」
「隠し通して見せるさ」
「……。
本当に、彼女の事を愛しているのね……」
パンジーの台詞に、サラの顔は火がついたかのように紅くなった。
ドラコも似たような反応をしているらしく、声を聞くだけでも明らかに動揺していた。
「な、何を言って……そ、それは当然、その……」
「だけど彼女ってば、いつもドラコに心配をかけるばかりだわ」
「……パンジー?」
足音は、パンジーの物だろう。
「一年生の頃からそうよ。ドラコの家を飛び出してみたり、理由も分からず、突然行方不明になったり。
禁じられた森から、貴方は青い顔をして帰ってきた。クラッブから聞いたけれど、あの夜、一睡もしなかったそうね。
二年生になっても、彼女は相変わらず。秘密の部屋へ彼女達が乗り込んだと知った時、貴方がどんなに心配した事か。
そして今年も、貴方は彼女の事で苦労をするばかり」
「噂は、サラが流した訳じゃない。サラにはどうしようもない事なんだ」
「だけど、貴方が否と言って彼女が信じられれば、貴方は隠す必要なんて無いんだわ。彼女が親だの何だのなんて気にしていなければ、貴方はこんなに苦労する必要無いのよ!
ねえ、ドラコ。彼女には貴方が必要かも知れないわ。だけど、貴方にとって彼女は必要なの? 彼女は貴方の支えになっているの?
ドラコはお人好しだわ。それはドラコのいい所よ。困っている人を放っておけない。だから、彼女の事を放っておけないのでしょう。でも、ねえ、それは本当に恋心なの? 貴方は、彼女への気持ちを恋だと勘違いしているだけなんじゃ――」
バンと大きな音が教室内に響いた。それは、扉が大きく開け放たれた音だった。
扉の外には、仏頂面をしたサラが立っていた。その無感情な視線は、近距離で立っているドラコとパンジーに注がれていた。
「あ……サラ……いつから……」
ドラコの問いには答えず、サラはドラコ達の方まで歩み寄る。
そしてドラコの横まで来ると、彼の腕を強引に引っ張る。そしてそのまま、教室を出て行った。ぽつねんと佇むパンジーを残して。
「サラ……っ、あの、一体何処から聞いて……。
それとも、誤解してるのか? パンジーとは別に、何も――」
ドラコの言葉が途切れる。
サラは立ち止まったかと思うと、振り返り、ドラコに抱きついていたのだ。
「サラ!?」
「……ドラコは、私だけ見ていればいいのよ」
呟くような声で、しかしハッキリとサラは話す。
「私は貴方に心配をかけてばかりで、信用しきれていなくて、貴方の重荷になっているかもしれない。貴方が勘違いで好きと言ったのかどうかなんて、私には分からない。
だけど、私の気持ちは本物よ。私はドラコを愛しているの。私を構ってくれれば誰でもいいって訳じゃないわ。若しもそうなら、貴方よりもハリーやロンを選んでる。だって、彼らの方がずっと傍にいるし、人を陥れたりなんてしない。
それでも私は、ドラコを好きになったの。彼らじゃなかったの。
貴方が辛い時には、私も貴方を支えたい。貴方の力になりたい。私は貴方を好きだから」
サラはドラコから離れ、ドラコを真っ直ぐに見上げる。その瞳は、真剣そのものだった。
「……そ、そんなの、僕だって同じだ」
突然のサラの告白に動揺しながらも、ドラコは話す。
「確かに最初の内は、パンジーが言うようにただ放っておけなかっただけかもしれない。だけどその内、サラの笑顔を見ていたいと思うようになったんだ。隣にいたい、ずっと一緒にいたいって。
……勘違いじゃない。サラに惹かれていったんだ」
「ドラコ……」
二人は見つめ合う。
しかし、直ぐに互いに視線を逸らした。目を泳がせながら、サラは言う。
「あ……明日の事だけど、何処で何時に待ち合わせる? 今日の放課後は会えないと思うから」
「そ、そうか。そう言えば、今日はクィディッチの練習だって言ってたからな」
ぎこちない様子で、二人は話しながらクラッブとゴイルの待つ図書館へと戻っていくのだった。
玄関ホールの大扉が大きく開かれ、一つの人影が城から出てくる。人影は、朝露に濡れた石段を慎重に降りる。
ひんやりとした風を受けながら、エリは芝生の上を駆け、グラウンドを横断する。近寄ってきた猫を払わんと枝を振っている暴れ柳を尻目に坂を上ると、前方に小屋が見えてくる。息苦しさに顔を歪め、それでもペースは落とさない。
小屋の隣の畑では、ハグリッドが巨大な南瓜の世話をしていた。エリは軽く片手を上げて挨拶をし、その傍を通り過ぎていく。ハグリッドの小屋を過ぎると左に曲がり、校門を右手に見ながらクィディッチ競技場の方へと抜ける。
今までのコースだと、暴れ柳の所で折り返していた。今年になってから、エリは距離を伸ばしたのだ。今年こそはサラに勝つ。そういった熱意の表れでもあった。
本当は校門まで行き、敷地内ギリギリを走りたいところだが、校門には吸魂鬼がいる。あの生物達とは、出来うる限り関わりたくなかった。
クィディッチ競技場に沿って、校内の敷地を大きく周る。朝も早いだけあって、馬車道に人通りは無い。みすぼらしい様子の大きな黒犬が一匹、ゴミを漁っているだけだ。
意気があがるのを抑え呼吸を一定に保つのは、相当の根性が要る。この後は下り坂だ。そう己に言い聞かせ、エリはただひたすら走る。
クィディッチ競技場を過ぎた頃には、森は朝日に照らされ紅く染まっていた。鳥たちの鳴く声が随所から聞こえる。朝霧は晴れゆき、徐々にホグワーツ城がその壮大な姿を露にする。首筋を伝う汗は朝日にきらめき、白い吐息はその色を薄めてゆく。
下り坂に差し掛かった。朝露に濡れた芝生で転ばぬように慎重に、だがペースは決して変えずにエリは坂を駆け下る。
坂を下った勢いに乗り、そのまま石段を目指す。地面が芝生から土に変わった辺りから徐々にペースを落とし、階段を上り、城へと姿を消した。
「つっかれたー……」
玄関ホールへと入ったエリは、首にかけていたタオルを外し、顔に押し当てる。首に掛かっていた真ん中辺りはぐっしょりと濡れているが、端はあまり使用していない。柔らかいタオルが汗を一気に吸収する感覚は、とても気持ちが良い。
だが、これで終わりという訳ではない。
エリは真っ直ぐに西塔へと向かった。幾つもの廊下を渡り、何段もの階段を上り、西塔の天辺を目指す。
向かうはふくろう小屋。そこへの階段が、運動に最適なのだ。
あとはもう一つ廊下を渡り、途中の階段を上ればふくろう小屋。そんな所まで来た時だった。角を曲がろうとすると、向こうから話し声が聞こえてきた。
ダンブルドアとマクゴナガルのようだ。
エリが毎朝運動をしている事は殆どの先生の間で知れ渡っているし、朝なのだから怒られる事もないだろう。
そう思い構わず角を曲がろうとしたが、聞こえてきた名前にエリは足を止めた。
「――ナミはどうにかならないのですか?」
マクゴナガルだ。何やら、ダンブルドアに訴えているらしい。
ナミ。それはもちろん、エリ達の母の名前だった。
母が何かやらかしたのだろうか。母親である彼女が? 大人なのに?
好奇心から、エリは壁に寄り添い息を殺して耳を澄ます。だが、母が何か問題を起こしたという訳ではないらしかった。
「このままでは、彼女があまりにも不憫です。先生も知っておいででしょう? 十七年前、彼女がどれ程辛い思いをした事か。
私、愕然としました。先日、変身術の授業で生徒達に実際に魔法を使わせたんです。彼女はまだ、十七年前のまま――魔法が使えないままでした。
『例のあの人』が――」
「ミネルバ。ヴォルデモートじゃ。君ほどの魔法使いが、彼の名前を恐れる事もなかろう」
やや沈黙があったが、直ぐにマクゴナガルは従った。
「ええ……では、ヴォルデモートが――彼がいなくなってから、もう十二年になるんです。彼は滅びてはいません。先生が仰るのですから、そうなのでしょう。現に、去年や一昨年の事もありますし。
ですが、力を失った事に変わりはありません。もう、ナミが彼女の娘だという事を隠す必要は無いのではないですか。魔法を解いてやるべきです。
ナミの娘で、スリザリンの二年生にアリス・モリイがいるのをご存知でしょう? 彼女も、ナミと同じく魔法が使えないんです。若しかしたら、あの子が魔法を使えないのも、ナミにかけられた魔法を受け継いでしまっているからでは……。
サラやエリは父親が魔法使いだから、そちらから魔法を受け継ぐ事によって相殺されたのでしょう。けれど、アリスは父親がマグルです。受け継ぐ魔力は、母親のものだけだから――
先生、一刻も早く、ナミの魔法を解くべきです。ナミの為にも、アリスの為にも」
エリはそっと廊下を覗いた。廊下には窓からの光が差し込み、陽光の中にダンブルドアとマクゴナガルは立っていた。二人はこちらに背を向け、廊下の向こうへと歩きながら話している。
ダンブルドアは、ゆっくりと首を振った。
「『解かない』のではない……『解けない』のじゃよ」
「それは一体……」
「あの魔法は、かけた者か、かけられた本人の力でしか解けんのじゃ。
――若しくは、かけた本人がこの世から消え去った場合じゃ……」
エリは眼を見張る。
かけた本人。話によると、それはエリ達の祖母だ。
魔法をかけた本人が亡くなった場合、魔法は効力を失うと言う。つまり、ナミやアリスは魔法が使えると。だが、実際には二人共使えないらしい。
と、いう事は――
「まさか……それでは、彼女は……。
でも、そんな筈は……誰よりも彼女が一番、その存在となる辛さを知っている筈です。再会しても触れる事が出来ない、再会を喜び抱き合う事も出来ないのだと、十四歳の彼女はそう嘆いていたのを今でも鮮明に覚えています」
エリは眉を顰める。マクゴナガルの話す意味が、よく分からない。
シャノンは現在、一体どういった状況にあると言うのだろうか。
二人は、それ以上その事について話そうとはしなかった。エリは二人が廊下の向こうへと消えたのを確認し、角を曲がる。殆ど同時に、ふくろう小屋への階段からアリスが降りてきた。
先程の会話が脳裏を過ぎり、エリは気まずい思いでその場に立ち尽くす。既に、日は昇り森は緑色になっていた。
アリスはきょとんとした様子で、エリの方へと歩いてくる。
「おはよう、エリ。どうしたの? 若しかして、エリもお父さんに手紙?」
「あー……アリスって、魔法が使えないのか?」
一瞬、屈辱的な表情がアリスの顔を過ぎる。
拳を握り締め、アリスは振り絞るように答えた。
「……ええ、そうよ」
「でも――だって、それじゃ今までどうしてたんだ?」
「どうもしないわ。『出来ません』って諦めるしかない。テストも同様。実技は零点必至だから、筆記で補うしかない。
直接魔法を使う訳ではない魔法薬や薬草学や魔法史は、幸い問題無いけれどね」
何も言葉を返せなかった。
ホグワーツは、魔法魔術学校だ。当然、授業は殆ど魔法である。ただの劣等性という訳ではない。一切使えないのだ。それが、どれ程辛い事か。エリの考えには及ばぬ範囲だった。
アリスは今まで、そんな事一言も口にしなかった。いつも愛らしい笑顔を崩さなくて、皆から愛されていて、何においても満遍なく優等生で。それが、エリがアリスに対して抱いていたイメージだったのだ。
だが、それが今、一気に壊された。
「アリス……その……」
「同情なんてよしてちょうだい」
声質が同じだからだろうか。きっぱりと言ったその言い方は、サラそっくりに聞こえた。
そしてアリスは、いつもと同じ笑顔に戻る。
「私は一年間、これでやってきた。進学も出来た。魔法に代わる方法はいくらでもあるわ。
心配しなくても、大丈夫よ。
――でも、一体どうしてエリはその事を知ったの?」
アリスの表情は、笑顔のままだ。
エリはその笑顔に危険を感じた。夏休みに、観葉植物を一瞬で消したあの劇薬。あれの人体実験が行われかねない。
「いやぁ……教えられた訳じゃなくてさ。さっき、ダンブルドアとマクゴナガルが話してたんだ。
それでさ、シャノンのばあさんが生きてるかもしれない」
「……今、何て!?」
どうやら、アリスの興味を別の方向に誘導出来たらしい。
エリは内心ホッとしながら、話を続ける。
「お前と母さんに、シャノンのばあさんが魔法をかけたけど、まだそれが解けてないって。死んだら解ける筈だって言ってたから、シャノンのばあさんは生きてるのかもしれない」
「まさか。でも、彼女の死は確認された筈よ。初日に話しかけてきたスリザリンの生徒が、言ってたもの。彼女の親が、その現場の処理をしたみたいで。どんなに無残な遺体だったか、事細かに教えてくれたわ」
「無惨って、なんで――」
「シャノンのおばあさん、海に落ちたそうよ。死因は溺死でなく魔法だそうだけど。亡くなってから数日間、海を漂ってたんですって。あまり詳細に話したくないわ。
まあ、そういう訳で彼女の死は確認されているのよ。
シャノンのおばあさんが生きてるかもって言うのは、確かに先生方が言っていたのね?」
「ああ」
エリは頷く。
実際直接そう言った訳ではないが、あの話の流れではどう考えても祖母が生きていた事になる。
「そう……。まあ、可能性はいくらでも考えられるわ。その死亡状況自体、捏造されているとか。若しかしたら、身代わりって事も考えられるわね」
「身代わりってそんな……! それってつまり、ばあさんの代わりに他の誰かが殺されていて、そいつの死は世間に知らされてないっつー事だろ?」
「例えばの話よ。仮にそれでビンゴだとしても、きっと身代わりは死喰人でしょうしね」
「死喰人だってそんな事許されねぇよ!」
「エリ」
アリスは強い声で、エリを抑止する。
「シャノンのおばあさんは、ダンブルドア側だった。死喰人はヴォルデモート側。その頃、二つの勢力は対立していたのよ。戦争だったの。
シャノンのおばあさん殺害だって、その尾ひれ。戦なら、甘い事は言ってられないわ。我が身の無事の為なら、敵は滅ぼさなきゃいけないの」
「アリス……お前、本当にスリザリン生になっちまったんだな」
「どういう意味?」
「お前、言ってる事がサラみたいだ」
「……」
「俺は、そんな風に割り切れない。甘いって言われたっていい。出来る限り、人は殺さないに越した事はねぇよ。誰かを身代わりにするぐらいなら、そのまま逃げた方がいいに決まってる。
……一番いいのは、争わない事なんだけどな。二度と、十二年前までみたいな状況にはならない事を願うよ」
「……そうね……」
アリスは相槌を打ち、眼を伏せる。
エリの言葉が痛いほど胸に染みた。自分は、サラのようになってしまっていると。目的の為なら、我が身の為なら、手段を選ばない。他人の犠牲を厭わない。
エリの考えは甘い。エリの説得を聞いても、それは拭いきれない。だが、自分の考えも極端過ぎた。
「あー……まあ、とにかくそういう訳で。はい、こんな暗い話はおしまい! そんな暗い顔すんなって! 笑ってないと、せっかくの可愛い顔が台無しだぜ!」
重い空気に耐え切れず、エリはやけに明るい調子で言った。
「ごめんな、何か色々不快な話して」
「別に平気よ。何れは知られるだろうと思っていたもの」
アリスは再び、いつもの笑顔に戻っていた。屈託の無い笑顔。
エリは「そうだ」と思いついたように言った。
「じゃ、お詫びっちゃあ何だけど、いい事教えてやるよ。ただし、あんまりに大きなお詫びになるから、全部は教えてやらねぇけどな。
今日、三年生以上はホグズミードへ行ける日なんだ。二年生以下は許されてないけど、でも抜け道があるんだよ。暴れ柳の根元に穴があってさ、そこからホグズミードの『叫びの屋敷』まで繋がってる。
ただしここを使うのにはちょいと、コツが必要だ。それさえ分かれば、使ってもいいぜ」
そう言い、エリはニヤリと笑う。
「何よそれ」
アリスは呆れたように言いながらも、クスクスと笑っていた。
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The Blood
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希望求めし少女たちは
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2008/09/20