薬草学の授業へ向かい、玄関ホールを横切っている時だった。外へと流れ出て行くハッフルパフの一団に、突進してきた女子生徒がいた。
「ごめんなさい! 退いて――」
 人ごみを掻き分けているのは、赤毛の女の子だった。
 彼女とエリの目が合った。
「エリ! ねえ、アリスがこっちに来なかった?」
 ジニーはハッフルパフ生の間を横切るのを止め、エリの所まで来た。エリ、ハンナ、スーザンは立ち止まる。
「アリス? いや、見てないけど……何かあったのか?」
 ジニーは、先程の事を説明する。コリンと話していた事。アリスは、その一部を耳にしてしまった事。そして、授業も放って走って行ってしまった事。
 話を聞くにつれ、エリの表情が険しくなって行く。
 ジニーが話し終えると、エリは自分の鞄をスーザンに押し付けた。
「先行ってて!」
 言うなり、エリは駆けて行く。ハンナの声が、後ろから追いかけてくる。
「ちょっと! 授業はどうするの?」
「上手い事言っといて!」
 叫び、階段を駆け上がる。
 スクイブと言う事が広められたあの日、アリスは夕食の席にもいなかった。翌日になって漸く姿を見せた時には、いつもの笑顔をエリ達に向けていた。けれど、気になっていない筈が無い。特に、ジニーやコリンはアリスの支えになっていた筈だ。それが……。
 図書館、たくさんの空き教室、トイレ――隠し通路を駆使し、城中を駆け回る。授業が始まろうと、どうでも良かった。
 どれくらい走り回ったろうか。エリは、廊下の先を足早に歩く人物を見つけた。スリザリンのローブ、淡い緑色のリボン。間違い無い。アリスだ。
「アリス!」
 声を掛けても、アリスの耳には届いていないようだった。アリスは右手に曲り、階段を上って行く。――その先は、天文台。
 エリの顔が青ざめる。
 まさか。まさか、アリスは――
「……くそっ」
 舌打ちをし、アリスの後に続いて螺旋階段を上る。半分ほど上った所で、上から扉の閉まる音が聞こえた。
 間に合ってくれ。どうか――
 勢い良く扉を開き、屋上へ飛び出す。アリスはハッと振り返った。
「アリス……」
 しかしアリスは、防壁の上へと足を掛けた。エリは目を見開く。
「来ないで!」
「やめろ、アリス! 馬鹿な事するんじゃねーよ!!」
「放っといてよ! じゃなきゃ、ここから飛び降りるわ!」
 喚くアリスの表情が、恐怖に満たされた。ぐらりとアリスの身体が大きく傾く。助けを求めるように伸ばした腕は、そのまま空を掻いただけだった。
 エリは地面を蹴り駆け出していた。手を伸ばしたが、アリスを捕らえられなかった。
「アリス……!!」
 落下したアリスを追い、エリは防壁を飛び越えていた。





No.86





「二人共、命に別状はありません」
 混乱しているサラを引っ張って、ハリ、ロン、ハーマイオニー、ジニー、コリンは医務室へと向かった。医務室の扉の前には既にハッフルパフ生四人が来ていて、マダム・ポンフリーと押し問答していた。
 マダム・ポンフリーの告げた言葉に、サラは顔を上げる。
「ほ、本当に……? でも、天文台から落ちたって……」
「本当です。私も驚いていますよ。アリス・モリイに至っては、傷一つ無いんですから」
「エリは?」
 ハンナが咄嗟に尋ねる。
 ポンフリーは答えた。
「数箇所、骨にヒビが。頭を打っていない辺りは、流石と言ったところです……咄嗟に庇ったのでしょうね。
さあさあ、解ったら帰ってください。あの子達には休養が必要なんです」
 それ以上は何も聞けそうに無かった。一同は、しぶしぶと医務室を後にする。
 サラは、誰と会話する事も無くすたすたとその場を離れて行った。
 ――許さない。
 ここまでアリスを追い詰めて。原因は当然、玄関ホールでの紙撒き散らしだろう。
 酷い言い掛かりだ。アリスがスクイブな訳無いのに。サラやハーマイオニーには、はっきりとそれが分かっている。しかし他の生徒達は違った。半信半疑の視線を、アリスに向ける。――スリザリンの奴らの所為で。
 今回の実行犯が誰なのかは分からない。けれど、以前アリスをいじめていた女子生徒達。恐らく、彼女達も関わっている筈だ。口を割らないつもりなら、彼女達にも手を掛ければ良い。見せしめだ。
 最早、サラには誰が犯人かなどどうでも良かった。ただただスリザリン生達が憎々しく、制裁を加えなければ気が治まらない。
 玄関ホールを横切り、大広間に入る。昼休みのスリザリンのテーブル。たくさんの生徒達が笑い合い、平和に食事を取っている。彼らは、アリスがどんな目に遭ったかも知らないのだ。
 ぎりと歯を食いしばり、拳を硬く握る。こいつらの所為で、アリスは――
「サラ!」
 突然肩を引かれ、振り返る。
 サラを振り向かせたのは、ハリーだった。ハーマイオニーとロンも一緒にいる。三人共、真っ直ぐにサラを見据えていた。
「……駄目だ、サラ」
 静かにハリーは話す。
 何を言っているのか、サラには分からない。無言で手を振り払おうとしたが、ハリーは放さなかった。
「ねえ、サラ。少し考えれば解る筈だわ。ここでサラがスリザリン生達に手を出せば、いづらくなるのはアリスよ」
「犯人分かってるなら、やっちまえとは思うけどな」
「ロン!」
「――でも、今のサラ、怖いよ。そんな顔して仕返しして、こっちが後ろ指差されるなんて馬鹿馬鹿しいだろ」
 サラは無表情だ。
 ハリーは、サラの肩を揺する。
「しっかりしろよ……そんな事したって、何にもならないだろ!?」
「グリフィンドールの連中が何の用? 邪魔よ」
 パンジーはサラ達を押し退けて行く。
 友達に手招きされ、そこまで行く。しかし、席には着かなかった。同学年や年の近い女子生徒達の集まるその場で、ぐるりとその面々を見回すと言った。
「――ハッキリさせておきたい事があるの」
 サラも、思わずそちらに気を取られる。
 パンジーは振り返る事も無く、朗々とした声で言った。
「ドラコとの事は、私達の問題よ。アリスは何も関係無いわ。彼女一人がサラを手伝った事で大きく影響するなんて、馬鹿にするのも大概にして欲しいわね」
 しんとスリザリンのテーブルは静まり返る。
 サラは唖然として彼女を見つめていた。パンジーは踵を返すと、こちらへと歩いて来る。彼女の友人のダフネ・グリーングラスが慌てて席を立った。
「パンジー」
 通り過ぎようとしたパンジーを、サラは呼び止めた。
「……ありがとう」
 パンジーの背中に、サラは呟くように言った。パンジーは鼻で笑う。
「別に、貴女に礼を言われるような事はしてないわ。貴女にスリザリン生が攻撃されるなんて、ご免だもの。
――あの子も、自分がどんなに周囲に守られているか、気付けばいいのにね」
 振り返らずに言うと、パンジーはそのまま大広間を出て行った。後を追うダフネが、サラ達の横を駆けて行った。
 ドラコへの失恋を認め、アリスを守る発言をする。それが彼女にとって、どんなに辛い事か。
 そうは思っても、サラはダフネのように後を追う事はしなかった。サラが後を追う訳にはいかなかった。





 土曜日、クィディッチ競技場は熱気に包まれていた。ハッフルパフ対レイブンクロー戦だ。
 競技場の方から聞えて来る歓声を、ナミは窓の隙間を閉めて遮断する。医務室のベッドには、エリとアリスが眠っていた。
 扉が開き、ナミはそちらを振り返る。入って来たのは、リーマスだった。
「おはよう。――試合、始まったみたいだね」
「うん。二人の具合はどうだい?」
「アリスは今朝、一度目を覚ましたよ。今は、また眠ってる。アリスは無傷だったそうだしね」
「そうか、良かった……。何があったのかは、分かったかい?」
 尋ねながら、リーマスは後ろ手に扉を閉めベッドの方へと歩いて来る。
 ナミは頷いた。
「事故だったそうだよ、アリスが本当の事話していればね。足を滑らして――その後は覚えてないって。エリを巻き込んだって、凄く落ち込んでた。
エリは背骨のヒビと、肋の骨折。あと、肩も脱臼してたって。遠くから目撃したグリフィンドールの子の話によると、魔法で着地前に止めたみたい。ただ、荒い力技だったから負荷が掛かって……下手すれば、着地と同じになってたって。首の骨が折れる危険もあったって」
「運んで来たのは、ハグリッドだったんだって?」
「うん。午前中最後は空いてたそうだから、早めに昼食に向かおうとして――それで、芝生の上に倒れてる二人を見つけたみたい。そのまま直ぐ医務室に来たのも、良かったのかもね。人だかり出来た後だったりしたら、もっと手間が掛かっちゃったろうし……」
「でも生徒の目撃者がいたんだろう?」
「ああ、目撃って言っても、エリが使った魔法らしきものを温室の前から見ただけで。人影を見たなんて言ってなかったから」
「よくそんな話出て来たね。本人も、これと関係あるなんて分からないだろうに」
「その子、私と一緒にいたんだよ。午前最後の授業が、薬草学でね。温室の前で待ってた時に」
「ああ、なるほど」
 リーマスは納得したように頷く。
 それから、ナミに一度寮に戻るように言った。
「寝てないだろう。替わるよ」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。多分エリも、今日か明日には目を覚ますだろうし……」
 その時、また扉が開いた。
「二人の様子はどう?」
「二人共、順調に回復してるよ。アリスの方は、今朝目を覚ました」
 サラはホッとした表情になる。そして、ポンフリーが戻って来ない内にと医務室を出て行った。
 振り返ると、リーマスは驚いたような表情をしていた。
「何?」
「いや……君がサラと普通に話しているのを、初めて見たものだから」
「今のサラにキツイ言い方するほど、私も鬼じゃないよ。……あの子、エリとアリスの落下でシャノンの事思い出したろうしね」
「彼女が見つかったのは、砂浜だって聞いたけど」
「見つかったのはね。でも、あの子は帰って来た時、『落ちちゃった』って繰り返してたの。ちょうど、サラの誕生日でね。あの子、いつもカチューシャ付けてるでしょ? あれ、どうもシャノンが贈ったみたいなんだよね」
 今も、瞼の裏に思い起こす事が出来る。
 海沿いの町で、サラは保護された。交通事故を起こしそうになったマグルの話によると、海との間にある森から突然飛び出して来たのだと言う。文字通り、飛んで来たのだと。警察は信じていなかったが、恐らく追い払い呪文だろう。
 サラは、ずっと泣き続けていた。『落ちちゃった』『おばあちゃん』と繰り返し叫びながら。何があったのか悟ったナミは、無言でサラを抱きしめた。前にも後にも、サラを抱きしめたのはこの一回のみだ。恐らく、サラは覚えていないだろう。そして、ナミが抱きしめたのは決してサラの為では無かった。
 ナミの頬もまた、涙に濡れていた。
 結局、認めて貰えぬ内に彼女は逝ってしまったのだ。
「……あのカチューシャを付けている限り、サラはずっとシャノンに囚われたままなんだと思う」
 そしてナミも、この十五年間ずっと囚われたまま。





 エリが目を覚ましたのは、昼過ぎだった。その頃には、アリスも再び目を覚ましていた。
 エリの話は、アリスから聞いたものと一致していた。事故で落ちてしまったのだと言う。脅しのつもりで防壁に足を掛けた事で、ナミはアリスをこっ酷く叱った。当然、無茶をしたエリも同様だ。
 落下時に使用した魔法については、エリ自身もよく覚えていないとの事だった。ただ無我夢中で、アリスを抱きかかえていたそうだ。

 エリが目を覚まして暫くして、本日何人目かの見舞い客がやって来た。ポンフリーはせかせかとそちらへ向かったが、見舞いではないと分かり彼を通した。
「やあ、セブルスじゃないか」
「……」
 リーマスがにこやかに声を掛けたが、セブルスは眉間の皺を増やしただけだった。
 セブルスの手には、ゴブレットがあった。それを持って、真っ直ぐにエリのベッドへ向かう。エリは寝そべり、壁の方を向いていた。
「目を覚ましたと聞いたが……まだ具合が悪いのか?」
「気にしないで。クィディッチ出られなくて拗ねてるだけだから」
 ナミが肩を竦めて答える。
 アリスは、ハーパーが届けてくれた休み中の授業内容を必死になって読んでいた。
 リーマスが立ち上がる。
「それじゃあ、私はそろそろ失礼するよ。ナミも、なるべく早く引き上げるようにね」
「うん、ありがとう」
 ナミは手を振り、リーマスを見送った。二人共、無事目を覚ましたのだ。ナミもそろそろ寮へ帰り、眠った方が良いだろう。
 セブルスはエリの背中に呼びかける。
「エリ。薬を持ってきた」
 途端に、いびきが聞こえ出した。ナミは苦笑する。
「寝たふりをするな。まったく、無茶をしおって……」
 エリは渋々と起き上がった。
 セブルスからゴブレットを受け取り、顔を顰める。
「うげー、またこれかよ」
 絶対に口にしたくないようなその色を見て、ナミが口を挟んだ。
「あ。それ、私も飲んだ事ある」
「……だろうな」
 セブルスは短く答える。
 ナミは彼の顔を見上げた。
「若しかして、これがこの間言ってた拾った調合法の薬?」
「その薬の調合法は、忘れたと言ったろう」
「あ、そうだっけ」
「何それ?」
 アリスが教科書から顔を上げた。興味津々の顔で、エリの薬を覗き込む。
「安定剤みたいなもんだってさ。前飲んだのは、一年生の時だったっけ?」
 セブルスは唸るように頷く。
 エリはよほど飲みたくないらしく、色々と喚き続けていた。一度飲んだ事のあるナミも、その薬の苦さは知っている。二度も飲む破目になるとは、エリも可哀相に。
 散々喚き、漸くエリは薬を飲み干した。
 エリが飲み終えるなり、セブルスはゴブレットを取り踵を返す。
「あれ。スネイプ、もう帰っちまうのか?」
「我輩は薬を届けに来ただけだ」
「薄情な奴ー」
「やかましい。騒いでいないで、大人しくしとらんか。まだ本調子では無かろう」
「……」
 エリは口を噤む。
 途端に布団を被り、また壁の方を向いてしまった。
「どうしたの、エリ」
 アリスがきょとんとして尋ねる。ナミは肩を竦めた。
「またクィディッチの事思い出したんじゃない? 放っときなさい。
それじゃ、私もそろそろ……。今度はエリ、脱走させないようにね」
 ナミの言葉に、アリスは乾いた笑いを漏らす。ポンフリーはまた、扉の向こうだ。
 ナミが出ようとすると、扉からセドリックが入って来た。
「あ、試合終わったの? お疲れ、セドリック」
「うん、ありがとう。
エリは? 目を覚ましたって聞いたから……」
「ここ! 試合どうだった!?」
 エリは飛び起き、身を乗り出していた。
 セドリックは元気なエリの姿を見て安堵の表情になったが、直ぐに笑顔は引っ込み首を振った。
「そっか……」
 エリも一気にテンションが下がる。
 その時、半開きだった扉が一気に押し開かれた。カナリアイエローのユニフォームを着た一団が、一気に雪崩れ込んで来る。突然の事に声も出せないナミの横を通り、彼らはエリのベッドへと駆け寄った。
「良かった! 目を覚ましたって聞いたからさ」
「試合は駄目だったよ」
「でも、チェンバースがナイスプレーをしたんだ」
「君もナイスキープだったよね。あれは入れられると思った……」
「でもやっぱり、残念だったなあ……。本当はさ、僕ら皆で決めてたんだ。目を覚ましたエリに、勝利の報告を見舞いの土産にしようって」
「残念ながら、そこまでは及ばなかったけどね」
 エリは唖然として彼らを見上げていた。
「でも、俺……皆と喧嘩して……」
「それぐらいで壊れるようじゃ、チームなんてやってけないっての!」
「あんな大きな事故だか事件だかで入院したら、誰だって心配になるわよ」
 チームメイト達は口々に話す。
 マダム・ポンフリーのいる部屋の扉がバンと開いた。
「何ですか、この騒ぎは! この子達には休養が必要なんですよ!!」
 慌ててハッフルパフ・チームのメンバーは医務室を出て行く。
 エリは、満面の笑みだった。


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2010/01/10