打ち付けられた板の隙間から、紅い日の光が細く差し込む。屋敷の周りは、夕闇が忍び寄っていた。
 古びた屋敷に入って来た少女は、大声で呼ばう。
「おーい、ブラック〜。いるかぁ〜? ご飯だぞー」
 エリの呼ぶ声に応えるように、奥から犬の鳴き声がした。
 やがて、大きな黒犬が尻尾を強く振りながら奥の部屋から出てきた。エリは、厨房でくすねた肉やご飯を、鞄の中から取り出す。
「ほらよっ」
 エリが投げた肉を黒犬は見事にキャッチし、床に置いて食らう。
 エリはその傍らにしゃがみ込み、じっとその様子を眺めていた。
「アリスも誘ったんだけどさ。この屋敷には、行きたくないみたいで」
 そう言って、エリは苦笑する。
 ぽん、と黒犬の頭に手を置く。ゆっくりと撫でると、黒犬はそっと肉から口を離しエリを見上げた。
「……今週末、俺、クィディッチの試合なんだ」
 エリはぽつりと話す。
 黒犬は言葉を理解しているかのように、押し黙ってエリの話を聞いていた。
「グリフィンドール戦。俺、選手でさ。グリフィンドールには、サラとかハリーとかもいるんだぜ」
 ぴくりと黒犬の耳が動く。
「俺、勝つから」
 エリは、ぎゅっと黒犬を抱きしめる。
「絶対勝つ。サラに勝つ」
 サラとの真っ向勝負。
 セドリックが指摘した通りだ。エリは、勝つ事に固執している。勝たなくてはいけないのだ。何としても。
 ……もう、あの頃とは違う。サラだけでなく、自分も。
 それを、はっきりと確かめる為にも。





No.81





 クィディッチの初戦がとうとう明日に迫った日だった。初戦が近付くにつれて、サラの生活はクィディッチが中心となっていった。特に、ウッドの熱はこれまでになく熱い。その日もハリーはウッドに捕まって、サラはロンやハーマイオニーと共に先に教室へと入った。
「今日は、サラは捕まらなかったのね」
「ええ。シーカーの話ばかりみたいだから、抜けて来たわ」
「シーカーは、試合の鍵を握る事になるからなぁ。加えて、向こうのシーカーはセドリック・ディゴリーだろ? ウッドが燃えるのも分かるよ」
「次が『闇の魔術に対する防衛術』で良かったわ。マクゴナガルだって流石に遅刻は許さないでしょうし、ましてや魔法薬学だったりしたら――」
 サラの言葉は途切れた。教室の戸が開いたのだ。
 サラは、「闇の魔術に対する防衛術」の授業に現れた教師を見て、目を瞬く。入って来たのは、いつもの穏やかな笑みを浮かべたルーピンではなく、眉間に皺を寄せたスネイプだったのだ。
 他のグリフィンドール生達も、唖然として彼を見つめる。スネイプは、生徒達を見渡し冷ややかに言った。
「何をしている。教科書を準備したまえ」
 生徒達は、互いに顔を見合わせる。
「どうやらグリフィンドールの諸君は、減点がお好みのようだな」
 その言葉に、皆慌てて教科書を取り出す。スネイプは教卓に置かれた冊子を捲り、話す。
「どうやらルーピン先生は、これまでの授業の記録を全く残していないようだ……。何とも呆れた――」
 その時、背後の扉が大きく開いた。
「遅れてすみません。ルーピン先生、僕――」
 ハリーの言葉は途切れる。先程までのサラ達と同じく、呆気に取られた表情をしていた。
 スネイプは獲物を見つけたような、底意地の悪い笑みを浮かべる。
「授業は十分前に始まったぞ、ポッター。であるからグリフィンドールは十点減点とする。座れ」
 しかし、ハリーは呆然と立ち尽くしたままだ。
「ルーピン先生は?」
「座れと言った筈だが」
「どうなさったのですか?」
「命に別状は無い」
 スネイプは苦々しげに話す。
「グリフィンドール、更に五点減点。もう一度我輩に『座れ』と言わせたら、五十点減点する」
 ようやく、ハリーは席に着いた。
 それを見届けてから、スネイプは教室中を見回す。
「ポッターが邪魔をする前に話していた事だが、ルーピン先生はこれまでどのような内容を教えたのか、全く記録を残していないからして――」
「先生、これまでやったのは、ボガート、レッドキャップ、河童、グリンデローです。これからやる予定だったのは――」
「黙れ」
 ハーマイオニーの言葉を、スネイプは遮った。
「教えてくれと言った訳ではない。我輩はただ、ルーピン先生のだらしなさを指摘しただけである」
「ルーピン先生はこれまでの『闇の魔術に対する防衛術』の先生の中で、一番良い先生です」
 ディーンが勇敢にも声を張り上げた。続いて、他の生徒達も口々に騒ぎ出す。
 スネイプはそれらを完全に無視し、続ける。
「点の甘い事よ。ルーピンは、諸君に対して著しく厳しさに欠ける――レッドキャップやグリンデローなど、一年坊主でも出来る事だろう。我々が今日学ぶのは――」
 そう言いながら、スネイプは教科書のページを後ろまで捲っていく。
 サラは冷ややかな眼でそれを見ていた。この陰険教師は、確実に生徒達が習っていないであろう部分を選ぶつもりに違いない。
「――人狼である」
 バン、と教室の後ろの方で大きな音がした。
 生徒達は一斉にそちらを振り返る。サラと対角線上に当たる席で、ナミが机に手を突き腰を浮かせていた。
 鬼気迫る表情で、スネイプを見据えている。
「……どう言うつもり?」
 怒りを押し殺した声で、ナミは尋ねる。
 スネイプの返答は冷たかった。
「どう言うつもりも何も、我輩はただ、生徒達に学ぶべき事を教えようとしているまでだ。――実に、実用的な授業を」
「な……っ、貴方ねぇ――」
「この授業を任されたのは、我輩だ。君の口出しするところではないと思うがね? ミス・モリイ」
 苗字で呼ばれた事で、ナミははっと我に返る。自分の現在の立場を思い出し、渋々と席に着いた。
「でも、先生」
 サラの隣に座るハーマイオニーが、口を挟む。
「まだ狼人間までやる予定ではありません。これからやる予定なのは、ヒンキーパンクで――」
「ナミにも言ったが、この授業は我輩が教えているのであり、君では無い筈だが。その我輩が、諸君に三九四ページを開くようにと言っているのだ。
全員! 今直ぐにだ!!」
 サラは苦々しげに教科書のページを捲る。
 三九四ページを開くと、机の上に肩肘をついて話を聞いていた。
「人狼と真の狼とをどうやって見分けるか、分かる者はいるか?」
 ハーマイオニーの手だけが、隣で高々と挙がった。
 後ろの方の席から、小さくコツコツと連続する音が聞こえる。
 どの道、サラやハーマイオニーが指される事は無いだろう。スネイプは、答えの分かっていない者をいびるのを楽しみとしているのだから。
「誰かいるか?」
 案の定、スネイプはハーマイオニーの手を無視して教室を見回す。
 コツコツと言う音は、大きさと速さを増す。
「すると、何かね。ルーピン先生は諸君に、基本的な両者の区別さえまだ教えていないと――」
「お話した筈です」
 声は、隣からではなかった。
 サラは振り返る。パーバティが、スネイプを真っ直ぐに見つめ反論していた。
「私達、まだ狼人間まで行っていません。今はまだ――」
「黙れ!!」
 スネイプはパーバティの言葉を遮る。そして、嘲りの表情を浮かべた。
「さて、さて、さて……三年生にもなって、人狼に出会っても見分けもつかない生徒にお目にかかろうとは、我輩は考えてもみなかった。諸君の学習がどんなに遅れているか、ダンブルドア校長にしっかりお伝えしておこう。
……ミス・モリイ、ペンで机を叩くのを止めたまえ」
「先生」
 ハーマイオニーは未だに、手を挙げ続けていた。
「狼人間は、いくつかの細かいところで本当の狼と違っています。狼人間の鼻面は――」
「勝手にしゃしゃり出てきたのはこれで二度目だ、ミス・グレンジャー。鼻持ちならない知ったかぶりで、グリフィンドールから更に五点減点する」
 ハーマイオニーは真っ赤になって手を下ろした。俯いているその眼には、涙が浮かんでいた。
 サラが机の上の杖を掴むよりも、ロンが椅子を蹴って立ち上がる方が早かった。
「先生はクラスに質問を出したじゃないですか。ハーマイオニーが答えを知ってたんだ! 答えて欲しくないんなら、何で質問したんですか!?」
 しんと教室中が静まり返る。
 誰もが、言い過ぎたと思った。スネイプは教卓を離れ、ロンの席へとゆっくり歩み寄る。
「処罰だ、ウィーズリー。猶も我輩の教え方を君が批判していると、再び我輩の耳に入った暁には、君は非常に公開する事になるだろう」
「どう言う経緯で処罰になったのか、ダンブルドア校長にはしっかりと報告しておきます」
 皆、ぎょっとしてナミを振り返った。馬鹿な事をした、生徒皆がそう思った。火に油を注ぐようなものだ。
 スネイプはロンから顔を離し、ナミに冷たい黒い眼を向ける。
「勘違いしているようだから、教えておこう。ダンブルドア校長は、我輩を信頼してくださっている」
「公の意味で言えばね。けれど先生は、貴方がハリーを――ハリーの父親達を憎んでるって事も、よぉーくご存知の筈ですよ」
 スネイプはフッと嘲るように笑った。マントを翻し、教卓の方へと戻って行く。
「好きにするが良い。
まるで子供だな。都合が悪いと、言いつけると言って脅そうとする――残念だが、それは何の脅しにもならん」
「そう。それじゃ、私自身が手を下すのをお望みみたいだね」
 一瞬、スネイプの歩みが止まった。
 しかし、次の瞬間には何事も無かったかのように振舞っていた。生徒達には教科書の写し書きを指示し、過去の授業で提出したレポートに目を通す。
「実に下手な説明だ……これは間違いだ。河童は寧ろ、蒙古によく見られる……ルーピン先生は、これで十点満点中、八点も? 我輩なら、三点もやれん……」
 ぷっと吹き出すような声が聞こえた。ナミだ。
 またか、とサラは横目で最後尾の席を見る。隣に座るラベンダーに咎められ、ナミは肩を竦めてひそひそと話していた。
「だって、河童は日本の妖怪だって、日本人なら三歳児でも知ってるような常識だよ? それを、堂々とまあ……」
 スネイプの叱責する声は無かった。
 スネイプはまるでナミをいないかのように扱い、レポートへの文句を続けていた。
 隣に座るハリーと眼が合う。ハリーは口元に笑みを浮かべていた。恐らく、自分も似たような表情をしている事だろう。
 明らかだった。スネイプは、ナミを無視している。ナミは、スネイプの弱点なのだ。
 分かったところで、ハリーなら兎も角、ナミと仲違いしているサラには何のメリットも無い。けれど、大嫌いな教師の弱みを掴んだ。ただそれだけで、嬉しいものだった。

 ようやくベルが鳴り、皆一斉に席を立つ。一刻も早く陰険教師から逃れようとする生徒達を引き止め、スネイプは言い放った。
「各自レポートを書き、我輩に提出するよう。人狼の見分け方と殺し方についてだ。羊皮紙二巻き、月曜の朝までに提出したまえ。
このクラスは、そろそろ誰かが締めてかからねばならん。
ウィーズリー、残りたまえ。処罰の仕方を決めねばならん」
 サラ、ハリー、ハーマイオニーは、クラスの皆と外に出た。教室から足早に離れ、声が届かないところまで来ると、堰を切ったようにスネイプの文句が方々から出た。
 サラ達三人も、例に漏れる事は無かった。
「いくらあの授業の先生になりたいからと言って、スネイプは他の『闇の魔術に対する防衛術』の先生にあんな風だった事は無いよ。一体、ルーピンに何の恨みがあるんだろう? 例のボガートの所為かな?」
「分からないわ。でも、本当に、早くルーピン先生がお元気になって欲しい……」
 サラは、通りすがりの青銅像に乱暴に鞄をぶつける。
「人狼の見分け方と殺し方。どうせなら、スネイプの殺し方でもレポートにしたいわね」
「サラ! 幾ら何でも、それはあんまりよ」
「よくあんな先生の事、庇えるわね。ハーマイオニー、貴女、あんな酷い事言われたのよ?」
 ハーマイオニーは答えなかった。
 五分後にロンが追いつき、スネイプに暴言を吐いたのにも、ハーマイオニーは咎めた。
「でも、奴が僕に何をさせると思う? 医務室のおまるを磨かせられるんだ。魔法無しだぜ!
ブラックがスネイプの研究室に隠れてくれていたらなぁ。な? そしたら、スネイプを始末してくれたかも知れないよ」
「まあ。冗談でもそんな事、言うもんじゃないわ」
 ハーマイオニーは眉を顰める。
 サラは肩を竦めた。
「どうせ私達を狙うって言うなら、どうにか情報操作してスネイプを巻き込めないかしらね。ダンブルドアがどうしてあんなのを教師に雇っているのか、ほとほと疑問だわ。ナミに告げ口してやるって言われた時も、随分な自信のありようで――」
「そうだ、ナミ!」
 思い出したように、ロンは言った。
「皆が言った後、ナミが教室に残ってたんだ。まあ、そのお陰で僕は直ぐに解放してもらえたんだけど……。
スネイプの奴、ナミへの対応が何だかおかしくないか? ナミも結構口出ししていたのに、何もお咎め無しだったし……別にナミも叱られて欲しいって訳じゃないけどさ。でも、ナミも僕達と同じグリフィンドール生だぜ? なのに、一体なんであんな甘いんだ?」
「甘いって言うより、弱いって言う風に見えたけどな」
 そう言ったのは、ハリーだ。
「ナミ、スネイプの弱みでも握っているのかな。でも、ナミって今年から編入してきたばかりだよね? 何だか、釈然としない……」
「ホグワーツへ来る前に、面識があるって事? ねえ、サラは何か知らない?」
 そう言って、ハーマイオニーはサラを振り返る。
 サラの返答は素っ気無かった。
「知らない。あいつはただの従姉妹ってだけだもの。興味も無いわ」
「若しかしたら、編入手続きの時とかに知り合ったのかも」
「それよりも寧ろ、教師と生徒って関係になるまえに知り合ってそうじゃない? だってあの二人、時々随分と親しげな口調で話すわ」
「僕もそれ思ってた。魔法薬学の授業で、ナミが『セブルス』って叫んだ事もあったよね? 一瞬、誰の事だか分からなかったよ」
 訝る三人の会話を、サラは冷めた表情で聞いていた。
 スネイプの弱点を知るのは楽しいが、二人の関係性までには興味は無い。親しかろうと、サラには何の関係も無い事だ。寧ろ、性格の悪い者同士お似合いだとさえ思った。





 翌日のクィディッチは、生憎な天候の中、決行された。
 強風にユニフォームが煽られ、エリはよろめく。頭上では、耳を劈くような雷鳴が繰り返し轟いている。観客の歓声も、リーによる実況も、豪雨と猛風と雷鳴とに掻き消され、全く聞えない。
 セドリックが何か話しかけて来たが、何と言っているかは分からなかった。けれど、セドリックは大声で話しかけるつもりは無いらしい。ぽん、と励ますようにエリの肩を叩いただけだった。
 降り頻る雨の中から、真紅のローブを着た一団が目の前に現れた。その中でも一際小さい少女に、エリは目を留める。
 ――絶対に、負けない。
 エリは、ぎゅっと箒を握り直す。シルバーアロー。「クィディッチ今昔」で、エリはこの箒の種類を知った。結局、選手になってからも新しい箒を買ってもらう事は無かった。エリが、断ったのだ。慣れてしまえば扱いやすく、見た目の古さからは想像出来ない程スピードが出た。唯一難点を挙げるとすれば、場外に飛び出すのを自動的に制御する機能が、この古い箒には無い事か。
 エリ達はフーチの口の動きに注目し、箒に跨る。
 そして、フーチのホイッスルを合図に、一斉に地面を蹴り豪雨と雷鳴の轟く寒空へと舞い上がった。
 雨に逆らって飛ぶ事になる為、地上を歩いていた時よりもいっそう強く雨が叩きつける。ユニフォームは、びしょびしょに濡れていた。雨が布地にしみ込み、肌に張り付いて気持ち悪い。
 真っ先にクァッフルを手にしたのは、グリフィンドールのアンジェリーナ・ジョンソンだった。エリはその前へと周り込むようにして飛ぶ。アンジェリーナはパスを出す。右だ。しかし、ハッフルパフのチェイサーは抜かれてしまっていた。エリは咄嗟にそちらへ動く。クァッフルを受け取ったサラは、上へ来たケイティにパスする。ケイティは直ぐに、前へとパスを出した。そこには、アンジェリーナが前に出ていた。そのまま、アンジェリーナは真っ直ぐゴールへと向かう。ブラッジャーが襲い掛かり、フレッドが打ち返す。ハッフルパフ・チームは、ディフェンスに入るべく後を追う。キーパーは、入れられるまいと手を広げ待ち構える。スコア・エリア直前で、アンジェリーナの直ぐ後ろをサラが通り過ぎた。バックパス……では、無かった。振りかぶったサラの手には、何も無かった。キーパーがそちらに気を取られた一瞬、アンジェリーナは死角となっているゴールへとシュートを決める。グリフィンドール、先取点だ。
 エリは直ぐにオフェンスへと切り替える。キーパーから、チェンバースがクァッフルを受け取る。ケイティが彼女の前に回り込む。エリは下からパスを受け取る。雨に濡れたクァッフルはずるずると滑り、掴み難かった。取り落とさぬよう、手を滑らさぬよう、指に力を入れて掴む。飛んできたブラッジャーを避け、サラとアンジェリーナが向かってくるのを見て、ぎりぎりまで引き付けてから仲間にパスを回す。ゴール前へと回り込み、クァッフルを呼ぶ。仲間よりも、グリフィンドール・チームの方が気付くのが早かった。マークから逃れるように動いた途端、真っ直ぐにクァッフルが飛んできた。難なくアンジェリーナはキャッチし、再びゴールへと向かう。エリも急いで下がる。アンジェリーナには、チェンバースが付いた。エリは、パスを貰いに行くサラの前に入り込み、邪魔を試みる。雷鳴が轟き、ジョージの打ったブラッジャーが飛んできた。サラの顔の横をかすめ、ブラッジャーはその前にいてボールを眼で追っていたエリの後頭部を強打した。ブラッジャーの衝撃で、一瞬状況が分からなくなる。気付いた時には、グリフィンドールが再び点を入れていた。
 パスを受け取り、旋回してディフェンスを交わしながら進む。ブラッジャーが耳の横を通り過ぎる。雷鳴が轟く。ゴール前まで来て、サラが目の前に現れた。けれどサラとエリとでは、体格の差がある。サラをすり抜けるようにクァッフルを投げる。しかし、サラによって視界の一部が切り取られていたシュートは、容易にウッドに弾かれてしまった。弾いたクァッフルは、チェンバースの方へと飛ぶ。ラッキー。そう思ったのも束の間、チェンバースは手を滑らせクァッフルを取り落としてしまった。咄嗟にケイティが飛びつき、既にゴールへと飛び始めているアンジェリーナへとパスする。
 試合は、ハッフルパフにとって芳しくない方向へと進んでいた。パスミスが目立つ。ディフェンスは抜かれるばかりする。ブラッジャーは度々飛んでくる。何とかシュートを決めた時には、既に三十点の差が開いていた。

 雨は猶も降り頻る。空はますます暗くなって行く。最早、時間の感覚も無くなって来ていた。クァッフルを掴むのは相当難しくなり、得意の片手で掴む類のパスが封じられてしまう。箒さえも雨で滑り、いつものスピードでは思ったように回転出来ない。大きく身体を傾けて回転すれば、それは相手に次の動きを読まれる事になった。
 クァッフルを抱えて小さな弾丸のように飛ぶサラの前に、エリは回り込む。サラはその場に止まり、パスの体勢を取る。エリの頭上を越えてパスするかのように思われたが、次の瞬間、クァッフルはエリの右へと飛んでいた。両手では無く、右手のみでパスを押し出したのだ。ケイティが受け取り、そのままシュート。五十点もの差が開いてしまった。
 稲妻が光り、フーチのホイッスルが一回響き渡った。タイム・アウトだ。エリ達選手は、地上へと降りて行った。どろどろになっている地面に降り立ち、エリ達はチームで集まる。一番高くまで飛んでいたセドリックが、最後にその中へと入って来た。
「スコアは?」
「……あっちが五十点リード」
 エリはむすっとした顔で答える。
「クァッフルが滑るのよ。それに雨で視界が悪くて、仲間が何処にいるのか分からないわ」
「滑るって分かってるんだから、滑らないように両手でしっかり掴めよ」
 チェンバースの言葉に、エリは食って掛かる。
 結局、あの練習から進歩は無かった。エリ達ハッフルパフ・チームは、ぎくしゃくした関係のままだ。
 セドリックが、二人を諌める。
「クァッフルを掴みにくいのは、あちらも同じ筈だ。キャッチは慎重に、両手で包み込むように持つんだ。ポジションは決めてある筈だ。もう一度互いに確認して」
 それから、セドリックはビーターの二人を向く。
「ハッフルパフ・チームを襲うブラッジャーが多い。何か問題でもあったのかい?」
「ごめん、セド……。どうにも追いつけなくて……」
「箒も雨で滑る上に風で煽られるから、両腕で打つのが難しいんだ」
「ビーターは棍棒と言う武器を持っているんだから、余程の事が無い限り怪我をする事は無い。風に煽られても良いから、打ち返すんだ。箒から脚は絶対に離さないのと、柱にだけは気をつけて」
 エリは、同じチェイサーの二人を交互に見る。
 二人共、口を開かない。誰かが仕切ってくれるのを待っているようだった。
「……それじゃ、確認な」
 仕方なく、エリはそれぞれの役割を口に出して確認する。
 仕切るのは、決して不得意では無い。嫌いでもない。けれど、彼らは散々エリに文句を言っていたではないか。なのに、こう言う時だけはエリに任すと言うのが気に食わない。
 再びフーチのホイッスルが鳴る。選手は一斉に飛び立ち、位置に付く。再度笛が鳴り、試合は再開した。
 冷たい雨に打ち付けられ、手足はかじかんで感覚が無い。それでも兎に角クァッフルを追い、コート内を飛び回る。アンジェリーナに抜かれる。ケイティのパス回しに追いつけない。サラのフェイントに騙される。試合の流れは、タイム・アウトの前から変わらぬままだった。それでも何とか食いついて、点差がこれ以上開かぬように努める。
 雷鳴が響き、稲妻が走る。もう一度稲妻が走り、そして途端に様子がおかしくなった。
 ケイティが思わずクァッフルを取り落とす。エリはそれに飛びつき、方向を変えてゴールへ突っ走ろうとした。そして、沈黙の原因が分かった。エリは、血の気が引いていくのを感じた。
 恐る恐る、遥か下方、地上へと視線を向ける。グラウンドに何かが蠢いていた。十や二十と言った程度の数では無い。百は超えそうな数の吸魂鬼がグラウンドに立ち、エリ達を見上げていた。雨でかじかむのとは違う、もっと冷たい感覚がエリを襲う。まるで氷が体内に侵入し、心臓を凍らせているかのようだった。
 教室の情景が脳裏を過ぎる。小さな机や椅子。冷たい視線。暴力の痛み。暴言の苦しみ。そして、裏切りの悲しみと悔しさ。
 エリの直ぐ横を通り抜け、何かが弾丸のように急降下して行った。
 サラだった。サラは長い髪を振り乱し、真っ直ぐに急降下して行く。サラの向かう先には、ハリーがいた。箒から落下したのだ。サラは脚だけで箒に捕まり、両腕をハリーに伸ばす。ローブを掴んだ。引き上げようとするが、急降下して行ったスピードはそう容易には殺せない。
 グラウンドに吸魂鬼以外の影が現れた。ダンブルドアだ。ダンブルドアは杖をハリーに向かって振った。二人の落下するスピードがやや遅くなった。そしてそのまま、サラとハリーは地面へと激突した。そのまま動かない。
 続いて、ダンブルドアの杖は吸魂鬼達に向かった。銀色の何かが杖から噴出し、吸魂鬼に向かう。吸魂鬼は、散り散りになって逃げて行った。遥か上空からでも、ダンブルドアが怒りに満ちている事が分かった。
 ダンブルドアに続いて、他の教師陣もハリーとサラの元へと駆け寄る。サラが身を起こした。ハリーは一向に動く様子が無い。
 その時、場違いなホイッスルが鳴り響いた。二度の笛――試合終了の合図。
 エリは呆然としながらも、地上へと降りて行く。ハリーは運び出され、サラも医務室へと連れて行かれる所だった。
「百七〇対七〇! ハッフルパフ・チームの勝利」
 思いもよらぬ実況が聞え、エリはグラウンド内を振り返る。セドリックの手には、金色に輝くスニッチが握られていた。
 そのまま解散になろうとしたが、セドリックはフーチを呼び止めた。
「待ってください! やり直させてください! こんなの、公平じゃない。僕、気付かなかったんです。ハリーが落ちたなんて――」
「貴方はスニッチを掴みました。ハッフルパフの勝利です。ルールなんですよ」
「けれど、こんなの――」
「ディゴリー」
 引き止めたのは、グリフィンドール・チームのキャプテン、オリバー・ウッドだった。ウッドは心底落胆している様子だった。項垂れ、頭を振る。
「君がスニッチを掴んだ。スニッチを掴むと同時に、試合終了なんだ。スニッチを掴んだチームには、一五〇点入る。
紛れも無く、君達の勝利さ」
 そう言うと、箒を引きずりとぼとぼとグリフィンドールの控え室へと帰って行ってしまった。グリフィンドール・チームは、ウッドの方とハリーの方とにそれぞれ解散する。
 もう、この後は何も無い。喜びさえも無い勝利だった。ハッフルパフの選手たちも、控え室へと帰って行く。セドリックは、渋々とスニッチを返していた。
 グラウンドや観客席の人が疎らになって行っても、エリは猶もグラウンドに立ち尽くしていた。
 エリが望んでいたのは、こんな勝利ではなかった。
 けれどもう、この試合がやり直される事は無い。フーチは断固たる態度だ。ウッドさえも認めてしまっている。
「……エリ」
 ハンナが傍に立っていた。そっとエリの腕を引く。
「風邪を引くわ。早く戻って、シャワーでも浴びないと」
「……うん」
 振り返った所には、スーザン、アーニー、ジャスティンも立っていた。
 エリは俯いたまま、とぼとぼと歩く。足元はおぼつかず、ふらついていた。ハンナは肩を抱き寄せ、支えるようにして歩く。
「エリ、大丈夫かい……?」
「うん……」
 アーニーの問いかけに、エリは気の抜けた返事を返す。
 エリ達は無言のまま、グラウンドを立ち去って行った。


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2009/12/09