「ドラコ!」
切羽詰った声に振り返れば、サラが黒く長い髪を振り乱して駆けて来る所だった。
普段のサラからは思いもよらない焦りようだった。
「アリス見なかった!?」
「僕達も捜していた所なんだ。寮へ行ってきたんだけど、いなかった。念の為、女子寮をパンジーが見て回ってる。それじゃ、サラもあの紙を見たんだな?」
「ええ。
……ねえ、ドラコ。先日の吸魂鬼の件……ドラコは、現場を目撃したのよね?」
「ああ。でも、犯人は見てない。それよりも、アリスを止める方に必死だったから……。ごめん、アリスの事頼まれていたのに――」
ぐっとサラはドラコの腕を掴んだ。
「私じゃ、アリスの傍にいるのに限界があるわ……。私は、グリフィンドールだから……スリザリンの中に入って行く事は出来ない……。
お願い……あの子を守って……!」
No.85
薄闇に包まれた冷たい廊下。壁の燭台で揺れる炎が、僅かな光源だった。少女の幽かな足音以外に、音は無かった。
寮の門限はとうに過ぎている。けれども、寮に帰る気などさらさら無かった。
『アリス・モリイはスクイブ』
羊皮紙の切れ端に書かれた言葉。アリスはぎゅっと拳を握り締める。
事実で無ければ、幾らでも鼻で笑えたのに。いつものように馬鹿馬鹿しいと切り捨てて、何も知らない者達に愛想を振りまいて。
けれど、皆に知られてしまった。
――仕方ないじゃない……。
アリスは、サラやエリとは違うのだ。サラのような記憶力も、洞察力も、持ち得ない。エリのような行動力も、身体能力も、持ち得ない。二人共器用で、何でも直ぐにこなしてしまう。アリスがどんなに頑張っても、彼女達より優れた存在になる事は出来ない。
どんなに勉強を頑張っても、サラほど完璧にはなれない。どんなに愛らしく振舞っても、エリほど皆に囲まれる事は無い。
いつでも、主役はサラかエリだった。
アリスが中心になる事など無いのだ。最初にホグワーツへ呼ばれたのも、サラとエリ。その年に事件に巻き込まれたのも、サラとエリ。
去年の事件も、最後まで辿り着いたのはサラとエリ。アリスは、途中退場だった。
今年も同じだ。シリウス・ブラックが狙っているのは、サラ。きっとまた、エリも何かしら巻き込まれるのだろう。また、アリスは取り残されて。
アリスは、スクイブだから。
サラやエリのように、魔法使い魔女の子ではないから。
生まれた時から、決まっていたのだ。サラとエリばかりが特別で、アリスはどうしたって物事の中心にはなれないのだと。
不意に、気配が近付いてくるのが分かった。咄嗟に、近くの教室に逃げ込む。
息を殺して廊下の気配を探る。
何故、彼女がここに? アリスを捜しに来たというのか。まさか、全ての根源であろう彼女が?
彼女は、教室の一つ一つを確認しているようだった。この場にいれば、直ぐに見つかるだろう。だが今出て行っても、鉢合わせしてしまう。
成す術もなく、アリスは扉を背にじっとしているしか無かった。
一体、どう言うつもりなのだろう。自ら手を下す必要性も感じない。
やがて、アリスの背後の扉が開いた。彼女は息を呑み、それからふーっと長い溜息を吐いた。
「……やっと見つけた。夕飯の席にもいないで、寮にも帰って来ないで、皆心配してたわよ」
「……」
「いつまでそうしてるつもり?」
アリスは振り返る。いつものような愛想の良い笑みは無く、その眼は敵対心を露に彼女を見つめていた。
「貴女が来ると思わなかったわ――パンジー……」
雲間が切れたのか、差し込んだ月明かりに彼女の顔が照らし出される。
パンジーは、真っ直ぐな目でアリスを見つめていた。
「貴女が先生方に見つかったら、スリザリン全体が迷惑を被るわ。ただそれだけよ」
そう言うと、くるりと背を向ける。振り返り、肩越しに言った。
「行くわよ」
しかし、アリスは動かない。
パンジーは眉根を寄せ、再び向き直る。
「そうやって、いつまでも逃げ続けるつもり?」
「またドラコの為の点数稼ぎ? 放っといて頂戴」
パンジーは目を丸くする。アリスがこうもあからさまにパンジーに反抗したのは、初めての事だったのだ。
アリスは口の端を上げて嗤う。
「さぞご満悦でしょうね。裏切り者を排除出来て」
パンジーは答えない。ただ無言で、真っ直ぐにアリスを見つめていた。
「何もここまでしなくたっていいじゃない……。馬鹿馬鹿しいわ……たかが一人の男の為に……」
「そうね……吸魂鬼や今回の件は、流石にやり過ぎだと私も思うわ」
「白々しい。貴女の指示でしょう」
「私が、こんな後々面倒になるような事をすると思うの?」
「……」
「寮へ帰るわよ。そうそう、貴女の猫はドラコに預けたわ」
「……どう言うつもり?」
「女子寮にいたら、どうなるか分からないでしょう」
「そんなの解ってるわ。どうしてそんな庇う真似をするの? リアがどうなろうと、貴女には何も関係無いでしょうに」
「ところが関係あるのよ。言ったでしょう? 後々面倒になるような事は、ご免なの。荷物は兎も角、猫は生き物だわ。また面倒を起こされるのは御免よ。それも、私の名前を笠に着て、ね。
リアって言うの? 貴女の猫、心配なら暫く預かってもいいって言ってたわよ。それから、去年の冬に既にサラは私に頭を下げに来ているわ」
「え……?」
「私なら、貴女を守れると思ったのね」
サラが頭を下げて頼む姿など、想像も出来なかった。
その上、相手はパンジー。常日頃、敵対している相手だ。
パンジーは背を向け、教室を出て行った。アリスは躊躇いつつも、その後を追いかけるようにして教室を出て行った。
翌日、スリザリンのテーブルにはいつもと変わらずアリスの姿があった。違う点と言えば、一年生でさえアリスの傍に寄らなくなった事。そして、何処へ行ってもひそひそ声がアリスを付き纏った事だ。
「聞いた? スリザリンのアリス・モリイがスクイブだったって……」
「玄関ホールのでしょ?」
「アリス・モリイって、サラ・シャノンの義妹のアリス?」
「スクイブなのにホグワーツに着てるの? 魔法も使えないのに、何をしに?」
「スクイブって、フィルチと一緒かよ」
冷たい視線、好奇の眼、蔑み嘲笑う視線。それらがアリスを取り囲む。
それでも、アリスは変わらずいつも通りに振舞った。
「アリス、大丈夫? 昨日は、夜遅くまで寮にも戻ってなかったそうじゃない……。
ねえ、犯人の検討ついてるんじゃないの? 力になるわ。アリスは私の大切な妹だもの。ね、誰なの?」
「ありがとう、サラ。でも大丈夫よ。
そうだわ、ドラコ。悪いんだけど、暫くの間リアの事お願い」
そう言って、アリスは笑う。いつもと同じ、愛想の良い笑顔だった。
「許さねえ! こんな事しやがって――スリザリンって、ホント最低だな! 犯人、一発ぶん殴ってやる!!」
「落ち着いてよ、エリ。スリザリン全体を一括りにしないで頂戴。私だって、その一人なんだから。それに、スリザリンの中にも私の味方をしてくれてる人だっているのよ?」
いきり立つエリにも、そう言って笑った。
サラもエリも、ずっとアリスに構っている訳にも行かなかった。ハッフルパフは、月末にレイブンクロー戦を控えている。グリフィンドールも、試合はまだ先とは言えハッフルパフ戦敗退によってウッドの熱は更に上昇していた。
数日もすれば、サラもエリも事あるごとにアリスの所へ来るような事は無くなった。
十一月最後の木曜日、変身術の授業が終わると、アリスはさっさと荷物を纏めて教室を出て行った。次の授業は、魔法薬学。アリスが他の魔法使いの子供達と同等どころか、優等生とまでなれる教科だ。それに、魔法薬学の授業はグリフィンドールと合同だ。ジニーやコリンは、あの玄関ホールでの件について触れずにいてくれた。
そして、魔法薬の研究を少しでも出来るのがこの時間だった。昼休みはドラコらが傍にいる場合が多く、放課後はスネイプがやたらと手伝いを言いつける。ここ最近は、文献さえ読み漁る事が出来なかった。早く移動すればその分、本を読んでいる事が出来る。
脇目も振らず足早に階段を降りていると、背後から声が掛かった。
「アリス――アリス!」
名を呼ばれ、アリスは振り返る。教室の移動で入り乱れる生徒の中を掻き分け、ハーパーがこちらへと駆けて来ていた。
アリスの前まで来たハーパーは、なかなか用件を言おうとしない。目を泳がせ、言いよどんでいた。
「何の用?」
痺れを切らし、アリスは尋ねる。
ハーパーは、ぴくりと眉を動かした。
「――そら見ろ、僕が警告した通りだったろう」
「またそんな嫌味を言いに来たの? いい加減にして頂戴。うんざりだわ」
言って、再び歩き出す。
ハーパーは、尚もついて来た。
「違う。そうじゃないんだ。そうじゃなくて――」
言葉を迷っている風だった。
そしてふと、思い立ったように刺々しく言った。
「――そう言えば、この次は魔法薬学だな。まさか、今日もジニー・ウィーズリーと組むつもりか?」
「貴方には関係無いでしょう」
「大いに関係あるね。スリザリンの外聞に関わる」
「傲慢な生徒が多くて、他の寮から無駄に敵視ばかりされるような外聞?」
「な……っ、君だってスリザリン生なのにそんな言い方――」
「私は私の好きなようにするわ。私の友人関係まで、貴方にどうこう言われる筋合いは無い」
「理解出来ないな。どうしてそこまで、ジニー・ウィーズリーに拘る? 彼女と親しくしていたって、何の得も無いだろう?」
「貴方ならね。でも私はサラやエリを姉に持っているのよ。敵対する方が、リスクが大きいわ」
「……」
ハーパーは黙り込む。
利害を考えた意見に、彼は弱い。彼自身、それを第一に考えて説得して来ているからだろう。
「……でも……この間の事だって、君が彼女達と親しくしていた結果だろう?」
「達? ジニーの話をしているんじゃないの? 姉妹との縁まで切れなんて、滅茶苦茶よ」
「サラ・シャノンやエリ・モリイについては何も言って無いさ」
不貞腐れたように否定したが、誰についての事なのかは口にしなかった。
玄関ホールを抜け、階段を降り、教室が近付いてくる。グリフィンドール生の喧騒が、冷たい石の壁に反響していた。
「まったく。一体何なのよ、突然? 好きにしろって切れたのは、貴方の方じゃない」
「別に、突然声を掛けようと思った訳じゃない。何回も……」
「え……」
二人は押し黙る。
アリスは目をパチクリさせてハーパーを見つめる。ハーパーは罰が悪そうに頭を掻いた。
「腹が立つし、放っとこうと思ってた。でもやっぱり、ここまで来るとそう言う訳にもいかなくて……」
クスクスと笑い出したアリスに、彼はムッとした顔になる。
「何が可笑し――」
「ありがとう」
言って、アリスは微笑んだ。他の寮生に向けているような、明るい笑みだった。
廊下の途中で、角を曲る。教室の前に、グリフィンドール生の一団が固まっている。その輪より少し手前で、ジニーとコリンがひそひそと話していた。
「――アリスとは、あまり一緒にいない方がいいと思う……」
「確かに、そうなのかも知れないわよ。でも――」
アリスと目が合い、ジニーの言葉が途切れる。その表情に、コリンも振り返り不味いと言うような表情になる。
アリスは、その場に立ち尽くしていた。
ジニーが慌てて取り繕う。
「違うの、アリス。あたし達――」
ジニーの弁解を聞く事もなく、アリスは踵を返すと駆け出していた。
信じていたのに。
信じていたのに。
信じていたのに――
授業の時刻になろうと、構わなかった。ただ只管、廊下を渡り、階段を上る。走り疲れても、足早に離れていった。視界は涙で霞み、何処をどう歩いているのか、さっぱり分からない。途中何度か、お節介な肖像画達が声を掛けて来たが、アリスの耳には届いていなかった。ピーブズが現れてからかおうとも、あまりの無視っぷりに張り合いが無かったのか、直ぐに何処かへ消えうせてしまった。一度は、ゴーストの中を通り抜けてしまったようにも感じた。
袖口で涙を拭う。
ジニーとコリンは、噂など気にしないでいてくれているのだと思っていた。例えアリスがスクイブだろうと、あの二人は構わず一緒にいてくれるような人物なのだと思っていた。
――馬鹿みたい……。
無駄に敵を作ってしまったアリスの傍にいたところで、何の利点も無い。下手をすると、自分自身も巻き込まれかねない。魔法が使えないと言う弱みを見せた時点で、いつしかこうなる事は決まっていたのだ。
どうして、アリスは魔法が使えないのだろう。
やはり、父親がマグルだからか。純血であるサラとエリ、父親がマグルであるアリス。その溝は、理不尽なほどにも大きい。
ホグワーツへ来て、サラは嫌われ者では無くなった。エリはいじめられっこでは無くなった。
なのに、アリスだけ。
アリスだけは、小学校での日々と大して変わらない。
ふっと視界が開けて、アリスは我に返った。階段を上った先の扉を開けた所だった。頭上に広がる青い空。遥か下方に見える森や湖。
アリスは、天文台の上にいた。
グリフィンドールのテーブルには、ぴりぴりと緊張した空気が張り詰めていた。出所は、五人。そこに、今やって来た四人の内二人のものが加わる。特にその片方、ハリーの緊張感は人一倍だった。
二日後には、ハッフルパフ対レイブンクローのクィディッチ戦が待ち構えている。ハッフルパフがレイブンクローに勝つ事は無いだろう。そうは言っても、点差が問題だった。いくらレイブンクローの方が強いとは言え、ハッフルパフのセドリックだって名シーカーだ。点差が小さければ小さいほど、グリフィンドールは大きく点差を付けてレイブンクローやスリザリンに勝たなくてはならない。
「そんなにピリピリしたって、仕方無いだろ。試合は他寮同士だぜ? 僕達がイラついたところで、どうにもならないよ」
「だからよ。私達の試合なら、練習に励めばいいわ。でも他の寮同士じゃ、ただ結果を待つしかないんだもの……」
呆れたように言うロンに、サラは言い返す。
ハリーは黙り込んでいた。ハッフルパフ戦でのグリフィンドールの敗北は、ハリーに要因がある。気にならない筈が無い。次の試合までに吸魂鬼への対抗手段を教えてくれると言うルーピンとの約束が、唯一の救いだった。
昼食の時間ともなれば大広間の出入りは激しく、観音開きの扉は開きっ放しになっていた。ふと、ハーマイオニーが出入り口付近の人ごみの中に目を留めた。
「ジニーだわ。こっちへ来るみたい」
サラは飲み物を手に取りながら、そちらを振り返る。
ジニーはハリーの姿にやや戸惑いを見せたが、立ち止まる事も無く真っ直ぐにこちらへと急ぎ足に来た。
「どうしたんだ?」
ロンが尋ねる。その語尾に重なるようにして、ジニーは言った。
「ねえ、アリス来た?」
サラはスリザリンのテーブルに目をやる。
「こっちには来て無いよ」
「スリザリンのテーブルにも、いないみたい」
ハリーの返答に続けて、サラが言った。
ジニーは髪をかき上げ、ちらちらと扉の方を振り返る。
「そう……エリかコリンには会った?」
「会って無いわ。そう言えばエリ、さっきの授業にいなかったわね。コリンは今朝、朝食の席で見かけたけど……どうしたの?」
ハーマイオニーが尋ねた。
その時、扉の方がざわついた。キーキーとした声が叫んでいる。
「通して! 通して!」
人ごみの中から、フリットウィックが飛び出て来た。彼は真っ直ぐに教員席へ行き、スプラウトに何やら話しかける。スプラウトは血相を変えて立ち上がり、二人は慌しく大広間を出て行った。
「何があったんだ?」
「さあ……」
ロンとハリーは、呆気に取られた様子でそれを見送っていた。
ジニーは、彼らの様子に不安を掻き立てられたかのように青ざめている。
「それで、ジニーはどうしたの?」
サラは急いで尋ねた。何だか、胸騒ぎがする。
ジニーは我に返り、頷いた。
「アリスが行方不明なのよ。授業前に、あたしとコリンが話しているのを聞いて……それで、駆け出して行っちゃって……。エリに会ったから、彼女も今頃捜している筈だわ」
「何をアリスに言ったの?」
「サラ、そんなキツイ言い方するもんじゃないわ。
ねえジニー、もっと詳しく話してちょうだい。それじゃあ、アリスは授業に出ていないの?」
ジニーはサラの射るような視線に怯えながらも、こくりと頷く。
そこへまた、ざわめきが大広間の外から押し寄せて来た。ロンが眉を顰める。
「何だ? さっきから――」
「サラ!」
今度は、コリンがこちらへと駆けて来ていた。真っ直ぐにサラの所へと来る。いつものような、ミーハーな理由では無い様子だ。
「何……?」
嫌な予感が止まらない。
ジニーが真っ先に尋ねる。
「コリン、アリスは見つかった?」
「うん。それで――」
頷き、コリンはサラに目を向ける。
「大変なんだ! アリスとエリが、天文台から落ちたって!!」
ぐらりと視界が揺れた。
途端にフラッシュバックする光景。打ち寄せる並みの音。森へと飛ばされるサラ。緑の閃光と、波の音まで掻き消すような轟音。落ちていく金色の光――
大広間に悲鳴が迸る。何事かと、生徒達は振り返る。
「サラ! 落ち着いて!」
「嘘……嘘よ……エリとアリスが……そんな……」
がくがくと震えているサラに、周囲の声は聞こえていなかった。
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The Blood
第1部
希望求めし少女たちは
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2010/01/02