「紳士淑女の皆様! 第三の課題、そして三大魔法学校対抗試合最後の課題が、間も無くはじまろうとしています!」
 ルード・バグマンの声が響き渡る。
 シーズン毎に寮対抗戦が行われていたクィディッチ競技場は、今や壁に埋め尽くされていた。スタンドより遥かに高い生垣が植わっている。
 それは、迷路だった。一番高い席まで上ると、生垣の上方が層になっているのがかろうじて見える。正面に僅かな空間があって、そこに選手たちは控えていた。ゴールポストは何処かに取り払われ、滑らかな地面もその姿を見せない。ウッドが見たら、卒倒しそうだ。
 バグマンは、選手各々の現在の点数を読み上げる。ハリーとセドリック・ディゴリーが、八十五点で同点の一位。八十点のクラムがその後に続き、第二の課題で途中脱落となったフラーは四位だ。
 競技場に立つハリーが、サラ達の方を向いた。こちらに気付いたらしい。手を振る彼に、サラ、ロン、ハーマイオニー、ウィーズリー夫人、ビルの五人も振り返した。
 今朝の記事を見た者は少なくないらしく、サラは一日中ちらちらとした視線を感じていた。ハーマイオニーは記事に憤慨していたが、サラはハーマイオニーのようにスキーターの取材手段を探ろうとまでは思わなかった。第三者からの奇異な視線など、慣れている。ハリー、ロン、ハーマイオニーの三人が傍にいてくれるなら、それで良い。
 ホイッスルが鳴り、ハリーとセドリックが迷路の中へと消えて行く。五分置いて、ビクトール・クラム。迷路に入る直前、彼はサラ達の方を振り返った。ハリーが手を振った事で、ハーマイオニーの姿を発見したのだろう。しかし彼は手を振ったりせず、ハーマイオニーも中の見えぬ迷路を見るのに必死でクラムの視線に気付く様子は無かった。
 少し時間が空いて、最後にフラーが迷路へと入って行く。選手全員が迷路へと消えた。後は、彼らの帰還を待つのみ。
 三大魔法学校対抗試合、最後の課題の幕開けだ。





No.28





 ――うわー……最悪だ……。
 ご丁寧にガラス扉の付いた本棚の並ぶ窓の無い部屋に、エリは立たされていた。目の前には、憤怒の形相で羽ペンを走らせるアーガス・フィルチ。
 運が悪いにも程がある。よりによって、こんな日に捕まるなんて。フィルチ自身は、三大魔法学校対抗試合よりも生徒を処罰する事の方がお気に召すらしい。時間を気にする素振りなど全く見せない。
 フィルチはご丁寧にも、書きながら文面を読み上げる。
「名前……エリ・モリイ……」
「だから、今回のはあたしじゃねーって言ってんだろ!」
「信用なるものか。お前とウィーズリーのあの双子……一体何度、煮え湯を飲まされた事か」
「でもあたし、本当に何も知らねーんだって! そりゃ、城ん中でもちょーっと花火かっ飛ばした事はあるかも知れないけどさ、壁壊したりはしねぇよ」
 現在、人通りの無い地下の廊下が、爆撃でも受けたかのような惨状になっていた。被害者こそいないものの、辺り一帯の壁は焼け焦げ溶け落ちてしまっている。
 エリの仕業ではない。そもそも、人が通らないような場所で花火を上げる意味など無い。
 フィルチはぎろりとエリに目を向ける。
「無実を主張するなら、何故逃げた?」
「それはあんたが追っ駆けて来るからだろ! 追われりゃ逃げるに決まってんじゃねーか!」
「それはお前に後ろめたい事があるからだろう」
「関係ねーよ!!」
 あの形相で走って来られれば、誰だって逃げる。
『先行って! 直ぐ追っ付く!』
 一緒に城を出ようとしていたハンナらに叫んで、エリは脱兎のごとく駆け出した。案の定、フィルチの目当てはエリだった。
 隠し通路、動く階段、色々なものを駆使してエリはフィルチを遠ざける。それでも、彼は城の隠し通路を熟知している。第三の課題が始まろうとする中、ずっと彼と追いかけっこをする気なんてさらさら無かった。
 いつもの終わらせ方。エリは、その部屋へと向かった。しかし。
「その上、教授の部屋に忍び込もうとしていたな?」
「別に、忍び込もうとしてた訳じゃ……」
 エリの声は小さくなる。
 セブルスは不在だった。恐らく、教師として課題に関する何らかの仕事に向かったのだろう。諦めて扉を離れようとした矢先、遂にフィルチに捕まったのだ。
「あれは……道を、間違えて」
「見え透いた嘘だ。大方、魔法薬でも盗みに入るつもりだったのだろう。すると、あの廊下はスネイプ教授から盗んだ薬品によるものか?」
「だから、知らないって! あたしだって、あんたにここに連れて来られる途中に初めて見たんだし!」
「嘘を吐くな! 現場から、これを押収した!」
 そう言って、フィルチは机の上に割れたガラスの欠片を叩き付けた。欠片はやや大きく、曲線を描いて九十度に曲がっている。小瓶の底の一部のようだ。
「内側には魔法薬が残っておったわ。魔法薬を入れた小瓶を床に叩き付けたな? ん?」
「知らねーよ。ってか、それだったら誰かが落としたりでもしたんじゃねーの。それこそ、地下なんだしスネイプ先生本人とかさ。あとほら、魔法薬学後の生徒とか。試験で作った魔法薬を持ち帰ろうとしたのかも……」
「罪状……城の破壊……」
「だから違うつってんだろ!!」
 フィルチは聞く耳を持たない。
「これこそ、鞭打ちに値する……今度こそ、許可を取るぞ……城の一部を損壊させたんだ。厳しい処罰が必要だ……」
 これでは、埒が明かない。フィルチは到底、エリを放しそうに無い。もう、三大魔法学校対抗試合の最終決戦は始まっているだろうに。
 エリは大きく息を吸い込むと、一息に言い放った。
「そんなに疑うなら、本当に盗みがあったかスネイプに確認してください。あたしが現場に近付いてたか、アリバイちゃんと調べてください。――じゃっ」
 言うなり、エリは背を向けて駆け出す。
 フィルチの反応は早かった。
「逃がさんぞ! お前がどんなに足の速さに自信があろうとも――」
「足ならなっ。アクシオ、シルバーアロー!」
 駆けながら、杖をかざす。
 フィルチが追って来る。無人の玄関ホールを横切る。扉は開け放たれている――掲示板の向こうに見える階段から、飛んで来る影が見えた。
 フィルチの腕が伸びる。エリも腕を別方向に伸ばす。
 箒をしっかりと掴むと、エリはひらりとそれに飛び乗った。フィルチの手が、エリの足を掴む。箒の上昇と共にフィルチも若干浮いたが、直ぐに落ちた。
 フィルチの怒声を背後に聞きながら、エリは樫の扉を潜り校庭へと飛び立って行った。
「ナイス、ハリー。このアイデア、すげー便利な」
 第一の課題で、ハリーが取っていた戦法。これはなかなか使えそうだ。

 芝生の上を滑るように飛び、クィディッチ競技場の傍らでエリは箒を降りた。
 案の定、試合は始まってしまっていた。選手の姿は見えない。競技場は背の高い生垣に埋め尽くされ、その周囲をホグワーツの教師陣が巡回していた。少し離れた位置に、セブルスの姿も見える。じっと彼に視線を送っていたが、彼は気付く事無く生垣の角を曲がって行ってしまった。
「ちぇーっ。本当、真面目なんだから」
 流石に、公の仕事中に声を掛けようとは思わない。目が合えば、ちょっと手を振るだけ。ちょっとこっちを向いて口元を緩めてくれれば、それだけで良いのに。
 エリは観客席の下を、セブルスが去ったのとは反対方向に歩いて行った。生垣が高くて、見通しが悪い。ハンナ達は、何処に座っているだろう。
 いつも箒で飛んでいるとあまり気にしなかったが、クィディッチ競技場はなかなか広い。競技場の外周は長く直線が続いているが、生垣の外周はそうでもない。凹凸が続き、随所に教員が立っていた。
 サイドラインの辺りが終わり、本来ならばゴールポストがあった辺りへ回り込む。森との合間。この辺りの凹凸は、特に多かった。
 そしてエリは、奇妙な光景を目にした。
 生垣が窪み、辺りからは死角になっている箇所だった。その場に棒立ちになり、一心不乱に生垣を見つめている。それだけならば、さして不思議でも無い。
 彼の手には、杖があった。それは、生垣に向けられていた。
「ムーディ先生、何やってんの?」
 ムーディは弾かれたように振り返った。魔法の目は、生垣を見つめたままだ。
 生垣の向こうから、紅い光が上がった。
「……何だ?」
「バグマンの説明を聞いていなかったのか?」
「あたし、遅れて来たから」
 辺りが慌しくなった。窪みから数メートル下がった位置にいるエリからは、マクゴナガルらが誰かの救助に動くのが見えた。幽かに聞こえた、「脱落」と言う言葉。
 エリは再度、ムーディに目を向ける。彼の魔法の目は生垣を向いたまま、何かを追うように動いていた。
「……何したの?」
「何も」
「嘘だ! さっき、生垣の方に杖向けてたろ! その直後に、脱落者って……何かおかしいよ! 一体何をしたんだ? 外から手を加えたんだとすれば、それってズルだろ!?」
「どうしたのかね?」
 ダンブルドアが、他の審査員達と共にこちらへとやって来ていた。
 彼らの移動は目立った。観客席の視線がエリ達に集まっているのが分かる。エリはムーディに目をやった。
 ムーディは平然と言った。
「何でも無い。脱落者が出た事に取り乱しているらしい」
「な……っ。何してたのかって聞いてるだけなんだから、何でもないなら本当の事言えば良いだろ!?」
 ダンブルドアは怪訝気に、エリを見る。
 エリはダンブルドアの青い瞳を真っ直ぐに見つめ返し、ビシッとムーディに人差し指を突きつけた。
「ムーディ先生が、生垣に向かって何かやってたんだよ! 絶対おかしいって!」
 ダンブルドアの背後で、カルカロフが機敏な反応を示した。
「生垣に? 若しそれが先程の選手の脱落に繋がる事であれば――それは、当然不正行為と言う事になりますな?」
「本当かね、アラスター」
「いいや。見間違いだろう」
「はあっ?」
 エリは戸惑いを隠せない。
 何故? 何故、包み隠そうとする。本当に不正を働いていたのだろうか。脱落者は、ムーディによるものなのだろうか。
「因みに、脱落したのって……」
「ミスター・ビクトール・クラムだ」
 ゆっくりと言いながら、セブルスがやって来た。彼は、クラムをポンフリーの所へ運んだとダンブルドアに説明する。
 エリは納得する。だから、カルカロフが怒ったのだ。
「生垣をじっと見つめて、杖を向けてたんだ――見間違いなんかじゃない!」
「彼女は少し錯乱しているようだな」
「錯乱なんかしてない!」
 ムーディは、カルカロフを正面から見据えて言った。
「この子も、クィディッチをやっているんだ。ビクトール・クラムのファンのようでな。彼の脱落に動揺しているんだろう」
「なるほど、なるほど」
 バグマンが頷いた。
 確か彼は、元クィディッチ選手だったか。エリがクィディッチ好きだと聞いたからか、やや嬉しそうだ。
「大丈夫だよ、お嬢さん。クラムは脱落こそしたが、命に別状は無いそうだ。今、この学校の……あー――何と言ったかな? 校医の魔女が看ている」
「マダム・ポンフリーじゃ。彼女の腕は、わしが保障しよう」
 ダンブルドアが再び、エリに目を向ける。
 バグマンが、パンッと大きく手を叩いた。
「さてさて、課題の続きだ。教授達は巡回に戻ってくれ。我々も戻らないと」
 エリが呼び止める間も無く、ムーディは立ち去ってしまった。
 声を上げようとしたエリに、セブルスが言い諭した。
「君も友人達の所へ戻るが良かろう、ミス・モリイ。ハッフルパフの友人達なら、ちょうどこの上の観客席にいた」
「セ――」
「我々は試合の巡回で忙しい。手を煩わせないで欲しいものだ」
 エリは口を噤む。
 セブルスは、ムーディと同じ方向へと去って行った。
 しょんぼりと肩を落としながら、エリはスタンドへと上る。ハンナ、スーザン、アーニー、ジャスティンの四人は直ぐに分かった。
 生垣の中は、観客席から見て取る事が出来ない。どうも選手たちは、この中で競技を行っているらしい。何も見るものの無い彼らは、振り返ってエリの方に大きく手を振った。どうやら一部始終を見ていて、エリが来るのを目で追っていたようだ。
「まったく、何やってるんだよ。最初はフィルチ、今度は三大魔法学校対抗試合で騒ぎを起こすなんて」
 合流するなり、アーニーの小言だ。エリは膨れっ面になる。
「フィルチのは完全な勘違いだよ。あたしじゃねぇってのに、さっぱり聞きやしない。その上、捕まっちまうしさー。終わりそうに無かったから、強行突破して来た」
 言って、エリは箒を持つ手を軽く上げる。
「ムーディの方だってそうだ。あたしは本当の事言ってんのに、誰も信じてくれねぇ」
「本当の事って?」
 ハンナがきょとんと首を傾げる。
 スーザンが、ふと生垣から視線を外し振り返った。
「ムーディ先生だわ」
 エリはハッとし、振り返る。
 彼は今し方、観客席へと上ってきたところだった。真っ直ぐに、エリの所へとやって来る。
「ミス・モリイ。先程の件で、運営局の者が呼んでいる。来い」
 エリはニッと口の端を持ち上げた。
 彼が不審な行動を取っているのは明らかだった。そして、この呼び出し。このタイミング。
「へっ、臨むところだ……!」





 薄っすら埃の積もった床。後ろ手に、玄関の鍵を閉める。アリスの手には、サラから借りたこの家の鍵。
 日はとっぷりと暮れ、家の中は真っ暗だ。アリスは、懐から一つの小瓶を取り出す。その魔法薬は、暗闇で青白く発光した。
 足元から、黒猫が従順にアリスを見上げる。
「おいで、リア」
 屈みこんで手を伸ばすと、リアは腕を伝ってアリスの肩に乗った。
 アリスは大きく深呼吸をする。少し埃っぽい空気が入って来て、新鮮とは言い難い。しかし、ここで一度気を落ち着けたかった。
 叫びの屋敷での謎の気配の正体は、人型に戻ったシリウス・ブラック。叫びの屋敷に纏わる噂は、リーマス・ルーピンと友人達によるもの。その真実を知った今でも、暴れ柳から叫びの屋敷を出るまでのあの道のりはなかなか怖い。
 屋敷を出てからも、今にも誰かに目撃されるのではないか、フィルチが後を追って来るのではないかと戦々恐々としていた。念の為、リアに魔法薬の入った瓶を割らせて離れた所に呼び寄せておいたが、それでも万が一という事もある。
「お邪魔しまーす」
 一応そう言いながら、アリスは家の中を進んで行く。
 今頃、他の生徒達は三大魔法学校対抗試合最後の課題を観戦しているのだろう。そちらも気にならないと言えば嘘になる。けれども、チャンスは今夜しかないと思った。若しかしたら、呼ばれたのかも知れない。
 何の根拠も無い直感。何の根拠も無いけれども、それで本当に何か起こったならばそれは運命だ。アリスの物語の始まりとなる。
 大方、物語の始まりと言うのはそう言うものだ。それまでの予兆なんて何もありはしない。ふと目に付いて、いつもと違う事をしてみようと思う。普段はただ座って別世界に想いを馳せるだけなのに、走って追い駆けてみようかなんて思う。
 アリスは階段を上って行く。向かうは、一番奥の部屋。正面から見える、暗幕の引かれたあの一室。サラが透明マントや水晶玉を持ち帰った場所。
 そして、アリスとジニーが人影を見た場所。
 部屋の中から、サラとよく似た気配がした場所。
「……絶対、ここには何かあるわよね」
 部屋の前に立つと、やはりあの気配がした。だが、サラは今、ハーマイオニー達と一緒に競技場にいる筈。こんな所にいる筈が無い。
 そっと、扉を押し開く。
 部屋の中央の石から発せられる緑の燐光が、アリスを迎えた。リアが、アリスの肩から下りる。
「あまり勝手に動き回っちゃ駄目よ」
 光源はあれども、僅かなその灯りは返って不安を掻き立てる。せめてリアが傍にいてくれれば良いのに。そう思いながらも、アリスはリアを無理に抱こうとはしなかった。
 ガラス棚に小瓶を近づける。青い光に照らし出されるガラス球の数々。ナミの髪のような金色。その横にあった透明マントは、サラが持ち帰ったのでもうここには無い。反対隣には、星座図。天文学で使っているのと似ているが、少し違う。占い学の分野なのだと、直ぐに分かった。誰だったか、占い学を学んでいる友人がこんな図表と睨めっこしていたのを覚えている。
 ――何も無いなあ……。
 やはり、思い過ごしだったのだろうか。この家には何かある。そう思ったのに。こんな事なら、妙な行動なんて取らずにドラコ達と三大魔法学校対抗試合を見ている方が良かったかも。
 ふとリアの鳴き声が頭上で聞こえ、アリスは上を向いた。どうやって行ったのか、リアは棚の高い段に上っていた。
「降りて来なさい。そんな所に上って、何か壊したりしたら――」
 リアは足元を蹴って、床へと降りた。同時に、何かがばさりと落ちて来る。
 それは、本だった。
 元に戻そうと拾い上げ、何気無く捲った。白紙。次のページも、そのまた次のページも――全てのページが、白紙だった。
「何、この本……」
 表紙を閉じる。暗い赤色をした表紙には、何の文字も書かれていない。裏返してみると、下の方に文字があった。そこにあるのは、祖母の名前。
「おばあちゃんの……?」
 ふっと、背後で気配がした。
 元々、何者かの気配があるこの部屋。それが、強くなったのだ。間違いない。後ろに、誰かいる。
 鼓動が波打つ。
 玄関の鍵は閉めた。鍵はアリスの手にある。中に入れる人なんて、いない筈なのに。
 その気配は、サラと酷似していた。だからだろうか。暗がりで背後に現れた人物というこの状況に、不思議と恐怖心は沸かなかった。
 アリスは振り返る。そして、目を瞬いた。
 そこに立つのは、サラ。――否、違う。髪はサラのような黒ではなく、瞳も暗がりで分かり難いが灰色でない事は確かだった。
 アリスは呟く。搾り出した声は、震えていた。
「――シャノンの、おばあさん?」


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2011/08/31