夜が明ける。霧の中から、黒い犬がのっそりと姿を現した。昨日に比べ、やや元気を取り戻した様子である。
 黒犬はゴミを漁っていた。そして、中から新聞紙を一部引っ張り出す。
 やはり、読んでいるかのようだった。若しダーズリーがこの光景を見ていたならば、「あり得ん」と声に出して自分に言い聞かせるだろう。
 新聞紙は、昨年の夏の物だった。ブローリッシュ・アンド・ブロッツ書店を訪れたハリーとサラ。今は療養中となったロックハートに肩を抱かれ、一面に見出しが出ている。
 ――生きていた……。
 黒犬は、少女の方をまじまじと見つめていた。サラ・シャノン。ヴォルデモートの襲撃があった日、ジェームズやリリーと共に亡くなったのだと聞かされていた。翌日に監獄へ入れられた彼には、三日後に広まった生存報告を聞く術が無かったのだ。
 サラの生存。それはこの暗闇の中で、一筋の希望の光であった。
 黒犬は大事そうにその頁を引っ張り出すと、そっと咥えて霧の中へと戻って行く。
 昨日、叫びの屋敷で出会った少女。エリと呼ばれていた。若しかすると、彼女も――





No.79





 月曜には、魔法薬学があった。グリフィンドールとスリザリンの合同授業だ。
 説明が終わると、スネイプは二人で組むように言った。サラは素早く教室内を見渡し、目的の人物を探し出す。そして、迷わず声を掛けた。
「ドラコ。一緒に組みましょう」
「え……、ああ」
 やや間はあったが、ドラコは頷く。
 調合の準備をしながらも、ドラコはサラの顔色を伺っている様子だった。
「何?」
「え。え、いや、その……」
「ほら、早く手を動かして。私一人に任せていたら、まともな物が出来ないわよ」
 ドラコは慌てて支度に取り掛かる。
 サラは、いつもの調子だった。別段、普段と変わった様子は無い。まるで、ホグズミードで何も無かったかのように振舞う。
 ドラコはその様子に戸惑いながらも、作業の手を動かす。サラを置いて、パンジーを追って行ってしまった。その事に、何ら負い目を感じていない訳ではない。怒っているだろうか。明日会ったら、何と言えば良いのだろうか。どんな顔をすれば良いのだろうか。ずっと考えていた。昨夜、大広間で寝る事になっても、サラに声を掛ける事は出来なかった。サラがハリー達と一緒に寝るなんて、腹立たしいと言うのに。
 ふと、ドラコは我に返る。サラは、輪切りにした芋虫を鍋に入れようとしている所だった。
「サラ、ストップ!」
 危機一髪、ドラコは慌ててそれを止めた。
「これじゃまだ、一つ一つが大き過ぎる。溶けないよ。それから、火はもっと強くしろ。
貸して。僕が切る。サラは、そっちの蛙の目玉を叩き潰す作業をやってくれ」
「分かったわ」
 短く返事をし、サラは指示された作業に移る。
 ドラコとしては、女の子であるサラにこのようなえぐい作業はさせたくない。しかし、実際の所、サラが何の問題も起こさずに出来る事と言えば、そう言った力任せの仕事しかなかった。寧ろ、力仕事の方が得意なぐらいである。そして幸い、顔を顰める女子が多いような作業でも、サラは平気なようだった。
 ドラコは再度サラの様子を伺う。けれど、どんなに見ようとも、サラの言動に怒りは感じられなかった。

 ホグズミードでの事に何の言及もないまま、魔法薬学の授業は終了した。
 サラは、テキパキと移動の支度を整えると、席を立ちドラコを振り返った。
「じゃあね、ドラコ。また今日も、昼休みに図書館で」
「ああ。またな」
 手を振り、ドラコと別れる。
 教室を出てハリー達三人を待っていると、全く別の人物がサラの前で立ち止まった。パンジー・パーキンソンだ。
 また、何か嫌味でも言うつもりだろうか。サラは構え、パンジーの言葉を待つ。パンジーは廊下の向こうを顎で示した。
「ちょっと来てくれる? ここじゃ、人が多過ぎるわ」
 そう言って、人気のいない方へと歩いて行く。
「サラ。どうしたんだい?」
 ちょうど、ハリー達が出て来た所だった。
 ぼんやりとパンジーの背中を見つめているサラに、ハリーが問う。
「次の授業、先に行っていてちょうだい」
「え? え――サラ!」
「大丈夫、遅刻はしないから」
 言いながら、サラはパンジーの後へとついて行った。
 パンジーはスタスタと人気の無い方へと歩いて行く。サラは小走りになって、彼女の後へとついて行った。念の為辺りの気配を探ってみるが、パンジーの取り巻きの気配がする事は無い。
 一体、サラに何の用があると言うのか。
 やがて、パンジーは人気の無い、使用されていない空き教室の並ぶ廊下で立ち止まった。そして、こちらへと振り返る。その瞳は、しっかりとサラを捕らえていた。
「私……昨日、ドラコにふられたわ」
 思いがけない話に、サラはきょとんとする。
 また、いつもの嫌味か宣戦布告だろうと思っていたのだ。
 また、パンジーの言い方にも引っかかる物があった。ドラコはサラと付き合っている。その時点で、彼女の失恋は明確だった筈では無いのか。まさか、気付いていなかったとでも言うのだろうか。
「私ね、今まで彼に告白していなかったのよ。――つい、昨日までは……ね」
「……」
「ここ最近、私はドラコを避けていたわ。そして昨日、ドラコにそれを指摘された。私は逃げて――それでも、彼は私を追って来てくれた。貴女と一緒にいたにも関わらず」
 サラは答えない。
 昨日の事についての話は、不快だった。だが、どうもパンジーはただ嫌味を言いたいだけとは思えない。
 彼女は続ける。
「私、一人で泣くつもりだったわ。けれど、彼は私を追って来てくれた。貴女と一緒にいるより、私を慰める事を選んでくれた。……だから私、告白したの」
 そして、ふられたと言う訳か。
 理解しても、サラは言葉を返さなかった。ドラコが彼女をふったのは、サラがいるからだ。それを分かっているから、パンジーに返す言葉など見つからなかった。
 また、彼女の話に衝撃を受けていたのも事実だった。彼女は、「泣くつもりだった」と言った。いつも気位が高く、サラと顔を合わせる度に嫌味を言って来ていた彼女。彼女の泣く姿なんて、想像出来なかった。彼女の口からそんな言葉が出るなんて、信じ難かった。
「……私、ずっと、どうして貴女が彼に選ばれたのか疑問だったわ。
貴女がドラコを強く愛している事は認めるわ。貴女は危険に巻き込まれる事が多いけれど、彼は巻き込むまいとしているのが分かるし。それに、私がまだ自分の気持ちを伝えられなかった時、貴女は素直に彼に気持ちを伝えたわ。
でも、ただそれだけ。貴女は彼を愛しているけれど、それだけで貴女が彼の隣にいるのに相応しいとは思えなかった。だって貴女って、ドラコに負担ばかりかけるし、嫌味な性格だし、自分を正当化ばかりするし、傲慢だし――」
 詰まる事無く挙げられていく欠点に、サラは少々ムッとする。
「あなた、いい加減に――」
「――でも貴女は、ドラコを信じていた」
 パンジーは、サラの言葉を遮るようにして言った。
「今日の貴女のドラコへの態度を見て、負けたと思ったわ。昨日、ドラコと私が何を話したのか、貴女は聞こうとしなかった」
 ドラコがパンジーを追って行った事は、不愉快だった。腹立たしかった。
 けれどもサラは、彼らの会話に不安を抱いてはいなかった。ドラコは、サラを愛している。彼はそう言った。それは、疑いようの無い事実だ。
 だから、サラはドラコにいつも通りに接した。パンジーと何を話したのか、聞かなかった。
 パンジーは、小さく溜息を吐く。
「……こうもはっきりふられちゃあ、貴女とドラコの事、認めざるを得ないわね」
「パンジー……」
「でも私、ドラコの事諦めないから」
 パンジーは、真正面からサラの瞳を見据える。そして、ニッと笑った。
「ぼやぼやしていたら、私が横から奪っちゃうわよ」
 サラは一瞬呆気に取られ、そしてフッと笑った。
「ご心配無く。彼を手放すつもりなんて、毛頭無いわ」
 パンジーはサラに背を向け、去って行った。
 彼女の背中が見えなくなり、サラは振り返らぬまま声を発する。
「……そろそろ出てきたら?」
 言って、サラは振り返る。
 背後の曲がり角から、ドラコがそろそろと出て来るところだった。
「昨日の事……怒ってないのか?」
 その言葉に、サラは冷たい視線をドラコに向ける。
 ドラコはぎょっとして身構える。
「怒ってるわよ。怒ってない訳無いじゃない。
私、ドラコの彼女なのよね? なのに、ドラコは今までと何も変わり無いし、ちゃんとしたデートかと思ったらビンセントとグレゴリーも一緒だし、精一杯おしゃれしたって気付いてくれないし、挙句の果てはドラコは他の女の子追いかけて行っちゃうんだもの! 一体、私は何なのよ!?」
 激しい語調でまくし立てるサラに、ドラコはたじたじになる。
 サラが感情的に怒るのは、珍しい事だった。怒っても、何も話さなくなったり、無表情だったりするのが、常だというのに。予想外のサラの言動に、ドラコはどうして良いか分からなくなる。
 と、サラは微笑んだ。ややはにかむ様な、温かい笑顔。ドラコは、胸が高鳴るのを感じる。
「でも、私はドラコのそういう所が好きだから……」
 そう言って微笑むサラの頬は、ほんのりと紅い。
「困ってたり、傷ついている子がいたら、無条件にその子を最優先してしまう。その時誰と一緒にいようとも、涙を見たら放っておけない。私は、ドラコのそんな優しい所を好きになったから……」
 サラがどんなに迷惑をかけようとも、気に掛けてくれる。ビンセントやグレゴリーにどんなに呆れようとも、結局は手を差し伸べずにはいられない。彼女と一緒にいる時にパンジーが泣いて駆け去ろうものなら、彼女を放ってでもパンジーを追いかけて行ってしまう。
 そんな優しさが、サラは好きなのだ。
「いけない。もう行かなきゃ、授業に遅れるわ」
 ドラコがしている腕時計の針が指す時間に気付き、サラは言った。
 ドラコの横をすり抜けて行き、途中で立ち止まり振り返る。
「ね、ドラコ」
 ドラコは振り返る。
 サラは肩を竦めて微笑った。
「今度は、二人で出かけましょう」
「ああ」
 ドラコは頷き、微笑んだ。





 昼食をとりに大広間に入り、アリスは唖然とした。
 スリザリンのテーブルには、ドラコ達三人と、パンジー達がいた。そして、パンジーはドラコと一緒には座っていなかった。
 ここ最近、ドラコとパンジーが一緒にいない事は度々あった。けれどそう言った時は、パンジーは大広間自体にいなかった。パンジーも大広間にいたならば、必ずドラコの傍に座っていた。
 アリスは驚きながらも、空いている席に座った。アリスが席に着いた途端、隣に座った者があった。
「ミルクをどうぞ、アリス」
「ありがとう、アストリア」
 アリスは愛想の良い笑顔を浮かべ、手元にあるグラスをアストリアに差し出す。
 アストリア・グリーングラス。今年新入した一年生。パンジーの親友、ダフネ・グリーングラスの妹だ。彼女はアリスによく懐いていて、食事や放課後に出会った時は、必ずと言って良いほどアリスの傍へと寄って来た。
 彼女の懐き方は、去年までのアリス自身にとてもよく似ていた。上級生に媚び、印象を上げる。恐らく彼女も、その為にアリスを利用しているのだろう。事実、アリスを通じてアストリアはサラやハリーにも好感を与えていたし、他寮生とも親しかった。
 利用されていると分かっていても、アリスは彼女を拒むつもりは無かった。同級生や上級生からの風当たりが強い今、下級生にアストリアという繋がりがある事は、とても重要だった。スリザリン内の話は、彼女から仕入れる事が出来た。また、アストリアは姉がいる事もあって、スリザリンの一年生の中では中心的立場にもなっていた。アストリア一人がアリスに懐く事によって、他の生徒達も付いてくる。それは、いざと言う時の手駒になる。
 要するに、利害関係である。アストリアに利用されているのと同じだけ、アリスもアストリアを利用していた。
 アストリアがミルクを注ぐ傍ら、アリスは中央の籠からパンを取る。
「ねえ、アリス。この後、何か予定とかってあるかしら」
 注いだミルクを差し出しながら、アストリアが尋ねた。
 アリスはパンにジャムを塗りながら答える。
「特に何も無いわよ」
「それじゃあ、この後、少し時間が欲しいの。良い?」
「ええ。でも、どうして?」
「少し、話したい事があるの……。あまり時間は取らせないわ」
 そう言うアストリアは、やや暗い顔をしていた。何か、悩み事でもあるのだろうか。
 アリスは、にっこりと微笑む。
「分かったわ」
「ありがとう!」
 ぱあっとアストリアの表情が明るくなる。そして、席を立った。
「それじゃあ、食べ終わったらクィディッチ競技場へ来てちょうだい」
 そう言って、アストリアは大広間を出て行った。どうやら、食事は終わっているらしい。
 アストリアがいなくなり、アリスは一人で黙々と食事をとる。
 パンとシチューとサ・ラダを食べ終え、デザートを取ろうと顔を上げた時だった。ふと、正面を通り過ぎるハーパーと眼が合った。ハーパーは見ていた事に気付かれ、やや慌てた表情をする。
 アリスはふいと顔を背ける。そこへ、背後から声が掛かった。
「隣、良いか?」
 アリスは目を丸くする。
 声の主は、ドラコだった。彼とは、あまり二人でいたくない。けれどここで拒否するのも、妙である。アリスは仕方なく、頷きドラコを先程アストリアが座っていた席に座らせた。
「最近、同級生とは一緒にいないな」
 隣に座り、ドラコは話す。
「ハーパーと一緒にいる所も、あまり見ないし……」
「ハーパーとは元々、大して親しくも無いわ!」
 アリスはドラコを振り返り、早口で否定した。それからはっと口を押さえ、視線を逸らす。
 ドラコに誤解はされたくない。けれど、自分の気持ちを気付かれてもいけない。
 幸い、ドラコは別の捉え方をしたようだった。
「ハーパーと、喧嘩でもしたのか?」
「そう言う事じゃないわ。……本当よ」
 そしてアリスはドラコを振り返り、満面の笑顔を見せる。
「最近あたし、忙しくって。だから、友達ともなかなか一緒にいられないのよね」
 アリスのいつも通りの笑顔に、ドラコはホッと息を吐く。
「そうか……良かった。少し心配だったんだ。最近、いつも一人でいるようだったから。何かあったら、呼べよ。僕が守ってやるから。アリスは、サラの妹だからな」
「ええ、ありがとう。でも、大丈夫よ」
 アリスは笑顔で返す。そして、立ち上がった。
「……ごめんなさい。あたし、この後約束があって……急がないといけないから……」
 言うなり、駆け出す。
 大広間の扉を押し開き、玄関ホールを走り抜ける。誰かにぶつかった気がしたが、構う事など出来なかった。大きな樫の扉を飛び出て、アリスはその扉にもたれ掛かる。そして、ローブの袖を目じりに当てた。
『アリスは、サラの妹だからな』
 分かっていた事ではないか。今までにも、何度も言われている言葉だ。ドラコがアリスを気にかけてくれるのは、サラの妹だからだ。それ以外に、彼との繋がりは何も無い。
 ――情け無い……。
 この程度のことで、取り乱すなんて。
 アリスはくしゃりと笑う。暗い顔など、見せてはならない。大丈夫だ。アリスはまだ、笑える。
 アリスは深く深呼吸をする。そして顔を上げると、クィディッチ競技場へと歩き出した。他人と会う約束をしているのだ。愛想の良い笑顔を浮かべて無くては。
 クィディッチ競技場には、まだアストリアは来ていなかった。
 アストリアはアリスと約束をした後、直ぐに大広間を出て行った。だからと言って、ここへ真っ直ぐ向かった訳では無いようだ。若しかすると、アリスの食事が終わるのを待って図書館辺りで時間を潰しているのかも知れない。だが、今からここを離れても行き違いになる可能性が高い。少し待っていれば、彼女は来る事だろう。
 そう考え、近くの柱に寄り掛かる。口を覆い、欠伸をする。
 しかしどうやら、欠伸は退屈さによるものではないらしい。徐々に、視界がぼやけて来る。
 不自然なまでの突然の眠気。思い当たる事と言ったら、先程注いでもらったミルクぐらいしか無かった。
「う、そ……」
 ずっ、と身体が崩れ落ちる。そしてそのまま、意識が遠のいて行った。





「よっしゃ〜っ! やっぱ、昼ってのは穴場だったな!」
 誰もいないクィディッチ競技場で、エリはガッツポーズをした。
 肩に掛けたスポーツバッグを下ろし、中からクァッフルを取り出す。昨日、ホグズミードの中古屋で手に入れた物だ。中古と言えどもきちんとしたクァッフル。シュートして場外に出ても、自然とエンドラインまで戻ってくる。
 同じくスポーツバッグに挿していた箒を抜き取り、人差し指でクァッフルを回しながらエリは競技場の中へと入って行く。
 箒に跨りまさに飛び立とうとしたその時、何処からか犬の鳴き声が聞こえて来た。エリはきょろきょろと辺りを見回す。見れば、痩せた黒犬が競技場内へと駆け込んで来ていた。昨日、ホグズミードで出会った犬である。
「おう、ブラックじゃねぇか。駄目だぞー、競技場内入って来ちゃあ」
 しかし黒犬はエリの所まで駆けてくると、エリのローブを咥えて引っ張る。尋常でないその様子に、エリの表情も引き締まる。
「……どうした? 何かあったのか?」
 エリは箒を降り、黒犬に引かれるままに競技場を出る。
 城から門まで続く道沿いの所へ来て、異様な光景がエリの目に飛び込んできた。
「何だ……あれ……」
 エリは寒さに腕を擦る。
 門の所には、黒い塊があった。吸魂鬼だ。数いる吸魂鬼が、門の一点に集中して来ていた。
 そしてその中心にある影を見とめ、エリは目を丸くする。そして次の瞬間、手に持った箒に飛び乗り、そちらへと飛んで行っていた。
「アリスに寄るなあぁぁぁぁぁっ!!」
 吸魂鬼達が集結する中心にいるのは、アリスだった。背後で黒犬が激しく鳴く声がする。エリが怒鳴ったぐらいで、吸魂鬼が退く事は無い。
 アリスは眠っているようだった。地面に仰向けに転がり、微動だにしない。けれど、まだどの吸魂鬼もアリスの所へ辿り着いていない。とは言え、ここからでは間に合いそうも無い。
「寄るなっつってんだろ……エクスペリアームス!! デンソージオ!! ノラードイグリタス!! リディクラス!! リクタスセンプラ!! ロコモーター・モルティス!!」
 杖を振り、頭に浮かんだ呪文を片っ端から叫ぶ。幾つかの魔法は当たったが、何の効果も無かった。ただ、光の筋が当たっただけ。吸魂鬼は何事も無く、アリスへと近付いていく。
「やめろおぉぉ!!」
 エリはクァッフルを振りかぶり、アリスに最も近付いている吸魂鬼へと投げつけた。ぱかんと間抜けな音を立て、クァッフルは吸魂鬼の頭に直撃する。
 痛みは感じていないようだが、その吸魂鬼の注意がエリの方へと向いた。エリは加速し、アリスの前へと滑り込んだ。後ろでにアリスを庇う。
「俺が相手だ!! アリスには指一本触れさせねぇぞ!」
 近くで見ると、吸魂鬼は途方も無い数だった。学校を守る殆どが集結して来ているに違いない。スルスルと地上を滑り、エリとアリスの所へと向かってくる。
 エリは寒さに震えながらも、杖を掲げた。
 しかし、その杖はエリの手を離れ、地面へと落ちる。エリは動く事が出来なかった。
 脳裏にまざまざと蘇る、嫌な思い出。身体から力が抜ける。杖を拾う事も、立ち上がる事も出来ない。
「あ……ああ……」
 ガタガタと身体が震え出す。
 吸魂鬼が何か大きく吸い込んでいるのが見えた。同時に寒気は増して行く。
 ――見つけた。
 まるで、吸魂鬼がそう言っているかのようだった。実際、声は聞こえていない。けれど確実に、吸魂鬼の注意はアリスよりもエリに集中していた。
 黒いマントを被った姿が、エリの上へと覆いかぶさる。殴りつけたが、まるで壁を殴ったかのよう。吸魂鬼は動じず、何の効果も無かった。意識がはっきりしなくなる。

 どれ程経ったのだろうか。あるいは、幾らも経っていないのかも知れない。
 エリは、遠くで声が聞こえた気がした。続いて、何やら銀色の光が通り抜けて行った。その光から逃げるようにして、吸魂鬼は散り散りになって行く。
 きちんと地面を踏みしめる足音が、エリの所まで駆けてきた。
「エリ! 無事か、エリ!?」
 スネイプ、続いてドラコも、エリとアリスの所へと駆け寄る。
 スネイプを呼んだのは、ドラコだった。アリスの様子がおかしい事に気付いたドラコは、こっそり彼女の後をつけた。そして、アリスが眠らされ門の方へと運ばれるのを見たのだ。門には、吸魂鬼がいる。ドラコ一人で太刀打ち出来る相手ではない。そう判断したドラコは、スネイプを呼びに城へと駆けて行った。エリが来たのは、その後である。
 ドラコは、アリスの顔を覗き込む。
 アリスは眠っていた。顔は青く魘されているが、エリに庇われていた為、最悪の事態は免れたようだ。
 続けて駆けつけてきたのは、ハーマイオニーとロンだった。クルックシャンクスに先導され、その光景を見て立ち止まる。マクゴナガルも一緒だった。サラとハリーが城を出ようとするのを見つけたのだ。二人は、城の中に待たされている。
 マクゴナガルも、スネイプと同様に駆け寄る。スネイプはエリを抱き起こしている所だった。
「う……」
 エリの口からうめき声が漏れ、スネイプはホッとする。どうにか、間に合ったらしい。
 エリは目を見開く。途端に、スネイプを突き飛ばした。地面に座り込み、頭を抱えている。
「どうしました!?」
 マクゴナガルが、スネイプの所まで辿り着く。ハーマイオニーとロンも、その後に続いていた。
「ごめんなさい……」
 エリはか細く呟く。声を聞き、マクゴナガル達もホッと息を吐く。
「大丈夫ですよ。もう、吸魂鬼は去りました。さあ、立てますか」
「ごめんなさい……ごめんなさい……。あたしは違う……嫌だ!! あたしをあいつと一緒にしないで!!」
 エリは俯き頭を抱えたまま、叫びだす。
「ごめんなさい! だって、知らなかったんだもん!! 信じてたんだ! 信じてたのに……っ。嫌だ!! もう嫌だあぁぁっ!!」
「エリ! 大丈夫です。私達は、何も貴女に危害は加えません」
 マクゴナガルは宥めるように言って、エリに手を差し伸べ歩み寄る。
 エリは、がくがくと震えていた。
「嫌だぁぁ! 来ないで!! あたしはあいつと一緒じゃない!! 化け物なんかじゃない!! ごめんなさい! 知らなかったんだもん。信じてたんだもん。ごめんなさい! 謝るから……っ!! 許して! お願い、許してよぉ……」
「貴女は混乱しているんです。落ち着いて。ほら、大丈夫ですよ。誰も、貴女を怒ってなどいませんから」
「嫌ぁぁぁっ! 信じちゃ駄目だったの!? だって、家族だからって思って……だから、信じてたのに……ごめんなさい!! ごめんなさい! 化け物の味方して、ごめんなさい……っ!!」
 スネイプは突き飛ばされ座り込んだまま、呆然とエリを見つめていた。


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2009/11/28