朝露が陽の光を浴び、きらきらと輝く。東の空は紫やピンク色に染まった薄い雲が、帯のように幾重にも重なっている。
 小さな影が、ふらりと町に足を踏み入れた。
 元々の色なのか泥によるものかも分からぬ、くたびれた黒い毛並み。憔悴したように垂れ下がった三角の耳。周囲と対比すれば大型犬の部類なのだが、空腹と疲労にふらつきながら歩くその姿は、実際よりも小さく見えた。
 立ち並ぶ店は、今までこの犬が歩いてきた町並みとは一風変わった容貌ばかりである。奇抜な色。摩訶不思議な形。多種多様な建物が並び、看板に書かれた店の名も一風変わった物ばかりだ。
 ここは、ホグズミード。
 魔法使いのみが暮らす村である。
 早朝という事もあって、どの店もシャッターが降り、カーテンが閉められている。犬は、一件の店の前で立ち止まった。犬の見つめる先にあるのは、ショーウィンドーに張られた一枚の貼り紙。その犬は、まるでそれを読んでいるかのようだった。
 一時の後、犬は再び歩き始める。
 やがて、古びた屋敷が見えてきた。犬は、ふらふらとその中へ入って行く。奥の部屋へと入った途端、犬はその場にバタリと力尽きたように倒れた。





No.77






 サラは、生徒のひしめく玄関ホールでずっとそわそわとしていた。サラが立つ壁際には、他にも人待ち顔の者がちらほらと見られる。
 ワンピースにカーディガン、ハイソックスに短めのブーツ。お洒落と言うにはシンプルだが、普段着るような服装ではない。それも、落ち着かない要因の一つなのかもしれない。スカートをはくのは一体、何年ぶりだろうか。少なくとも、小学校高学年になってからは全くはいていなかった。この服も、アリスからの借り物である。
 十月三十一日。今日は、三年生以上の生徒がホグズミードへ行くのを許される日だ。初めてのホグズミード。今日は、ハリーともロンとも、ハーマイオニーとさえ一緒ではない。尤も、ハリーはダーズリー達からサインを貰う事が出来なかった為、ナミと一緒に留守番なのだが。
『でも私、一度彼女の元から家出してるから今更保護者やってくれなんて頼めないし、頼んでもこんな危険な状況じゃ、あのマクゴナガルが許してくれるかどうか……』
 サラは、あの時ナミが口にした言葉を思い返す。
 ナミはマクゴナガルの家に住んだ事があるのか。娘を預ける程に、祖母はマクゴナガルと親しかったのか。そして、ナミはマクゴナガルの元から家出したと言った。一体何があったのか。
 物思いに耽っていると、人垣の間から自分の名を呼ぶ声がした。
 ドラコだ。サラは顔を上げ、こちらへ向かってくる少年に目を留める。はにかんだ表情で微笑みかけ、そして唖然とした。
 ドラコの後ろから、二人、人垣の中から現れた人物がいたのだ。
「ごめん、サラ。待たせたな」
「え、ええ。それは構わないのだけれど……」
「こいつらが朝食を弁当に詰めてて、なかなか帰って来なかったんだ。ほら、お前らもサラに謝れ」
「ごめん、サラ」
「ホグズミードって、やっぱ歩くだろ? だから、何も無いとお腹空くと思って……」
「……」
 謝るビンセントとグレゴリーを、サラは無言で見つめる。その表情は引きつっていた。
 ドラコがそれに気付く。
「本当に悪かったよ。だから、そんなに怒らないでくれ。それとも、待っている間に妹に絡まれでもしたのか?」
「そういう訳じゃないわ」
 サラは、ドラコと約束をした時の事を思い出す。ドラコは一緒にホグズミードへ行こうと言った。だが思い返してみれば、確かに「二人で」とは一言も言っていない。
「……何でもないわ。行きましょう」
 サラは言って、先に立って歩き出す。
 三人と共に玄関ホールを横切りながら、サラは深い溜息を吐いた。
 ――これじゃあ、いつもと一緒じゃない……。
「どうしたんだ? 溜息なんか吐いて」
 またしてもドラコに気付かれ、サラは慌てて言い繕う。
「ちょっと、疲れちゃっただけよ。慣れない靴なものだから」
「そう言えば、服――」
 サラはどきりとする。アリスから借りてまでお洒落をして来た事に、ドラコは気付いてくれたのか。
 ドラコは何と言うだろう。着慣れない服装で、サラ自身違和感が拭い切れずにいる。アリスは可愛いと言ってくれたが、例えおかしくてもアリスなら励ましでそう言ってくれる事だろう。
 ドラコは言葉を続けた。
「寒そうだな」
「……え?」
 それだけ?
 口にこそ出さぬものの、サラは咄嗟にそう思った。妹に借りてまで、慣れない靴を履いてまで。そうまでしたと言うのに、この男はそれしか言う事が無いのか。
 サラが黙っていると、ふと首にマフラーが掛かった。銀と緑、スリザリンカラーのマフラー。ドラコの物だ。
「風邪ひくなよ」
 そう言ってドラコは微笑う。
 サラは、顔が熱を帯びるのを感じそっぽを向いて再び歩き出す。
「……あ、ありがとう」
 まあ、いいか。つい、そう思ってしまう。
 手にしたリストを念入りにチェックしているフィルチの横を通り過ぎ、四人は外へと出た。空は晴れ渡り、絶好のホグズミード日和である。校庭には沢山の三年生以上の生徒がいて、馬車道を校門の方へと向かっていた。
 その人だかりに紛れ込み、サラ達も馬車道を歩いて行く。暴れ柳の傍らにはクルックシャンクスが座り込んでいた。器用に枝を避けながら、じっと馬車道を行く生徒達を見つめている。
 ハグリッドの小屋を通り過ぎた辺りから、人垣の向こうに黒い姿がちらちらと見え隠れし始めた。ウキウキと弾んでいた生徒達の声も、次第に小さくなって行く。
 空気が冷たくなったのは、きっと気のせいでは無いだろう。サラはぎゅっと拳を握り締める。
 辺りは完全に沈黙となった。門の両脇に控える黒い影。そちらを見ないように俯き加減になって、門へと歩を進める。
 ふと、握り締められたサラの手をドラコが掴んだ。
「……僕が、ついてる」
 一生懸命に格好つけようとしているようだが、声は震えていた。握られた手から、手の震えも伝わってくる。
 サラは握り締めていた拳をそっと開く。そして、ドラコの手を握り返した。





 扉の向こうには、気難しげに眉根を寄せた男が立っていた。入ってきた少女に、彼はあからさまに迷惑そうな顔をする。
「……何の用だ、ナミ」
 セブルスの態度は気にも留めず、ナミは二カッと笑う。
「旧友が久しぶりに会えたかつての友達の所に行くのに、理由なんて要る?」
「残念だったな。我輩は貴様と友達だった覚えは無い。そもそも、毎日会っているだろう」
「それは朝食の席で見かけるとか、授業とかの事でしょ。そんな中話そうにも他の生徒の目があるし、放課後はエリやアリスがよく来ているみたいだからね。スリザリン寮のアリスは兎も角、随分と懐かれているようで」
「アリスは魔法薬の件でよく来るだけだ。エリ・モリイも、ミスター・フィルチからの隠れ家にしているに過ぎん。まったく、迷惑極まりない。母親ならどうにかせんか」
 ナミは笑って肩を竦める。
 セブルスは何やら魔法薬の調合をしていた。ちょうど終わったところらしく、大鍋に入った薬をゴブレットですくう。その色を見て、ナミは顔を顰める。
「わ、凄い色。何の薬?」
「ルーピンのだ」
「ああ……。でも、その薬って作ってから時間経ったら不味いんじゃないっけ? 来てからすくえばいいのに」
「そのつもりだった。本当はルーピンがここに来る筈だったのだが、また忘れているらしい。届けに行く」
「あ、じゃあ私も行く」
 言って、ナミはセブルスに続いて研究室を出た。
「ルーピンと言えば、君は奴に魔法を習っているそうだな。どうだ、調子は」
「あ。リーマスから聞いた? まあまあ、ってとこかな。相変わらずだよ。先日も変身術の授業があってねー……。小さくなってる影響だってサラには言ったけど、あの子じゃあ知られるのも時間の問題かもね」
「まだ使えんのか?」
 前を行くセブルスが振り返った。珍しく、その表情は驚きを表している。
「え?」
「いや……何でも無い」
 ナミは呆れたように軽く息を吐く。
「私はスクイブなんだよ。そう簡単に魔法が使えるようになる訳、無いじゃない」
「……君は筆記の成績は良くても、娘のような本の虫と言う訳では無いのだな」
「何それ。サラと違うって褒めたいの? それとも、無知だって貶したいの?
ピーターがいればなぁ……。また、いくらか向上出来たかも知れないのに」
 当時一緒につるんでいた他の仲間に比べ、勉強は苦手で要領も悪かった彼。
 劣等生同士、ナミとは気の合う仲だった。
「失礼ながら、奴が教えるのが上手いとは到底思えんが」
「かもね。でも、私にはちょうど良かったんだ。ジェームズとかルーピンだと、レベル高過ぎるからさ。セブルスも。貴方達にとって魔法を使う事って、歩くみたいなものじゃない? そんなの、やり方聞かれても困るでしょ?
ピーターもその点は一緒だけど、でも皆に比べれば『出来ない』って言うのがどういう事か分かってるから。どうすれば、出来るようになるか。結局私が魔法を使えるようになる事は無かったけど、でも魔法薬の調合が出来るようになった。あれ、ピーターのお陰なんだよ? それまで、調合さえも出来なかったんだから。あれも杖使って混ぜたりとか、魔法力の必要な部分があるからね」
 セブルスは何も言わない。ただ黙って、ナミの話を聞いている。
「でももう、いないんだよね……。
後悔してる。なんで私、あの時逃げたんだろうって。スクイブの私に出来る事なんて無かったかも知れない。でも、それでも最後は彼らといたかった。あとから結末を聞かされるだけなんて、嫌だった……」
「勝手に行方をくらました奴が、今更何を言うか」
「相変わらず手厳しいなぁ。でもまあ、その通りだもんね。その節は、お騒がせしました」
「まったくだ。特にシャノンなど、君の情報を得る為に教職にまで就いたのだぞ。どれ程心配していた事か……」
「……冗談止してよ」
「冗談ではない。やはりあの態度は、周囲へのハッタリの為だったのだ。でなければ、態々ホグワーツに就職など――」
「やめて!!」
 石の廊下にナミの声が響き渡り、セブルスの言葉が途切れる。
 横に立つセブルスを見上げ、ナミは困ったように笑っていた。
「エリやアリスから、聞いてないのかな……。私、もうシャノンは『嫌い』なんだ。母親だなんて思わない」
「……何があった?」
「何も」
「嘘を吐くな。何も無くて、そうまで変わりはすまい。行方をくらましたのも、何かあったからであろう」
「何も無いよ?」
 ナミはあくまで笑顔だ。
「ほら……行こう。その薬、時間経ったらいけないでしょ?」
 ナミは再び歩き出す。セブルスは暫くその背を見つめていたが、やがて後を追うようにして歩き始めた。
 暫くの間、二人は無言で歩き続けた。冷たい廊下に、二人分の足音だけが響く。
 リーマスの部屋がある廊下まで来た時、ナミがふと口を開いた。
「……ねぇ、私、ずっと疑問に思ってる事があるの」
「何だ」
「セブルスは、どうして私とシャノンの関係を知ったの?」
「偶然、話しているのを聞いた」
「聞き方が悪かったね。――セブルスは、一体何を私に隠してるの?」
「何も隠してなどいない」
「嘘を吐くな」
 突如変わった口調に、セブルスは驚いてナミを見る。
 ナミはにっこりと笑った。
「さっきのセブルスを真似ただけだよ。
……それ、嘘だよね? セブルスは何か私に隠してる。セブルスだけじゃない。ダンブルドアも、シャノンも、マクゴナガルも、ハグリッドまで。ずっと、昔から。私が子供だった時から。
ねぇ、何隠してるの? 私はもう子供じゃないんだよ。そろそろ教えてくれたっていいんじゃない?」
「……」
 セブルスは黙したまま、答えない。
 それを見て取ると、ナミは小走りに駆けて行った。そして、リーマスの部屋の前で立ち止まる。振り返ったナミは、満面の笑みを浮かべていた。
「凄い偶然だね。今、ハリーも一緒にいるみたいだよ」
「……だから、何だ」
「何隠してるの?」
「……」
「昔話でもしよっかなぁー……。五年生のクリスマス前に、セブルスが――」
「わーっ!! やめんか! あの話は、忘れる約束だっただろう!!」
「話してくれたら、考えてもいいよ」
「……我輩から話す事は、出来ん」
「……そう」
 短く言うと、ナミはくるりと背を向け歩き出す。
 セブルスがそれを呼び止めた。
「何処へ行く気だ?」
「言ったでしょ。中に、ハリーもいるって。一緒に入って行けば、妙な組み合わせだと思われるでしょうが。スリザリンの生徒ならまだしもさ」
 ナミは言って、肩を竦める。
「隠し通路の見回りでもしてるよ。ハリー、外に出る気は無いみたいだしね」
 ナミは再び背を向け、今度こそその場を立ち去った。





 三本の箒を出たエリは、寒さに身を震わせた。
 ハイストリート通りにはホグワーツの生徒が溢れ帰り、店々は賑わっている。人気な店が立ち並ぶ右手を横目で眺めながら、エリは一人、通りを横切る。ハンナ達も誘ったのだが、断られてしまったのだ。フレッド達にも、ゾンコの店で別れる前に声を掛けてみるべきだったか。そう思えども、別れた今となってはもう遅い。
 エリの手には、沢山の買い物袋が抱えられていた。どの紙袋も、午前中に買い込んだ悪戯グッズや菓子類である。
 通りを横切り、三本の箒とはややずれた位置にある細い通りに入って行く。ハイストリート通りに比べ、格段に人気が無い。恐らく、この先にある場所の所為なのだろう。
 暫く行き村はずれまで来ると、古ぼけた屋敷が木々の間に見えて来た。
 やはり、誰かと来るべきだったか。アリスとは結局、会っていない。教えた隠し通路が何処に通じるのかは知らないが、来られなかったと言う事だろうか。
 坂を上っているとやがて道が開けて、大きな洋館が目の前に全貌を現した。小高い所に建った屋敷は、まるでベタなお化け屋敷のよう。窓には全て板が打ち付けられ、庭の草は手入れされておらず伸びっぱなしになっている。
「ひゃー……雰囲気あるなぁ……」
 エリは声に出して呟く。他の誰もいない場所で、その声はやけに大きく聞こえた。
 何処か開いている所は無いだろうか。そう思い、エリは窓や壁を隈なく見つめながら、屋敷の周囲を歩く。やはり、全ての窓が打ち付けられている。どの板も打ち付けられているのは中からで、外からはがす事は到底出来ず、中を伺い見る事も出来ない。
「……あ」
 エリは数メートル先へと駆け寄った。
 そこには、小さな穴があった。床下に入るような、小さな穴。犬一匹が、何とか通れるだろうかと言うような大きさだ。犬でも、健康的な大型犬だったらまず無理だろう。
 エリは穴の傍らにしゃがみ込み、中を覗き込む。中は真っ暗だが、入口よりは広いようだった。穴から入ってしまえば、恐らくエリでも這ってだが容易に進める事だろう。
 問題は、穴を通れるかである。魔法を使えば、穴を広げる事など造作も無い。だが、ここは校外。魔法を使用すれば、直ぐにばれてしまう。そもそも魔法が使えるようなら、最初から窓の板を破壊している。
「……通れるかな」
 エリは呟く。もちろん、答える者は無い。いつもならば、「馬鹿な事言ってないで、行くよ」などと返してくれるような仲間もいるのだが。アリスやジニーでさえ、通れそうに無い小さな穴。サラでも難しいだろう。
 けれど行かないと言った皆を怖いのかとからかった手前、何も無しにただ外装を見るだけ見て帰るという訳にはいかない。
 エリは荷物を壁にもたれかけるようにして置き、穴の前で手と膝を着いた。そのまま、頭を穴の中に突っ込む。頭は容易に中へと入る事が出来た。自分の身体に遮られ、光は細い筋しか入らなくなる。数メートル先で、蜘蛛が破られた巣をせっせと修復していた。そしてその向こうに、細い光がうっすらと差し込んでいるのが見えた。恐らく、床への出口だ。
「何だ、案外楽勝じゃねぇか」
 エリはそのまま、前へと匍匐前進をして行く。何とか、広い肩幅も穴を通り抜ける事が出来た。
「よし、行ける行ける」
 自分自身に声をかけ、エリは猶も進む。
 しかし、そう上手くは行かなかった。更に進んだ所で、尻がつかえて前に進めなくなった。穴は完全に遮られ、視界は真っ暗になる。
「やっぱ無理だったかー……」
 呟き、後退しようと手を伸ばす。……動かない。
「……え? 嘘? え、マジで?」
 力を入れ、無理にも身体を後退させようとする。だが、穴に挟まったまま、前にも後ろにも動く事が出来ない。
「嘘ぉ……。
おーい、誰かー! 誰かいるかー!?」
 試しに大声を張り上げてみるが、ここは叫びの屋敷。近寄る者など滅多にいない。当然、返答も無かった。
 エリは一歩も動けぬ状態のまま、暗闇の中呆然とするしかなかった。


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2009/03/29