教員達が立ち去り、五人はただ黙していた。
 彼らに背を向けて座っていたエリの眼は、丸く見開かれている。手元にあるバタービールは、冷め切ってしまっていた。
「エリ……今の話って……」
 アーニーが、恐々と呟いた。
 その声で、エリはハッと我に返る。
「おっどろいたなー……あいつの父親、教えて貰えなかったんだよな。どーりで――」
 ジャスティンが「あっ」と声を上げた。その視線の先を追い、振り返る。
 見知った小さな姿が、パブから飛び出していく所だった。
「今の……サラよね」
「まさか、聞いてたんじゃ……」
 スーザンとアーニーがおろおろと呟く。ハンナは、エリの顔を覗きこんだ。
「エリ、大丈夫?」
「え? 何がだよ。俺は平気だよ。だって、関係無いじゃんか。生まれた時から、俺の父親は圭太だからな」
 明るく笑って言う。
 十一歳のあの日まで、ずっと圭太が父親だった。エリはその事に何の疑問も持たず、圭太もまたアリスに対するのと何ら変わりなくエリにも接してくれていた。だから、エリの父親は彼だ。
 サラの父親は、シリウス・ブラック。それはつまり、エリの父親もブラックだと言う事だ。なのに、妙に落ち着いた気持ちだった。
 安心しているのかも知れない。ブラックが父親ならば、実父と養父の間で揺れ動く事も無い。これからも、今まで通り圭太がエリの父親だ。
 ――ああ……だから、隠されていたのか。
 凶悪犯罪者が父親だなんて、その上実の娘も殺そうとしただなんて、決して教えられるような話では無いから。





No.89





 サラが目を覚ました時、寝室にはもう誰もいなかった。ベッドの上に座ったまま、枕もとの棚に置いてあるカチューシャに視線を落とす。
 たった一つ、サラに残された祖母の肩身。
 家に居場所が無いサラと祖母は、よく人気の無い海や山へと行っていた。あの日もそうだった。誕生日のサラを連れ出した祖母が向かったのは、人気の無い崖だった。――何の防護呪文も無い、運の悪い事に側に死喰人の残党がいた崖。当然、周辺には知り合いの魔法使いなんていなかった。
 日本に来ていなければ、あの家で暮らしていなければ、あんな崖へは行かなかった。祖母が殺される事は無かった。
 一歳のハロウィーン。ヴォルデモートの襲撃があったと言うその日に、サラと祖母の運命は大きく変わってしまったのだ。恐らく、家には防護呪文が掛けられているのだろう。けれどもサラ達は、その家にいられなかった。
 襲撃が無ければ、シリウス・ブラックが裏切らなければ、守られた家で過ごせたのに。
 祖母は、サラをブラックといさせようとしたと言っていた。つまり、信じていたのだ。祖母も、ブラックを信用していた。それを、奴は裏切った。
 奴の所為だ。ブラックが裏切らなければ、祖母は今も生きていたかも知れないのに。奴は、サラやハリー達を売った。奴は、ハリーの父親や祖母の信頼を裏切った。奴の所為で、祖母は七年前の悲劇の運命を迎える事となった。
 昨日の晩から、もう何度も繰り返し考えている事だった。夕食もとらず、サラはずっと寝室で寝たふりを続けていた。シリウス・ブラックが父親であった事への衝撃と失望、そして次に沸いたのは憎悪の感情だった。許せない。そんな一言では済まない感情だった。
 ゆっくりと起き上がり、服を着替える。顔を洗い、髪を梳かして、カチューシャを付ける。日は高く昇っていた。朝食の時間は、とうに過ぎただろう。昼食さえも過ぎているかも知れない。
 螺旋階段を降りていくと、談話室からハーマイオニーの悲痛な声が聞こえて来た。
「――貴女にはどうにも出来ない事よ!」
 その後も、話し声が聞こえる。階段を降り、話し声は段々とはっきりして来た。ハリーの声だ。
「――聞いただろう。ブラックは普通の魔法使いと違って、アズカバンでも平気だって。他の人には刑罰でも、あいつには効かないんだ」
「じゃ、何が言いたいんだい? まさか……ブラックを殺したいとか、そんな?」
「馬鹿な事言わないで。ハリーが誰かを殺したいなんて、思う訳無いじゃない。そうよね? ハリー?」
「馬鹿馬鹿しいよ。ブラックなんかの為に、ハリーが手を汚す事はないでしょう」
 ロン、ハーマイオニー、ナミの話す声が聞こえる。ハリーの返答は無かった。
 気まずい沈黙の中に、サラは姿を現した。
 階段の上のサラに真っ先に気付いたのは、ナミだった。姿を見ずとも、気配で分かっていただろう。
「ごめん、皆……私ちょっと」
 もごもごと言って、ナミは暖炉の側の椅子から立ち上がる。
「え? ナミ?」
 ハーマイオニーがきょとんと振り返る。
 ナミは黙って、談話室を出て行った。一切、サラを視界に入れようとはしなかった。

「迷ってるみたいね」
 サラは、出し抜けに言った。
 ハリーと目が合う。緑色の瞳に見えるのは、サラと同じ感情。しかし彼は、サラと違う感情も同時に抱いている。
 困惑しているのだ。
 サラは重い息を吐く。簡単な答えだ。何を躊躇う必要がある? 躊躇うような価値が、あの男にあると言うのか。
 サラの灰色の瞳は、真っ直ぐにハリーを捕らえていた。
「ハリーは憎くないの? ――私は、殺すよ」
「サラ!!」
 ハーマイオニーが金切り声を上げた。
「そんな――何て事を――」
「馬鹿な事言うなよ。ブラックは、十二人も一度に殺してるんだぜ? そんな奴を殺せる筈――」
「あら……やってみなきゃ、分からないじゃない?」
 サラは微笑む。
 ロンとハーマイオニーの表情は、強張っていた。
「やるわよ。この手で仇を取るわ。裏切り者には、制裁を――当然の報いでしょう?
確かに、話に聞く限りブラックは手強いでしょうね。でも、私だって魔法には自信があるわ……幼い頃から使っていたんだもの。おばあちゃんが殺された『お陰』でね」
「駄目よ。そんな……そんなの、それこそ小学生の時と同じじゃない!」
 叫ぶハーマイオニーを、サラは冷たい眼で見返す。ハーマイオニーは口を真一文字に結び、サラを見据えていた。
「見限るなら、それでも構わないわ……私は一人になろうと、ブラックに立ち向かう。おばあちゃんは、あいつの所為で殺されたんだもの!」
「でも――でも、君達は逃げ延びたんだろ……。ブラックは、次の日には捕まったんだから――」
「そうよ。おかしいわ。貴女のおばあさんを殺したのは、別の死喰人の筈よ。ブラックは、何も――」
「あいつが裏切ったから、私達は今の家に行かなきゃいけなくなったのよ!!」
 バンと大きな音が響いた。サラの拳が壁を叩いたのだ。
「殆ど追い出されたような生活だったわ! いつもいつも! 安全な家の中にいられる事なんて、殆ど無かった!! 忠誠の術で守られた家で、今も暮らしていれば――ブラックが裏切ったりしなければ――そしたら、おばあちゃんは今も生きていたかも知れないのよ!! 死喰人の残党が、魔法省の眼が光っている国内で派手な動きをすると思う!? 知り合いの多いイギリスにいて、態々人目を忍ぶような所へ出かけると思う!? あいつが――あいつの所為で――」
 熱いものが込み上げてくる。
 頬を雫が伝ったが、気にもしなかった。
「サラ、少し落ち着けよ。言ってる事が滅茶苦茶だ。無理矢理過ぎる――」
「落ち着いてるわ。落ち着くわよ。これから、冷静に作戦を練らなきゃいけないものね」
「落ち着いてる奴が泣くかよ」
「ロン!」
 ハーマイオニーは、囁くような声でロンを叱咤する。
 サラは、ハリーに眼を向けた。
「それで? ハリー、貴方はどうするの? もう一度聞くわ……ハリーは、シリウス・ブラックを憎いと思わないの?」
「サラ! ハリーを焚き付けるような事を言わないで!」
「マルフォイは知ってるんだ」
 ハリーの口から出たのは、思いも寄らない人の名前だった。
 ハリーは、ロンとハーマイオニーに話しかける。
「魔法薬学のクラスで僕に何て言ったか、覚えてるかい? 『僕なら、自分で追い詰める――復讐するんだ』」
 これは、ロン達には不愉快な意見だった。ロンは、ムッとした声で返す。
「僕達の意見より、マルフォイの意見を聞こうってのかい?
いいか……サラも聞けよ。ブラックがペティグリューを片付けた時、ペティグリューの母親の手に何が戻った? パパに聞いたんだ――マーリン勲章、勲一等、それに箱に入った息子の指一本だ。それが残った身体の欠片の中で一番大きい物だった。
ブラックは狂ってる。ハリー、サラ、あいつは危険人物なんだ――」
 しかし、ハリーは聞いてなどいなかった。構わず、続ける。
「マルフォイの父親が話したに違いない。ヴォルデモートの腹心の一人だったから――」
「『例のあの人』って言えよ。頼むから」
「だからマルフォイ一家は、ブラックがヴォルデモートの手下だって当然知ってたんだ――」
「――そして、マルフォイは、君がペティグリューみたいに粉々になって吹っ飛ばされればいいって思ってるんだ! ハリーまで、しっかりしろよ。マルフォイは、ただ、クィディッチ試合で君と対決する前に、君がのこのこ殺されに行けばいいって思ってるんだ」
「殺されなければ問題無いでしょう」
「だから、無理だって言ってるだろ!」
「サラ、ハリー、お願い。お願いだから、冷静になって。
ブラックのやった事、とっても、とっても酷い事だわ。でも、ね、自分を危険に晒さないで。ねえ。それがブラックの思う壺なのよ……。サラ、ハリー、貴方達がブラックを捜したりすれば、ブラックにとっては飛んで火に入る夏の虫よ。サラのおばあさんも、ハリーのご両親も、貴方達が怪我をする事を決してお望みにはならないわ!」
「父さん、母さんが何を望んだかなんて、僕は一生知る事は無いんだ。ブラックの所為で、僕は一度も父さんや母さんと話した事が無いんだから」
 サラはもう、何も言わなかった。暗い瞳はじっと床を見つめている。
 ――まず、何をすれば良い? ブラックは、何処にいる?
「さあ」
 重い沈黙を突き破るように、ロンが切り出した。
「休みだ! もう直ぐクリスマスだ! それじゃ――それじゃ、ハグリッドの小屋に行こうよ。もう何百年も会ってないよ!」
「駄目! ハリーとサラは城を離れちゃいけないのよ、ロン――」
「よし、行こう」
 ハリーは身を起こした。
「そしたら僕、聞くんだ。ハグリッドが僕の両親の事を全部話してくれた時、どうしてブラックの事を黙っていたのかって!」
「私も賛成だわ」
 サラは階段を降り、三人の方へと歩み寄った。
「ハグリッドは、おばあちゃんと親しかったみたいだもの。ナミの事も、ブラックの事も、知っていたんだわ。なのに、全くそんな素振り見せなかった……」
「じゃなきゃ、チェスの試合をしてもいいな。それとも、ゴブストーン・ゲームとか。パーシーが一式忘れて行ったんだ――」
「否、ハグリッドの所へ行こう」
 慌てて変えようとするロンの言葉を遮り、ハリーはきっぱりと言った。

 さらさらした雪の積もった芝生を下り、四人はハグリッドの小屋へと向かった。
 ノックをするが、出て来ない。
「出かけてるのかしら?」
「いいえ、いるわ」
 ハーマイオニーの問い掛けに、サラは中の気配を探る。居留守でも使うつもりだろうか。
 ロンが扉に耳を押し当てる。
「変な音がする。聞いて――ファングかなあ?」
 ロンに言われ、サラ達三人も耳をつける。低い呻くような音が聞こえる。ハグリッドがいる辺りだ。
「誰か呼んだ方がいいかな?」
 ロンが不安げに言う。
 ハリーが扉から耳を離し、拳で叩いた。
「ハグリッド! ハグリッド、中にいるの?」
 少し間があって、扉が開いた。
 サラは眼を瞬く。ハグリッドは、真っ赤に泣き腫らした眼をしていた。文字通り大粒の涙が、チョッキを伝い滝のように流れ落ちて行く。
「聞いたか!」
「ハリー!」
 ハグリッドは、ハリーの首に抱きついていた。押し潰されそうになるハリーを、三人は慌てて引っ張り出す。
 ハグリッドはボロボロだった。バックビークの事件の結果が出たのだ。ハグリッドは、責任を問われずに済んだ。しかし、バックビークは危険生物処理委員会に付託される事となった。
 弁護が必要だ。サラもハリーも、ブラックの事ばかり考えている訳にはいかなくなった。





 三本の箒で真実を知った翌日。エリは、地下牢教室の並ぶ廊下を歩いていた。
 冷たい廊下を歩き、一つの教室の前で立ち止まる。ノックをし、返事も待たずに扉を開けようとしたが、それは叶わなかった。鍵が掛かっている。
「あっれー……留守?」
 戻ろうと踵を返すと、ちょうど角を曲ってスネイプが現れた。エリはぱあっと顔を輝かせ、大きく手を振る。
「スネイプ! 早く早く! 廊下寒い!」
「何故、いる?」
「今年は俺ら、皆残ってるんだよ。母さんがハリー守る為に来てるだろ? それに、父さんは出張だって」
「そうか」
 短く相槌を打ち、スネイプは教室の鍵を開ける。エリは、我先にと教室へと入る。後から、スネイプがゆっくりと入って来た。手に持っていた空のゴブレットを、机の上に置く。
「誰かに薬?」
「ルーピンだ。奴め、また取りに来るのを忘れていた」
「ふーん……」
 ルーピンは最近、体調が悪そうな様子だった。持病でも持っているのだろうか。
「あ。それで、今日はお願いしたい事があって来たんだけど」
「何だ」
 珍しそうに、スネイプは尋ね返す。本来ならば逆が当然なのだろうが、エリは用件があってここへ来る事は滅多に無かった。
 エリは、腕に抱えている本の束を軽く上げて示す。
「その……勉強、教えてもらいたくて」
 沈黙がその場を支配した。
 スネイプは、つかつかと真っ直ぐにエリの所まで歩いて来る。額に手を当てられ、エリは驚いて飛び退いた。
「なっ、何だよ!?」
「熱は無いようだな……」
「失礼な奴だな! ……チームの皆が言う事も、尤もだと思ってさ」
 エリは、勝つ事に執着していた。個人的な確執に、皆を巻き込んでいたのだ。なのに皆は、喧嘩していたエリに勝利を届けようとした。エリも、このままではいけない。
「クィディッチだけ出来てても、駄目だよな。セドリックみたいに、勉強も頑張らないと」
「勉強なら、それこそディゴリーに頼めば良いだろう。貴様の姉もいるし、ミス・グレンジャーもいるではないか」
「サラなんかに誰が頼むかよ。それに、セドリックは駄目だ。普段と変わりないのに、実は裏で頑張ってました! って方が、格好良いだろ?」
 エリは悪戯っぽく笑い、机の上に教科書を広げる。
「取り合えず、まずは魔法薬学なー。お前の教科だし」
 エリはページを捲り、半ばで手を止める。
「じゃ、この辺から。ワニの心臓ってさ――」
「何があった?」
 エリは顔を上げる。そして、苦笑した。
「だから、チームメイト達に言われた事あるんだよ。勉強と両立出来てる訳じゃないのに、クィディッチばかり押し付けるなって――」
「勉強の事ではない。――普段と比べて、やけに大人しくないか? 昨年の襲撃事件と言い、吸魂鬼と言い、貴様が大人しいのは何かあった時ぐらいだ」
「……」
 エリは俯く。
 拳をぎゅっと握ると、再び顔を上げスネイプの瞳を正面から見据えた。
「……シリウス・ブラックって、俺とサラの親父なのか?」
 疑問と言うよりも、確認するような語調だった。
 スネイプの顔に表情は無い。エリが何処でその話を知ったのか、訝っているのだろうか。それとも、どのように誤魔化すかと思案しているのだろうか。
 ややあって、スネイプは口を開いた。
「――噂を聞いたのか」
「『大臣』って呼ばれてる人らが話してた。……ただの噂じゃないよな。シャノンのばあさんに娘がいるみたいだ、って……それ、母さんの事だろ。シリウス・ブラックって、ハリーの親父さんと仲良かったらしいし。お前、ハリーの親父さんやお袋さんと同期なんだろ? それで、俺の親父を知ってる。それで、えーと……何かこんがらがって来た……」
 エリは頭をガシガシと掻く。
「まあ、兎に角その『噂』って奴は本当の事なんだろ。サラ、うちに来る前はブラックと一緒に暮らしてたらしいし。――サラ、大丈夫かな」
 ぽつりと呟いたエリの言葉に、スネイプは僅かに眉を動かす。
「俺達が話を聞いたその場に、サラもいたんだよ。俺の所から見えなかったから、多分先生達も見えてなかったんだと思う。俺は先生達に背を向けてたし――それ以前に、俺は今の父さん母さんの子だって事になってるもんな。
サラ、本当の親父にすっげー期待してるみたいだったからさぁ……。ブラックだって知って、ショック受けてると思う」
「エリは……」
「え?」
 エリはきょとんとスネイプを見上げる。
「貴様も、その……同じだろう」
 エリは目を瞬く。それから、ふっと笑った。
「俺は平気だよ。俺の父さんは圭太。これからもそれでいいからさ」
「無理をするな」
 そっと頭に手を乗せ、抱き寄せられた。
 エリは慌てて身を離す。
「ばっ、馬鹿! 本当だって! そ、そりゃ、最初知った時はショックだったけどさ。でも、寧ろ安心してるぐらいなんだよ。俺、本当の父親が生きてるって知って、若し出会ったらどうしようと思ってたから――ブラックだったなら、生みの親と育ての親で何も迷う事なんかねーだろ?
ちょっと喉渇いたな! 勉強始める前に、紅茶でも飲もうぜ。俺、準備するからよ」
 エリは早口で捲くし立てると、席を立ち棚へと向かった。
 ――やっぱり、変だ。
 妙に鼓動が速い。気にかけてくれるのが嬉しい。アリスの件で医務室にいた時も、さり気ない優しさがどうしようも無く嬉しかった。どうにも頬が緩んでしまいそうで、慌てて布団を被った。
「やはりおかしくないか?」
 直ぐ後ろで声がして、エリは跳び上がる。
「大丈夫だって言ってるだろ! 大人しくそっち座ってろ!」
 しっしっと手で払う仕草をし、スネイプを遠ざける。
 確かに、少々挙動不審だったかも知れない。けれどそれは、シリウス・ブラックとは何ら関係無い事だ。
 カチャカチャとカップの触れ合う音がする。背を向けたまま、エリはぽつりと言った。
「大丈夫だけどさ……ありがとな」
「……ああ」
 スネイプは、静かに頷いた。

 紅茶を飲み、いつも通りエリが一方的に話していると、扉をノックする音がした。
 入って来たのは、アリスだった。スネイプは立ち上がり、そちらへと行く。
「どうした」
「魔法薬の研究をしようと思って。使わせて頂いても良いですか?」
「構わん」
 アリスは、鍋やら材料やらを抱え、授業の机へと向かう。エリは座ったまま、アリスの向かった机を振り返った。
「前みたいなイジメ、無くなったんじゃないのかよ」
「無いわよ。でも、私魔法使えないんだもの。代替が利くなら、それを利用しなきゃ」
 材料を広げ、手際良く切り刻んで行く。
 エリはそれをぼんやりと見つめていたが、ふと口を開いた。
「そう言や、俺とサラの親父、シリウス・ブラックだって」
 アリスの手から輪切りにされた蛭が鍋に滑り落ち、ぼちゃんと音を立てる。
 振り返ったアリスの目は、丸く見開かれていた。そして、困ったような笑顔になる。
「エリ。いくら何でも、そんな冗談――」
「いや、マジマジ。なあ?」
「その件について、我輩は肯定出来ん」
「嘘――じゃ、本当に――」
 アリスは鍋の所を離れ、つかつかとエリに歩み寄る。そして椅子の後ろから、エリを抱きしめた。
「おいおい、どうした?」
「だって……」
 アリスは今にも泣きそうな声だ。
「ごめんね……私、興味本位でエリ達のお父さん調べたりして……」
「それは俺もだろ。それに、俺は大丈夫だって」
 首の前に回されたアリスの手を、エリはそっと握る。
「それにまだ、謎は山積みだ。シャノンのばあさんの事とかさ」
「何の話だ?」
 尋ねたのは、スネイプだった。
 眉根を寄せているのは、いつもの事。けれどこれは、疑問の表情ではない。――彼は、その件も何か知っているのか。
 エリは、口元に笑みを浮かべる。
「シャノンのばあさん、まだ生きてるかも知れないんだとよ」
「――まさか」
「あれ? 初耳?」
 エリは拍子抜けしてしまう。では、スネイプは一体何を知っているのだろうか。エリ達が何の情報を掴んだと思ったのだろう。
「シャノンは死んだ筈だ。だが――生きているとするなら、まさか、それで?」
 一人で何やらぶつぶつと言い、黙り込んだ。エリとアリスは顔を見合わせる。
 アリスは思い出したように、鍋の所へと戻って行った。鍋を覗き込み、顔を顰める。それからまた、エリの方へと戻って来た。
「失敗だわ……火を止めておくんだった。――私の方はホグズミードでシャノンって表札の家を見つけたわよ」
 アリスはスネイプを気にしながら、声を落として話す。エリもスネイプに目をやったが、彼はまだ何か考え込んでいる風だった。アリスの話は聞こえていないようだ。
「それって、シャノンのばあさんの家かな。同じようにホグズミードで、シャノンのばあさんの墓も見つけたんだよ。――墓は、サラにも教えてやった方がいいかな」
「そうね。サラ、お墓が分かるなら手を合わせたいでしょうし……。
先生、私達の祖母のシャノンって、ホグズミードに住んでいたんですか?」
 物思いに耽っているスネイプに、アリスが問いかけた。スネイプの返答は、短かった。
「彼女は有名だが、私的な事情など知らん」
「そうですか……」
「家でもあったのか?」
「はい。明確ではないんですけど。――『エリが』見つけたそうで」
 それからまた声を落とし、エリに耳打ちする。
「その家でね、ジニーが人影を見たの。お母さんみたいな金髪だったって……お母さんの金髪って、シャノンのおばあさん譲りよね?」
「まさか。それじゃ、今その家に――?」
「分からないわ。人の気配は無かったんだもの。でも、消してるって可能性も十分にあるわね……何せ、隠れてるくらいだもの」
「家に入れれば、何か掴めそうなんだけどなあ……」
 けれど中の者が開けてくれないならば、鍵を持たない限り入る事は不可能だ。一応、次に行った時にアロホモラでも試してみるか。けれど、若しそこに隠れているのなら呪文で開ける事は不可能だろう。
「若しそこがシャノンのばあさんの家なら、サラが継いでて鍵も持ってると良いんだけどな」
 エリは独りごちる。アリスは、肩を竦めただけだった。





 クリスマスの日、昼食に向かうグリフィンドールの面々は、険悪な空気に包まれていた。クルックシャンクスをつれて男子寮へ行き、案の定ひと悶着あったのだ。その場にいなかったナミは、何があったのかと尋ねたそうにしていた。しかし、ハーマイオニーもロンも口を真一文字に結んでいる。サラをちらりと見たが、結局ハリーに尋ねる事にしたようだ。
 ナミは殆ど行動をサラ達と共にし、たまに一人で何処かへ行っていた。三本の箒で真実を知ったあの日から、ナミとは一言も話していなかった。何も変わりない、いつもと同じだ。ただ、ナミの方はちらちらとサラを見ている事が多かった。
 大広間は、いつもの寮ごとのテーブルが壁に立てかけられていた。広間の中央に、一つ用意されているのみだ。並べられた椅子には、教員達やフィルチもいる。エリとアリスも、既に来ていた。教師達に囲まれ、アリスはやや居心地が悪そうだ。サラ達が入って来たのを見ると、ぱっと顔を輝かせて手を振った。
「メリー・クリスマス!」
 サラ達がテーブルに近付くと、ダンブルドアが口を開いた。
「メリー・クリスマス! これしかいないのだから、寮のテーブルを使うのはいかにも愚かに見えたのでのう……さあ、お座り! お座り!」
 サラ、ハリー、ロン、ハーマイオニーはテーブルの隅に並んで座った。ナミは離れて、教職員達と隣合わせになる空席に座った。五人が席に着くと、ダンブルドアは大きな銀色のクラッカーの紐の端をスネイプに差し出した。
「クラッカーを!」
 スネイプは渋々受け取り、紐を引いた。大砲のような音と共にクラッカーは弾け、大きな三角帽子が現れた。何とも趣味の悪い帽子で、上部にはハゲタカの剥製が載っている。スネイプは顔をしかめ、帽子をダンブルドアの方へと押しやった。ダンブルドアは自分の帽子を脱ぎ、それを被った。
「どんどん食べましょうぞ!」
 ダンブルドアの一言で、食器にクリスマスのご馳走が現れる。エリが手を叩いて喜んだ。
 いつもと変わらぬ量しか食べない内に、ナミが立ち上がった。ダンブルドアの所まで行って二言三言話し、サラ達――正確には、ハリー、ロン、ハーマイオニー三人の所へ来る。
「私、先に戻ってるよ」
「具合でも悪いの?」
 振り返り、ハリーが尋ねた。ナミは首を振る。
「そう言う訳じゃないけど……ルーピン先生のお見舞い。せっかくのクリスマスに病気で一人きりなんて、つまらないでしょ?」
 ナミが出て行ったのと殆ど入れ替わりに、大広間に入って来た人物があった。トレローニーだ。トレローニーもクリスマスらしく、スパンコールの飾りが付いた緑のドレスを身に纏っていた。
 ダンブルドアが立ち上がった。
「シビル、これはお珍しい!」
「校長先生、あたくし水晶玉を見ておりまして。あたくしも驚きましたわ。一人で昼食をとると言う、いつものあたくしを棄て、皆様とご一緒する姿が見えましたの。運命があたくしを促しているのを拒む事が出来まして? あたくし、取り急ぎ塔を離れましたのですが、遅れまして、ごめんあそばせ……」
「それは、それは。ちょうど、そこの席が空いておる――」
 トレローニーは、先程までナミが座っていた席へと向かった。しかし、トレローニーは座らなかった。巨大な目玉がテーブルを見渡し、小さく悲鳴を上げた。
「校長先生、あたくし、とても座れませんわ! あたくしがテーブルに着けば、十三人になってしまいます! こんな不吉な数はありませんわ! お忘れになってはいけません。十三人が食事を共にする時、最初に席を立つ者が死ぬのですわ!」
 それでは、既にナミが死ぬ事になる。ハーマイオニーに目をやると、彼女もちょうど同じ事を考えているようだった。皮肉を言いたいのを、ぐっと堪える。
「シビル、その危険を冒しましょう」
 マクゴナガルが、苛々とした調子で言った。
「構わずお座りなさい。七面鳥が冷え切ってしまいますよ」
 トレローニーは迷った末、マクゴナガルとアリスの間に腰を掛けた。馬鹿馬鹿しいほどに緊張した面持ちだ。
 その後も、トレローニーはルーピンの寿命が残り少ないと述べ、マクゴナガルに辛辣に切り捨てられていた。どうも、トレローニーとマクゴナガルは馬が合わないらしい。サラは、心の中でマクゴナガルにエールを送っていた。

 食事を終え、ハリーとロンが最初に立ち上がった。途端に、それまで普通に振舞っていたトレローニーが悲鳴を上げた。
「あなた達! どちらが先に席を離れましたの? どちらが?」
「分かんない」
 ロンが困惑したように答えた。
「どちらでも大して変わりは無いでしょう。扉の外に斧を持った極悪人が待ち構えていて、玄関ホールに最初に足を踏み入れた者を殺すとでも言うなら別ですが」
 マクゴナガルの言葉に、サラは思わず小さく噴き出した。ハーマイオニーは咎めるようにサラを小突いたが、彼女自身も今にも笑い出しそうに口元をヒクヒクさせていた。
「君達も来る?」
 ハリーに声を掛けられたが、サラは首を振った。ハーマイオニーも同様だった。
「私、マクゴナガル先生にちょっとお話があるの」
「私も」
 ハリーとロンが出て行ったのを見送り、サラはハーマイオニーを振り返る。
「――ファイアボルトの事よね?」
「ええ……」
 今朝、ハリー宛のプレゼントの中に箒があった。それも、ファイアボルト――プロの選手が使うような箒である。もちろん、値段も馬鹿にならない。――それが、送り主不明。
 明らかに不審なプレゼントだ。このまま何の疑いも持たずに使用するなんて、危険過ぎる。
 ――ブラックの思惑通りになんて、させるものか。
 エリとアリスは、「今日も教室を借りる」とスネイプに話して出て行く。サラとハーマイオニーは互いに視線を交わし、席を立った。


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2010/02/03