ハリーが眼を覚ますと、自分は医務室に横たわっていた。サラ達クィディッチのメンバーや、ロンとハーマイオニーが、ハリーのベッドの周りを取り囲んでいる。
「ハリー!」
 ハリーの目が開いたのに気付き、フレッドが声を上げる。
「気分はどうだ?」
 ハリーは質問には答えず、勢い良く起き上がった。
「どうなったの?」
「君、落ちたんだよ。ざっと……そう……二十メートルかな?」
「サラが、直ぐに追ったんだ。それで、引っ張り上げて……それでも、二人して泥の中に追突して行ったけど。それから、ダンブルドアも何かしているみたいだった」
 アンジェリーナが、ハリーが落下した時の様子を説明する。
 ケイティが震えた声で言った。
「私、二人共死んでしまったと思ったわ」
 その言葉に呼応するかのように、ハーマイオニーがしゃくりあげる。ハーマイオニーの眼は真っ赤に充血していた。散々怒られたのだろう。サラは決まりが悪そうにその隣に立ち、ハーマイオニーを横目でちらちらと見ている。
 ハリーは、クィデッチ・チームのメンバーの面々を見回した。
「でも、試合は……試合はどうなったの? やり直しなの?」
 しんと医務室が静まり返る。
 言葉は無くとも、その様子でハリーは答えを理解した。
「僕達、まさか……負けた?」
 ジョージやフレッドが、試合の様子を離してくれた。セドリック・ディゴリーがスニッチを取った事。彼はやり直しを要求したが、フーチは認めなかった事。ウッドでさえ、ハッフルパフの正当な勝利を認めた事。
 やがてマダム・ポンフリーがやって来て、ロン、ハーマイオニー、サラ以外の面々を追い出した。
 三人からもどのような様子だったかを聞いたが、何の気の紛れにもならなかった。それどころか、追い討ちをかけるような事実を知る事となった。
 ハーマイオニーのバッグから出てきた残骸を見つめ、ハリーは呆然としていた。
 それは、ニンバスの亡骸だった。ハリーが箒から落下した際、暴れ柳の方へと飛んで行ってしまったのだと言う。
 粉々になった木切れや枝は、もう何の面影も残していなかった。





No.82





 細く繊細な文字が、禁書閲覧許可の書類に綴られて行く。エリは授業で使う椅子に腰掛け、机にぐでっとうつぶせになってスネイプの手元を見つめていた。エリがいる位置からでは、書類に書かれた文章は読む事が出来ない。
 サインを終えると、正面で待っていた生徒にその書類を差し出す。
「ありがとうございます」
 アリスはにこやかな笑顔で礼を述べると、教室を出て行った。
 エリは机の上で組んだ腕に顔を乗せたまま、アリスが出て行った扉をじっと見つめる。スネイプは提出されたレポートを机の上に広げ、採点を始める。
 暫く、羊皮紙を捲り重なり合う音や、ペンのカリカリと言う音だけが部屋に満ちていた。
 やがて、沈黙を破りエリがぽつりと呟くように尋ねた。
「……アリスさ、スリザリンではどうなの?」
「『どう』とは?」
 スネイプは手を止めずに尋ね返す。
 エリは扉から視線を外し、腕に顔をうずめた。
「……あいつさ、結構一人で溜め込んじまうタイプなんだよ。いっつも笑顔だから、無理してても分からないんだよなー……。情けない事に、その笑顔が本物なのか偽者なのか、俺は区別出来ない」
 スネイプは作業の手は止めずに、視線だけ上げてエリを見る。エリは正面の席に座っているが、視線は落とされていて合う事がなかった。
 ここ数日、エリがスネイプの所へと来る事はなかった。恐らく、突然のクィディッチ初戦が近付いていた為だろう。授業の中で言葉を交わす事はあったが、こうして二人で話すのは久しぶりだ。――エリとアリスが吸魂鬼に襲われていた、あの日以来エリは授業でしかここに来ていない。
 エリは何やら言いよどんでいた。暫し、再び沈黙が流れる。
 エリは、完全に腕の中に顔を隠した。
「……この前、アリス、眠らされて門に運ばれてたんだ」
 エリは顔を上げずに話す。
 誰も、エリにその時の事について尋ねようとはしなかった。錯乱していたエリに、もう一度当時の事を思い出せと言うのは酷に思えたのだ。それに何より、あまりに尋常でない様子だった為、聞いた所で本人もはっきりと記憶はしていないだろうと考えられた。
 けれどエリは、混乱の中でも状況は把握していたのである。
「誰がやったのかは分からない。犯人は、見えなかったから。
でも、あれがアリス一人でやった訳じゃないって事は分かる。アリスは誰かに、嵌められたんだ」
 スネイプは何も口を挟まずに、エリの話を聞いていた。
 羊皮紙の重なる音がする。
「俺、医務室でアリスが母さんと話しているのを聞いた。アリスの奴、心当たりがあるみたいだった……。だけど、言わなかった。あいつ、何か大変な事になってるんじゃないか? 一人で抱え込もうとしてるんじゃないか?
最近、あいつ、俺やサラに寄り付かなくなったし……俺達ってスリザリン生とは良い仲とは言えないだろ。だから、それでアリスが虐められたりでもしてるんじゃないかって思って……」
 エリは顔を上げ、スネイプを見つめていた。
 スネイプは再び作業に戻っていた。視線も羊皮紙に落としたままだ。
「なあ、スネイプは寮監の立場から見て、何か気付いた事とか無いか? 心当たりとか」
「何の心当たりだ」
「決まってるだろ。この間の――」
「それは、証拠も無く生徒を疑えと言う事になる」
 エリの言葉を遮り、スネイプはぴしゃりと言い放った。
「先日の吸魂鬼の件は、非常に悪質だ。我々教師で、慎重に調査を行っている。そう容易く犯人を特定出来る問題ではない」
「アリスは今も、虐められてるかも知れないんだぞ!?」
 エリは椅子を蹴って立ち上がる。
「周りにいる奴が守ってやんないでどうすんだよ! 集団から向けられる敵意が、どんなに恐ろしいか……!!」
 スネイプは答えない。
 ただ黙々と、採点を続けている。
「何とか言ったらどうなんだよ!?」
「アリスは、第三者に介入される事を良しとしないだろうな」
「……は?」
「自分の場合に置き換えてみたまえ。エリがアリスの立場にあったなら、誰かに助けを求めたいと思うか? 例えば、ナミに泣きつきたいと思うか?」
「……嫌だ」
 小学生の頃、きっとナミは相談して欲しかった事だろう。けれどもエリが相談する事は無かった。同級生達が怒りエスカレートする事を恐れた訳ではない。もちろん、それもあったが、それは大した理由ではなかった。
 プライドが許さなかったのだ。
 例え親であろうとも、他の者に泣き付く事は負けを意味する気がした。ナミは大人だ。両親や教師が取り組めば、エリ一人で戦うよりもずっと力になったかも知れない。けれども、エリは自分の力で打ち勝ちたかった。誰かに頼る事はしたくなかった。介入されたくなかった。
 スネイプは静かに続ける。
「アリスとて、同じだろう。彼女は今、誰にも頼らず自らの力だけで切り抜けようとしている」
「そんなの、なんでお前に分かるんだよ」
「君が聞いて来たのだろう。スリザリンの寮監として、アリスについて分かっている事はないかと。アリスは罰則対象にならぬように、上手く反撃しようとしている」
「……そっか」
 エリは小さく呟く。
 一時の沈黙が流れた。羊皮紙の重なる音、ペンを走らせる音だけが地下牢教室に響く。
「……それで、エリはもう大丈夫なのか」
 エリは一瞬きょとんとして顔を上げる。しかし直ぐに、先日の吸魂鬼の事だと思い当たった。
 からかうように、ニヤリと笑う。
「何だ? 心配してくれたのか?」
「そうだ」
 思いがけず肯定され、エリは言葉を詰まらせる。
 スネイプは羽ペンを置き、真っ直ぐにエリを見据えた。
「笑って誤魔化し、一人で溜め込んでいるのは君もではないか? いつもそうだ。昨年、アリスが襲撃された翌日、授業に出なかっただろう。シャノンへの憎みようも、ただ親の影響で仲が悪いだけとは思えん。
錯乱した君は、『信じていた』と繰り返し口にしていた。吸魂鬼は、その者の最悪の記憶を呼び覚ます……。話したくないなら、無理に話せとは言わん。無理に思い出させる事もしたくない。
だが、思い出す以前に、君はずっとその事を抱えているのではないか? ――何があった」
 エリはスネイプをじっと見つめていた。
 その表情は、いつものようなおちゃらけた物ではなかった。驚いたような、それでいて泣き出しそうな、複雑な表情。
 エリは目を伏せる。そして、ぽつりと呟くように言った。
「もう、昔の事なんだ……。自分自身、未だに引きずってるのが嫌になるよ。
昔はさ、信じてたんだよね。疑う事を知らなかったんだ……」
 そう言うと、エリはぽつりぽつりと話し出した。
 小学校へ通っていた頃の話。信じていたのに裏切られた、絶望的な思い出を――





 登校時刻にはまだ余裕のある、朝早い時間。エリはランドセルの紐を握り締め、三−一と書かれた教室に恐々と入って行く。一緒に登校している者はいない。皆、色々と理由をつけて早く行ったり、遅く行ったりする事が増え、いつの間にかエリはは一人になっていた。
 エリが教室に入った事に気を留める者などいない。自分の席に着こうとしたが、そこには既に数人の女子生徒が固まっていた。その内二人の女子生徒がエリの机と椅子にそれぞれ座り、その周りを取り囲むようにして話に熱中している。
 エリは戸惑いながらも、席へと近付く。輪の中にいる一人と目があったが、彼女が机や椅子に座る生徒にエリの存在を教える事は無い。
 直ぐ傍まで来たが、誰もエリの事など気にする様子は無い。
「あの……っ。えっと、おはよう……!」
 直接退くように言うのは憚られ、挨拶する事で己の存在に気付いてもらおうと試みる。
 誰一人、返事をする者はいない。
 エリの様子に気付いた周囲から、クスクスと笑い声が聞こえて来た。エリは真っ赤になりながらも、一生懸命に話しかける。
「そこ、あたしの席……なんだけど……」
 会話がピタリとやみ、皆がエリを見る。エリの声は、段々と尻すぼみになっていった。
 エリが黙ると、再び話し出す。退く気配は全く無い。
 暫く待つが、やはりその場を退こうとはしなかった。
 どうしよう。担任が来るまで、あと三分しか無い。
「あの! そこ、あたしの席――」
「しつこいよ」
 傍にいた子が少し振り返り、冷ややかな口調で言った。
 ――怖い。
 涙が流れそうになるのを、必死で耐える。
 エリはもう、何も話しかけなかった。ただただ、涙を堪えてその場に立っていた。
 チャイムが鳴り、ようやく皆、エリの席を退いた。エリは急いでランドセルを下ろす。そこへ、担任が入ってきた。
「ほら、席に着きなさいー。エリちゃん、またギリギリね。もっと早めに来ないと駄目よ」
 エリは教科書をランドセルから出している最中だった。
 ――ちゃんと、早く来てたもん。
 でも、怖くて言えない。
 朝の会をしている中で、教科書を机にしまう。ふと、何かが手に触れた。硬いような、軟らかいような、ごわごわとした奇妙な感触。少し動かすと、今度は同じような大きさで糸のような物が手に触れる。
 エリは教科書を掴んだまま、手を外に出す。何か、小石のような物が幾つか入っているようだ。
 怪訝に思って、椅子を引き机の中を覗き込む。次の瞬間、教室内に悲鳴が迸った。ガタガタと音を立て、椅子ごと机から身を引く。
「どうしたの!?」
 出欠を取っていた担任は、驚いた様子でこちらへと歩み寄ってくる。エリは、震える手で机を指差していた。
 エリが指し示すままに、担任は机の中を覗き込む。
「あら、さなぎ……夜の内にでも、脱走して入り込んじゃったのね」
 担任はあっけらかんとした調子で言った。
 エリの手に触れたのは、机の中に出来たさなぎや繭だった。理科の授業で、教室で飼っていた青虫の物だ。最近はちょうど、さなぎや繭へとなっていく時期だった。幾つかの青虫は飼っているパックの中から抜け出し、水槽のコンセントや天井の辺りでさなぎとなっていた。
 だから、青虫が自らエリの机に入る可能性も零ではないのだ。
 けれども、複数の青虫が皆が皆エリの机に入ってくるとは到底考えられない。
 担任は呆れたようにエリを見下ろす。
「まったく。青虫やさなぎは、理科の授業で触っているでしょう。これぐらいで騒がないの」
 生徒達の間から笑い声が上がる。エリは黙って俯いていた。何も無いと思っていた机の中にこんな物が複数あれば、誰だって驚く。
「後で、机を変えるから。ちょっと待っててね」
 そう言って、担任は再び教卓へと戻って行く。
 朝の会を終えて空き教室から机を持ってきて、さなぎの付いた机は教室の端に置かれる事になった。机を取り替えて直ぐ、一時間目が始まる。エリは机に突っ伏し、声を立てずに泣いていた。
 誰も助けてくれない。
「ほら、エリちゃん、寝るなぁー」
 教師の叱責が飛ぶ。
 ――如何して先生、気づかないんだよ。
 如何して、自分がこんな目に遭わなければいけない。





 隣の教室から悲鳴が折り重なるようにして聞えて来たのは、昼休みの事だった。続いて、火災報知機の音が鳴り響き女性のアナウンスが流れる。クラスは騒然とする。
 バタバタと走る音が聞こえ、騒ぎは廊下にも飛び火する。
「二組が燃えてる!」
 隣の教室を見に行った好奇心旺盛な男子が、大きな声で報告する。
「煙出てるよ!!」
 窓際の生徒が叫び、皆窓に集中する。廊下へ飛び出し、避難しようとする生徒達もいる。
 火は、消火器によって間も無く消し止められた。消防隊員の者達の仕事は、出火原因の調査のみだった。被害としては、二組の女子生徒が三人、火傷を負って病院へと運ばれた。教室の方は幸い、プリント類は離れた所に置かれており、傍の壁が焦げた程度だった。
 ストーブの誤作動による発火、それが出火原因とされた。しかし、今は春先。当然ストーブは使われておらず、灯油さえ入っていない状態だ。発火する筈の無い状況での、発火。
 こう言う奇妙な事故が起こると、必ずある生徒の名前が挙がった。
 ――サラ・シャノン。
 噂の当人である少女は、無表情で窓際の席に座っていた。周囲と違う点と言えば、横文字の名前と瞳が灰色である事ぐらい。端正な顔立ちで本に没頭しているが、彼女に見惚れるような者はいない。寧ろ、誰も目を合わせようとはしなかった。
「また、シャノンの仕業か」
「『報復』だ」
 そんな言葉が、教室の端々から聞えて来る。
 それは、隣の一組でも同様だった。
「『報復』された子達、四時間目にシャノンとひと悶着あったらしいよ……」
「怖ーい」
「あんな化け物、学校側もさっさと追い出してくれれば良いのに……」
 ひそひそと交わされる噂。
 隣の席の男子が戻って来た。その子は、がたっと音を立てあからさまにエリから机を離す。
「あー、もう最悪なんだけど。次の席替えいつかな」
「一緒に住んでるなら、もうちょっとシャノンの事どうにかしろってんだよな。家に閉じ込めておくとかしてさ」
「どうせ、家にいたら怖いから学校行かせてるんだろ。自分達さえ無事ならどうでも良いんだよ、こいつら」
 エリの方をちらちらと見ながら、彼らは聞こえよがしに話す。
 エリはムッとして男子を睨んだ。
「止めてよ、そうやって変な噂するの。サラがやった訳ないじゃん」
「……何、お前、化け物の味方すんの?」
「サラは化け物じゃないもん! サラがマッチ擦るところでも見たの? 違うでしょ! サラがストーブに火を点けるなんて、出来る訳ない!!」
「はあ!? だって、おかしいだろ! これで何件目だ? シャノンの気を損ねた奴ばかり!」
「ただでさえ事故が続くだけで変なのに、都合が良過ぎるよな」
「じゃあ、サラがやったって証拠出してよ」
「んじゃ、シャノンじゃないって証拠見せてみろよ」
 他のクラスメイト達も、エリ達の口論に注目していた。エリは彼らを睨み付ける。
「そんなの、出来る訳無いじゃん。犯人じゃない証拠なんて、無茶苦茶だよ」
「そりゃ、そうだよなー。シャノンは犯人だもんなー」
「そういう事じゃないっ」
「シャノンは化け物なんだから、証拠を残さずに火を点けるぐらい簡単だろ」
「モリイ、お前化け物の肩持つ気かよ?」
 そう口を挟んだのは、やや離れた所にいる男子生徒だった。
 それをきっかけに、他の生徒達も口々にエリを責め立てる。
「最低ー……」
「モリイさん、シャノンの手下なんじゃない? こっわー」
「化け物の味方するとか、無いよねぇ……」
「エリちゃんも、シャノンの『報復』に加担してるんじゃない? だから庇うのかも」
「病院に運ばれたの、私の友達なんだけど。責任とってよ」
「モリイが燃やされれば良かったのに」
 エリは背を向け、駆け出した。教室を飛び出て、廊下を走り抜け、階段を駆け下り、学校を飛び出す。
 教室にいたくなかった。皆に責められるのが嫌だった。
 体育館裏まで来て、エリは茂みの中に座り込む。授業開始を告げるチャイムが鳴ったが、教室へ戻る気はさらさら無かった。
 ここは、滅多に人が来る事は無い。茂みの手入れもされていない。休暇明けはすっきりしている事が多いから、恐らく休みの間に手入れの者が来る程度なのだろう。
 膝を抱えて座り込み、顔を腕の中に埋める。
 しゃくり上げて泣く声は、誰の耳にも届かない。
 どうして、エリがこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。どうして、皆サラを悪く言うのだろう。
 皆、サラを化け物だと言う。何か不思議な事故があれば、全てサラの『報復』だと言う。馬鹿馬鹿しい。そんな事、出来る筈が無いのに。例え出来たとしても、きっとサラはそんな事をするような子ではない。
 サラは、圭太の継母が引き取った子供だった。ナミも圭太も、継母を嫌っていた。そして、彼女が勝手に連れて来たサラの事も疎んでいた。エリやアリスに比べ、サラは待遇が良くない。誕生日を祝われる事も無く、クリスマスにもサンタクロースは来ない。服は一応新しく買っては貰っているが、エリやアリスのように選ばせて貰っている様子は無かった。尤も、サラ自身買い物について行こうとはしないのだが。
 そう言った状況なものだから、一緒に暮らしていると雖も、サラと会話を交わした事は殆ど無い。だから、サラにはただ無口な大人しい子と言うイメージを抱いているだけで、どんな子なのかはあまり分からない。それでも、クラスメイト達が言うような悪い子だとは思えなかった。
 やがてエリは泣き止み、虚ろな瞳で虚空を見つめていた。
 エリが家で泣く事は無かった。両親に心配を掛けたくない。妹のアリスに、泣いている所を見られたくない。サラに、自分の所為だと思わせたくない。

 チャイムが鳴り、エリは立ち上がる。茂みを出て、のろのろと教室へと向かう。
 教室へ戻ると、帰りの会に担任が来た所だった。エリが教室に入ると、クラスメイト達がひそひそと囁き合う。
 帰りの会の後は、担任に呼び止められた。エリは大人しく、担任の所まで向かう。
「エリちゃん、どうして呼ばれたかは分かってるね?」
「……ごめんなさい」
 担任は大きく溜息を吐く。
「また、五時間目をサボって。何処で何をしていたの」
「……」
「言えないような事をしてたの?」
 追求するような口調で言われ、エリは俯く。
 目元が熱くなって来る。声を出すと涙声になってしまいそうで、何も答える事が出来なかった。
「毎日毎日。授業はね、五時間目まであるの。それは分かってるんだよね?」
 こくりと頷く。
「それじゃあ、分かっててサボってるの?」
「ごめんなさい……」
 クラスメイト達のひそひそ話す声や、クスクスと笑う声が聞えて来る。
 エリの返答に、担任の声が一段と大きくなる。
「分かっててやってるの!? 貴女、何しに学校へ来てるの!!」
「ごめんなさい……」
「『ごめんなさい』じゃなくてさあ……質問してるんでしょ。何しに学校へ来てるの!?」
「……勉強……」
「だったら、授業に出ないでどうするの! 何か出られないような理由でもあるの? 他の皆はちゃんと五時間目も出るのに、どうして貴女だけ出来ないの!!」
「ごめんなさい……」
 エリはただ、「ごめんなさい」と繰り返す。
 珍しくない事だった。エリは度々、授業に出ない。それは総じて、五時間目が多い。クラスメイトに責められるのは、昼休みと放課後が多いからだ。教室を飛び出したエリは、いつも体育館裏の茂みの中で泣いていた。
 担任は、その事を知らない。エリが苛めに遭っている事さえ、知らないのだろう。
 暫く説教が続き、担任は時計を見て再び溜息を吐いた。
「先生も職員会議があるから、これ以上引き止めるわけにはいかない。もう、五時間目をサボるんじゃないよ」
「ごめんなさい……」
「そこは『はい』でしょう」
 担任は苛々とした口調で言う。
「はい……ごめんなさい」
 担任はまだ何か言いたげだったが、プリント類の入った籠や鞄を抱え、教室を出て行った。
 担任が出て行き、エリは席へと戻る。ランドセルを背負い教室を出ようとすると、周りを囲まれた。エリは戸惑いながら、クラスメイト達を見回す。
「な、何……?」
「とぼけてんじゃないよ。あれで終わったと思ったの?」
「途中で逃げたりしてさ。卑怯だよね」
「ごめんなさい……」
 蹴飛ばされた机に当たり、横へよろける。
「ゴメンで済んだら、警察はいらないんだよ。あんた、責任取りなよ。自分の姉ぐらい、どうにかしなよね」
「……」
「聞こえてるー?」
 机を蹴ったのとは別の生徒が、エリの耳を引っ張って大声を出す。
 エリを囲むのは六人。クラスで中心の女子グループだ。
「ほんっとイラつくんだけど! まるで、自分苛められてますーみたいな顔してさ。あんたの姉の所為で、うちらの友達が入院したの。分かってる?」
「理解してないんじゃね? こいつ、馬鹿だからさ」
「……サラじゃない」
 蚊の鳴くような声に反応し、女子達の笑い声が止む。
 前髪が掴まれ、俯くエリの顔が無理矢理上げられた。
「何? 何て言ったのか、よく聞こえなかったんだけど?」
 エリは潤んだ目で彼女達を睨み返す。
「サラじゃないって言ったんだよ。
だって、二組の子達が入院したのって事故なんでしょ? ストーブが炎上した、って……先生、そう言ってたもん。その子達、使ってない時期だからって、上に座ったりまでしてたからだ、って。
サラ、何も関係無いじゃん」
「エリちゃん、ほんと何も理解してないんだねぇ……。
あたし、二組に幼馴染がいるんだけど、その子が言ってたんだよ。
四時間目の授業で、グループ作る事になったんだって。あいつって暗いし、危ない噂ばかりじゃん? だから、一緒にやるの断ったらしいんだよね。授業中、なんで断るのか分かってない子にも説明してたんだって。
そしたら、昼休みに事故発生。サラちゃんの仕業以外に何だって言うの?」
「だから、サラがどうやってストーブ燃やしたって言うんだよ! そんな事、出来る訳無いじゃん!
説明ってそれ、要は悪口言ってたんでしょ? そんな事するからだよ。罰が当たっただけじゃん!」
 バシッという強い音が教室内に響く。
 エリは床に倒れこみ、赤くなった頬を押さえる。
「あんた、あの化け物の味方をするんだ?」
「やっぱり、双子は双子だね。同じ事を言うんだ」
「いや、シャノンって養女らしいよ。だから苗字違うんだって。
ま、何にしたって、こいつは化け物を庇うつもりらしいけどね」
「それじゃ、あれかな。一つ下に妹いるんでしょ? あいつも、こいつと一緒で化け物の仲間なんじゃない?」
 その言葉に、エリは過敏な反応を見せる。
「やめて……アリスには何もするな!」
「は?」
「突然偉そうになったねー」
 再び頭を鷲掴みされ、床へ押し付けられる。
「何か言う事ないの〜?」
「……っ。
ごめんなさい……ごめんなさい……」
 ただ只管、謝り続ける。エリには、それしか出来なかった。
 サラを庇うのを止めようとは思わなかった。エリは、「報復」の噂など微塵も信じていなかった。噂を信じるぐらいなら、サラを信じた。
 サラがそんな事をする筈が無い。出来る筈が無い。サラに不思議な力があるだなんて、馬鹿げた話だ。
 そう、思っていたのだ。

 学校を出て、エリはふと左手の方に人がいる事に気付いた。
 サラだ。姿を見てはいないが、エリには分かった。オーラとでも言うのだろうか。サラは気配が強く、他の人と判別する事が出来た。壁を隔てた向こう側にいても、動きを読み取る事が出来る。ナミとアリスも同様だった。ただ、サラに比べると気配は弱いが。魔法界の事など全く知らなかったエリは、家族ならば誰でもそうなのだろうと思っていた。
 サラがいるのは、兎小屋や鶏小屋のある場所だ。エリはそちらへと向かっていく。校舎の角を曲がり、エリは目を瞬いた。
 鶏は小屋から出され、小屋の周りをのびのびと散歩していた。芝生の上には兎が出ていて、日向ぼっこをしたり草を食べたりしている。兎小屋の中には、サラがいて竹箒を手にしていた。八歳のサラに竹箒は大きく、やや扱い辛そうだ。
 エリは、恐る恐るそちらへと歩み寄る。サラは気付いた様子だが、特に何も言わなかった。
「サラ……何やってるの?」
「見て分からない? 掃除よ」
 そう言ってサラは、集めたゴミを塵取りに取る。エリが言いたい事を悟ったのか、サラは言った。
「飼育委員の中に、どうもサボリがちのグループがいるのよね。ゴールデンウィーク中、全く来てなかったみたい。餌だけは足りなくならないように大量に出されていたけれど、可哀想にぱさぱさになっていたわ」
「サラが、その人達の代わりにやってるの?」
「ええ。動物が死なない限り、その人達反省しないんでしょうけど、そうなったら動物が可哀想だもの。兎や鶏には、罪は無いものね」
「鍵は? 兎とか、外に出していていいの?」
「平気よ。目は離さないようにしているし、遠くへ行ったら呼び戻すわ。――水も無くなってるわね」
 サラの言葉に、エリは地面に置かれたボウルに目を向ける。空っぽのボウル。しかし一瞬の内に、水で満たされた。エリは目を丸くする。
「え!? い、今、何やったの!?」
「水を加えただけよ」
 何でも無い事のように言いながら、サラは塵取りと竹箒を棚の上に片付ける。塵取りの中身も、いつの間にか無くなっていた。捨てた所を見た覚えは無いのだが……。
 サラは、机の上に置いておいていたビニル袋を手に取る。そして、エリを振り返った。
「餌、やる?」
「いいの!?」
 エリは、ぱあっと顔を輝かせる。
 サラは袋を手に小屋から出て来る。ビニル袋の中には、小さく細く薄切りにしたにんじんが入っていた。
「家から持ってきたの?」
「いいえ。飼育委員が、給食室から貰ってきた物よ。材料の残りか何かじゃないかしら。給湯室の冷蔵庫に保管しているみたいね」
「へぇ〜……」
 サラと一緒に芝生へ踏み込み、兎ににんじんをやる。鶏の餌は、既に小屋の中に置かれているようだった。餌をあげながら、撫でたり抱いたりしてみる。兎は、予想外に重かった。
「仔兎は抱いちゃ駄目よ。人間の臭いがついたら、親が世話をしなくなっちゃうから」
 動物の世話をするサラは、穏やかで優しい表情だった。無表情や両親に言い返す冷ややかな視線しか知らなかったエリにとって、動物の世話をするサラの様子はとても新鮮で意外な物だった。
 西の空が薄っすらと赤くなり始めた頃、サラは立ち上がった。
「そろそろ帰った方がいいわね……」
「この子達、どうやって戻すの?」
 サラはスッと目を細めて、兔や鶏を順々に見つめる。エリは目をパチクリさせてその様子を眺めていた。
 ぴくんと動物達が反応を示す。そして、まるで操られているかのように列になってそれぞれの小屋へと戻って行った。エリは手を叩いて喜ぶ。
「凄い! サラ、凄いね! 魔法みたい!」
「……『化け物』って思わないの?」
「なんで? サーカスとかだって、動物操るじゃん。それと一緒でしょ? すっごいよ!」
 サラは視線を落とす。心成しか、やや頬が染まっているように見えた。
 鍵をかける時も、どうやったのか鍵を使わずに掛けた。それを眺めながら、エリはサラに笑いかける。
「サラって、優しいんだね」
「……え?」
「だって、あんなに動物の世話をよく見るんだもん。優しいよ!
あたし、やっぱり噂なんて信じない! 皆が何言っても、あたしはサラの味方をするよ」
 サラの灰色の瞳が丸く見開かれる。
「……本当?」
「うんっ。何があっても、あたしはサラの味方だよ」
「ありがとう……」
 はにかむように微笑って、サラは呟く。
「ね、一緒に家まで帰ろう?」
 しかし、サラは首を振った。
「それは遠慮するわ……。あの人達、貴女が私と一緒にいるのを好まないでしょうしね……」
 「あの人達」と言うのは、恐らくエリの両親の事だろう。サラの言う事は尤もだ。
 サラだけ待遇が悪いのは、納得がいかなかった。けれども、エリが一緒にいて怒られるのはサラだ。
「それに私、帰りにクラスメイトのお見舞いに行きたいの」
 サラは、心底心配そうな表情だった。
 どうして、この少女が「化け物」と言われるのだろう。「報復」をしていると言われるのだろう。こんなにも、優しい心を持っているのに。
 エリは「そっか」と言って笑う。
「それじゃ、仕方無いね。先に帰ってるね」
「ええ……」
 エリは、笑顔で手を振って先に帰る。
 紅い夕日がサラを照らしていて、彼女の瞳を過ぎる紅い光に気付く事は出来なかった。


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2009/12/12